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インドにおける知財訴訟の現状
今浦 陽恵
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2015 年 57 巻 12 号 p. 924-927

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インクレディブル・インディア!

観光客誘致のためにインド政府観光局が使っているキャッチフレーズ,「インクレディブル・インディア!(Incredible!ndia)」。Incredibleには,「信じられない/信用できない」という意味と,それから派生した「信じられないほど素晴らしい」という,大別して2つの意味がある。その用法の変化が指摘されている日本語の「ヤバい」と類似したものと言えばわかりやすいであろうか。

このフレーズは,悠久の歴史を背景にした魅惑の観光地「素晴らしきインド」の訴求を図るものであろう。他方,「ヤバい」の意味さえスムーズに理解できない中年の私は,このフレーズを「インド,信じられない」とついとらえてしまう。4年契約した部屋を「弟家族を住まわせるから」と言われて1年で転居せざるをえない羽目になり,日本からの出張者を連れた重要な会議の当日に「別の予定が入っている。あなたとはアポの話すらしたことがない」としらを切られ。こんな私の体験も,インド社会を知る者にとっては,取り立てて驚くこともないごく普通の「インドあるある話」である。

文化や行動様式が日本とはまったく異なるインドは,その特異性が旅行記や滞在記などでとかく面白おかしく語られる。もちろん,それもインドの魅力の1つではあろうが,そういった情報が独り歩きすることで,本来の「素晴らしきインド」の姿を見誤ってはいないだろうか。私生活上の話であればともかく,それがビジネス上の不利益になっていたとしたら……。

今回は,インドの知財訴訟を事例に本件について考えてみたい。

訴訟大国インド

インドは,その議論好きの国民性も影響してか,訴訟大国といわれる。もちろん,それはあまり肯定的な意味ではなく,その弊害として訴訟の長期化が指摘されている。

「インドの知財訴訟は判決が出るまでに数十年」「先日,弊社の案件も成人式を迎えまして」いずれも日系企業の知的財産担当の発言である。私が当地に赴任した2012年8月当時,医薬品特許に関して厳しい判断が続いていたこととも相まって注1),「インドでの紛争解決に司法は使えない。使えない知財を高額な費用をかけて取得する必要があるのか」という雰囲気が日本産業界に漂っていた。確かに,裁判所で紛争解決を図るのに,20年以上もかかるのであれば,もはや司法は有効に機能しているとはいえない。

一方,このころ,インドでは特許をはじめとする知財権の出願受理件数が年々増加し,インド人弁護士が日本に来てセミナーを開催する回数も増えていた。訴訟期間に関する質問をすると,その回答は決まって「インドの訴訟は早くなっている」。ただし,残念ながら統計情報は示されず,真偽のほどはわからない。そう思ってもらえればまだよい方で,彼らの,常に自分に都合のよい彼らの解釈と「来日目的は営業」という下心が透けて見え,日本人は,言われれば言われるほど,「どうせウソでしょ」と,逆に「インクレディブル」となるのである。

なにしろ,「一般的に特許取得まで3~4年で済むようになった」と事実と乖離(かいり)したことを新聞のインタビューで平気で答える人たちである。インド特許局が審査進捗状況を同Webサイト上で日々更新し,短いもので4~7年,長いものだとそれ以上かかっていることが公になっているにもかかわらず,である。このようなことの積み重ねが,インド人の発言の信憑(しんぴょう)性を下げてしまっているのである。

訴訟となると,すべからくその長期化とかさむ代理人費用に悩まされるのか,特異な事例に惑わされているだけなのか。とりわけインドについては,確たる証拠を示さないかぎり,「何が本当かわからない」状況なのである。それであれば,一部の事例をもとにした標本ではなく全案件を抽出して母集団を示す以外に手はない。

知財訴訟の7割はデリー高裁?

実は,このことはインド赴任前に某日系企業の方からリクエストを受けていた。赴任後に早速取りかかったが,訴訟情報の統計を調べるにも,まずはインドにおける知財訴訟制度や,開示されている情報の範囲を把握しなければ,適切な調査は実施できない。

委託候補先の弁護士事務所は,「デリー高裁のデータなら収集可能」という。「なぜ高裁?」と戸惑う私に,「インドの知財訴訟の7割はデリー高裁」と畳み掛ける。日本の審級制度は一般的に地裁-高裁-最高裁の三審制。なぜ,控訴審である高裁が全件数の5割を超えるのか。小学生レベルの算数と中学の公民の知識を備えた平均的日本人にとっては,このインド人の主張はその理解の範疇を超えている。まさに「インクレディブル」。

しかし,結論としては,このインド人の説明は正しく,そもそもインドの審級制度が日本とは異なっているのである。第一審を地方裁判所に提起することもできるが,一部の高等裁判所は第一審管轄権を有しており,一定の訴額を超え,土地管轄を満たしていれば,第一審から高等裁判所の審理を受けることができるのである。インドでは,高裁や最高裁の判事(justice)は,優秀な弁護士や下級裁判所判事からセレクションされ,能力も高くその分社会的な権威も高い。一方,地裁以下の下級裁判所判事(judge)は,法学部を卒業し,ある程度の研修を受けた者がなる。

これらを背景に,特に知財事件など専門性が要求されるものは,第一審から高等裁判所に提訴した方がよく,その中でも,デリー高裁は知財保護に積極的であり,お勧めであると,「デリー高裁管轄の」弁護士は声高に主張するのである。

高裁の上級審も高裁?

インドの審級制度には,ほかにも興味深い点がある。

「デリー高裁は侵害を認めず,原告は敗訴した。これを不服とした原告はデリー高裁に控訴し……」またいい加減な報告書送ってきて……。いや,これも実は正しいのである。インドの高裁では,第一審は「Single Bench」と呼ばれる単独の裁判官によって行われ,第二審は「Division Bench」と呼ばれる2人の裁判官による合議で行われる。Single Benchの判断に不服の場合には,同じ高裁内のDivision Benchで控訴審が争われ,これは「intra-court appeal」と呼ばれている。インド人にとっては,あえて記載するまでもない常識であり,その脳内では,「デリー高裁(Single Bench)の判決に対しデリー高裁(Division Bench)へ控訴」と極めて自然に補完されるのである。唯一残念なのは,これがJETROのプロジェクトであり,想定読者は日本人であって,インド人ではないということであろうか。

ちなみに,この2人合議制というのも,日本人にとっては違和感がある。インドも従前は,3人合議制であったが,裁判官の定員が埋まらず訴訟件数がこなせないことから,訴訟効率を上げるために取り入れられた苦肉の策である。デリー高裁の判事の月給が8万ルピー(約15万円)であるのに対し,Senior AdvocateやSenior Councilと呼ばれる上級の法廷弁護士は,1回の口頭弁論でこの2~5倍の報酬を手にする現実を考えると,裁判官不足も納得がいくであろう。

審級制度ひとつとっても日本の常識からかけ離れた国,インド。初代知的財産権部長として赴任した私にとっては今も驚きの連続である。

出遅れた日本

このように紆余曲折(うよきょくせつ)を経て収集されたのが,JETROで公表している「インド知財・審判報告書」である。この報告書のキモは,デリー高裁・ムンバイ高裁のWebサイトで公表されるデータをもとに,対象案件を可能なかぎり全件抽出し,定期観測を行ったという点である。これによって,「その案件は特別でしょ」という議論を排し,母集団に近い全体像のイメージをつかもうというものである。分析の信頼性を担保するためにも,また,各人の関心にもとづきソートを可能にするためにも,各報告書には,表形式の個別データを掲載している。

その結果,知財侵害訴訟の第一審は,約55%が1年以内に終結し,約3/4が3年以内に終結していることが判明した。10年を超えた案件も3%ほどあるが,数十年かかるのが一般的でないことは確かである(1)。

また,インドの訴訟制度には,一方的差止命令という,被告の反論を聞かずに原告の主張のみを聞いて迅速に仮差止を命じる,権利者にとっては強力な,侵害者にとっては脅威となる制度がある。この一方的差止命令について,デリーは積極的に認めるがムンバイはそうでもない,と言われていたが,それも事実であることが統計結果から明らかになった。さらには,そうしたことも背景にあってか,デリーとムンバイの出訴件数の比も3:1となっており,デリー高裁に対する明確なフォーラムショッピングが行われていたのである(1)。さすがにインド全土の件数は集計できていないが,「デリー高裁が7割」もあながち的外れな数値とはいえないであろう。

さらに,原告に占める外国人比率を調べたところ,ムンバイ高裁のそれが約4%であったのに対し,デリー高裁は実に45%にも達している(1)。デリー高裁における原告の国籍別の内訳を見てみると,29%を米国企業,14%を欧州企業が占めているのに対し,日本は,1%にも遠く及ばない。日本企業が小田原評定に時間を費やす間にも,欧米企業は積極的にこれを活用し,着実に経験と成果を積み上げていたのである。

図1 デリー高裁・ムンバイ高裁における知財侵害第一審訴訟の審理期間
表1 デリー高裁・ムンバイ高裁における知財侵害第一審訴訟
デリー高裁 ムンバイ高裁
一方的差止命令認容率 約70% 約37%
外国人比率 約45% 約4%

元データ:2013年3月~2014年8月に提訴された案件

巻き返しにかかる日本

五里霧中にあったインドの知財訴訟の現状が徐々に明らかになる中,日本企業からは,「JETROが『仮差止はすぐに出る』というので,実際にやってみたら,本当にすぐに出て驚きました」といった,うれしい反応も寄せられるようになった。

また,インドの知財民事訴訟では,裁判所から任命されたLocal Commissioner(LC)が,被告の所在地に赴き,侵害物品の差し押さえ等を行う「アントンピラー・オーダー」も頻繁に活用される。「迅速にLCが任命されたが,被告の所在地まで飛行機で行かなければならず,費用が思ったより高くついた」といった話も聞いた。

「多くの案件で仮差止がすぐに出るのはわかったけど,出ない案件もある。こういったケースで訴訟の長期化が懸念されるがどう対処すればよいのか」という疑問も側聞している。本件に関する明確な回答は現時点でもち合わせていないが,JETROが提供した情報を源泉に,それを活用した企業からのフィードバックや,新たに生じた疑問を1つずつ紐(ひも)解いていくことで,日本産業界全体のインド知財に関する知識と経験のボトムアップを実現していきたい。

終わりに

インドでは,「イギリスが残していった最高のものは,司法制度である」と言われている。私自身はいまだ「インド,信じられない」を日々経験している段階だが,産業界との連携と現地駐在の利点を生かし,生活面はともかく,インドの司法制度については,これを「素晴らしきインド」と実感できる状況を構築できるよう,引き続き微力ながら貢献して参りたい。

執筆者略歴

今浦 陽恵(いまうら あきよし)

1999年,特許庁に入庁。2003年,審査官昇任(特許審査第一部ナノ物理)。特許審査業務に携わる傍ら,経済産業省模倣品対策・通商室,文部科学省原子力関係在外研究員(ミシガン大学),特許庁国際課を経て,2012年8月から現職(知的財産権部長)。インドをはじめ,南アジア,中東地域の知的財産に関する情報収集等に従事している。

本文の注
注1)  2012年3月,医薬品に対する強制実施権を許諾。2012年9月,後発医薬品の侵害を否認等。

 
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