2015 年 58 巻 9 号 p. 701-704
高校生の時に1年間英国に留学し,今回3年間の予定でデンマークに来た。夏に学会で日本に戻ると「海外はよいでしょう?」「ヨーロッパで就職するの?」という声を掛けていただく。デンマークでは,博士課程修了後は日本に戻って就職するつもりだと話すと「なぜ?」と言われる。デンマークと比べて日本の労働環境は劣悪,女性にとっては出産・育児がしにくい,閉鎖的などなど散々な評判である。しかし私個人は日本の教育に一番の関心があり,デンマークに来たのは自分の持っている価値観を疑ってみる経験をした方がいいだろうという漠然とした気持ちからだった。ここで学んだことを日本でどう生かせるかを考えていたため,デンマークで働くことは考えていなかった。しかし帰国も近づき,コペンハーゲン大学で学んだことを最大限に生かせるのはデンマークあるいはヨーロッパなのかもしれないという考えが頭をもたげる。特に博士号の使い道だ。
現在担当している授業1)では,博士号とはいわばグローバル・パスポートだと話している。博士とは,基礎的研究能力はもちろんのこと社会のニーズを見極めながらプロジェクトを立ち上げ,限られた時間と資源を用いて研究を行い,高いコミュニケーション能力を持つ人材である。こうした博士号取得者が多様なキャリアパスを描けるように,コペンハーゲン大学理学研究科ではさまざまな取り組みが行われている2),3)。翻(ひるがえ)って日本の状況を考えると,博士号は研究者としてのみ利用できる限定的通行証のような気がしてくる4)。そこで,博士課程修了後の自分の将来という個人的な悩みを,「グローバル人材」と「国際化」の議論と併せて考えてみたい。
日本で「グローバル人材」の育成が急務であるとの議論をよく見かける5),6)。グローバル人材の定義はさまざまあるようだが,グローバル人材育成推進会議によれば,語学力・コミュニケーション能力,主体性・積極性,チャレンジ精神,協調性・柔軟性,責任感・使命感,異文化に対する理解,日本人としてのアイデンティティーなどの要素を含む。このために高等教育で行われている「スーパーグローバル大学等事業」7)の話を聞いた私の指導教官は,「日本はついに月や火星に人を派遣するのかい?」と尋ねてきた。スーパーグローバル大学で学んだ上記の要素を兼ね備える「グローバル人材」という個人は一体どういう人間なのだろうか。
学部生の頃,国際的に活躍するとは,国外に出て行くことだと単純に思っていた。私にとってグローバルとは日本国外であり,内と外の二項対立であった。しかしデンマークで過ごし多くの留学生と接していると,同じヨーロッパ出身者同士でも統一した「グローバル」な基準はなかなか見つけられない。また,英国とは違う「コペンハーゲン」という国際都市の持つ特徴も見え隠れする。たとえば,日本よりも自分の意見をはっきり言うことは大切かもしれないが,英国ではあまりはっきり言うと角が立つことが多かった。逆にデンマークでは何でもストレートに話すため,二人称に変化があるフランスに行く際はとても気を遣うそうだ。また,英国留学中にホストファミリーから「あなたはちっとも英国人っぽくならないわねぇ」と言われたことがある。その時はあまりなじめていないのかと悲しい気持ちになった。しかし,小さな違和感もあった。その後日本で大学生活を送るうちにその違和感の正体は「私は英国人になるために留学したのではない」というものだった。今もデンマークに染まれていない,日本人としての自分の殻を破れていないことにもどかしさを感じることがある。では私がコペンハーゲン大学で学ぶ日本人として,「グローバル人材」になることにはどういった意味があるのだろう。
コペンハーゲン大学理学研究科の2014年のレポート8)によれば,総勢1,160名の博士課程在籍者のうちデンマーク出身は48%,他のヨーロッパから24%,そして米国やアジア,アフリカなどの出身が28%(ただし日本出身は2014年レポート時点でたった1名)であり,最年少は21歳,最年長は61歳,女性は47%を占める。私は理学研究科科学教育専攻で初めての学位取得を目的とする留学生だった。そのため,担当している授業では,他のデンマーク出身の講師とは「ちがう」存在であることによって,その場の多様性に貢献し,価値のある,役に立つ存在であることが求められている。しかし,英国での経験からか,デンマークの様子がことさらに目新しいものではなかったため,何が留学生の障壁になりうるか,どんな支援が必要なのかがわからない。正直なところ,その時に私は自分の「売り」を逃した,と思った。語学力や一般的なマナー,日常会話のテンポ,そういったものがスムーズにできた方が受け入れられやすい。しかし,それは短期的な利益にはつながるが,長期的にはあまり「グローバル人材」としてのうまみはない。グローバル=ヨーロッパと同じような感覚をもっていると,かえって「特異」な部分を打ち出せないのではないか。
国や大学全体を考えたとき,国際化するのは個人個人ではなく,集合体だと思う。そして今いる環境は非常に国際的であり,「グローバル人材」を生かしてくれていると感じる。引き継ぎをせず,常に「つくってこわして」,革新を求めていくこの専攻では,国際化から生まれる多様性を十分に生かしたいという意欲と,それを支援しようとする働きを感じる。授業でデンマーク出身の受講生比率が上がると,確かにあうんの呼吸があるようで,講師陣はスムーズに「you know」を使いながら講義を進めていく。しかし,留学生の多いグループだとあうんの呼吸は通じず,シンプルかつ明確に論点を示さなくてはならない。デンマークの学生からも「目新しさがない」という苦情が出てくる。これに対応するためには,自分が描いている展望や思想,哲学,前提状況を洗い出す,内省が欠かせない。「なんでそんなやり方なんだ?」という質問を受ける下地があるからこそ,なぜそうなのかを考え,「こうだからこうなのだ」と確認をし,明確化・可視化につなげ,変革の契機としている。ここではこれが求められているという大学側の意思がはっきりしていると,そこに対して何をインプットするのかを明確に示せるし,議論もしやすい。
博士号の意味も各国・地域で違う。キャリア・アップのアップがどの方向なのかも異なる。だからこそ,各学生は博士号取得が自分にとってどんな意味があるのか,今いるデンマークではどんなことが求められているのか,その中で自分は何を得るのかを考える。教える側は学生のニーズが多様な中で,博士号取得者はどういう能力をもつのか,その後の社会でどのように期待されるのかを考える。初めからグローバルなのではない。グローバルな環境で,多様性を維持しながら,大学の質保証と変革を同時に進めていくのである。
そういう環境にいればいるほど,では日本に帰ったとき,ともすればあうんの呼吸で心地よくコミュニケーションが取れる状況で,いかにグローバル人材として自分を生かすのか,何の役に立てるのか,さらにはコペンハーゲン大学で得た「グローバル・パスポート」は日本で有効なのか,不安を感じる。教育研究に身をおいていることもあり,受けた教育を最大限に生かし,できればよい「人材」になって,日本と世界に貢献したいと思う。グローバル人材育成推進会議の定義にある「語学力・コミュニケーション能力,主体性・積極性,チャレンジ精神,協調性・柔軟性,責任感・使命感,異文化に対する理解,日本人としてのアイデンティティー」の要素をそろえ,日本に貢献するにはどんな教育が必要なのだろう。
どうして高校生で留学しようと思ったのか,なぜ日本国外で学位を取ろうと思ったのか,どうやったら自分の子ども・教え子に海外へ行く意欲をもたせることができるのか,と質問を受けた。おこがましくも自分をグローバル人材として教育された人間だと考えたとき,果たしてグローバル人材とは何か,手順を踏んで教えることができるのだろうかと考えてみた。デンマークで知り合った日本出身の諸先輩方と話をしていると,実に多様な生い立ちを持っており,1つのレシピがあるようには思えない。
ただ「グローバル人材」になるのも,それを生かすのも,1人ではできないと強く思う。内省とそれをアウトプットできる環境があって,初めて成立するのだ。一度日本国外に出た後で日本とのつながりをまったく絶ってしまう人も見かけたし,学位取得のために留学した後は他の国でアウトプットの機会を探す人もいる。私の場合,日本にいた時から展望や哲学をもって日本の教育を議論できる師がいて,一時帰国のたびにデンマークと日本との状況の相違点を提示し将来像を議論してくれる研究仲間がいて,デンマークでも同窓会を通じてそれぞれのもつ多様な思想を話し合える相手がたくさんいたことがとても大きい。この「視点」コーナー執筆の機会も,私にとっての内省とデンマークにいながら日本に何らかのアウトプットができる貴重な機会である。コペンハーゲン大学では,博士課程において専門性を磨き,研究の土台となる好奇心と新しい知見に対する柔軟性を育てながら,学問と世界に貢献していくためのグローバル・パスポートとして博士号を得る。そのため国や文化の違いに関係なく能力を発揮できるはずであり,ここで得た経験を日本でどのように生かしていくのかを思案している。
「郷に入っては郷に従え,されど,我は我なり」。英国留学前の中学生の頃,恩師にこの言葉を贈られた。ふと思い出し,グローバル人材育成が目指すものはこれではないかと思う。個人としては自分の芯を探り,組織は明確な展望と哲学をもって,多様性と変革を維持する。その結果,多様性は孤独を,変革は常に未知で不安定な状態をもたらす。しかし,自分が他と「ちがう」という自覚は,同時にコミュニケーションを生む。未知であるからこそ互いを探り,協力し,助け合うのだと思う。
コペンハーゲン大学はさらなる国際化を目指している。確かに,ヨーロッパはヨーロッパ内の多様性で完結しがちな気がする。しかしある程度「おなじ」と思ってもらえないと,コミュニケーションが難しくなる現実もある。では,多様性を維持するために個々の「ちがい」は維持した方がいいのだろうか。どこまでを多様性の中にある「ちがい」として認め,どこからを組織としての「おなじ」にすればよいのだろうか。またそれはどのように達成されるのだろう。多様性の意味と価値,「ちがう」と「おなじ」に関しては,自分の本業である科学教育の文化研究でさらに深めていきたいと思う。迷いつつ,自分の芯を探りながら,人との対話を重ね,真摯に残りの博士研究生活を全うしていきたい。
2013年9月よりコペンハーゲン大学理学研究科科学教育専攻博士課程に在籍。国際基督教大学教養学部卒業,東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。主な研究関心は,科学について人は何を考えるか。専門は科学教育の文化研究。現在は,科学の教員がもつ科学教育観について研究している。2014年7月より日本科学教育学会国際交流委員会委員。2011年東アジア科学教育学会若手研究奨励賞受賞。