2016 年 59 巻 1 号 p. 61-65
「これは本物か」という問いにたいしては3つのレベルの答えがあるという。貨幣を例にとってみると,その第1は「贋金(にせがね)か否か」という社会的なレベル,その第2は「その成分は金か否か」という科学的なレベル,その第3は「そもそも貨幣は存在するのか否か」という存在論的なレベルであるという1)。
今回はこの真贋(しんがん)問題について,書物を例にして追いかけてみよう。
まず,偽書とはいわないが,プロト偽書といったらどうか,そんな例を示してみたい。そもそも偽書とはなにか。作者と作品のあいだに食い違いがあるということだろう。具体的には,著者が他者の作品を剽窃(ひょうせつ)した,あるいは著者が他者の名前をかたった,ということである。いずれにしてもオーサーシップがかかわる。
そのオーサーシップは近現代に作られた概念である。だが,そのプロトタイプとして,いがみ合った2人のあいだの怨念(おんねん)がプロト偽書を作らせたという例が紀元前からある。その中にプラトンとクセノポンによる作品群がある2)。
2人はともにソクラテスの弟子であった。同時にともに『ソクラテスの弁明』と『饗宴』という作品の著者でもある。まずプラトンであるが,かれはいずれの著書においてもクセノポンの名前を引用していない。完全に無視している。クセノポンはこれを快く思わず,自分の著書でそのソクラテス観を示している3)。しかもその文体をプラトンのそれに酷似させて。
加えて,『饗宴』はB.C.416年に実施された行事の記録であるが,この年にはクセノポンは14歳に過ぎず,高度の知的対話に参加できたはずはない――これがプラトン支持派の主張である。いや,ソクラテスには美少年趣味があったからクセノポンは参加できた――これがクセノポン支持派の言い分である。前者からみれば,クセノポンの『饗宴』はプロト偽書となる。
余談となるが,クセノポンは何度も国籍を変え,対ペルシャ戦争においては将軍にもなったという曲者(くせもの)であった。筆も立った。
17世紀に発行されたこの本は,その高い評判とともに,真贋論争という点にかけても一筋縄ではいかない存在である4)。これを岩根圀和の論考によって紹介しよう5)。『ドン・キホーテ』の原作は前編と後編の2部に分かれている。ところが,この両編のあいだに贋作(がんさく)の後編が入っている。以下,前編,後編偽作,後編真作と呼ぼう。
まず表紙。書名をみると前編は『才知あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』,後編偽作は『後編:才知あふるる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』,後編真作は『後編:才知あふるる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』となっている。作者名をみると,前編は「ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ」,後編真作では「前編の作者ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ」となっているが,後編偽作は「アロンソ・フェルナンデス・アべリャネーダ」と仰々しく名乗っている。そのアべリャネーダという名前は今日ではたどれない。仮名らしい。
さらに当時の慣行としていずれもパトロン名を掲げている。前編と後編真作が実在の貴族名を挙げているのに対して,後編偽作はドン・キホーテの出身地のお歴々を示している。加えて後編偽作の方は出版社も架空,また教会の出版許可も架空,ということである。
しからば『ドン・キホーテ』が成立した由来についてはどうか。前編ではこの物語は当初セルバンテスが書いたということになっているが,途中でじつは原作者が存在し,それはアラビアの歴史家ベネンヘリであると明かす。いっぽう後編偽作はそれをアラビアの賢者アリソランであるという。物語の筋書きにしても,後編偽作は前編を受けているが,逆に,後編真作には後編偽作の設定したキャラクターが登場したりしている。セルバンテスの筆が滑ったということだろう。
じつはセルバンテスもその偽作者も互いに相手をそれと認識し,いがみ合った関係にあったという。セルバンテスは時代遅れの古典主義にしがみつく小作家であり,その相手の偽作者はバロック的作風を得意とする売れっ子の劇作家であった,という。贋作が前編の評判を利用して稼ごうとしただけではないらしい。
にもかかわらず,セルバンテスはドン・キホーテ自身に「拙者の物語は1,000の3万倍部も印刷された」と自賛させている。後年,バロック派の劇作品にも『ドン・キホーテ』のパクリはしばしば現れた。話が後先になったが,バロックとは,いびつ,奇妙さ,不規則さなどを指す概念と解されている。
余談を少々。20世紀の映画監督兼脚本家兼俳優であったオーソン・ウェルズは『ドン・キホーテ』の映画化を試みている6)。結局は未完成になったようだが。
そのウェルズだが,かれはずばり『フェイク』(1973年)という作品を発表している。その筋書きは,2人の贋作者――画家とその伝記作家――が奔放に行動し,かれらの姿をウェルズ自身が画面に顔を出し巧みに語る,という仕掛けになっているらしい。
ついでにいうと,ウェルズはチャールズ・チャップリンの『殺人狂時代』(1947年)の原案作者でもあったという噂もある。チャップリンはそれを否定しているが,なぜかその作品にはウェルズへのクレジットが付いている。
さらにもうひとつ。オーソン・ウェルズのラジオ番組「マーキュリー劇場」で放送された「火星人来襲」(1938年)は全米を震撼(しんかん)させたが,それはH・G・ウェルズの『宇宙戦争』を再構成したものでもあった。オーソン・ウェルズは偽物作りの愉(たの)しみに溺れていたのかもしれない。
20世紀ソビエトを代表する作曲家としてドミートリイ・ショスタコーヴィチがいる。かれは死の直前にその秘めた思いを語り,この記録を残したという7),8)。それは『ショスタコーヴィチの証言』(以下『証言』)として1979年に出版された。
そもそも音楽研究者のあいだにはショスタコーヴィチの作品には隠された意味があるのではないかという推測があった。たとえば柴田南雄は,交響曲第7番(通称,レニングラード交響曲)の「戦争の主題」はフランツ・レハールの「そこはとても気楽なのさ」というパッセージそっくりだという見解を紹介しつつ,この主題はモーリス・ラヴェルのボレロのパロディーであるとも指摘していた9)。
『証言』には「私の交響曲はスターリンに粛清された芸術家――たとえば演出家フセヴォロド・メイエルホリド――への墓碑である」といった記述があった。音楽ならば墓碑のように可視的ではなく,権力者の監視から逃れやすい。
ということで,『証言』は西側の研究者にすんなり受け入れられたかにみえた。いっぽうソビエト側はこれを偽書であると真っ向から否定した。
問題は『証言』の出版手順にあった。まず,編者ソロモン・ヴォルコフ――音楽ジャーナリスト――がショスタコーヴィチに面接してかれの会話を録音し,さらにそれをタイプ原稿に編集し,最後にそれをショスタコーヴィチ自身が確認したうえで署名した,という。
原稿はスイスの匿名金庫に保管されていたが,ヴォルコフは1976年に西側に亡命し,ショスタコーヴィチの死後その英語訳を出版した。なぜか著作権は編者に与えられていた。
ここで西側でも偽書論が現れた。各章の第1ページとされる署名入りの原稿が,じつは若き日にショスタコーヴィチが書いたものの転用ではないか,という指摘である。この後,偽書論と反偽書論との論争がくり返されている。ただし研究者のあいだでは偽書論ということで,決着はついたようだ注)。
20世紀の音楽研究は楽譜中心,構造分析に集中してきたが,この論争はその音楽研究の中にとんでもないテーマ――反体制論,イデオロギー論,倫理論など――を持ち込むことになった。
ここで非専門家ではあるが,私の意見を示しておきたい。ショスタコーヴィチは偽書という形で,自分の本音を伝えたかったのではないか。自分で自分名義の偽書を作る。誰がみても偽書の形になっていれば,権力者であってもいかんともしがたい。ウンベルト・エーコは,かつて本欄でも触れたことがあるが,「自分は自分名義の偽書を書いたことがある」と述懐している10)。(くどいが素人論議の根拠。晩年の交響曲第15番は,作曲家自身によるOp.141よりも編曲者によるOp.141 bisの方がより告白的に聞こえる。晩年のショスタコーヴィチにとってはオーサーシップなどどうでもよかったのではないか。)
ここで科学的なレベルの偽書論に移る。1972年,ドイツで『鼻行目の構造と生活』というモノグラフが刊行された11)。序文によれば,著者ハラルト・シュテュンプケは無名の研究者であったが,その遺稿を著名な動物学者G・シュタイナーが整理してこの書籍に仕立てたという。この書籍は直ちにフランス語,英語,そして日本語に翻訳された。いずれの翻訳についてもそれぞれの国の著名な研究者が関与している。
後書きによれば,この書物は新しく発見された哺乳動物である「鼻行類」についての報告である。その鼻行類は南太平洋にあるハイアイアイ島――第2次大戦中に日本軍により発見された――にガラパゴス化して生存していた。だが,その小動物は戦後某国が実施した核実験によって,ハイアイアイ島もろとも消えてしまった。そのときに何回目かの現地調査をしていたシュテュンプケも巻き込まれてしまった。ただしかれは調査前にそれまでの調査ノートをシュタイナーに手渡していた。それがこの書物となった。
この書物は,種の命名法,解剖図の書きぶり,引用と脚注の付け方,参考文献表と索引の形式など,すべてが学術的なモノグラフの体裁をもっている。しかも専門家がレビューもしている。
この書物については,多くの紹介が新聞の文化欄や専門誌の書評欄に寄せられた。だが,それら書評の1つが読者の1人に疑問を引き起こした。その読者は投書した。これはどうみても偽りの書物だ。行動心理学の専門家がたくらんで読者の反応を観察しているのではないか。手の込んだ社会実験ではないか。
じつはこの本はシュタイナーによる知的な遊びであり,鼻行類はそもそも実在しない動物であった。あらためてこの書物を見直すと,引用文献には架空のものもあり,学名にはラテン語の語法に合わないものもあった。さらにいえば,シュテュンプケはシュタイナーの筆名であった。
これらの事実は1988年にカール・D.S.ゲーステによって明らかにされた。かれは『鼻行類』に対するあれこれの反応――上記の読者の投稿を含む――を編集し,これにかれの疑似科学論を加えて出版した12)。もちろんシュタイナーの了解を得たうえで。
最後は存在論的なレベルの偽書について。1996年,物理学研究者のアラン・ソーカルは「境界を侵犯すること」という論文を『ソーシャル・テキスト』に投稿した13)。このソーカル論文には「量子重力の変形解釈学に向けて」というサブタイトルが付けられていた。ソーカルはこの論文で,「ポストモダン科学」という概念を示し,それは非線型性,非連続性を特徴とし,既存の専門分野の境界を侵害し,既存の知的秩序を破壊するものであると主張した。
この論文は109件の注と219件の引用文献をもっていた。引用の中には,ニールス・ボーア,ヴェルナー・ハイゼンベルクからノーム・チョムスキーにいたる大家の業績もあった。なお,『ソーシャル・テキスト』はカルチュラル・スタディ系の学術誌であり,その掲載論文はその領域の厳密な査読を経たものであった。
この論文は評判となった。『ガーディアン』は「現代フランス哲学は古臭い戯言(たわごと)の山である」と肯定的な評価をした。『リベラシオン』は「ラブレターの文法的な間違いを直す無粋な科学者の奴ら」と反発した。
問題はこの論文がパロディー論文だったということにあった。それをソーカル自身が論文の出版後に直ちに暴露したのであった。ソーカルは,これによって『ソーシャル・テキスト』を拠点とする研究者集団をからかったわけだ。かれの底意は,カルチュラル・スタディの分野では,引用を組み合わせれば,ナンセンスも学問になる,と嘲笑(ちょうしょう)することにあったようだ。
なぜ,このパロディー論文が査読を通ってしまったのか。査読者には,論理が通っており,引用文献が実在すれば,その論文を信用してしまう,という思い込みがあったようだ。これがデータの信頼性や仮説の反証可能性にこだわる物理学の研究者には耐えられなかったのだろう。物理系と社会系とのあいだに引用法の理解について齟齬(そご)があったということになる14)。
この後,人文系の研究者のあいだではソーカルのルール違反を責める意見が飛び交った15)。肝心の『ソーシャル・テキスト』の方は情緒的な反応をしただけである。
社会学の分野でも,すでに数年前に『ビヘイバラル・アンド・ブレイン・サイエンス』掲載の1論文は査読システムの再現実験をなし,誤りがランダムに生じる確率を計算したりしていた。だが,それに言及する研究者はいなかった。
偽書論としてみると,この論文は面白い事例となる。著者はパロディーだと主張している。パロディーとは,誰かの作品の模倣,引用,パスティーシュ,パラフレーズ,アプロプリエーション,つまり偽物とかかわる。しかも著者はその偽物に,カルチュラル・スタディ批判という本音を入れ込んでいた。だが,専門家集団は真の作品と見なしている。この入り組んだ構造を「存在論的な偽書」,と解してもよいだろう。
これは日本の話だが,2015年より『亜書』(全112巻)というタイトルをもつ書籍が小さな出版社から刊行されつつある16)。1巻の価格は6万4,800円である。この本は国会図書館に納本され,その価格の半額が納本の対価として出版社に支払われつつある。出版社は,著者のアレクサンドル・ミャスコフスキーは架空の人物である,と説明している。
新聞報道によれば,この書籍はA5サイズで480ページのハードカバー。各ページには縦12センチ,横9センチの枠内にギリシャ文字やローマ字がランダムに並べられ,ノンブルは振られておらず,全く同じ内容のページもある。
じつはdhcmrchtdjという意味不明の文字列をもつ文書を収蔵している図書館がある。J・L・ボルヘスの示した『バベルの図書館』がそれである17)。この図書館には,あらゆる文字列をもつ書物が所蔵されている。まず,古今の書籍,つぎにそれらの誤植ありの版,さらには乱丁,落丁ありの版もある。そのような書籍群を『亜書』は意図的に創作したことになる。その大部分は真作なしの偽書となるだろう。これを究極の偽書といってもよいだろう。
『亜書』は,たぶん,少数のパソコンで制作された作品であろう。電子化の時代にあっては,真作なしの偽書を容易に出版できるということか。ゴーストライターとゴーストオーサーが顔を利かす時代になりつつある18)。2016年2月,国会図書館は『亜書』を図書ではないと決定し,納本対価の返却をもとめることとした19)。
注)『ショスタコーヴィチの証言』の偽書論争については船山隆,中田朱美両氏にご教示をいただいた。
焼け跡闇市派の世代。東京大学理学部卒。工学博士。タテ社会をヨコ歩きして,現在は情報セキュリティ大学院大学特別研究員。専門は情報政策論。著書に『技術標準対知的所有権』(中央公論社),『起業家エジソン』(朝日新聞社),『学術情報と知的所有権』(東京大学出版会),『個人データ保護』(みすず書房)など。