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過去からのメディア論
日本における職業作家の誕生
大谷 卓史
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2013 年 55 巻 12 号 p. 932-934

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ヨーロッパにおいては,近代的著作権制度が整備される数十年~100年前に職業作家が登場していたことはすでに紹介した(「職業作家の成立と著作権制度」本誌vol.55,no.5,p.370-373)。日本ではどうであったろうか。前回と同様,和本研究の成果を紹介する一般書を手掛かりに見ていこう。

職業作家の定義は難しいが,ほかに定職を持たず,原稿料や印税など原稿執筆による収入で生計を立てている者とすると,戯作者に関する研究によれば,十返舎一九が最初の職業作家だとされている1)

明和2年(1765年),十返舎一九は駿河の国の同心の家に生まれ,本人も大阪で町奉行に出仕したものの,その後浪人し,浄瑠璃作家になった。寛政6年(1795年)江戸に下って,出版商として羽振りのよかった蔦屋重三郎方に寄宿し,用紙の加工や挿絵描きなどを手伝った。蔦屋に勧められて黄表紙作家となり,その後毎年20冊以上を書く作家となった。享和2年(1802年),『東海道中膝栗毛』を出して大ヒットとなり,以後20年間にわたってシリーズが続く。当時,一九は,版元からの使いが机のそばで原稿が出来上がるのを待つという現代の流行作家さながらの忙しさであったらしい。「膝栗毛」物と呼べるような旅を舞台にした便乗物の戯作も流行する2)

十返舎一九は,作品執筆だけでなく,挿絵や版下も書いたが,筆一本で生活したという点で,最初の職業作家とされている。

ところで,十返舎一九が生きた時代は,戯作者隆盛の時代で,曲亭馬琴や山東京伝,式亭三馬なども活躍した。江戸の戯作者で最初に潤筆料(原稿料。ただし,後述するように,現代の原稿料とは性格がやや違う)を受け取ったのは,山東京伝だとされている。寛政3年(1791年)春,蔦屋重三郎が出版した洒落本3作品に対して,合計銀146匁(もんめ)(約45万円程度)を受け取ったという記録がある注1),3)

京伝以前では,井原西鶴に「原稿料」にまつわる伝説が残っている。西鶴は,300匁のお金を版元から前借して歓楽街で使い果たし,原稿を書くように督促されるといい加減な言い訳をしているうちに死んでしまった。版元もその後亡くなってうやむやになったというのである。この伝説はとても有名だが,中野三敏によれば,書き手があまり信頼できないとのことで,本当に「原稿料」に相当する金銭を受け取っていたかどうかは伝説のレベルを出ない4)

戯作者についての研究によれば,原稿料と思しきお金を受け取るようになったのは,京伝と馬琴が最初で,記録上残っているのは,京伝のほうが先ということのようである。それより前には「謝礼」という形で,執筆者には金銭や物品のお礼が支払われていたとされる。潤筆料が払われる前には,ヒット作が出ると京伝には「当り振る舞い」として,版元が宴席を設けていた3)

佐藤至子によれば,京伝に潤筆料が支払われるようになったのは,版元が彼を囲い込もうとしたからだという。特に,馬琴が登場する前,京伝は戯作を一身に支える作家だったようだ。寛政初頭は松平定信による改革の時代で,改革をちゃかす黄表紙が咎めを受けたため,戯作の中心にいた武士戯作者たちが退場した。その結果,町人出身の京伝だけが戯作者として残った(ちなみに,馬琴は旗本滝沢家の生まれであった)3)

初期の潤筆料は前払いで,馬琴が断ったにも関わらず無理に版元が置いていったなどの話も残る。いわば潤筆料は作者への〈貸し〉であって,執筆を約束させるための前金だった。だからというべきか,潤筆料の支払いは初板の段階のみで,人気が出て作品が再摺されても,潤筆料が支払われることはなかった3)

ただし,作品の売れ行きがいい場合には,謝金が支払われることもあった。馬琴は,『傾城水滸伝』の公表に対する謝金や『椿説弓張月』の完結時に謝礼を受け取っているそうだ。ところが,これらの支払いは契約ベースというわけではないから再摺に対する印税のようなものではない。京伝の読本の板権を手に入れた際に,この版元が馬琴に謝金を支払っている例もある。むしろ日頃から売れる作品を書く作者との関係を保つため,版元はいろいろな贈り物をしており,このような折々の謝礼や謝金もその一環だったようなのである。前出の佐藤は,潤筆料の前渡しも関係構築のための手段だったとしている3)

このように,潤筆料や謝礼は,現代的な意味での原稿料や印税とはまったく異なる意識や制度のもとで支払われていた金銭であることがわかる。原稿料に対する対価ではなく,原稿を催促する貸しであったり,必ずしも増刷りがあっても支払われなかったりする。つまり,潤筆料や謝礼は,贈り物の一種だったと考えたほうが良いのであろう。

十返舎一九が職業作家として生きた一方で,多くの戯作者たちは,いわば手すさびや本業の宣伝の手段のため,戯作を書いていた。まず,趣味で戯作を書く武士がいた。前述したように,取り締まりが厳しくなると,そのたびに彼らは一斉に退場したのであろう。京伝は本業が煙草屋で,戯作者になったのは遊びだったと,前出の佐藤はいう。黄表紙や複数の黄表紙を合本した合巻で,京伝は本業の宣伝をした。文化8年刊行の進物指南書『進物便覧』によれば,江戸名物の1つとして「京伝たばこ入れ」があがっていて,彼の店は有名店であったようである。式亭三馬も化粧品店を経営し自らの店と商品を宣伝した。三馬を継いだ小三馬も「家勢をおとさ」ぬため,店と商品の宣伝を書き込んだ合巻を発表しつづけた3)

山東京伝や式亭三馬らは,本業を持ちながら現代のブログやTwitterでインターネットユーザーを引き付ける芸能人や有名社長のようなものであろう。

馬琴は,京伝に弟子入りし,その後版元の蔦屋に奉公して武士身分を離れて,寛政5年に履物商の会田氏に入り婿する。しかし,履物商の仕事には鬱屈していたようで,彼は「下駄屋はいやなりいやなり(引用者注:原文は繰り返し記号を使用)と常々いひし」と,京伝の弟である山東京山の『蛛の糸巻』に書かれている。馬琴が結婚した後家さんは履物商だけでなく,家主でもあったので,こちらの収入もあっただろう。その後,彼は手習い指南をしながら,戯作に励んだ。家主は娘に婿を取って継がせ,息子には医師の名前を買い取って与えたとされる。この息子と同居して,彼は戯作を書き続けた3)

このように,江戸時代後期には筆一本で生活する職業作家が登場していたものの,すでにみたように,潤筆料や謝礼は,「贈り物」の域を出ず,作家の生活は,ヨーロッパの成功した同業者と比べて貧しく,安定しなかったようである。幕末期になっても,流行作家仮名垣魯文は,潤筆料はわずかであって,パトロンがいなければ生活ができなかったとされる3)

また,戯作者の地位は一般的に低かった。シリアスな人生の真実を描くといった作品ではなく,因縁に基づく勧善懲悪のドラマや下品低俗な笑いもときに誘うような笑い話が中心だったという内容上の問題もあったかもしれない。職業作家成立前から,アカデミーをつくって貴顕と結びつき,作家の地位・権威を向上させる戦略を取ったヨーロッパの同業者たち5)とは,戯作者は大きくその社会的存在が異なっていた。

本文の注
注1)  現代の金銭価値への計算は,中野三敏『和本のすすめ 江戸を読み解くために』(岩波書店,2011年)p. 48における換算に基づく。

参考文献
  • 1)   中野 三敏. 和本のすすめ 江戸を読み解くために. 岩波書店, 2011, p. 63.
  • 2)   棚橋 正博. 十返舎一九 笑いの戯作者. 新典社, 1999.
  • 3)   佐藤 至子. “戯作と報酬”. 江戸文学 42. 市古夏生監修. ペリカン社, 2010, p. 74-85.
  • 4)   中野 三敏. 和本のすすめ 江戸を読み解くために. 岩波書店, 2011, p. 61-62.
  • 5)   Viala,  Alain. “アカデミーの発展”. 作家の誕生. 塩川徹也監訳. 藤原書店, 2005, p. 17-60. 原著Naissance de l’ècrivain: Sociologie de la literature à l’âge classique. Éditions de Minuit, 1985.
 
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