経営哲学
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自然と折り合いをつける経営 ― 「つくられてあるもの」と「なりいでてあるもの」 ―
木全 晃
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2025 年 21 巻 2 号 p. 38-55

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抄録

気候変動により大規模化する災害、廃棄物の大量発生による生態破壊と、地球環境問題は深刻化しつつある。本稿は、木田元が唱える「つくられてあるもの(哲学、超自然的原理)」と「なりいでてあるもの(反哲学、自然的原理)」を足掛かりとしながら、自然そして自然と人間の関係をいくつかの思想(哲学)を拠り所に整理する。その際、4つの提起を積み上げて今日の地球環境問題の本質に迫ることを目的としている。このため本稿は、問題提起そのものを主眼とする。そこでは、私を含めた日本人の自然のとらえ方を概観し、思想史上の自然と人間の関係を考察する。そしてこのことをもとに今日の現実と未来の自然と人間、経営体の方向性を仮定する。

一つ目の提起では、木田(2000)が唱える「つくられてあるもの(哲学、超自然的原理)」と「なりいでてあるもの(反哲学、自然的原理)」という二つの思考の軸を基礎としつつ、「現代の日本人は超自然的思考を基盤とし自然を無機的、経済的消費財としてながめる」姿勢にあると示唆している。二つ目の提起は、なぜそのような超自然的原理が日本のみならず現代社会を支配しているのか、その根源についてであり、これは、「人間は精神の力によって環世界に繋縛されず自然を対象化する術を手にし現在、過去、未来の時空を、主題を自由に切り替えて行き来するシンボル化能力をつうじてより高次の開かれた世界に生き、自然を超えでるようになった」ためであると措定した。シェーラー(1927;1977)等を基礎とした。これらを踏まえて本稿は、科学技術とこれを基礎とする人工システムが織りなす世界に現代のわれわれはともすれば忘我的に縛り付けられているのではないだろうか、との三つ目の提起を示したのち、「人間は自然の一部である」という二人の文言――哲学者としてのK. マルクスと生態学者のC. D. トーマス――を対比し特にマルクスの「類的存在」の概念に焦点をあてて自然と人間、経営体の折り合う可能性を示唆している。

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