2015 年 58 巻 8 号 p. 643-646
1450年頃,ヨハン・グーテンベルク(Johannes Gutenberg)が完成した活版印刷術によって,ルネサンスや宗教改革,科学革命が可能になったというテーゼは,本連載1)でも紹介したように,文化史家アイゼンステイン(Elizabeth Eisenstein)の著書『印刷革命』2)によって確立され,人口に膾炙(かいしゃ)したものである。
最近翻訳された文化史家ペティグリー(Andrew Pettegree)の著書『印刷という革命』3)は,アイゼンステインのテーゼを受け継ぎ,ルネサンス期から科学革命に至る初期近代について,活版印刷のビジネスと技術,科学・宗教・文化・教育等への影響について総合的に論じるメディア文化史である。
本書の大きな特徴は,3つある。
1つは,従来の印刷史・文化史ではあまり大きく取り上げられなかった種類の印刷物にも目配りしている点だ。これら注目されることが少なかった印刷物は,現存する数があまりにも少ないが故に研究されてこなかったようである。
現存する数が少ない印刷物の多くは,実のところ当時は大部数が印刷されていたものが少なくない。ところが,大部数が印刷され,安価に流通していたがために,ぞんざいに扱われ,重要性を認められずに,読み捨て,使い捨てられてしまった本が多いようなのだ。それに対して,現在にまで伝承された印刷物の多くは高価な書籍であって,参照・閲覧用や王侯・貴族や大金持ちのコレクション用に購入され,結果として注意深く保管された。印刷史・出版史は,勢い後者の高価な書物を対象とすることが多く,現存する数が少ない印刷物はあまり注目されない結果となった。
本書によれば,グーテンベルクは,1450年頃に作成された42行聖書以前に,アエリウス・ドナトゥス(Aelius Donatus)の『小文法学』など,数千部あまりの教科書を印刷していたと考えられている。「今では大半が失われ,わずか数枚しか残っていないこれらのつつましやかな版こそが,ヨーロッパ初の印刷書物という栄誉を受けるに値することになる」4)と,本書はいう。ところが,この教科書は断片しか残っていない。
活版印刷普及後も,教科書類は,印刷業者にとってはドル箱で,この出版特許注1)を握ったものは大きな権益を手に入れた。ロンドンの出版業者ジョン・デイ(John. Day)は,『教理問答のABC』という教科書の出版特許を手に入れ独占し,商売敵からひどく恨まれた5)。この権益はジョン・デイに大きな経済力を与え,同じように,売れ行きの良い一部の出版物の出版特許を手に入れた親方とともに,ロンドン出版・印刷業組合(ステーショナリーカンパニー)を支配することとなった6)。ところが,本書によると,この『教理問答のABC』はほとんど現存していないそうである。やはり大部数出版されたものの,扱いがぞんざいだったため,現在にまで伝わらなかったのだという5)。
同じように,現存するものがごく少ないものの,当時として画期的だった印刷物は,楽譜である。16世紀には,裕福な家庭では,自宅で演奏会を開き,楽器を練習するなどの習慣がはじまったが,これを支えたのは,印刷された楽譜であった。5線紙に音符を書き込む楽譜の印刷は,まず5線紙を印刷したうえで,そのあとで音符を印刷するという二重印刷の手法が取られた。しかし,ズレがないように2回印刷を重ねる方法は,大量の印刷には向かないので,音符の背景に短い5線のラインを付した活字が発明され,これを組み合わせて印刷する手法が考案されたという。当時の家庭での音楽ブームに乗って,楽譜も多数販売されたものの,たくさんの楽譜がたった一部しか現存しないという例が多いという。楽譜集は高価であったので,ぞんざいに扱われなかったものの,貴重であったが故に何度も繰り返しぼろぼろになるまで利用されたため,失われたと考えられている7)。
このほか,書物(冊子)の形を取らない1枚刷の印刷物も,当時は大部数印刷された種類のものである。暦や贖宥(しょくゆう)状,パンフレットなどの簡易印刷が,多くの印刷業者の糊口をしのがせた。これらの印刷物も,出版史では無視される傾向にある。暦に関しては,その他の民衆信仰や迷信にかかわる印刷物とともに,オカルト文化史で扱われることが多く注2),後に新聞や雑誌などの定期刊行物へと進化するパンフレットは,マスメディア史で取り上げられた注3)。これらの印刷物について,出版史・印刷史の枠組みの中で取り上げた点も,本書は新しいかもしれない。
本書の第2の特徴は,非常に広い分野にわたる印刷技術の影響について,多面的に,そして微細に描き出している点である。本書第2部以降が,印刷・出版をめぐる文化史の多面性を扱っている。
本書第2部では,宗教革命における印刷物の役割や,ニュース速報の登場,物語文学,音楽,学校での印刷物の活用が扱われる。当時の物語文学に関しては,『ゴールのアマディース』や『恋するオルランド』,『狂乱のオルランド』などの騎士物語が有名だが,これらの出版史については,筆者は本書で初めてよく理解できた8)。この例を見てもわかるように,本書の記述は網羅的であるだけでなく,とても整理されていてわかりやすい。前出のように,楽譜の印刷・出版の問題も類書では見ていない。
第3部は,宗教と政治をめぐる論争に,印刷・出版がどのようにかかわったかを扱う。イギリスにおける出版物と王党派・議会派の論争9)や,宗教改革と反宗教改革の論争における出版物・印刷物の役割3),10),11)については,日本語で読める類書もあるが,本書は,その論争史を支えた当時の印刷所の市場の問題などにも目配りをしている点が新しいように思う。
第4部は,科学史・医学史・図書館・口承文学などの多様な分野との交錯する話題が扱われる。個人的には,メディア史的関心から,口承文学と出版・印刷物とのかかわりに関する記述が特に興味深かった。印刷物が噂や迷信を補完し,不可思議な,または曖昧な現象を秩序付けるストーリーをつくりあげる。政治的に追い詰められたエセックス伯の暴発劇は,カトリックの謀略へと姿を変え,宮廷と民衆の迷信世界をつないだノストラダムスは時代の寵児となる12)。本書が描くより少し先の時代に起きたルーダンの悪魔憑き事件も印刷物がストーリーをつくりあげた13),14)。
第3の特徴は,需要と供給の問題など,初期の印刷・出版産業のビジネスモデルに関して,たびたびの言及がある点だ。グーテンベルクが手掛けた活版印刷という新しい事業は大規模な資金を必要とする長期的事業だったものの,出資者の投資回収期待と彼の資金繰りのまずさから,なかなか事業がうまく回らなかったこと,そして,結局のところ,契約違反を名目に,グーテンベルクは,出資者に自分の印刷した聖書と活版印刷設備を取り上げられてしまった15)。
グーテンベルクだけでなく,初期の印刷事業者は,多くが同じような問題を抱えており,活版印刷技術だけでなく,マーケティングや資金繰りの才能が必要であったことがわかる。前述のように,グーテンベルクが教科書の印刷を手掛けたのも,美麗な手のかかる高価な書物よりも,手っ取り早く儲かる印刷物をまずは印刷するという判断があったからである。この点,グーテンベルクの判断は間違ってはいなかったものの,聖書印刷事業そのものがあまりにも困難だったのだろう。これは,当時の印刷の様子について説明する本書の記述を読むと,確かに,凝った大型本の印刷には恐ろしく手間がかかっていたので,困難さは推測できる16)。
ルネサンスの人文学者・出版業者であったアルド・マヌツィオ(Aldo Manuzio)は,小型版(8つ折り判)のラテン語の美麗かつ「安価」な古典叢(そう)書を出版し,書物の普及に大きな力があったとされるものの,本書の著者によれば,少なくとも,「安価」なポケット判の発明者という世情の評価は過剰であるかもしれない。8つ折り判というサイズは,すでにアルプスの南と北でそれぞれ書籍が出版されており,他の競合する版よりも安い値段で売られていたようにも見えないという。アルド版のアリストテレス全集決定版は,市場で高価な本だった。アルド社の生産は中断することが多く,投資した資本からどれだけの利潤を回収できたかは不明だという17)。
どのような本が売れるのかを知るためにも,ルネサンス期の印刷業者・出版業者は,人文学者たちとの親交を持つ必要があった。人文学者たちは自分の欲しい本や,自分の本を印刷させようとあの手この手を使うのだが,出版業者もさる者で,うまくいなしながら,彼らの持つ情報や人的ネットワークを活用していったという。バーゼルの出版業者ヨハン・アマーバッハ(Johann Amerbach)は,当時ニュルンベルクのアントン・コーベルガー(Anton Koberger)と肩を並べる学術出版の雄であったが,友人のレトゲルス・ズィカンバー(Rutgerus Sycamber)が,10年以上にわたって執拗(しつよう)に自分の作品を印刷するように懇願したにもかかわらず,結局のところ1点も上梓(じょうし)されなかった。にもかかわらず,アマーバッハと彼は友人であり続けた18)。
印刷機の回転数と出版部数の関係を見積もり,さらに,一定量の仕事を常に確保するにはどうすればよいか,初期近代の出版社・印刷業者も現在の出版者・印刷業者と同じような悩みを抱えていたことが,本書の記述からは,うかがえる19)。
つまり,印刷技術と併せて,市場の読み,商品企画,販路開拓などの才覚も持ち合わせない限り,出版・印刷業者としては成功しなかった。
金属活字を十分な強度とするアンチモンという新しい元素を混ぜた合金や油性インクの配合など新しい工夫はあったものの,すでに存在した技術(紙,プレス(ブドウ絞り機),油性インク)の組み合わせで活版印刷は完成した16),20)。既存技術の組み合わせによる新しい画期的技術の誕生という点で,パーソナルコンピューターの登場を重ね合わせた。パーソナルコンピューター市場で最初に大きな成功を収めたのも,単なる技術者ではなく,広い意味でのビジネスセンスを持った2人――つまり,ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズであった。ジョブズに関しては,「アップルを企業として成功させるには,資金,経営専門家,広告宣伝,そして販売ルートが必要だという,他の起業家たちの思いも及ばないところまで考えをめぐらせていた」というコンピューティング史家の評価がある21)。
本書は,広い文脈の中で,メディアや技術を見ることの価値を再確認できる書物だと思う。