最近プライバシー情報について立て続けに同じような質問に出会った。つまり,「プライバシー権は,著作権と同様に,個人が所有する情報に対する権利と考えれば,すっきりと理解できるのではないか」というものだ。
この質問に出会ったのは,一度はある研究会での私自身の発表の質疑応答で1),もう一度は,あるシンポジウムで情報法のエキスパートである林紘一郎先生のご講演の質疑応答の中だった2)。質問者は,それぞれ別の方だった。
別の方が別の機会で同じような質問をするとなると,「プライバシー情報は著作権と同じ所有権と考えることで容易に理解できる」という考えは結構広まっているように思われる。
「プライバシー(権)とは何か」という問いに対する回答は難しい。識者の中には,普通の語のように定義ができないという者もいる3)。また,国によってもその概念は異なる4)。情報のプライバシーに限っても,何がプライバシー情報であるかは文脈に依存して決まる側面が大きい5)。国内では,(1)私生活にかかわり,(2)一般人が公開を欲しないだろう事柄に関することで,(3)一般に公知ではないとの3要件が,プライバシー情報であるかどうかの判断に使われてきた。最近では,プライバシーの合理的期待があるならば,上記の定義に当てはまらない状況でもプライバシー侵害が成立するという法理が用いられるようになっている6)。
個人情報とプライバシー情報とが混同される傾向もある。個人情報保護法における「個人情報」は,生きている個人を識別する情報(個人識別情報)と結び付けられた情報全般を指すが,これはプライバシー情報よりもだいぶ広い。また,死者について公開を憚(はばか)られる個人情報もあるが,前述の個人情報保護法における「個人情報」の定義からすれば,このような情報はその保護から漏れてしまう7)。
また,個人を識別する情報と結び付いていなくても,大量の個人と結び付きうる情報を照合することで個人を特定できる可能性が指摘されている。前述の「個人情報」に収まらない,個人が特定される可能性がある情報は「パーソナルデータ」として,その保護をどうするかが検討されている8)。
このように,個人と結び付きうる情報の何がそもそも保護に値するのか,プライバシー(情報)とは何かということについては,現在も論争が続いているので,その定義はきわめて困難である。冒頭の「プライバシー権を情報の所有権と見なすべし」という提案も,このような文脈を背景にして行われたものと理解する必要がある。
本稿では,生者・死者を問わず特定の個人とリンクされた情報およびそれを手掛かりに個人を識別できる情報を個人情報と考えよう(つまり,現在議論されているパーソナルデータときわめて近い定義となる)。また,本稿でいうプライバシー情報とは,その情報がリンクされる個人(もしくはそのきわめて近しい人物)が,ある文脈の中でその公開範囲の変更や特定の情報処理に強い抵抗感を抱く情報,もしくはそれを手掛かりに個人を識別されることに強い抵抗感を抱く情報と定義しよう。
プライバシー権だけでなく,情報をコントロールする権利一般を財産権としてとらえようという考えは,確かに現在も検討が進められている(法哲学者のAdam D. Moore9)や法実務家のAnne Wells Branscomb10)などが代表的な論者)。また,歴史的にみると,1960年代終わりのプライバシー文献で,個人に情報をコントロールする権利を付与する試みの中で,Alan Westinの著名な著書11)の中にプライバシー権を財産権として確立するべきと主張する議論も見られる。
1967年,Alan Westinは,『Privacy and Freedom』というプライバシーの古典的著作を発表した。同書によれば,「プライバシーは,個人や集団,組織が自己に関する情報をいつどのようにどの程度他者に伝達するか自分で決定するという権利主張である」(筆者訳)12)。
きわめて大部の著作である同書は,このフレーズがもっとも有名だが,この文は第1部序論の一節である。同書は,プライバシーの歴史に始まり,科学技術の進展と経済社会の変化によって当時高まりつつあったプライバシー侵害の脅威の解説,事例分析,そしてそれらの脅威や事例分析を踏まえての,政策的提言という構成で,プライバシーの総合的研究という趣である。
一般的に,同書は,当時勃興しつつあったコンピューターによる個人データの大量収集と分析による脅威に対応して,プライバシーの自己情報コントロール権を主張した最初期の著作と位置付けられることが多い。だが,実は,意外なほど電子的な盗聴・監視装置の解説と政府・企業・個人によるその悪用の問題について多くのページを割いている注1)。
同書第3部が事例分析で,盗聴・監視装置,うそ発見器,性格検査,サブリミナル手法,コンピューターによる大量個人データの処理の5つの事例について,技術の利用とその規制がどのように行われたか解説する13)。
コンピューターによる大量個人データの処理について扱った5番目の事例「すべての事実をいっしょに引き出す」の中で,プライバシーの財産権的理解が提案される。
Westinは政府や私企業による大量の個人・集団に関するデータの収集・分析について,技術的な制限やセキュリティ対策を行って,安全性を高めるよう要求するが,これだけでは十分ではないとする。そこで,「まず,ある人の私的なパーソナリティ注2)を決定する権利として個人情報を考え,個人情報を財産権と定義し,政府当局および私企業による干渉について制約を設け,わが国の財産権法がきわめて巧妙に設定してきたデュープロセス(正当な法手続き)の保証を与えるべきである」と,Westinは主張する14)。
こうすることで,個人情報の「所有者」注3)に個人情報のコントロール権が与えられると,Westinは考える。個人情報の所有者は,政府や私企業がその個人情報をファイルに登録したら通知を受けることができ,そのファイルにどんな情報が組み入れられたかを調べ,正確性を確認し訂正することができる。場合によっては,人格を毀損(きそん)するコンピューターシステムでは個人ファイルを開くことを禁じることもできる15)。
ところが,プライバシーの権利を財産権と見なすのは難しいように思われる。
個人情報保護法制・プライバシー保護法制の歴史を追った石井の著作では,Westin自身も同書でプライバシーを財産として考えようとしていたわけではなく,人格の保護と考えていたと指摘したうえで,Arthur Millerの批判などを踏まえて,財産権としてプライバシーを捉える学説の問題点を多数指摘する16)。
なお,Millerは注1)で示したように,1960年代末にコンピューターによる個人情報の大量分析がプライバシー侵害の多大な脅威になっていると警鐘を鳴らした法学者である。
石井自身も,プライバシー権の財産権論的アプローチには否定的だ。プライバシーが歴史的に人格権として理解されてきたこと,財産権としての理解へのMillerによる説得的な批判があること,財価性のある個人情報のみに注目するのは個人情報の一部にしか保護を与えないことになるという理由をあげる17)。
何よりも,英米の法哲学・情報倫理学では,情報の所有権・財産権という思想自体が疑問にさらされてきた。(有体物の)所有権がなぜ社会に必要かという議論は,一般的に次のようなものだ。
英米の哲学の伝統では,John Lockeの『統治二論』第2編第5章が労働による所有権の基礎付けを行った議論とされる。この地球に存在するものはもともと共有物で,誰のものでもない。しかし,人は身体の所有権を有していて,この身体による労働を自然のものに混ぜることで,ほかの人びとが利用できるほど自然のものがたっぷりと残っている限りは,労働を加えた土地や物を自分の所有物とすることができる18)。Lockeによれば,これが,正当な所有権の起源である注4)。
また,所有権は,公共経済学などで用いられる排他性と競合性の理論から正当化されることがある。排他性とは,あるものについて,ほかの人の利用・占有を妨げる性質である。法律によって所有権を正当な所有者にもたせて,ほかの人の利用・占有を妨げることが排他性のよい例である。競合性とは,あるものについて誰かが利用・占有していると,それが同時には使えないという性質のことをいう。たとえば,ある人が金づちを使っているときには,その金づちを同時に誰かが使うことはできない。
有体物は,一般に誰かが利用・占有しているときには,ほかのものが利用できないという性質を有する。その点で有体物には競合性がある。正当な所有者が所有物を利用できないことは不正であるから,人工的に排他性をもたせるために所有権が必要だ――これが,有体物の所有権の経済学的な正当化である。
ところが,情報の場合競合性がなく,同時に複数の人びとが利用・享受できるので,所有権によって排他性をもたせる必要はない。いわゆる情報の所有権と理解される知的財産権は,著作者や発明者に金銭的インセンティブを与えるために人工的につくられた権利であると,説明されることが多い19)。
したがって,プライバシー情報についても,上記のような議論に基づく限りは「所有権」を正当化することは困難だということになる。実際,いずれの質問に対しても,私も林先生も上記のような回答を行った。私は米国の情報倫理学を学んできた。米国法に詳しい法学者の説明と私の説明が同じということは,米国では,倫理学者と法学者が同じような議論を前提に物事を考えているらしい。
一方で,著作者人格権を説明するため,人格の延長として所有権や何らかの権利を正当化する議論がある19)これらの立場から,プライバシーの権利を正当化ができるかどうかは,また別の課題だ。