土木史研究
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土木史におけるモデル規範適応過程分析 (3)
函館市水道技術導入
山村 悦夫
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1992 年 12 巻 p. 243-250

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抄録

函館は良水に乏しい町で、函館山と亀田半島を結ぶ砂州部は飲料水が不足し、開発が遅れていた。これを案じた願乗寺の僧堀川乗経は、亀田川の水を市中に引き入れるための水路、願乗寺川を開いた。この生活用水を運んだ水路の周りには町ができ函館の発展に大きな役割を果たした。しかし、函館開港すると、コレラの流行や度重なる大火の被害により、本格的な水道建設への要望が高まり、黒田長官の命を受けた御雇外国人クロフォードは、松本荘一郎の助けを受けて、1879(明治12)年調査を行い、函館水道報告書を函館支庁長に提出し、給水人口5万人、1日給水量3, 100m3とする近代水道計画であった。同年発生した大火にとって建設費を賄うめどを失い着工にいたらなかった。しかし、この計画は、横浜で日本初の水道を設計、監督した英国人パーマーに引き継がれ、給水人口6万人、1日給水量4, 100m3で総工費23万円の計画が1887 (明治20) 年に提出された。しかし、工事監督は、高給な外国人技術者より、日本人技術者平井晴二郎と千種基が指揮を執って1889 (明治22) 年に完成させた。

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