土木史研究
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外国人技術者による明治期の東京港計画に関する意見
寺中 啓一郎大野 克也和野 信市石川 淳
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1995 年 15 巻 p. 577-586

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抄録
1854 (安政元年) 頃より外圧により、わが国に下田、箱館などのいくつかの港が開港され、国内のみならず外国との通商貿易が盛んになってきた。日米修好条約により開港された横浜は、東京をしのぐ港として繁栄していった、しかし一方、首府東京にも港湾を整備すべきとの論も強く、国防上の問題や防疫の面などでいくつかの間題を残しながらも、荒川 (隅田川) 周辺海域の自然条件を克服して近代港湾を整備すべきとの要望があり、政治・社会的にも多くの曲折を経ながら目的達成に向かって遂次前進していったことは否めない。このような幾多の実現への困難のなかでここにのべるような困難な幾多の事件が発生した。
現時点にたってみると、結果的に今日みられるような大東京港が成立してきていることが理解される。
明治34年6月21日、熱烈な港湾整備論者であった星享東京港築港委員長が兇漢の刃に倒れ、このため築港計画も一時休止状態にならざるを得なっかった。ここでは、本文では、ここまでの時代的経緯を可能なかぎり技術的視点により言及したものである。
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