電子教科書の現状をいくつかの側面で紹介する。まず,各国の導入・検討状況や,各種標準化団体における電子教科書の機能検討状況を示す。また,電子教科書の導入の是非をめぐる議論が盛んであり,そのいくつかの論点を整理する。現在の電子教科書の機能では,従来の学習活動をすべてカバーすることは不可能であり,授業中の活動,教授方法,授業運営方法に依存することは明らかである。さらに,電子教科書のファイル形式の候補をいくつか紹介する。この中で,電子書籍の形式の1つであるEPUB3と,その拡張であるEDUPUBが現在もっとも有力な候補である。
学校の現場では,長年にわたって紙媒体が使われてきた。教科書,参考書,辞書,ノート,テスト,レポートなどが紙に印刷され,また書き込まれてきた。近年,これらを電子媒体に載せ替える動きが活発になってきている。
狭義の「電子教科書」(デジタル教科書とも呼ばれる)は,現在使われている紙媒体の教科書のコンテンツを電子化し,ノートPCやタブレットPCで見るものである。しかし学習を行う場面では,教科書が単体で使われるケースは少ない。教科書を見ながら参考書や辞書を調べたり,ノートをとる場合が多い。また,学んだ知識やスキルを定着させるために,クイズや問題を解いたり,レポートを書く。これらの参考書,辞書,ノート,クイズ,レポートなど,学習に使われるさまざまなものを含めたものを「広義の電子教科書」,あるいは「教科書・教材」と呼ぶ。本稿では,この広義の電子教科書をめぐる近年の動きを概観する。
電子教科書は,世界各国が導入に向けて現在準備を進めている。韓国では,KERIS(Korea Education and Research Information Service)注1)が2008年に導入実験を開始し,2015年末までに全国の学校に電子教科書を配信するロードマップを発表している。シンガポールでは教育省(Ministry of Education)が2008年にFutureSchools@Singapore注2)プロジェクトを開始し,そのマスタープランの中でICT(Information and Communication Technology,情報通信技術)を活用した個別学習や協調学習のあり方を示している。また,中国,台湾,フィリピンなどのアジア諸国も導入準備を進めている。また米国では複数の州が電子教科書の導入実験を開始しており,イギリス,フランス,ポルトガルなども導入準備を進めている。
日本では文部科学省が「教育の情報化ビジョン」注3)を2011年に発表し,2020年までに電子教科書を導入するロードマップを示している。また実証研究として,文部科学省の「学びのイノベーション事業」注4)ではソフトウェア・ヒューマン・教育面を,総務省の「フューチャースクール推進事業」注5)ではハードウェア・インフラ・ICT面を対象に,全国20の小・中・特別支援学校で導入実験を行っている。「学びのイノベーション事業」については,2013年度までの実証研究の成果をまとめた報告書が発行されており注6),試作された教材の使い勝手,タブレット端末の管理運営方法,実際の授業運営やトラブル管理など,導入に伴う今後の課題をあげている。国内では,小中高への電子教科書・教材の普及を目的とした民間団体「デジタル教科書教材協議会(DiTT: Digital Textbook and Teaching)」注7)が啓蒙(けいもう)活動を行っているほか,初等中等教育の教員を主要会員とする日本デジタル教科書学会注8)が年次大会や研究プロジェクトを展開している。また,教科書会社12社が共同で設立したCoNETS注9)が電子教科書の共通インターフェースや機能を検討している。
2.2 標準化の動向電子教科書を導入するにあたり,そのファイル形式や機能を定める必要がある。このため,さまざまな標準化団体が活動を行っている。IEEE(Institute of Electrical and Electronics Engineers)ではActionable Data Bookプロジェクト注10)が2011年から,ヨーロッパのCEN(European Committee for Standardization)ではeTernityプロジェクト注11)が2012年から,IMS Global Learning ConsortiumではICEプロジェクト注12)が2013年から,おのおの電子教科書の仕様を議論している。ISO/IEC JTC1/SC36注13)は2012年秋からWG6にてe-Textbook Projectを開始し,イギリス,フランス,中国,韓国,日本のメンバー5名が情報収集やアンケート調査を進めている。また,電子書籍の規格を制定しているIDPF(International Digital Publishing Forum:国際電子出版フォーラム)が2013年秋にEDUPUBプロジェクトを立ち上げ,EPUB3仕様を拡張して電子教科書の各種機能を実現するよう議論している。ここでは2013年10月注14),2014年2月注15),2014年6月注16)に国際会議を開催しており,毎週電話会議を開催して議論を進めており,筆者の知る限り,もっとも早期に詳細な仕様を発表するプロジェクトと考えられる。この詳細については,また稿を改めてご紹介したい。
日本では文部科学省が2013年から「デジタル教材等の標準化に関する企画開発委員会」を開催しており,EPUB3を基本仕様としてこれを拡張している。また総務省は「教育分野における最先端ICT利活用に関する調査研究」を推進しており,HTML5をベースにした電子教科書の試作開発を進めている。筆者は上記のSC36,EDUPUB,文部科学省の3プロジェクトに参加しており,また電子教科書に要求される機能を52項目に整理したものを発表している1)。電子教科書にはさまざまな利害関係者がかかわる。書籍として編集・販売する側と読む側(教員や学習者)があるが,それに加えて文部科学省や教育委員会も立場をもつ。さらに,従来の紙媒体では無関係だった,コンテンツ流通やインフラを担うプロバイダーも関係する。上記の要求機能52項目は,図1に示すこれらの利害関係者の意見を,技術的な観点からまとめたものである。
電子教科書をめぐっては,賛成や反対を含めてさまざまな議論がある。上記でふれた世界各国の政府や団体は,もちろん推進の立場をとっている。同様にDiTT副会長の中村伊知哉氏は『デジタル教科書革命』を著している2)。このほかにも,電子教科書に対するさまざまな立場の著書が出ている3)~7)。
これらの著書に出てくる,電子教科書に対する問題や疑念のいくつかを列挙する。
また,情報処理学会など8学会が共同して「『デジタル教科書』推進に際してのチェックリストの提案と要望」注17)を公開し,以下の9項目をあげている。
これらの意見は,それぞれ傾聴に値するものである。これらの多くに共通するのは,「電子教科書の機能のみに依存した授業運営は危険である」という主張である。
まず,択一式や穴埋め式のクイズを取り上げる。電子教科書では,これらのクイズを提示し,その正誤判定を自動で行うことができる。また,類似の計算問題を自動的に生成して繰り返し解かせる,いわゆるプログラム学習環境を簡単に開発できる。これに対して,前述の(a)(f)(g)(3)(4)(5)などの危惧が示されている。しかし,プログラム学習が効果を発揮する教科や分野が存在することも確かである(すべての教科や分野に効果がある,という主張ではない)。たとえば,小学生の算数における九九は単なる暗記であって,抽象的な概念操作は不必要である。こういった分野では,プログラム学習が効果的である。また,歴史や地理における暗記項目も多く存在する。これらも同様にプログラム学習が効果を発揮する。しかし,数学や物理において概念操作能力や思考力を養う場面では,択一式や穴埋め式のクイズのみで学習達成度を測るには限界がある。こういった場面では,現在の電子教科書では実装できない別の手立てが必要であろう。
次の論点として,マルチメディアの利用を取り上げる。電子教科書では,音声,動画,3D,対話的メディア(学習者の反応によって次の表示が変化する)の利用が可能である。これらのメディアを使うことにより,従来の紙媒体の教科書では成しえなかった授業運営や学習活動が可能になる。たとえば,語学におけるリスニング,数学や物理におけるダイナミクスの理解,立体物(数学の立体モデルや物質の組成,動植物など)の理解などがある。これに対し,(f)では対話的メディアのゲーミフィケーション注18)利用への危険性を指摘しているし,(7)も単純なプレゼンテーションが深い理解を妨げる危険性を示唆している。マルチメディアは上記のメリットがある反面,直感的に理解したと学習者が思い込み,概念自体の深い理解や「なぜ」と問う思考力をそぐ危険性をはらんでいる。このため,直感的な理解をえたあと,「それはなぜか」「具体的には何か」「似たものは何か」といった問いかけを重ね,概念理解を促す必要がある。
第3の論点として,教員と学習者,学習者同士のコミュニケーションを取り上げる。前述の(d)や(6)がこれに当たる。これについては,現在考えられている電子教科書の機能の限界をはるかに超えており,「電子教科書で学習に必要なすべてのコミュニケーションを賄える」とは主張できない。協調学習の研究においては,学習者同士のコミュニケーションを支援・分析する手法が提案されているが,特に発言内容の理解はほとんど不可能なのが実情である。これについては,今後の研究の進展(特に自然言語処理分野)とその成果の実践への適用が必要である。
これらの論点の一方で,教育方法自体や「学ぶことの価値観」を問うている論点もある。たとえば,(b)「正解を求める学習に偏りがちになる」という危惧を取り上げる。電子教科書を使うと,正解を求める学習に偏るだろうか? クイズを出すと「先生,正解はなんですか?」と詰め寄る学生は現在の大学にもたくさん存在する。これらの学生は,「すべての問題には唯一の正解が存在する」という価値観を,大学に至るまでの教育プロセスで植え付けられ,それに強迫的な確信をもっているのだろう。これまで何百回と受けてきた試験や受験,またそれに向けて準備する過程で,唯一の正解を求める能力のみが求められてきた結果,このような価値観を彼らがもつようになるのは当然である。これは電子教科書の問題ではなく,現在の教育システムに内在する,過度に「効率的・客観的に学習達成度を測る」仕掛けや価値観が問題なのであろう。「正解はいくつもありうる」「解くプロセスも複数ありうる」「表面的な正解より,深く考えることに価値がある」といったことに価値を置く学習への転換が求められている。
電子教科書の是非をめぐる議論は,実は10年以上前,大学にLMS(Learning Management System)を導入するブームがあった際に,これと近いものが起こったことがある。当時,筆者が見聞きした論点をいくつかあげる。
確かに,授業で使われる教材の多くがプレゼンテーションのスライドに移行していった結果,教科書の購入が少なくなった可能性はある。しかし,LMSが導入されたからといって,板書が全滅したわけではない。教員と学生のコミュニケーションが途絶したという事実もない。思うに,当時LMSの導入に反対していた教員の多くが感じていたのは,「授業運営方法の変化」に対する危惧であったのだろう。ほとんどの時間が教員の講義で,学習達成度を評価するのは出席と期末試験のみという従来の教示型授業は,LMSによって変化する可能性が生まれた。クイズやリアクションペーパーを頻繁に要求する授業運営が可能になり,メールや電子掲示板でのコミュニケーションも可能になった。いわゆる「アクティブラーニング」の機会を増やすことが可能になったのである。授業を講義主体でなく,実習や討論に時間を多く割り当て,そこで学習内容の深い理解を得ることが可能になった。もちろん,こういった変化がすべての科目で起こったわけではない。講義主体の教示型学習も,現在多く行われている。アクティブラーニングなどによって深い理解を促す学習活動の割合をどの程度取るかは,教員の授業運営に依存しているのである。これと同様な変化が,これから初等中等教育で起こりつつある,と筆者は考える。電子教科書の導入によって,現在の授業運営を変えるチャンスが訪れる。しかし,実際にそれを変えるか否かは,学校の現場にいる先生方次第なのである。
電子教科書をどのようなファイル形式で作成し,配信するか,という実装方法は,合意形成が難しい問題の1つである。表1に,主なファイル形式と,その特質による比較を示す。
現在使われている電子教科書で,比較的多く用いられているのはPDFである。これはアドビシステムズ(Adobe Systems)が提唱し,開発したもので,文字や図表を意図した位置に配置するのに適している。また付加機能として,しおりやノートの付加や,URI指定の情報へのリンクも可能である。ISO(International Organization for Standardization)でフォーマットが規定されており,閲覧に要する使用料(ロイヤルティー)はない。また,著作権侵害を防ぐ各種機能をもつ。PDFは,製作者や編集者がレイアウトしたイメージを忠実に再現でき,著作権の保護もしやすいため,特に出版社の評価が高い。一方,アクセシビリティの観点からはDAISY(Digital Accessible Information System)規格注19)にあるような機能が十分でなく,特別支援学校などの利用には限界がある。また,オンライン環境でサーバーと情報交換する機能は一部あるが,十分ではない。
オンライン環境で用いられるファイル形式の代表格はHTMLであり,この技術に精通するエンジニアは多い。PDFと同様,規格がISOで規定されており,ロイヤルティーフリーである。JavaScriptを用いることで対話的なコンテンツを作成でき,マルチメディアも問題なく扱うことができる。閲覧環境としてのWebブラウザーも各種出回っている。このためPDFと並び,多くの電子教科書コンテンツがHTML形式で記述されている。この一方で,著作権の保護はほぼ不可能で,内容を簡単にコピー&ペーストできる。また,PDFのように製作者・編集者が意図したイメージで学習者が閲覧するとは限らない。さらに,ネットワークに接続されていないオフライン環境では,コンテンツの閲覧が難しい。
対話的処理が簡単で,かつオフラインでも閲覧できるものとして,Flashがある。1990年代後半から普及し,特にWeb上の対話的コンテンツを開発するのに多用された。平易なコンテンツはビジュアル環境で開発できるが,少し手の込んだコンテンツを開発するには,ActionScriptというスクリプトの記述が必要である。これは,アドビシステムズが開発した仕様であり,標準化団体における議論を経ておらず,その仕様が中立的でない。Apple社はFlashが不安定であるとして,iOSデバイスでのFlashコンテンツの再生を抑止している。初期の電子教科書コンテンツはFlashで開発されたものが多かったが,表示・再生できない機種もあるため,現在はそれほど多くない。なお,Flashの代替機能をもつものとしてHTML5が提案されているが,まだ仕様決定には至っていない。
電子教科書に要求される多くの機能を実現する方法として,機種独自のアプリケーションを開発するという選択肢もある。著作権管理や版組みも,開発工数をかけることで実現可能である。しかし,学校現場で多くの種類の機種が使用されている現状を考えると,それぞれに対応した電子教科書コンテンツを開発するには膨大な工数がかかる。このため,そのメリットはそれほど高くない。
ファイル形式として最近注目されているのが,電子書籍である。これにもXMDFやAZWなどさまざまな形式が提案されているが,ロイヤルティーフリーで利用できるEPUB3が現在もっとも有力である。電子書籍は,従来の紙媒体と同様,書店で購入するというプロセスが現在普及しつつある。また,追加機能により著作権管理が可能である。さらに,EPUB3はDAISY規格を吸収しており,アクセシビリティを確保するための規格が含まれている。その一方,文字を拡大すると版組みしたイメージを保ちにくい,ネットワークを介してサーバーと情報交換することが想定されていない,といった問題点もある。前述したEDUPUBでは,HTMLやFlashがもつ上記の問題を解決するため,規格の改善作業を進めているところである。ただし,電子教科書はさまざまな規格団体が議論しており,今後新しい規格が制定され,普及する可能性もある。デファクトスタンダード(業界標準)が定まるには,まだ3~5年程度の時間が必要と考える。
以上,電子教科書に関係するいくつかの話題や論点をご紹介した。2章で述べたように,電子教科書の普及はこれからであり,その必要な機能も十分議論され尽くしたわけではない。学校の現場で運用され,問題点が指摘され,それを改善していくというプロセスが,今後10年以上にわたって継続して行われる必要がある。今後しばらくは,従来使われていた紙媒体の資料と電子教科書を併用するのが,現場における妥当な判断であろう。
これから教育を受けるのは,物心つかない頃からスマートフォンやタブレットPCを使っている「デジタルネイティブ世代」である。彼らにどのような媒体や手段で教育を施すのがよいのか,という観点で,今後も議論が続くことを期待している。