作家・批評家のマングェルによると,黙読習慣について,はっきりと記した最も古い現存の西洋の文献は,アウグスティヌス(354-430)の『告白』だという1)。
青年時代のアウグスティヌスは,ローマの長官の誘いに乗って,ローマからミラノに移り,文学と雄弁術を教え始めた。
当時ミラノのキリスト教会の司教は,後にアウグスティヌスと並んで聖人に列せられるアンブロシウス(340?-397)だった。アウグスティヌスはアンブロシウスをたびたび訪ね,彼の説教に心を動かされて,若いころに入信したマニ教を完全に捨てる。
アウグスティヌスはアンブロシウスの生活の様子を書きとめている。この記述によれば,アンブロシウスの読書は次のようだった。
⋯⋯かれが書を読んでいたとき,その眼は紙面の上を馳せ,心は意味をさぐっていたが,声も立てず,舌も動かさなかった。しばしば,わたしたちがかれのもとにいたとき――だれでもはいって差支えなく,来客を取り次ぐ習わしでなかったので――かれはいつもそのように黙読していて,そうしていないのを見たことは一度もなかった2)。
アンブロシウスは,傍にいて音読を聞いている者に質問されて煩わされたくないという気持ちから黙読をしていたのだと,アウグスティヌスは推測している2)。
前出のマングェルによると,これ以前の文献では黙読の記録は断片的なものである。
紀元前5世紀のエウリピデスとアリストファネスの戯曲に黙読する人物が登場する(この詳細は,参考文献3)でノックスの論文を引用して紹介されている)。プルタルコスの列伝では,母親から送られた手紙を黙読するアレクサンドロス(B.C.356-B.C.323)の挿話が語られている。ユリウス・カエサル(B.C.100-B.C.44)は,議会で当時政敵のカトーの隣の席でカトーの妹からの恋文を黙読していたと伝えられる。また,クラウディオス・プトレマイオス(83頃-168頃)の作と伝えられる「基準について」という論文で,集中して読書するために黙読する人の姿が伝えられている4)。
ギリシア古典学者のスヴェンブロは,碑文とギリシア演劇,ギリシア語における「読む」という語に関する複雑な議論を展開して,すでに紀元前5世紀には黙読習慣が成立していったのではないかと,推測している3)。
彼は黙読習慣とともに精神の大きな変容も生じたと主張する。彼の議論によれば,書かれた物の黙読によって,書かれた物に対して自分の声を使って能動的に働きかけなくても,受動的に,そして瞬時に書かれた物を内側から理解できるようになる。演劇においては,舞台に観客が介入せず,舞台との間に見るだけの関係が成立したことが,黙読習慣と関連しているという。また,碑文を読むことを意味する「ヒュポクリーノマイ」という言葉は,読み手が声を出して読み上げなくても,自ら碑文が沈黙の内に「答え」語ることを意味していたとされる3)。
ほかの証拠も多数あげながら,受動的立場で,内面で沈黙のうちに読むことができる精神が徐々に形成されていったと,スヴェンブロは推測する。そして,この黙読は,人間の「内面」と呼ばれるものの形成に寄与したと,彼は示唆する。紀元前4世紀に活躍したソクラテスが誤った行動を取ろうとすると,それをやめさせようと彼の内部で聞こえる「ダイモーンの声」とは,近代的な内面の良心の声にほかならないと,彼はいう3)。
しかしながら,黙読習慣は,古代ギリシアにおいてすべての人々のものであったわけではない。古代ローマにおいても聴衆を前にしての朗読は行われたし,読書は仲間との語らいの時でもあった。キリスト教の普及とともに新しい読者が登場し,貴族階級の読書と結びついていた巻子本に代わって,冊子本の普及が起こった。冊子本は小さな声での集中的な読書を促したとされる5)。
黙読習慣がヨーロッパ世界に広がり始めたのは,アイスランドの写字生が開始したとされる単語の分かち書きが普及していった10世紀以降だと,書誌学者のサンガーは主張している6)。声に出さなくてもテキストを読み下すことが容易になったからだ。中世後期には作者が口述ではなく自筆による原稿執筆を開始した。またこの時期には,他人の音読に集中を妨害されないよう1人ずつ壁で囲まれていた図書館から,利用者が隣り合って座る図書室へと移行した。図書館は黙読による静謐が支配する場所となった。
しかしながら,近世においても,「さまざまな読書形態が,各々複雑に入り組みつつも維持されていた」7)。ジルモンをはじめとする読書史の研究者が指摘するように,15世紀に活版印刷術が登場・普及し,大量の書物や冊子(パンフレット)が出回るようになったものの,1人でテキストと向き合う読書が自ずと主流となったわけではない。
宗教改革期,カトリックでもイギリス国教会でも,教会は信徒が1人で読書することを禁じた。信徒が独自の読みを行い,異端へと走ることを警戒したからである7)。そのうえ識字率は一般的に高くなく,プロテスタントの宗教改革運動においても,カトリックの反宗教改革運動においても,文字を読める者を中心とした集団読書は,重要だった8)。
通俗的理解によれば,聖書の孤独な黙読に専心したのは,聖書の読書を通じて1人1人が神と結びつくことを主張したとされるプロテスタントのみだったと思われがちである。
しかし,カトリックが少数派であったイギリスでは様子が違ったようである。
図書館学者のジャゴジンスキによれば,16世紀,イギリスのカトリックは典礼を禁じられたため,聖書を黙読しロザリオの祈りをささげた。イギリスでは,カトリックが1人1人が神と向き合う信仰を選んだのである。一方で,イギリス国教会は前述のように,聖書の黙読を正統的な祈りから外れる行為と見た。そして,ピューリタンは孤独な私的な祈りと読書によって,神と交流することを重視した9)。
個人の救済を強調するプロテスタントが教会の集まりから離れ,孤独な祈りと読書を称揚することは理解しやすい。プロテスタントの家庭での読書は必ずしも聖書だけではなく,聖書の教えを解説したわかりやすい冊子なども多かった。カトリックよりも,プロテスタントの聖職者や知識人のほうが一般向けの冊子を巧みに書くことができ,これが宗教改革期にプロテスタントがカトリックよりも有利に教えを広めた理由だと説明されることも多い10)。
黙読習慣は明らかに人々を集団から引き離す作用を持っていたと考えられる。周囲の人々に煩わされたくないために黙読をしたアンブロシウスや,黙読によって頓珍漢な問答を繰り広げることになったアリストファネスの喜劇の登場人物の例にみられるように,古代から周囲との交流を絶ち,自分自身の内側に籠る態度を示していたように思われる。西洋においては個人主義や自己の内面という概念と黙読習慣とは深くつながっているのではないかという直観が得られる。哲学者ボルターの『チューリング・マン』などの文化論・人間論もこの直観を後押しする11)。
ルネサンス以降,さまざまな意味での個人主義が西洋には広がっていったと考えられる。ギリシア時代に淵源を見る地理学者のトゥアンは,個人主義は西洋の産物であるとする12)。
黙読習慣が集団から人々を引き離す作用を持っていたとすると,日本において黙読習慣はどのように広がったのだろうか。明治5年(1872年)に設置された官立図書館が音読を禁止したことに黙読習慣の起源を求めるのが,森洋久の論考である。また,森は,明治時代以降の活版印刷による印刷物の普及や句読点法の導入が黙読が普及する重要なきっかけとなったと指摘する13)。昭和時代に入っても明治生まれの老人たちに音読習慣が残っていたという筆者の個人的体験からも,黙読習慣の普及が比較的新しい時代のものであることを示す森の論考には頷けるところがある。
ところが,前出のトゥアンの翻訳者である阿部は山崎正和の著作14)を引きながら,日本にも平安時代から個人主義があったと指摘している15)。個人主義とはどのような意味であるのかがまずは問題になるが(山崎の指摘するのは,「親密圏」と呼ばれる家族や愛の領域を描く文学の存在である),本当に日本には個人主義やプライバシーが近代までまったくなかったのかは興味深い問題である。ベドウィン族の青いベールをかぶる習慣にプライバシーの淵源を見る文化人類学者のマーフィの説16)を見ると,確かに近代以前の日本社会において個人主義やプライバシーの概念がまったく見られなかったという意見はやや先走り過ぎのような気がする。
近代以前の日本社会に個人主義やプライバシーがあったとして,これが黙読習慣とどう関わったのか。日本において,古代から現代までかけて黙読習慣はどのように生まれて広がっていったのか。個人主義やプライバシーとの関わりで,これは非常に気になる問題である。