本論文では、上野千鶴子によって提示された「当事者」概念を批判的に読み解いたうえで、自らのポジショナリティを問い直す「問題経験の主体」としての当事者という位相を指摘したのち、そうした「ニーズの帰属先であると同時に、それに対する主体化の契機を含む当事者(当事者α)」でも「問題経験の主体としての当事者(当事者β)」でもない、「予めの排除」の効果として産出された「マジョリティ主体」を生きる当事者(当事者γ)を剔出する。「どこにでもいる高齢者」こそが別様でもあり得る可能性を予め排除してしまっていること、換言すれば「当事者αになること」や「当事者βになること」を困難とし、私たちが別様な世界を生きる可能性を失わせていることを論じる。