2014 年 57 巻 7 号 p. 497-500
1976年,米国議会は著作権法を大幅に改正した。そのときに上院で次のような議論があった。
もしも著作物が「絶版」であったり,通常の購入経路を通じては購入できない状態にあったとしたら,ユーザーがこれを複写するのに正当化事由が認められやすいというべきであろう1)。
すでに20世紀半ば,研究者のH. ベイルは次のように指摘していた。
もし著作物の合理的な使用を禁止してしまうとすれば,後から出てくる著作者は先人の著作物を改良していくことができなくなる。
このような発想は,実は著作権法の先進国――18世紀の英国――に生まれていた。このあとの多様な判例が上記の改正に反映され,新しい著作権法の107条に,「公正使用」(fair use)という原則として組み込まれた。
ここでその公正使用を紹介しておこう。これは,公正な条件を満たせば,先人の著作物を自由に利用しても,それは著作権侵害にはならない,という原則である。
その条件とは何か。まず,その目的が,「批評,コメント,ニュース,報道,教育,学問,研究」であればよい。ただし,次の4要素を配慮せよとの縛りがある。
この4要素は視点が定まらず,ダブリやヌケがありそうだ。過去の判例を積み上げるとこういう形になるのだろう。ついでに示すと,この4要素は1841年の著作権訴訟の中にその原型があった。それは写真の無断使用に関する法廷意見としてであった。
公正使用を語るにあたり,見逃せない2つの判例がある。以前,本欄で触れたことがあるが,もう1度ここで紹介しよう2)。
第1の判例。1984年,連邦最高裁は公正使用について1つの見解を示した。それはソニー・オブ・アメリカとユニバーサル・シティ・スタジオの間で争われた訴訟においてであった。
ここでは,ソニーの発売したVTRについて,そのユーザーによる放送番組の家庭内使用が著作権侵害にあたるのかどうかが争われた。もし,侵害と判断されれば,ソニーは著作権の寄与侵害を問われることになる。
法廷の判断は,ソニーに対して,侵害なし(地裁,1978年)→侵害あり(控訴裁,1981年)→侵害なし(最高裁,1984年),と目まぐるしく変化した。ここでの争点は,ユーザーの家庭内コピーが公正使用になるか否か,にあった。ユニバーサルはユーザーの行為は「ライブラリー」を増やすためのコピーであると主張し,ソニーはユーザーの行為は視聴の「タイム・シフト」にすぎずコピーではないと反論した。
最高裁は次のように示した。第1要素について,ユーザーの家庭内コピーは非営利的であり,かつ非営利的であれば,第4要素について損害は生じないと示し,したがって公正使用となると判定した(第2,第3の要素についての判断は省く)。この「非営利的であれば公正使用である」という説は「営利的であれば公正使用ではない」と読み替えられ,その後の法廷に影響を及ぼすことになる。
余談になるが,この訴訟の途中,ソニーは主要日刊紙23紙に,意見広告として狂った時計の画像を示し,これに「いまはどんな時代か?」という挑戦的なコピーを付けた。200万ドルかかったと伝えられている。
第2の判例。1994年,米国の最高裁は新しい判断を示した。それはパロディが公正使用になるという意見であった。
それはエイカフローズのキャンベルに対する訴訟においてであった。前者は『オー・プリティ・ウーマン』という抒情(じょじょう)的な歌の著作権管理者であり,後者はその歌をトゥ・ライブ・クルーのラップにして販売したレコード会社であった。争点はラップがパロディつまり批評になるのか,それが公正使用になるのか,にあった。ここでも法廷の判断は,キャンベルについて侵害なし(地裁,1991年)→侵害あり(控訴裁,1992年)→侵害なし(最高裁,1994年)と揺れた。争点は,原曲のラップへの編曲(?)が公正使用に当たるかどうかにあった。
最高裁は示した。第1要素については「変形的」(transformative)ということを配慮しなければならない。より変形的であれば,より商業性は無視できる。そしてつけ加えた。もともと著作物というものは商業性をもっている。「金のために書かなかったものはいない」とサミュエル・ジョンソンも言っているではないか。
第4要素についてはどうか。パロディは批評であり,批評の目的はそもそもオリジナルの価値を破壊することにある。ここで経済的な損失を論じることには意味がない。また市場への影響についてであるが,抒情的な原曲と俗悪なラップとは買い手が異なる。以上によって公正使用が認められる。
この意見の要点は第1要素で変形的であれば,それは他の要素に優越するということであった。
ソニー訴訟の最高裁判決とキャンベル訴訟のそれとはまったく対立している。この後,法廷は公正使用についてさまざまな判断を示すようになる。正しくは,前々から揺れていた判断がさらに乱れたというべきだろう。
この点について,研究者のN. ネタネルとB. ビーベとは,それぞれ公正使用に関する諸家の名言を収集している3)~6)。それらを併せて紹介しておこう。いずれも論理性をよしとする法学者には似つかわしくない文学的な表現をもっている。
D. ニーマー:おとぎ話同然。
L. レッシグ:弁護士を雇う特権である。
J. リトマン:白い糊状のものが渦巻いている。
J. デリダ:破壊的な不明確さと曖昧(あいまい)さをもつ。
R. ワグナー:著作権法の社会的価値を腐食する。
L. ワインレブ:オリエンタル急行殺人事件のポワロのような目利きにならなければならない。
ビーベは,この混乱を「寓話的かつ好事家的」ととらえ,この乱れの整理を試みている。彼は諸家の名言を収集するのみではなく,連邦裁判所が示した判例を集め,それらについてビブリオメトリクス的な分析をした。
彼は現行の著作権法が施行された1978年より2005年に至る連邦裁判所の判例集の中から,公正使用について論じている判決と意見とを抽出し,それらを母集団としている。その判決の数は215件,意見の数は306件であった(控訴審以上では,1つの判決に複数の意見――多数意見,同意意見,反対意見――が示されることがある)。
ビーベ論文の狙いは訴訟手続きのあれこれにあるので,その詳しい紹介はここでは省く。ただし,次の3つの発見は見逃せない。
その1。上記の期間における著作権訴訟は平均して年間2,000件に達している。とすれば,公正使用の原則が実際に使われた割合は,極めて小さかったことになる。
その2。公正使用を論じた法廷意見の53%が2次元の非バーチャル的な著作物――伝統的な著作物――に対するものであった。
その3。対象にした意見の中には,憲法修正1条――言論の自由――という価値に言及したものが少なくない。地裁レベルで20%,控訴裁レベルで34%,最高裁レベルで43%が修正1条に触れている。
ビーベ論文の後でも,公正使用に関する「おとぎ話同然」の訴訟は続いている。
2004年,パーフェクト10はアマゾンとグーグルを著作権侵害で訴えた7)。パーフェクト10はヌード写真をインターネット空間で販売する業者であった。それは,直ちに不特定多数の誰かによってコピーされ,インターネット空間にアップロードされた。グーグルの検索エンジンはそれらを無差別に拾い上げ,サムネイルの形に変換し,それを不特定のユーザーに示した。アマゾンも同様の行為をした。パーフェクト10はグーグルとアマゾンを著作権侵害にかかわっているとして訴えた。
2006年,カリフォルニア中部地方裁判所は原告の言い分をよしとした。そしてつけ加えた。法廷はインターネット技術の発展を妨害するような命令を示すことに抵抗があるが,だからといって公正使用について合理的な分析を実行することはできない,なぜならば法的な先例が存在しないから。グーグルは控訴した。
2007年,第9巡回控訴裁判所はグーグルに公正使用の抗弁を認めた。第1要素については,グーグルのサムネイルはまったく変形的なものであり,その機能はオリジナルとまったく違う。グーグルのサムネイルの社会的な効用は,その商業的な効用をはるかに上回っている。
第2要素と第3要素については,とりたてて言うべきことはない。
第4要素については,パーフェクト10のフルサイズの写真とグーグルのサムネイルの写真とは市場を異にする。
法廷はさらにつけ加えた。急速な技術的変化の時代にあっては,特に新しい環境の中にあっては,公正使用の要素は柔軟に分析されるべきである。
この解釈は,その後,盗作論文探知システムをめぐる著作権訴訟において採用されている。
2013年,法務省のE.リューベニは「著作権,脳科学,創作性」という論文を発表した8)。「これは私的な論文であり,法務省の見解ではない」との注がついている。その主張を紹介しよう。
人は情報の認知にあたり,その入力を「短期記憶から長期記憶へ」という過程を経て脳に取り込む。前インターネット時代には,この機能はページからページへ,行から行へと,本人の関心のおもむくままにリニアに実行されていた。このリニアな認知過程の中で,人は必要な知識を不必要な知識から選別することができた。
ところが,インターネット時代の到来とともに,この認知メカニズムの環境が劇的に変化した。たとえば検索エンジンは私たちに一瞬のうちに膨大な情報を送り込んでくる。このために,短期記憶に過度な負担がかかり,ここで実行されるはずの知識の選別が乱れるようになった。これは望ましいことではない。人の認知機能は技術に追い立てられてはならず,人の能力に見合うように技術は管理されなければならない。
ここに人間の認知機能を助けるブラウザーが現れた。たとえばAdblock。これはユーザーのWeb管理用のツールであり,これによって広告やマルウェアをブロックできる。このときにユーザーは自分の機器の画面を変更し,あるいはそれを削除できる。画面の変更はWebや広告の制作者のもつ著作権の侵害となり,削除は潜在的な侵害とも見なせる。同様の機能をもつソフトウェアにHTTPS Everywhereがある。
リューベニはここで提案する。上記のような懸念に対して,公正使用の原則の導入は1つの解になるかもしれない。人は自分のもつWebの表示装置――パソコンや携帯電話の画面――について,その配列と表示とを管理する権利をもつはずである。とすれることができる。
この理解をよしとすれば,公正使用の原則は憲法修正1条――表現の自由の保護――によって支持される。この見解は著作権法に対して破壊的な効果をもつかもしれない。ビーベ論文に戻れば,すでにここに注目する判例がある。
現在,サイバースペースには「変形的」な著作物が加速度的に増えている。とすれば,公正使用をおとぎ話同然とみなす解釈は通らなくなったはずである9)。