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WIDEプロジェクトの25年 日本とインターネットのこれまでとこれから
砂原 秀樹村井 純
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2013 年 56 巻 9 号 p. 571-581

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著者抄録

1984年10月,東京工業大学,慶應義塾大学,東京大学のUNIXマシンが接続され,JUNETとよばれるネットワークが誕生した。JUNETは,電話網の上に構築されたネットワークであったが現在のインターネットの基礎となったネットワークである。単にサービスを提供するだけでなく,人と人のつながり,つまりコミュニティーを生み,そこから次世代の計算機環境を考えるグループが誕生した。これがWIDEプロジェクトである。ここではInternet Protocol version 6(IPv6)の開発に関わる活動をはじめとして,グローバルなインターネットに資するさまざまな研究が進められてきた。本稿では,今年25年を迎えるWIDEプロジェクトの取り組みの歴史と成果,今後の展望について述べる。

1. はじめに:WIDEプロジェクト以前

日本で現在のインターネットにつながる活動のスタートは,1984年10月のJUNETの始まりにさかのぼることができる1)。JUNETは,UUCP(Unix-to-Unix Copy Program)2)とよばれる仕組みを利用し,電話回線を経由してコンピューターからコンピューターへバケツリレー式に情報を配送することで,電子メールとNetNews2)と呼ばれる電子掲示板システムを実現していた。この仕組みは,そもそも米国で運用されていたUSENET2)の仕組みを拝借したものであったが,日本で利用するにあたっていくつかの日本独自の工夫を凝らしていた。

1984年というタイミングで日本においてインターネットの基礎が産声をあげた背景には,1985年4月にNTTが民営化されることから電話回線を通じてデータ通信を実現するモデム装置が複数登場したということがある。しかし,実はより重要な理由があった。それは,1984年8月に村井が,それまで学生として所属していた慶應義塾大学(慶応大)を離れ,東京工業大学(東工大)に就職したことである。村井は,慶応大を離れたが,研究の仲間はまだ慶応大に残っており,その間のコミュニケーションを円滑にする必要があった。一方で村井が東工大に移ったことにより,研究の仲間は東工大へと広がった。こうしたメンバー同士のコミュニケーションを円滑にするために,東工大,慶応大双方に設置されていたUNIXマシンを接続したのが始まりである。この接続が行われたのは1984年の9月であるが,「ネットワーク」というものは3つ以上のマシンがつながっているものであるという考え方から,当時東京大学(東大)大型計算機センターにいらした石田晴久先生の協力で東大が接続された1984年10月をJUNETの始まりとしている。なお,JUNETの命名は石田先生によるものである。

さて,JUNETの展開にあたって最初の課題となったのが言葉の問題である。もともとUSENETで利用されている技術であるため電子メールやNetNewsで利用できる言葉は,英語であった。もう少し正確に言うとASCII文字列である。一方で裾野を広げるためには,日本語が利用できることが好ましい。アルファベットを用いることが可能であるため,ローマ字で日本語を表記するという試みもあったが,読みやすさという観点から広く利用されるには至らなかった。なおこの頃の慣習として,メール等のSubjectに本文がどの言語で書かれているかを示すために(in English)や(in Romaji)と記されていた。

日本語が利用できるようにするためには,次の3つの問題を解決しなければならなかった。

  • •   文字コード
  • •   文字フォント
  • •   入力方法

文字コードは,日本語を表現するためには必要であるが,どのコードを用いるかは議論を呼んだ。標準であるJISコードを用いるか,当時すでに普及をはじめていたパソコンで利用されているシフトJISコードを用いるかということが議論されたが,最終的にJISコードを用いることとなった。これはRFC(Request for Comments)として公開されている3)。なお,JISコードを利用できるようにするためには,電子メール,NetNewsのプログラムだけでなく,さまざまなツールを改造する必要があった。当時JUNETに接続されているコンピューターのほとんどがUNIXで動作していたため,UNIXの関連ソフトウェアの改造が進められ,これらのノウハウが共有されることとなった。

続いて問題となったのが日本語の表示である。日本語,特に漢字が表示可能な端末装置を用意すればよかったのであるが,それは高価でありどこでも利用できるものではなかった。そこで,当時普及をはじめたX Window System4)に目を付け,端末ソフトウェア,漢字フォントを作成しネット上で共有すればよいだろうということとなった。ただし,漢字フォントは最低限必要な分だけでも6,000文字ほどになるため,漢字フォントを作成するエディタを作成して配布し,漢字フォントはJUNETに接続された組織で分担して作ろうということとなった。この漢字フォントエディタの作成を担当したのが,当時東工大の学生であった橘浩志氏であった。結局,漢字フォントエディタの作成過程でテストのための漢字フォントが3,000文字ほどが完成したため,村井の指示で残り3,000文字も橘氏が作成し,1987年にk14漢字フォントとして公開している。

同様に入力方法についても,京都大学,慶応大,立石電機(現オムロン),アステック(現アールワークス)が共同で開発していたWnnというかな漢字変換システムが1987年に登場し,これが普及していった5)。しかし,このWnnの普及にも課題があった。それは,かな漢字変換のための辞書をどうやって準備するかということである。Wnnは当初ソフトウェアそのものはオープンソースとして公開されたが,辞書は有償であった。そこで,利用者がWnnを利用しながら辞書への登録を行い,それをみなで共有することで実用に堪えうる辞書を作成しようというpubdicプロジェクトが進められた。こうして実用性のあるかな漢字変換辞書ができたのである。

このようにJUNETは,単に人々をつなぐだけでなく,現在のインターネットにつながる情報の共有や協調作業,あるいはオープンソースといった考え方へつながっている。こうした新しい文化を日本へ根付かせたのもJUNETの貢献の1つと言えるだろう。

もう1つJUNETが特徴的だったことがある。今や「利用者ID@ドメイン名」というアドレスで電子メールが届くのは常識であるが,当時のネットワークでは当たり前ではなかった。これは,USENETの仕組みに依存するものであるが,発信元となるコンピューターから,どのコンピューターを経由して,宛先となるコンピューターへたどり着くかを記述しなければならなかった。しかし,これでは不便なため,JUNETでは早い時期に今のような形式でメールが届くようにしていた。そのために,東大と東工大のコンピューターに日本全国のコンピューターがどのように接続されているのかというデータベースを格納し,その情報を元に電子メールを配送するという仕組みを導入していた。接続は,東大のccut,東工大のtitccaという2台のコンピューターを根とする木構造で管理されており,JUNET上のコンピューターから近くのコンピューターへは知っている情報を用いて配送を行い,わからない宛先のものは,ccutまたはtitccaへ送って宛先に配送していた。現在と異なり,東京から九州や北海道へメールを発信すると,数日かかっていたが,コンピューターを用いたコミュニケーションとして注目を集め仲間が増えていき,1987年には100組織以上がJUNETに接続される状況になっていた。

JUNETは,技術の点でも現在のインターネットにつながる重要なネットワークであったが,同時にネット文化の浸透,あるいは,それ以降のインターネットに関わる人々や組織をつなぐ出会いの場となったという点で重要なものであったと言えよう。

2. WIDEプロジェクト前夜

WIDEプロジェクトのスタートは公式には1988年といっているが,WIDEプロジェクトの基礎となる活動は1986年頃から始まっている。JUNETにおいてもそうであったが,WIDEプロジェクトにおいてもUNIXオペレーティングシステム6)が重要な役割を果たしている。そこには,「コンピューターは人間が使う道具であり,人間が使いやすいように変わらなければならない」という村井の信念がある。UNIXはライセンス契約が必要であったが,当時のオペレーティングシステムとしては珍しくソースコードが公開されており,目的に応じて改変することが可能であった。そのため,UNIXはわれわれの活動の基礎となっていた。特に,われわれは人間の行うことを支援する道具群を「環境」と呼び,プログラミング活動を支援する「プログラミング環境」,文書作成を支援する「文書処理環境」,電子メールや普段のコンピューター上での活動を支援する「生活環境」などという言葉を使っていた。これらは,実際にはUNIX上のツール群を指しているのであるが,われわれの考え方を示す言葉の1つであると考えている。WIDEプロジェクトのWIDEもWidely Integrated Distributed Environmentの略であるとしているが,この最後にもEnvironmentつまり「環境」という言葉が使われている。日本UNIXユーザ会のメンバーを核として,われわれが必要とする「次」の「環境」は何かを考える集まりがスタートしたのが1986年頃であり,これがWIDEプロジェクトの骨格となっている。こうした議論の結果として,単にネットワークを作るということが目的ではなく,「世界中のコンピューター同士が接続され人間を支援する環境を作る」ことがWIDEプロジェクトの目標となった。

3. WIDEプロジェクト スタート

WIDEプロジェクトをはじめるにあたって,まず必要であったことは,世界中のコンピューターがつながることである。1987年に村井は東大に異動しており,東大と東工大,慶応大を,今のインターネットと同じ技術,つまりインターネットプロトコルで接続することからスタートしようと考えた。当時は,そのために必要な回線に月額数十万円かかったためその費用をどのようにして集めるかが課題であった。また,当然インターネットつまり米国への接続も必要であったため,月額100万円規模の国際回線の費用の捻出も不可欠であった。積算した結果から,10社ほどの企業に協力していただき,実際の接続をスタートさせることができた。

1988年7月の東大-東工大の64kbpsの回線を皮切りに,1989年1月64kbpsでの東大-慶応大(矢上)の回線,9.6kbpsでの東大-NSF(全米科学財団)の回線が開設されている(注:東大-NSFの回線は,当時の学術情報センターの日米回線を借用したものであった)。WIDEプロジェクトの開始を1988年としているのは,最初の東大-東工大の回線の開設が1988年であったためである。

また,JUNETでの反省を元にネットワークの構成を考えてWIDE Internetの設計を行った。これは,JUNETが草の根的につながったために,隣の組織を見つけ相互に接続するという形で展開していき,ネットワークの構造が複雑になってしまったことによるものである。WIDE Internetは,NOC(Network Operation Center)という拠点を設置し,NOC同士を接続するバックボーンを構成するというもので,参加組織は近傍のNOCに接続することとなっていた。最初のNOCは,岩波書店一ツ橋別館に設置されたもので1989年9月に運用を開始している。このNOCはWNOC-TYO(WIDE NOC Tokyo)と呼ばれ,これにともなって直接接続されていた東大,東工大,慶応大もWNOC-TYOへの接続へと変更されている。1989年11月には(財)京都高度技術研究所内にWNOC-KYO(WNOC Kyoto),1990年3月に千里国際情報事業財団内にWNOC-OSA(WNOC Osaka),1990年4月には慶応大湘南藤沢キャンパス内にWNOC-SFCが設置されている。1に1991年4月のWIDE Internetの状況を示しておく。

図1 WIDE Internet(1991年4月)

国際接続については,ワシントンD.C. のNSF(全米科学財団)のオフィスへの接続が最初であるが,これによってNSFNET7)経由でインターネットへの接続を果たしている。しかし,NSFNETは米国の税金で運用されているネットワークであり,こうしたネットワークの利用にあたっては定められた利用方針に従わなければならないという取り決めがあった。これをAUP(Acceptable Use Policy)と呼び,当時はどこのネットワークであってもそれぞれで定めたAUPに従った運用がなされていた。NSFNETへのWIDE Internet接続にあたって,NSFNETのAUPに反しないかという心配があった。そのことをNSFNETのDirectorであったStephen Wolff氏に村井が質問したところ,では許可書を書いてあげようと書いてくれたものが2の文書である。ここには「日本のIPコミュニティーがNSFへのインターネットアクセスをすることを認める」と書かれている。

図2 NSFNETへの接続を認めた書類

しかし,9.6kbpsでの国際接続では不十分であり,WIDE Internetで国際回線を持つ検討が並行して進められていた。これは,単に国際接続をWIDEプロジェクトが持つということだけでなく,インターネットというグローバルなネットワークの一端を日本が担うということを意味していた。PACCOM(PACific COMmunication Networks)という日本,米国,オーストラリア,ニュージーランド,韓国,香港が参加する研究プロジェクトのメンバーとなることであり,1989年8月に慶応大(矢上)とハワイ大学を結ぶ64kbpsの回線を設置することとなった。単につながるだけでなく,プロジェクトのメンバーとして研究に参加することで,さまざまな点で日本がインターネットの一翼を担うこととなったのである。

1990年代に入ると,インターネットが注目されWIDEプロジェクトも,インターネットへの接続を1つの目的とする参加組織が増えてくるようになってきた。しかし,インターネットへの接続性はWIDEプロジェクトの役割の一部であり,こうした要請と研究活動を分離する必要性が生じた。そこで,技術移転を行い,インターネットへの接続をサービスとして行う会社,つまりインターネットサービスプロバイダ設立のための検討をこの頃にはじめている。われわれが関わった企業がこうしたサービスを開始することが望ましいと考えていたが,なかなか難しくWIDEプロジェクトのメンバーが設立したのが株式会社インターネットイニシアティブである。しかしながら,われわれ自身でインターネットを運用することが重要な要素であり,「運用」と「研究」を両立させて活動することはスタート以来変わっていないポリシーの1つである。

4. WIDEプロジェクトの活動

WIDEプロジェクトで行われている活動は技術的なものから社会的なものまで多岐にわたる。ここでは,その一部を紹介したいと思う。なお,すべての成果は報告書として毎年作成されている。一般には1年遅れでホームページにおいて公開しているので,興味をお持ちの向きは参照いただければと思う8)。また,WIDEプロジェクトの20年の活動を書籍『日本でインターネットはどのように創られたのか? WIDEプロジェクト20年の挑戦の記録』9)にまとめている。こちらも参考にしていただければと思う。なお,この書籍のタイトル「日本『で』…」としているのは,インターネットはグローバルなのであり,その研究開発と普及に日本がどのように関わってきたかの記録であって,「日本『の』インターネット…」ではないという村井の意思を示したものである。

4.1 Internet Protocol version 6

現在インターネットで用いられている基幹プロトコルはInternet Protocol version 4(IPv4)と呼ばれ1981年に完成したものである10)。しかし,登場からすでに30年以上が経過しており,さまざまな点で限界を迎えている。特に,インターネットに接続されるノード(正確にはインターフェース)の識別子として用いられるIPアドレスが枯渇し,これ以上のノードを受け入れることが難しくなってきている。こうした状況を見越して1992年から開発されてきたのがInternet Protocol version 6(IPv6)である。

IPv6の開発はInternet Engineering Task Force(IETF)によって進められてきたが,この新しいInternet Protocolの開発を行うと決めた地が日本であることは意外と知られていない。WIDEプロジェクトは,1992年6月に当時できたばかりのInternet Society(インターネット学会)11)の第1回の国際会議iNET’92を神戸でホストした。実は,この場で次のInternet Protocolを開発することが決められIETFにIPng(Internet Protocol Next Generation)を検討するグループが設置されたのである。ここから議論がスタートし1994年7月のIETFにおいて基本方針が決定され1995年12月に最初のIPv6に関連するRFCが発行されている。IETFでの議論にもWIDEプロジェクトのメンバーが参加していた。ネットワークの研究開発において標準化という活動も重要であるが,IPv6に関わる一連の活動はWIDEプロジェクトがIETFという場を用いて標準化活動にも深く関わるようになったきっかけであると言える。こうした背景の中で1995年8月に実施されたIPv6に関する合宿を経て1995年9月にWIDEプロジェクト内にIPv6ワーキンググループが設置され,IPv6の実装がスタートした。当初は,慶応大の南正樹氏,奈良先端科学技術大学院大学の島慶一氏,株式会社日立製作所の渡部謙氏らがBSD/OS上に実装した3つのコードがあり,これにソニーの尾上淳氏によるIPv6エミュレーターの実装が加わり,WIDEプロジェクト内でも複数の実装が存在した。しかし,別々に開発するのは非効率であることから,1997年12月に全体でまとまって1つの実装を行う方針が立てられた。この裏には村井の1つの思いがあった。

インターネットは,ただ単にインターネットで利用される技術をRFCという文書で公開するだけでは簡単には普及しなかったと言われている。これらの文書の公開にあわせて,カリフォルニア大学バークレー校のCSRG(Computer Science Research Group)がUNIXの1バージョンとして公開していたBSD(Berkeley Software Distribution)にインターネット関係の技術を実装した4.2BSDを参照コードとして公開したことが,インターネットの普及に大きく貢献したと考えられている。このことをよく理解していた村井が,WIDEプロジェクトで進められているIPv6の実装をオープンソースで公開することで,IPv6の参照コードを作ることが必要であると考えたのである。そこで,各組織に分散してIPv6の実装を行っていたエンジニアを慶応大の湘南藤沢キャンパスのそばに借りたオフィスに集結しIPv6の実装に専念させたのである。これがKAMEプロジェクトである。後に,IPv6の相互接続性検証ツールを開発したTAHIプロジェクト,Linux上のIPv6の参照コードを実装するUSAGIプロジェクトへと展開していく。これらの成果は,それぞれFreeBSDやNetBSD,OpenBSDなどBSD系OSのメインストリーム,Linuxカーネルへマージされ初期の目的を達成したため各プロジェクトを完了させている。

あまり知られていないがApple社のMacで利用されているMacOS XにもIPv6のプロトコルスタックが実装されているが,これもKAMEプロジェクトの成果が導入されている。

4.2 M Root DNS

Domain Name System(DNS)12)は,人間が記憶しやすいwww.wide.ad.jpのようなドメイン名を,コンピューターが用いる数字による識別子IPアドレスに変換する役割を担う仕組みである。メールの配送を含めて,DNSはインターネットの根幹を成すシステムだと言える。DNSは木構造でデータベースを管理しているが,その最も根本にあたるサーバーがroot DNSサーバーである。当然,木構造の根本にあたるのでこのroot DNSサーバーが停止するとインターネットは停止すると言っても過言ではない。しかしながら,DNSで利用されるパケット形式とUDPのパケットサイズの制約からroot DNSサーバーは1か所にしか設置することができなかった。このほとんどが米国に設置されており,なんらかの要因で米国のインターネットが切り離されるとアジア等ではインターネットが利用できなくなるという事態が発生することになる。こうした事態を避けるためアジア地区にroot DNSサーバーを設置したいということとなった。

こうした要請を受け,1997年8月にWIDEプロジェクトがM Root DNSサーバーの運用を開始した。インターネットにおける重責を担っていることを実感した一件である。特に,1999年の大晦日から2000年の元日には,Y2K問題に対応するため泊まり込みの体制でシステムの監視を行った。時差の関係で日本が最初に新年を迎えるため,そこで問題が生じたらそれを解析し他のroot DNSサーバーの管理者に伝えるという使命を担ったわけである。実際には大きな問題もなく新年を迎えたのであるが,新年の時報を聞いてしばらくは手に汗を握ったものである。

現在は,anycastと呼ばれる技術を用いており,M Root DNSも日本国内だけでなくソウル,パリ,サンフランシスコで運用されている。また,WIDEプロジェクトだけでなく日本レジストリサービスとともに運用を行っているが,インターネットにおける重責を担っていることにはかわりはない。

4.3 境界領域との連携

4.3.1 教育と衛星通信

WIDEプロジェクト開始当初からずっと携わっている研究テーマとしてマルチキャストという技術がある。要するに,1つのソースから多くの組織へ同じ情報を送り届ける技術であるが,この技術を活用し大きく展開した応用が1つある。それがインターネットを利用した教育である。1対多の通信は,ローカルネットワークでは容易に実現できるが,広域で実現することは困難である。このような1対多の通信を広域で実現できる仕組みとして衛星通信があるが一方向通信であり,端末からの応答を受け取ることが難しい。そこで,送出側が衛星通信を用い,応答側は地上のインターネット回線を用いるという通信方式を開発した。この方式はUDLR(Uni Directional Link Routing)と呼ばれRFCとして公開されている13)。こうした技術開発と並行して,インターネットの1つの応用として高等教育に用いることができないかという検討が1997年からWIDEプロジェクト内で始まっている。今で言うところのe-ラーニングであるが,これと衛星通信が組み合わせられ大きく展開をはじめる。日本サテライトシステムズ(現スカパーJSAT)の協力を得,日本だけでなくアジア各国にフットプリントを持つ通信回線を利用できるようになったことから,アジア各国の大学と連携し教育を実施することとなった。授業を発信する大学からマルチキャストで高画質なビデオストリームを配信し,学生からの質問等をインターネット回線から受けるといった運用をしながら,さまざまな教育や国際会議を実施してきた。特に,2011年11月に実施したUNESCOのJakarta & CONNECT-Asiaという会議では,2,592名の参加者を得,世界で最も大きなオンラインの環境会議ということでギネス記録の認定を受けている14)

また,2004年末に発生したスマトラ沖地震において壊滅的な打撃を受けたインドネシア・アチェ州のシアクアラ大学を支援するため,遠隔講義環境を整えている。

WIDEプロジェクトの25年の中では国内においても2度の震災を経験している。1995年の阪神淡路大震災の際には,震災時には大きな貢献はできていないが,こうした震災発生時にインターネットがやるべきことを考え,2001年までインターネット防災訓練を実施している。1996年には,実際にネットワークを遮断し,衛星回線でバックアップするという訓練を行っている。また,生存者の情報をいち早く収集するための仕組みの開発と訓練を行っている。こうした成果は,2011年の東日本大震災にはさまざまな形で引き継がれ実施された。また,東日本大震災の際には,衛星回線とコンパクトなルーター機器を用いて,被災地の避難所にインターネットを敷設するという支援を行った。

4.3.2 自動車とモビリティ

WIDEプロジェクト初期から進められている研究にモビリティに関するものがある。コンピューターの小型化と携帯電話の進化,無線LANの普及と並行して,どこでもインターネットを利用したいという欲求が強くなってきた。しかし,当時のノートPCはバッテリーの持続時間が短く,電源の確保という問題があった。そこで,注目したのが自動車である。自動車には,バッテリーが搭載され発電能力がある。人間のモビリティを支援する自動車が,人間のコミュニケーションを支援するというわけである。

しかし,ただ自動車内でインターネットを利用するだけでは,自動車を活用しているとは言い切れない。自動車をよく調べてみるとさまざまなセンサーが搭載されている。こうした情報を収集することで有益な情報を生成できるのではないかと考えたのである。例えば,自動車の位置情報と速度情報を収集すると渋滞情報を生成することが可能である。また,位置情報とワイパーの動作状況を収集すると降雨情報を生成することが可能になる。今で言うところのセンサーネットワークであるが,これを移動する自動車から収集するというわけである。1996年にはインターネット自動車ワーキンググループをWIDEプロジェクト内に設置し実験を始めた。当初は,自動車業界にはその有効性が理解してもらえなかったが,少しずつ協力者を得ながら個人の自動車での実験を繰り返していくうちに,2001年には横浜と名古屋で実証実験を実施することができた。名古屋の実証実験では1,680台のタクシーに装置を搭載し情報を収集する実験を行っている(3参照)。こうした成果も,自動車各社の通信カーナビゲーションサービスへと展開されている。

図3 InternetITS実証実験の成果(渋滞情報)

5. おわりに:これから

現在,WIDEプロジェクトはこれまで継続してきた研究,特にIPv6の普及展開に関わる活動に加え,ビルオートメーションへの展開やセンサーネットワーク技術,クラウド技術,ビッグデータ技術など新しい研究開発へ展開していっている。特に,クラウド技術が実現する環境は,WIDEプロジェクト開始当初われわれが目指した「環境」を構築するための基盤技術であると考えている。当初WIDE Internetとしてわれわれ自身でインターネットを運用したように,現在WIDE Cloudと称してわれわれの活動基盤を運用している。クラウドというと1か所にサーバーを集約しそれを共有するという形態をイメージするが,われわれの考える「環境」は地球を覆うコンピューターとそれをつなぐネットワークである。そのため複数の拠点に置いたサーバーを全体で共有するという構成になっている。サーバー群を設置する拠点は,複数の参加組織に置かれ地理的に分散している。そのため,例えば2011年の夏に関東地区の電力供給が逼迫した際に,WIDE Cloudを用いてサーバー機能を関西地区に移動させ稼働させたという実績がある。同様に2012年の夏には関西地区の電力供給が逼迫したためサーバー機能を関東地区に移動させていた。このようにWIDE Cloudはわれわれの新しい情報基盤になってきている。同時に,こうした形態のクラウドを運用する際に必要な技術開発を進めており,地理的分散を意識しないで済む計算機環境の構築を進めている。

もう1つの大きな話題はビッグデータである。インターネット自動車の研究を含めて,WIDEプロジェクトはすべてのものをインターネットに接続し,それらが生み出す情報を共有し,そこから有益な情報を構成し活用するということを進めてきた。ビッグデータが近年注目されるようになったのは,こうしたデータの共有と活用の基盤としてインターネットが重要な役割を果たすことを示していると考えている。われわれはすでに情報を共有し活用する仕組みを実現してきているが,さらにこれを進めさまざまな人間の活動を示すデータを共有し活用する試みをスタートさせている。例えば,年2回実施している合宿において参加者の行動について「位置情報」や「トラフィック」などさまざまな情報を収集し,それを自由に使うことで面白いことを見いだすチャレンジを実施している。当然,こうした情報にはパーソナル情報が含まれているが,WIDEプロジェクトがスタート当初から決めている「秘密は外には漏らさない,有益なことはみなで共有する」というルールを活用し,まずはデータの活用に挑戦しようということになっている。今後,こうした仕組みを社会に展開するには,どうやってこうしたパーソナル情報の利用許諾を得るかという課題があり,そのようなテーマにも取り組んでいる。

さらに,WIDEプロジェクトは当初から自分たちで使うものは自分たちで作るということに取り組んできた。インターネットの進展にともなって,さまざまな場面で製品を活用するようになってきている。しかしながら,さまざまな挑戦のためには,自分たちで作った道具を活用することも重要である。近年さまざまなパーツが容易に入手できるようになり,こうしたパーツを組み合わせることでわれわれ自身でも比較的高性能の装置を組み立てることが可能となっている。ある種の原点回帰であるが,高性能ルーターやサーバー装置をこのような手法を使って組み立て利用することを行っている。

WIDEプロジェクトの担う役割は少しずつ変わってきている。特に,単に技術だけでなく,政策や法律といった社会に対する責任にも関わるようになってきた。しかし,われわれが持つ基本的な考え方は同じであり,今後も止まることなく次のより高いレベルの「環境」を構築するために活動を進めていく予定である。次の5年に期待していただきたい。

参考文献
 
© 2013 Japan Science and Technology Agency
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