2017 年 60 巻 8 号 p. 594-598
人工知能が普及した社会においては,創造性の発揮こそが人間に求められると,ときにいわれる。
情報通信白書平成28年版によると,人工知能(AI)の活用が一般化する時代に求められる能力として,「企画発想力や創造性」が特に重要だとする回答は,「チャレンジ精神や主体性,行動力,洞察力などの人間的資質」と並んで最多であった1)。
ところが,実際に多数の作品を生み出すという意味での「創造性」であれば,私たち人間は機械にかなわないだろう。与えられたデータによって学習をしたり,アルゴリズムに従って,与えられた入力(データや変数)を基に一定の規則に従って自律的に描画を行うなどして,自律的に作品を創造する機械は,人間にはかなわないペースで休むことなく多数の「作品」を創造し続けるはずだ。
たとえば,346点のレンブラントの作品を3Dスキャニングによってデジタル化したうえで,ディープラーニングによって特徴を抽出し,3Dプリンターで作成したレンブラント風の中年男性の肖像がある2)。
また,小阪淳がYouTubeで公開する3Dグラフィックス作品注1)は有機的なフォルムとテクスチャーをもつ「物体」を描き出すが,これも一定の規則を与えてコンピューターに自動生成させたものである。
1973年にHarold Cohenが開発を始めたAARONは,画像の自動生成を行うコンピュータープログラムで,抽象的な画像から,岩や植物,さらには人へとより具象的な画像を生成できるものへと改良が行われてきた注2)。
人間がプログラミングをしたうえで,イメージを生成する条件や制約を設定してやれば,コンピュータープログラムは自動的にイメージを創造し続ける。
このように生み出された「作品」は,知的財産制度上どのように保護されるのだろうか。「知的財産推進計画2017」によると,「AI生成物のうち,『AIによって自律的に生成される創作物』と定義したAI創作物については,現行の知財制度上は権利の対象とならない」とされる3)。
著作権法において保護される著作物は,「思想又は感情を創作的に表現したものであつて,文芸,学術,美術又は音楽の範囲に属するもの」とされる(著作権法第2条1項1号)。人間ではないコンピューターが自動生成した情報は,そもそも「思想又は感情」の表現ではないから,著作権法上の保護対象ではないことになる注3)。
このように休むことなくコンピューターが自動生成する「作品」に著作権を与える弊害はもちろん考えられる。表現があまりに簡潔でありふれたものや別様の表現が難しいものであれば,「薄い著作権」とみなされ,著作物とは認めないとの判断を行う4)。そうしないと,類似した表現による意匠・デザインが不可能となり,表現を活用する経済活動(デザインなど)が困難になると考えられるからだ注4)。
また,1965年にコンピューターが自動生成する美術作品を発表したA. Michael Nollは,コンピュータープログラムが生成した「作品」は作者(著作者)の思想・感情が表現されているわけではないと指摘した。
彼は,ピート・モンドリアンの「線のコンポジション」(1917年)に似せてコンピュータープログラムが生成した作品を,一般人に見せて評価させる実験を行った5)。
モンドリアンのこの作品は,円の中に縦と横の線分がランダムに散らばる構図をもつ。Nollが作成したプログラムは,縦と横の線分を一定の確率の長さ・頻度で円形領域中にプロットするものだった。
「線のコンピュータ・コンポジション」と名付けられたこの作品と,モンドリアンの元の作品をいずれもフォトコピーしたうえで,一般人100名に見せて評価させたところ,正確にコンピューターが生成した作品を見分けた者が28名,59名がコンピューターが生成した「作品」の方がよいと回答したとされる5)。
この結果を受けて,Nollは次のように論文に書いている。
「コンピュータが導入したランダムさは,……数学的アルゴリズムの形で……,まったく『決定論的』なものである……最終的なコンピュータのパターンに対して,プログラマの側の何らかの情動をコミュニケーションしようという試みはないことが,これらのすべてから示唆される」5)。
コンピューターが生成する情報が,著作権の対象となる著作物であるかどうかは,古くから議論が行われてきた。名和によれば,1965年には,コンピューター出力を含む編集作品やコンピューターで作曲された音楽作品が,米国著作権局に著作物登録のため提出されたという。このときは,人間がコンピューターを道具として使って作品を創出したかが重要なポイントで,コンピューターが道具にすぎないならば,それはコンピューターを操作した人間の著作物だと判断した6)。1988年のヨーロッパ委員会の「著作権と技術の挑戦に関するグリーンペーパー」7)でも同じ立場がとられた。
日本においては,1993年著作権審議会が「コンピュータ創作物関係報告書」を発表し,コンピューターが生成する創作物の著作物性について検討した。名和の要約によれば,システムが自律的である場合,システムの出力した作品に著作権は発生しない一方,対話的なシステムであれば(つまり,人間が道具としてコンピューターを使えば),システムの出力した作品は操作者が著作者として著作権が付与される6)。
英国の著作権・デザイン・特許法(Copyright, Designs and Patents Act)においては,9条(3)において,「コンピュータが生成した文学・演劇・音楽・美術の作品の場合,著作者はその作品の創作のために必要な準備を引き受けた人間が著作者となる」と規定している。一方,EU諸国の著作権法には,直接コンピューター作品の知的財産権(ownership)について言及する規定はない8)。
このように,コンピューターが自動的に(自律的に)生成した「作品」は思想・感情の表現ではないことを理由に著作物と認められないとされる。前出のNollはさらに一歩進めて,そもそも芸術作品において作者が重要なのかどうかという疑問を呈している。
「つまり,本実験は,コンピュータがかかわる知的かつ非情動的試みの結果と,情動と著作者という神秘を表現するものと特徴づけられる作品の画家が生み出したパターンとを比較している。この結果は,芸術的対象(art object)を通じたコミュニケーションにおける芸術家の境遇および情動行動の重要さに疑問を引き起こすものであろう」5)。
Nollが論文で示したように,コンピューターが規則に従って生成した作品が芸術作品と見分けがついた一般人が3割程度にすぎなかったうえ,半分以上の一般人が,コンピューターが生成したパターンを支持した。また,コンピューターが生成したレンブラント風の作品は,レンブラントの作品に通じていない一般人に対して,最近発見されたレンブラントの知られざる傑作だと紹介したならば,相当の人が信じるのではないだろうか。
そうすると,確かに,人間の芸術家が描いた作品とコンピューターによる作品の区別は必ずしも明瞭ではなく,著作権法が仮定しているように,思想・感情の表現であることが美術作品の本質であるのかという疑いが生じる。
芸術作品とは,現代の芸術哲学ではどのようにとらえられているのだろうか。進化心理学を大胆に取り入れて芸術を論じるDenis Dutton9)も,分析哲学の立場から芸術の定義注5)を探り,その後の美学に大きな影響を与えたArthur Dantoも,実のところ著作者の思想・感情の表出として芸術をとらえていない。
Danto以後の芸術・美学理論によれば,芸術作品は,主題の提示において独特の修辞的省略が存在し,その省略を埋めて解釈するため,鑑賞者の参加が前提とされる10)。そして,通常の作品であれば,反抗するにしろ従うにしろ,創作者は歴史的・社会的文脈(様式や流行など)を意識して創造行為を行い,鑑賞者も歴史的・社会的文脈を背景にして解釈を行う。
芸術の哲学の領域では,芸術作品を著作者の思想・感情の表現とみる「表現説」は,実のところ過去のものだ10)。
実際のところ,作者の意図をある意味裏切って芸術として発見される作品もある。アールブリュ(仏:art brut)またはアウトサイダーアート(英:outsider art)と呼ばれる作品群が最適の例だろう。社会の周辺で生活する正規の美術教育を受けたことがない者がさまざまな理由で創造した作品が鑑賞者によって発見され,歴史的・社会的文脈に位置づけられ,芸術作品として評価される――このようにして,第二次世界大戦後アールブリュやアウトサイダーアートと呼ばれる作品は生まれてきた注6),11)。
アールブリュやアウトサイダーアートは,鑑賞者の解釈行為があって,遡及(そきゅう)的に作品が鑑賞可能な芸術作品として位置づけられるという性質を有するように思われる。
そして,そもそも新しい様式や流行をつくる作品もアウトサイダーアートも必ずしも心地よい・美しいと感じられるものではない。
たとえば,ピカソにおけるキュビズム(立体派)への移行の始まりとして現在は知られ,アフリカ芸術の影響を強く受けて創作された『アヴィニョンの娘たち』(1907年)は,芸術家仲間の間でも大変不評で,醜悪であると評された12)。ピカソと親交があった岡本太郎は,同作品の不快さを「いやったらしい」と表現する13)。
しかし,この作品はただ不快なのではない。パリで開催された立体派の回顧展でこの作品を初めて見た岡本は,この「いやったらしい」作品がなまめかしくあやしく,会場全体を威圧する迫力をもち,ほかの傑作を押さえていると感激を伝えている注7),13)。
こうした作品を鑑賞候補として制作し提示しようと芸術家が考えるのは,まずは芸術家がそこに新しい美を見いだしたからであろう。
つまり,芸術家は自らの制作する作品の鑑賞者としてその作品の美を第一に発見するものといえるかもしれない。コンピューターによって自動生成する作品においても,作品に美を見いだす鑑賞者が不可欠である。少なくとも,現在はコンピュータープログラムが出力の出来不出来を判断したうえで,どれを作品として提示するか決定することはできない。
そうすると,人間は機械と「生産的な」創造性を競うよりも,むしろ人間は鑑賞し,美を見いだすところに機械に対する優位性があるといえるのではないか。名和が,コンピューターを駆使する現代音楽家Iannis Xenakisに著作権について質問したところ,「コンピュータにくり返し出力をさせ,そこから自分の気に入ったものを選択するので,自分の創意はそこに存在する」と回答したという6)。
人間が他者とのコミュニケーションや,芸術の歴史・社会制度を生きているからこそ,コンピューターが自律的に生み出した作品であっても,そこに「美」を見いだすことができる注8)。鑑賞者を意識して,多数の出力から「作品」を選抜する芸術家が,自律的機械による芸術作品の創造においても,著作者と呼ばれるべきであり,そこに人間が関与する意義がある注9)。
一方,アウトサイダーアートの「作者」は自ら(または,社会的・歴史的背景から外れた「誰か」)を鑑賞者として想定している点で,通常の芸術作品とは異なるものの,やはり作品の中に「美」を見いだすところに創造性があるといえるだろう。
もちろん人工知能(AI)が他者とのコミュニケーションや,芸術の歴史・社会制度を生きるようになれば,彼らが著作者となる日も来るかもしれないが,現在のところAIにはそのような創造性はない。
そして,本稿でみたように,著作権法にいう「著作者の思想・感情の創作的表現」という著作物の定義が,現代の芸術(作品)の定義と大きく異なっている事実は注目されてよいかもしれない。
Photographer settles 'monkey selfie' legal fight. BBC.com. 11, September 2017. http://www.bbc.com/news/uk-wales-south-east-wales-41235131
しかし,本稿の考察を適用すると,サルが無作為にシャッターを押して撮影した写真から「自撮り写真」を選択した写真家が著作者で,写真家が著作物の著作権を有すると判断すべきとの結論が導ける。