2014 年 57 巻 1 号 p. 50-54
「独占」(monopoly)という言葉がある。ギリシャ語の「単一の」(monos)と「販売する」(poleia)に由来するという。アイデアにこの独占を認める仕掛けが特許制度ということになる。なぜ,アイデアに独占を認めるのか。それは自明ではない。諸説ある。いや,それを否定する理論もある。これを歴史的にたどってみよう。蛇足になるが,「アイデア」(idea)の語源はギリシャ語で「理想の形」を意味する「イデア」(idea)である。
まず,アリストテレス。彼はその『政治学』にターレスの挿話を紹介している。ターレスは,ある冬,星の光の中に翌年のオリーブが豊作だという兆しを発見し,わずかな手付金で圧搾機の利用権を独占し,これによって財をなすことができた。
ついでにプラトンにも挨拶しておこう。彼は人間の技に創作性を認めなかった。まず神の創ったイデア――たとえば寝椅子のイデア――があり,人間――たとえば職人――はそれを写すのみ,という哲学をもっていたから1)。
ヨハン・ベックマン(1739‐1805年)という技術史家が『西洋事物起原』という著作を残している2)~4)。邦訳で全3巻,計1,400ページにわたる浩瀚(こうかん)なものである。出版は1839年,したがって「工業所有権に関するパリ条約」(1883年)の締結以前に刊行されたものである。つまり,著者はアイデア独占についての現代的理解を知らずにこの本を執筆している。
この本の中から「特許」という言葉を拾いだし,それをまとめると表1のようになる。これを見ると,特許の発行には多様な意図が込められていたことがわかる。たとえば,それは既得権益の保有者――つまりギルド――の保護にもその解体にも使われていた。あるいは,それは海外技術の導入にも自国技術の保護にも用いられていた。
年 | 国 | 権利の対象 | 権利付与の目的 |
---|---|---|---|
4世紀 | ローマ帝国 | 船と筏(いかだ)の運用 | 公益事業(公衆浴場用燃料の輸入) |
1272 | ローマ法王 | 孤児院の建設・運営 | 公共政策(福祉) |
1322 | ベネチア | 水車式製粉機の建設 | 所有権の確定 |
1393 | ベネチア | 風車の建設 | 海外技術の導入 |
1411 | フランス | 緑青の製造 | 地域独占 |
1458 | ドイツ | 薬種商 | 事業規制 |
1479 | ローマ法王 | 利子の認可 | 新産業の創出 |
1563 | ドイツ | 明礬(みょうばん)の製造 | 既得権益の廃止 |
1592 | ドイツ | 金属線の加工 | 海外技術の導入 |
1609 | ドイツ | ガラスのカット法 | 発明家への報奨 |
1631 | イギリス | 時計の製造 | 新産業の創出,輸入禁止 |
1634 | イギリス | 壁紙の生産 | 発明家への報奨 |
1661 | フランス | 富くじの発行 | 権力による利益の独占 |
1662 | フランス | 馬車のサービス地域 | 地域独占の確定 |
1665 | フランス | 鏡の製造 | 海外技術の導入 |
1669 | イギリス | 靴下の製造・販売 | 業界の既得権益の保護 |
1670 | イギリス | 錫(すず)メッキ | 発明家への報奨 |
1699 | フランス | 携帯用ポンプの製造 | 公共政策(防災) |
1706 | イギリス | 保険事業 | 不良事業者の排除 |
1767 | イギリス | 蒸気機関の製造 | 発明家への報奨 |
1822 | イタリア | 鉛筆の製造 | 発明家への報奨 |
1828 | フランス | 染料の製造 | 発明家への報奨 |
16世紀の英国では「特許」(patent)とは「開封特許」(letters patent)の省略形であり,その‘patent’はラテン語の‘patere’(開いている)に由来していた。「開いている」とは封緘(ふうかん)されていない,つまり公開されていることを意味した。
エリザベス1世はこの開封特許の発行に熱心であった。ときの高級官僚でもあったフランシス・ベーコンはこれに理論的な根拠を与えた。それは『学問の進歩』(1605年)に示されている5)。
「人間の生活のための新しい技術,才芸,有用なものの考案者と創始者は,神々そのもののなかにいれて崇められる」
ここにある「発明家に対する神格化」というレトリックは,その「神格化」を「独占という報奨」に置き換える形で,のちに英国専売法や米国憲法に取り込まれることになる。
開封特許は国王の一存で発行できたので,上納金と引き換えに乱発された。それは塩,石炭にはじまり,ついにはトランプの専売へと拡がった。だが,これとともに開封特許に対する批判が高まり,議会は1624年に専売法を制定した6)。それはすべての独占を原則無効としたが,次の例外を設けていた。
「王国内の新しい製造方法による加工または製造に関して,その最初かつ真正の発明者に,今後14年間の期間をもって開封特許を与える」
ここにはベーコンの発想が受け継がれていた。時代はとぶが,米国は1788年に発効した憲法においてベーコンの定義をさらに洗練させた。
「著作者及び発明者に,その著作物及び発明に対する独占的な権利を一定期間保障することにより,学術及び有益な技芸の進歩を促進する」
ついでに1791年のフランス特許法を紹介しておこう。この国は英国と同時期に特許法を設けていたが,1791年,その特許法を次のように再構築した。
「すべての新しいアイデアは,その現実化と開発が社会に有益であれば,それを思いついた人にまず属する」
ここにはアイデアの私有という概念が示されている。
特許制度をよしとする論点は1つではなかった。第1にアイデアは所有権の対象である。第2に社会は発明者にその発明から得た利益を還元しなければならない。第3に発明は産業社会の発展に不可欠である。第4に技術情報の公的な公開は次世代の技術開発に役立つ。
ややあとの時代の話だが,ジェレミ・ベンサムは次のように示している。
「発明家に与えられる排他的な特権には,とがめられるべき独占と共通するものはまったくない」
しかし,特許による発明の独占という制度はすんなりと人々に受け入れられたわけではなかった。そもそも独占という制度に対する反感が社会全体にあった。
くわえて,特許の付与は当の発明への海賊行為を誘発することでもあった。さらに特許料をユーザーから徴収することも至難の業であった。このリスクをおそれた発明家はそのアイデアを秘匿し,最後は墓場に持ち込んだ。
特許の頼りなさについては,18世紀後半になってもさまざまな立場からの発言が続いた。まず米国の初代特許庁長官でもあったトマス・ジェファソンの疑義7)。
「アイデアは,われわれが呼吸する空気のように,その密度をいかなる点においても減ずることなしに,全空間に拡がる。それを囲い込むことも排他的に占有することもできない」
もう1つは特許の受益者であった英国の大発明家ジェームズ・ワットの繰り言8)。
「地主はなんら労せずに地代を入手できるのに,発明家はその労働の対価を受けるのが厄介である」
この時代,反独占の論者はその根拠を次々とあげた9)。第1に発明は自然権である。それは神聖なものであり,財物に対する所有権とは異なる。第2にその権利を現実には金銭化しにくい。第3に先行者のみを優遇する。第4に特許のない時代にあっても発明は実現していたではないか。第5に工業製品のコピーには長期間を要するので,書籍などのコピーと同列に扱うことはできない。
このような流れの中で,特許の批判派は,報奨であれば,権利の独占ではなく報奨金でもよいのではないかと主張した。1762年,英国政府はジョン・ハリソンに5,000ポンドを与えている。その船舶用クロノメーターの発明に対してであった。
この発想は20世紀末までソビエト連邦における発明者証として残った。その所有者は,賞金,よい居住環境,さらなる教育機会などを与えられた。
18世紀,英国は技術の先進国となり,追われる立場となった。それとともに,自国技術の海外への流出を警戒するようになった。基幹産業の職人の海外流出も,そのために不可欠な機器の輸出も禁止とした。当然ながら相手国は対策をとった。この争いは19世紀になると激しくなる10),11)。
まず,フランス。1791年の特許法はアイデアの私有を認めていた(前述)。にもかかわらず,ここには外国人は出願できないという規定が含まれていた。
次はオランダ。この国は1869~1912年の間に特許法を廃止していた。廃止の直前,特許の取得者のほとんどがフランス人だったためである。
さらにスイス。ここでも1850~1907年には特許法がなかった。特許は法のもとでの平等の原則に反するというのがその口実であった。だが,その真意はドイツからの化学薬品の輸入を阻むことにあった。
ドイツは統一前には公国ごとに特許法をもっていた。プロイセンは1815年に特許法を設けたが,それは海外技術の導入を狙ったものでもあった。この国においては自国製品に外国商標をつけるような風潮があった。くわえて,ギルドの圧力をのんだ商務大臣が特許法を廃止すべしと発言したこともある。このような環境の中で統一ドイツの特許法が制定されたのは1877年であった。
米国はどうか。1790年に制定した特許法は1836年までは外国人に特許の取得を認めなかった。だが,18世紀後半になるとプロパテントの政策をとる。同時にヨーロッパ諸国に対して外国特許への差別化撤廃を求めるようになる。この時代にしばしば開催された万国博覧会が米国技術の海外への流出リスクをもったためであった。
あれやこれやの利害が重なり,1883年,「工業所有権の保護に関するパリ条約」が発足した。ここで各国の特許制度について最低限の標準化が行われたことになる。なお,この条約は輸入特許を認めていた。
どこで紹介してよいのか判断に苦しむが,日本では1942年に「皇道的発明理念」という旗印のもとで,敵性特許の取り消しなどを図ることとなる12)。
18世紀中期,米国で議論になったのは発明の質であった。その発明が新しく有用なものであっても,それがどんな職人でも工夫できるようなものであれば特許に値しないだろう。特許に値する発明とはどんな条件を充たせばよいのか。
1831年,米国の法廷はこれに応えた。それは特許の対象となる発明には「天才の閃(ひらめ)き」が不可欠という判断であった13)。その後,この判例が特許庁と法廷を束縛した。当然,これを巡って議論が紛糾した。ここから批判を1つ。
エジソン(後述)は生涯に1,093件の米国特許と1,239件の外国特許を取得した。そのエジソンは「天才とは1パーセントの閃きと99パーセントの汗である」と語っていた。彼の膨大な数の特許に彼の汗は混じっていなかったのだろうか。
19世紀後半,特許に関心をもつ2人の発明家が現れた。ドイツのヴェルネル・フォン・ジーメンスと米国のトマス・エジソンである。いずれも電気と通信の分野で数多くの発明を特許化し,巨大コンツェルンを築いた。
ただし,双方の特許に対する立ち位置は異なった。ジーメンスは,産業界の代表として,ドイツ特許法の近代化を導いた14)。一方エジソンは特許制度を駆使して,いや,濫用までして,自己の利益の最大化を図った15)。
いま濫用という言葉を使ったが,エジソンの場合,それは,特許訴訟の際限ない繰り返し,リサーチ・ツール特許まがいの主張,ライバルと結託しての特許プールの構築,それによる反トラスト法への公然たる挑戦,などに及んだ。
第1次大戦後,世界市場は巨大企業群の特許プールによって分割された16)。ここで主導的な地位を占めた企業の中にゼネラル・エレクトリック社(GE)とシーメンス社とがある。
エジソンはGEの創始者であり,20世紀に入るとAT&T,RCAなどと結んで米国市場を独占する。一方,シーメンス社はAEGと組んでヨーロッパ市場を独占するが,そのAEGはGEのドイツ子会社であった。いずれの独占も,それは特許プールを核とするカルテルによって実現したものであった17)。年配の方は「マツダ・ランプ」(MAZDA Lamp)というブランド名をご存じかと思うが,それはGEとカルテルを組んだ企業の商標名であった。ということで,アイデアの独占は,商品の独占,市場の独占へと変質した。
米国社会の中には19世紀末より反独占の気風が生まれていたが,1929年の大恐慌をきっかけとしてこれがにわかに高まる。これを受けて米国政府は,アンチパテント政策をとる。それは20世紀半ばに最高潮に達した。
その代表例として経済学者フリッツ・マハループが執筆した政府報告を見よう18)。
「現行の特許システムが,社会に最終的な結果として利益を与えているのか損失を与えているのか――これは,いかなるエコノミストといえども,現在の知識に基づくかぎり,確信をもって主張できないことである」
1980年代になると,米国は,かつてのオランダのごとく,かつての英国のごとく,追われる立場となる。それは新興国日本からの工業製品輸入が増大したためであった。ここで米国の政策はプロパテントへと一転する。その後の推移は読者諸氏がすでにご存じのとおりである。特許は「太陽のもと人間の創造したすべてのもの」に及ぶこととなる19)。
サイバネティックスの創始者であったノーバート・ウィーナーはその迷いを語っている20)。
「真に基礎的なアイデアに対しては,本当の所有権はありえず,そのようなアイデアを社会のために保管する管理責任のみがありうる」
彼は自分の発明――ウィーナー・リー回路――に対して特許を取得し,その特許をAT&Tに譲渡した。だが,AT&Tはそれを使用することなく,市場の独占つまり競争者の排除を謀るために保有し続けたのであった21)。