2013 年 56 巻 6 号 p. 393-395
ふと気づいたら,ここ数年,日々接している外国文化のほとんどがアメリカ合衆国文化(以後アメリカ文化と省略)になっていた。…というのは私の公的な立場が,アメリカが一人勝ち状態と言っても過言ではないIT産業に深く関係するコンピューターサイエンスの分野で,研究活動において日々目にする動画や論文,開発環境にいたるまでほぼすべてがアメリカ合衆国製のものになっているから,という理由だけではない。私的にも英語学習と娯楽を兼ねてインターネットで視聴するドラマや映画はハリウッド製だし,CDを買ってしまうほど好きなロックバンドの出身地もほとんどアメリカだ。さらに親となってからは子供と一緒に楽しむ映画やテーマパーク,子供が学校からもらってくるミュージカルのチラシまでもがアメリカ文化に属するものになった。こんなふうに,いつのまにか公私ともにアメリカ文化漬けの毎日を送っていることに気づき,つい手に取ってしまったのが今回皆様にご紹介するこの本だ。
この本の著者はフランス人社会学者だ。世界を席巻するアメリカ文化の強さの秘密を,歴史的・国家的なメカニズムから解き明かしてくれる力作だ。2段組みで500ページを超す大作だが,読み物としての面白さも工夫されている。ケネディ大統領とそれにつづくジョンソン大統領が,合衆国初の芸術への助成金を支給する公的な団体,全米芸術基金(National Endowment for the Arts: NEA)を設立するまでを,大統領暗殺事件も含めて描く冒頭のエピソードは,ドラマや映画などで決して描かれることのない観点で非常に面白い。またNEAは公民権運動のさなかに設立されたが,残念ながら白人のエリートのための文化のみを対象としており,大衆化はみられないと著者は指摘する。しかしジョンソンが廃したケネディ政権の文化担当補佐官がテレビと大衆文化を敵視する歴史学者であったのに対し,ジョンソン政権の文化担当補佐官が,ブロードウェーの劇場を複数持つ不動産王と後のハリウッド映画業協会会長であり,アメリカ文化の大衆化の担い手であったことは偶然の一致ではないだろう。国家としての合衆国の奥深さを私に強烈に感じさせたエピソードの一つだ。
ジョンソン政権が困難の末NEAを設立させたエピソードで幕を開ける本書であるが,その困難さの内容は議会・有権者,そして助成金によって利益を得るはずの芸術家たちからさえも上がった,政府の芸術への積極的な関与に対する痛烈な反対の声,という意外なものだった。著者は本のなかでくりかえし,芸術政策だけでなくあらゆる大学政策においても,「政府・議会からの独立・自由」がアメリカの基本理念で執念でさえある,と指摘している。その執念に立ち向かうため,ジョンソン政権はNEAを公的な組織の下部組織として設立し,助成金受給者も助成金額とほぼ同額を別の財源から確保するというマッチングファンドの仕組みを取り入れた。助成を受けた芸術家は,この別の財源確保のために自己資金を用意するか,篤志家たちの寄付を募るなどの必要がある。
日本の理系研究者の私にとって,アメリカの大学の校舎やキャンパスを整備し,そこでの研究活動までも快適にしてしまう篤志家たちの活動は長年の謎だった。その謎をときあかしてくれる本書の後半部分については後にまわして,NEAの存在意義とその後について簡単に紹介しておきたい。
本書の311ページにNEAの予算のグラフが掲載されている。そこには正比例で純増する1965年の設立から1980年までの黄金期と,予算が頭打ちとなる文化戦争期を経て1991年をピークに予算が劇的にカットされていく様子が描かれている。1991年といえばソビエト連邦崩壊の年だ。文化戦争期はエイズ感染がアメリカ社会で大きく取り上げられた時期で,議会や選挙までを巻き込んだ前衛芸術と宗教とのヒステリックな対立は,日本のメディアでもごくたまにニュースに取り上げられることがあり,当時子供だった私にも不可思議な印象が残っている。著者は文化戦争をNEAの予算を巡る政治闘争としての観点から総括し,この不可思議さを次のように言い当てている。
「NEAの年間予算は,米軍が軍の楽団に支出する予算にも満たないというのに,なぜこれほど激しい争いが起きたのだろうか? アメリカ合衆国全体から見て,ほとんどの場合,傍役的な存在でしかない芸術家を叩くために,なぜ保守右派はあれほどの精力を傾けたのだろうか? こうした問いに答えることは,NEAの闘いを通じて起こったのが,アメリカの意味,価値観,アイデンティティをめぐる議論であったことを理解することである」。
東西冷戦の終了とともに中央集権化された政策が不必要となり,建国以来のアメリカの執念である「あらゆる政策の政府・議会からの独立・自由」を求める声が高まったということなのだろう。NEAは冷戦時代に芸術家と芸術一般に対する認証と正当性を与える役割を果たし,その役割を終えた現在もピーク時の予算にはおよばないものの組織は存続し,助成活動を続けている。
さて,私の長年の謎だった篤志家の話に戻ろう。アメリカ文化の真の強さは多様で複雑,そして強固な資金調達システムが機能している点にある,と著者は述べている。その核となるものが「フィランソロピー」である。日本語にするのがなかなか難しい用語だが,フィランソロピーを実践する人を篤志家と日本では呼ぶとWikipediaに書いてあったので,本稿では篤志家と書かせていただいた。その代表者として今はウォーレン・バフェットやビル・ゲイツが名高いが,歴史上の偉大な篤志家として著者はカーネギーやロックフェラーを引用しながら合衆国のフィランソロピーの特殊性をあぶり出す。そしてフィランソロピーを助長する税制優遇を中心とした公的制度の数々をひもとき,市民社会にいかに強固で独創的に「非商業的な文化経済」が形成されているかを実例とともに示していく。
大学教員の私にとって圧巻だったのはこれらの話に続く「第9章キャンパス」の部分だ。著者は「大学はアメリカの文化システムの傍役ではなく,その中心にある。単純な話だが,このことはアメリカとヨーロッパにおける文化状況の最も重要な違いの一つである。」,「キャンパスはユートピアの縮図なのだから,そこには精神や身体の発展に必要なものがすべて揃っていなければならない。すなわち,整ったスポーツ施設,大学病院,可能な限り豊かな図書館,美術館―これらすべてが競争相手校より優れていなければならないのだ。」,「連邦政府,州,財団,そして大学の卒業生,これらすべてが大学の巨大な文化ネットワークの構築にこぞって貢献した。」と看破する。…参った,私の長年の謎が,私の中のモヤモヤがすっきりとしてしまった!…ので,残りの3章を斜め読みで読み飛ばそうとしたところ,続く第10章が大学も含めたアメリカの文化団体が大衆化のエンターテインメントの時代に入ったことによる影の話になり,続いてのめり込んだ。その後の章では世界を席巻するマスカルチャーの背後のアメリカ文化の多様性にふれ,終章へと続く。
この本で最も素晴らしいと私が感じたのは結論の章だ。内容も多岐にわたって非常に盛りだくさんだ。ぜひ,結論だけでもご一読をおすすめしたい。きっと読者の興味によってぐっときたり赤線を引いてしまったりする部分はさまざまに違うことだろう。私が唸ったのはITに関する次の記述の部分だ。「『ハイカルチャー』や『カウンターカルチャー』,そして『サブカルチャー』の古くからある影響力に加えて,1990年代以降のITの発達によって,飛躍的に発展するデジタル技術の分野におけるアメリカの影響力は決定的に強まった。(中略)モノとお金を獲得するためのあらゆる手段,発明に対する飽くなき関心,そして自己改革し続ける能力が,異国の観察者の目を奪う。明日の文化のかなりの部分はすでに描かれており,発明や研究・開発,IT,インターネット,『ホームヴィデオ』の方へと進んでいくことは間違いない。つまり,アメリカはこの分野でヨーロッパのはるか先を行っている。そしてそれは,大学に依るところが大きいことはたしかだ」。
職業病として日々,私はアメリカのITについていろいろ考えさせられてしまう人間なのだが,「そうか,私たちの闘っていたのはアメリカ合衆国の技術ではなくって文化そのものってやつだったのか…」と,すとんと何かが腑に落ちる感じのする本であった。ただし,あまりのボリュームにお腹いっぱいで,それを消化するには時間がかなりかかりそうだが。さて,これからの講義に研究に,この本の内容をどう生かそうか。
矢入 郁子(やいり いくこ)
1994年東京大学工学部卒業,1996年東京大学大学院工学系研究科修士課程修了,1999年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了,博士(工学)。1997〜1999年学術振興会特別研究員DC1。1999年(独)情報通信研究機構(郵政省通信総合研究所)入所,2008年より現職。