2015 年 30 巻 3 号 p. 191-212
Do I not destroy my enemies when I make them my friends?
(敵が友になる時、敵を滅ぼしたとは言えないかね)
Abraham Lincoln
近年、赦し・謝罪への関心が高まっている。例えば、1998年にJohn Templeton Foundationは赦し研究に対して大規模な助成を行っている。1980年代半ばに比較的小さな研究領域として始まったこの分野の研究知見は、この助成を得て質的にも量的にも飛躍的に向上した。こうして蓄積された研究成果は、2005年に刊行されたHandbook of Forgivenessにまとめられている(Worthington, 2005)。また、日本においても2010年に『謝罪の研究』と題する書籍が刊行されている(大渕,2010)。このような研究関心の高まりは、社会において赦し・謝罪の重要性が増していることに呼応しているかもしれない。例えば、政治学者のDodds(2003)は、記録に残る政治的謝罪のリストを作成している。そのリストは、1077年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世に赦しを請うたカノッサの屈辱から2002年末まで、合計250件の政治的謝罪を含んでいる。ところが、20世紀以前の記録は5件しかなく、20世紀前半の記録も7件しかない。1950年以降の10年ごとに2件、7件、4件、18件と1980年代まで次第に増加してきた政治的謝罪は、1990年代に入り106件と急増している。この飛躍的な増加はその後も継続しており、2000年から2002年の3年間で101件の政治的謝罪が記録されている。このリストは、その後、2004年まで延長され、同じトレンドが続いていることが確認されている(Pinker, 2011, Figure 8-6を参照)。同様に、Lazare(2004)もNew York TimesとWashington Postの記事の分析を行い、1990年代前半から後半にかけて「謝罪」というキーワードを含む記事が倍増していると指摘している。
このように赦し・謝罪に対する社会的・学術的関心が高まってきており、赦しに関する研究、謝罪に関する研究も増えてきている。このことは、仲直り(reconciliation)2)に対する関心が高まっていると言い換えることができる。ここで仲直りとは、なんらかの出来事により関係が悪化した二者の関係が葛藤前の状態に回復すること(あるいは、それに近づくこと)と言うことができる。加害者による謝罪とそれを受けた被害者の赦しは仲直り成立のための重要な要因であるが(Hannon, Rusbult, Finkel, & Kumashiro, 2010)、これまでの研究ではこの一連のプロセスが十分に統合的に扱われていたとはいえない(Rusbult, Hannon, Stocker, & Finkel, 2005)。例えば、自分を傷つけた相手に対する恨みを忘れ、相手を赦すことには癒しの効果がある(Baskin & Enright, 2004; Hope, 1987)。同様に、他者に謝罪をしなかったことを悔いている者が、長い時を経てその相手に謝罪をすることにも心理的安寧をもたらす効果があるかもしれない(Lazare, 2004)。このように赦し・謝罪を個人内過程として扱うことも可能であるし、そのような研究には臨床的な意義もあるだろう。しかし、社会心理学にとってより重要なことは、関係の修復という赦し・謝罪が本来的にもつ対人的機能である(Rusbult et al., 2005)。
関係修復を達成することを赦し・謝罪の機能と考えると、その適応論的な意義が明らかになる。ヒトという種は、群れで生活する社会的動物である。しかし、群れ生活は動物の生き方として必然的な形態ではない。群れ生活をする方がそうでないよりも有利であったために自然淘汰によりヒトに備わった生き方であると考えられる(亀田・村田,2010)。例えば、ヒトの群れ生活には、被捕食リスクの低減、縄張りの共同防衛、共同での狩猟、共同での子育てなどのメリットがある。その一方、一定の場所を他者と共有するので、限られた資源をめぐる争いが生じることも避けられない。ヒトが群れ生活をおくるよう進化したのは、後者のコストよりも前者のメリットが大きいからである。そうであれば、一時的な争いを鎮め、効果的に関係を修復する仲直りには大きな適応的意義があるはずである。
本稿では、次章で進化ゲームの理論的検討及び霊長類学の知見をもとに、仲直りの生起にとって重要な2つの要因があることを指摘する。2つの要因とは、相手との関係の価値・相手の意図の不確実性である。その後、これら2つの要因がいかにヒトの赦し・謝罪と関わっているかを検討し、対人的過程として仲直りを理解することを目指す。
相互協力関係を維持するために赦しが必要であるという観点は、Axelrod(1984)による繰り返しのある囚人のジレンマ戦略トーナメントの結果にも見てとることができる。囚人のジレンマでは、2人のプレイヤーがそれぞれ協力・非協力という選択肢をもち、相手とは相談せずに協力するか非協力するかを決定する。相互協力の結果は相互非協力の結果よりもどちらにとっても望ましいものである。ところが、個人的には相手の選択によらず非協力を選択する方がよりよい結果を得ることができる。例えば、協力するとは自らcのコストを支払って相手にbの利益を与えることであると考えよう(ただしb>c)。両方のプレイヤーが協力し合えば、2人ともb-c点の利益を得ることになり、お互いに協力しない場合(2人とも0点)よりも望ましい結果となる。その一方、相手が協力・非協力のいずれの選択肢を選んでいたとしても、個人的には相手に利益を渡すためのコスト(c)を節約した方が得になる。このため、囚人のジレンマ・ゲームを1回だけ行うのであれば、非協力が合理的な選択である。ところが、囚人のジレンマ・ゲームを同じパートナーと繰り返し行うのであれば、非協力は必ずしも合理的な戦略とはならない。確かに、非協力により相手を搾取する利益(b点)は、相互協力の利得であるb-c点を上回る。しかし、相手と協力的な相互作用を長期間継続することができれば(b-c点を何度も得ることができれば)、その利益はほどなく一回限りのb点を上回ることになるだろう。したがって、繰り返しのある囚人のジレンマ・ゲームでは、相手に非協力して相互協力関係を打ち切ることが必ずしも合理的とは言えないのである。Axelrodが検討したのは、このゲームを同じ相手と繰り返し行うときに有効なのはどのような戦略かという問題であった。
Axelrod(1984)は様々な戦略をコンピュータ上で対戦させてみて点数を競わせるだけでなく、生物学者のHamiltonと共同で進化的に安定な戦略の検討も行った(Axelrod & Hamilton, 1981)。その結果、繰り返しのある囚人のジレンマ状況では応報戦略(tit-for-tat strategy: 以下TFT)が有効であることが明らかになった。TFTとは、初回は協力し、2回目以降は前回に相手がとった選択をそのまま真似るという戦略である。つまり、前回協力した相手には協力し、前回非協力をとった相手には非協力を返すことになる。Axelrodは、TFTが有効である理由として、その善良さ(自ら率先して非協力を選ぶことはない)、報復性(相手が非協力を選択したらすぐに非協力で対応する)、寛容さ(相手が協力に転じたらすぐに赦して自らも協力する)、相手にとっての自分の行動方針のわかりやすさであるとしている。このうち寛容さが意味しているのは、たとえ過去に非協力的に振る舞った相手であっても、改心した様子を見せたら赦してやることが必要だということである。
より寛容なTFTところが、上記のTFTの有効性は、ゲームにおける不確実性により削がれてしまう(Nowak & Sigmund, 1992)。ここで言う不確実性とは、協力しようと意図しても協力し損なうことがある、または相手の協力行動を非協力行動と間違って認識することがあるといったエラーの可能性である。例えば、2人のTFTプレイヤーが相互作用をしているときに、3回目にプレイヤー1がエラーにより非協力をとったとしよう。その場合、2人のプレイヤーの相互作用は表1の上段のようになる(表1では、協力をC、非協力をDと表記している)。一度の過ちは、その後、交互に協力・非協力を繰り返すという負の連鎖を生み出す。
1回目 | 2回目 | 3回目 | 4回目 | 5回目 | 6回目 | … | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
TFTプレイヤー1 | C | C | D | C | D | C | … |
TFTプレイヤー2 | C | C | C | D | C | D | … |
TF2Tプレイヤー1 | C | C | D | C | C | C | … |
TF2Tプレイヤー2 | C | C | C | C | C | C | … |
cTFTプレイヤー1 | C | C | D | C | C | C | … |
cTFTプレイヤー2 | C | C | C | D | C | C | … |
ゲーム中にエラーが生じ得る状況(相手の行動と相手の意図との関係に曖昧さがある状況)では、TFTよりも寛容な戦略の方が有利になる(Kollock, 1993a; Nowak & Sigmund, 1992)。このような寛容な戦略として、ここでは相手が2回続けて非協力をとったときに非協力に転じるtit-for-two-tats(TF2T: Axelrod, 1984)をとりあげる。先ほどと同様に3回目にエラーが生じたとしても、TF2T同士が相互作用をしている場合には、相互作用の履歴は表1の中段のようになる。プレイヤー1の3回目におけるエラー(非協力)は、相手(プレイヤー2)により赦されるため、両者はその後も相互協力を続けていくことができる。TF2Tの分析は、不確実性のある状況では、改心した相手を赦してやるだけでなく、相手の過ちをもある程度は赦すような寛容さが必要であることを示している。この理論的な予測はKollock(1993b)の実験研究により経験的にも支持されている3)。
悔恨するTFTここまで見た2つの戦略は、裏切られた者が赦すことの重要さを示していた。その一方、エラーにより非協力した者が悔恨の情を示すことも同じように相互協力を維持するために有効である。例えば、Boyd(1989)、Wu & Axelrod(1995)により分析されたcontrite TFT(cTFT)は、自らの非協力に対する相手の報復的な非協力を受け入れ、報復的非協力に対しては協力的に対応する。このcTFTをとる2人のプレイヤー同士の相互作用は表1の下段のようになる。3回目にプレイヤー1がエラーで非協力をとると、プレイヤー2はそれに対して4回目で報復的な非協力をとる。5回目のプレイヤー1は、相手の報復的非協力を受け入れる(協力をとる)ことで悔恨の情を示し、2人のプレイヤーは再び相互協力状態に戻っていく。
まとめこれらの進化ゲーム理論の分析はごく単純な場面を扱っている。しかし、扱っている状況が単純であるため、そこから導き出される結論はむしろ高い一般性を備えている。これらの分析からは、次のことがらを読みとることができる。
継続して囚人のジレンマをプレイするような相互作用状況では、相手と相互非協力状態に陥るよりも相互協力を保つ方が得である。つまり、繰り返しのある囚人のジレンマ状況とは、群れ生活が有利になる状況(資源をめぐる潜在的な争いはあるものの、長期的にはパートナーとの関係に留まることが得である状況)そのものである。このことは、関係に価値がある状況と言い換えることができるだろう。そして、このような関係において相手が意図せぬエラーにより協力し損なう可能性がある場合、相手の非協力を赦して様子を見たり、非協力をとった側が悔恨の情を示す必要がある4)。エラーによる非協力者がその後も非協力をとり続けるとは限らないので、一度の非協力(エラーかもしれない)だけで協力関係を解消するのは尚早だからである。
上記の内容をまとめると、仲直りの進化について次の2つのことがわかる。仲直りが適応的となるのは関係そのものに価値があるときであり、仲直りはパートナーの意図の不確実性5)を低減する戦略を伴う。
霊長類における仲直り研究価値ある関係仮説霊長類における仲直りにいちはやく着目し、研究を始めたのはde Waalであった(de Waal, 1989; de Waal & Roosmalen, 1979)。研究の発端となったのは、1975年の冬に、大きな喧嘩をした2頭のチンパンジーが抱き合いキスをして仲直りするところをde Waalが目撃したことであった。この観察から着想を得て行われた研究は、喧嘩の後(post conflict: PC)と対照となる統制状況(matched control: MC)での特定の2個体の相互作用を比較するという手法を採用している(de Waal & Yoshihara, 1983)。以下、この研究方法をPC–MC研究と表記する。PC–MC研究では、喧嘩の後のチンパンジーは、それ以外のとき(比較対照とされるのは、通常、喧嘩とは別の日の同じ時間帯)よりもすばやく相手に近づき、キスをしたり、お互いに抱き合うなどの仲直り行動をとることが示された。その後、この知見は様々な霊長類で追試されている(de Waal, 2000; Silk, 2002)6)。また、この手法は霊長類以外の動物(ハイエナ、ヤギ、イルカなど)にも拡張され、興味深い知見が集まりつつある(Schino, 2000によるレビューを参照)。
このような霊長類の仲直りの至近要因としてはストレスの低減が挙げられる。他個体と喧嘩をした後の個体は、自分を掻く等のストレスに由来する行動が増えるが、仲直りをすることでこのような行動が減少する(つまり、ストレスが軽減する)ことが確認されている(Aureli & Smucny, 2000: ヒトの仲直りとストレスの関係についてはWitvliet(2005)を参照)。しかし、そもそもなぜ、他個体との関係悪化にストレスを感じるような傾向、そして相手との仲直りによってそれを解消するような傾向が進化したのだろうか。De Waal(2000)は、仲直り傾向を自分にとって役に立つ、つまり有益な関係を失わないようにするための適応であると考え、価値ある関係仮説(Valuable Relationships Hypothesis)を提唱している。
上記のPC–MC研究では、単に喧嘩の後に仲直りが観察されやすいというだけで、本当に有益な関係を修復するために仲直りしているのかわからない。しかし、関係価値が仲直りを促進すると考える根拠は存在する。例えば、Aureli(1997)によるカニクイザルの観察研究では、普段から一緒にいるパートナー(有益なパートナー)との喧嘩の後には、そうでないパートナーとの喧嘩の後よりも自分を掻く行動が増加した。自分を掻くという行為はストレスにより増加することが知られているため、この知見は、有益な関係を損なうことがより大きなストレスとなるということを意味している。したがって、ストレス軽減のための仲直りも促進されるはずである。
関係価値と仲直りの因果関係を直接検討したのは、Cords & Thurnheer(1993)による実験研究である。この実験では、カニクイザルの7組のペアについて実験前の仲直り傾向を調べておき、その後、2頭で一緒に餌場に行かないと餌をもらえないというトレーニングを行った。この結果、ペアの双方にとって相手は餌を得るために必要な有益なパートナーとなった。その後、再び7組のペアの仲直り傾向を調べると、1組を除くすべてのペアで仲直り傾向が上昇していた。また、この実験では、各ペアの相互作用頻度なども調べていたが、これらの親密さを示す指標には有意な上昇は見られなかった。したがって、関係の価値を上昇させることで仲直り傾向だけが上昇したと解釈できる。
仲直りのシグナル直前に大きな喧嘩をした2個体が仲直りをする場合に、うかつに相手に近づくと再び相手に攻撃されるかもしれない。このような場合、融和の意図を伝えるシグナルが仲直りを促進する。例えば、キイロヒヒに関する研究では、通常、地位の高い個体(攻撃者)が地位の低い個体(被害者)に対して、特定の鳴き声(gruntと呼ばれる)を出しながら近づくことで仲直りが成立することが示されている(Silk, Cheney, & Seyfarth, 1996)。Silk(2002)は、このような融和シグナルの適応的意義を、関係間の不確実性を低減し、友好的な相互作用を再開することを可能にすることであると考えている7)。
融和シグナルが不確実性を低減する機能をもつことは、Cheney, Seyfarth, & Silk(1995)によるキイロヒヒの群れにおける鳴き声の再生実験により支持されている。この実験は、優位個体から攻撃されたヒヒが、自分より劣位の個体を攻撃することがままあるという習性を利用したものである。まず、ある個体(X)が、より優位の個体から攻撃されたときの悲鳴をあらかじめ録音しておく。この悲鳴は、Xよりも劣位の個体にとっては、Xが自分を攻撃する可能性を示唆するものとなる。次に、Xが自分より劣位の個体(Y)を攻撃した後、Yに対して融和シグナル(ここではgrunt)を送ったかどうかを観察により確認した。その後、YにXの悲鳴を再生して聞かせた(Yの立場からすると、Xがより優位の個体から攻撃されたと思うので、Xが再び自分を攻撃してくるかもしれないと心配になったはずである)。このとき、Xから融和シグナルを受け取っていなかった場合、Yはスピーカーの方を長い時間注視する傾向があった。それに対して、融和シグナルを受け取っていたYはXの悲鳴に比較的無関心であった。このような差が生じるのは、XからYへのgruntが、2者の間の関係がすでに友好的なものになっていることをYに効果的に伝えていたためだと解釈される。
まとめ霊長類研究では、喧嘩をした後の2個体の仲直りについて2つの適応的な機能が検討されている。ひとつは価値ある関係の修復・維持である。もうひとつは、仲直りの主要な要素を融和シグナルと考え、喧嘩をした後の2個体間の関係に生じる意図の不確実性を低減することである8)。具体的には、攻撃者が被害者を再び攻撃する意図がないことを確認するということである。これら2つの機能は、進化ゲーム理論による理論的検討と整合的である。次章では、社会心理学的研究に依拠しながら、これら2つの要因がヒトの仲直りにとっても重要であることを確認する。
本章では、主に社会心理学的研究に依拠しながら、ヒトの仲直りについて検討する。ただし、実験室で参加者間に葛藤を生じさせ両者の仲直りを観察した研究は多くない。そこで、本節では赦しと謝罪を扱った研究を以下のような順序で別々に検討していく。(1)まず、関係価値と関係内の不確実性が赦しにどのような効果を持つかを検討する。具体的には、加害者の謝罪(融和シグナル)が被害者の赦しを導く一方、加害者の意図についての不確実性が赦しを抑制することを示す。(2)次に、被害者にとっての不確実性を低減するためには加害者がコストのかかる謝罪を行うことが有効であることを示すモデルを紹介する。(3)そして、被害者がコストのかかる謝罪を誠意のこもったものと知覚することを示す実証研究を紹介する。(4)最後に、関係価値が加害者によるコストのかかる謝罪(わざわざコストをかけてまで関係を修復しようとすること)を促進することを示した研究を紹介する。
赦しと関係価値・意図の不確実性社会心理学における赦し研究の先駆者のひとりであるMcCulloughは、赦しを適応論的観点から理解することを目指したBeyond Revengeと題する本を2008年に著している。その中で、McCulloughは他者から裏切られた者、傷つけれた者が報復傾向をもつことを指摘している。先に指摘した通り、TFTを適応的にしている特徴のひとつは報復性であり、報復性がない者は他者からの搾取に脆弱である。したがって、ヒトに報復性が備わっていることは不思議なことではない。しかし、報復性だけでは、いさかいを水に流して関係を修復・継続した方が有利な場合にも、その関係を失うことになりかねない。そのため、報復性だけでなく赦しの心理システムが備わっているのだとMcCullough(2008)は論じている(McCullough, Kurzban, & Tabak, 2012も参照)。
報復システムと赦しシステムのバランスの上に人間関係が維持されると考えた場合、記述的な意味では赦しとは報復の抑制と言い換えることができる。赦しの定義は、研究者により様々であるが、いずれの定義も、加害者に対する好意的な認知の増加や、被害以前と同様の相互作用への復帰など、加害者への報復とは両立しえないような要素を含んでいる(Worthington, 2005)。McCullough自身も、適応論的な視点をとる以前から、報復の抑制と一貫性のある定義を採用している。McCulloughの定義によれば、赦しは、(i)加害者に報復しようとする動機づけの低下、(ii)加害者を避けようとする動機づけの低下、(iii)加害者に対する向社会的動機づけの上昇の3つからなる(e.g., McCullough, Worthington, & Rachal, 1997)。
それでは、赦しは関係価値により促進され、意図の不確実性により抑制されるのだろうか。従来の社会心理学における赦し研究では、親密さや相手とのコミットメントが赦しを促進することが示されている(e.g., Finkel, Rusbult, Kumashiro, & Hannon, 2002; McCullough et al., 1998; Rusbult, Verette, Whitney, Slovik, & Lipkus, 1991; 高田・大渕,2009)。親密さやコミットメントは、関係価値そのものではない。しかし、関係価値のプライミング操作が親密さを上昇させることから(Fitzsimons & Shah, 2008)、親密さは関係価値と正の相関をもつと考えられる。同様に、コミットメントや関係満足度も親密さや関係の長期的展望を含む概念であるため、関係価値と相関していると考えられる。Fehr, Gelfand, & Nag(2010)による赦しを従属変数としたメタ分析の結果、親密さ、コミットメント、関係満足度はいずれも赦しと相関していた(その効果量は相関係数にしてそれぞれ0.27、0.19、0.36と推定されている)。その一方、加害者が意図的に危害を加えたという信念は-0.50という強い負の効果量をもっていた。このような過去の行動についての不信感は、加害者が将来も同じように振る舞うかもしれないという意図の不確実性を生むと考えられる(脚注5も参照)。
上記の知見は、関係価値が赦しを促進し、意図の不確実性が赦しを抑制することを示唆するが、関係価値が代替的な指標で測定されていたり、2つの重要な変数のうち一方だけを扱ったものであったりした。これに対して、Burnette, McCullough, Van Tongeren, & Davis(2012)は、回想法と場面想定法を用いて、関係価値が赦しを促進し、意図の不確実性(相手が自分を再び裏切るかもしれないという認知)が赦しを抑制するかどうかを検討した。例えば、回想法研究では、参加者に自分が他者から傷つけられた経験を想起してもらい、その相手を赦しているかどうかを評定してもらった9)。それと同時に、相手に傷つけられた時点でのその相手との関係の価値及び意図の不確実性がどの程度であったかも測定した。その結果、関係価値と意図の不確実性の交互作用効果が有意であった(関係価値が高い場合には不確実性の高い相手よりも低い相手を赦す傾向があったのに対して、関係価値が低い場合には不確実性の高低によらず相手を赦していなかった)。これに加えて、McCullough, Luna, Berry, Tabak, & Bono(2010)による赦しの時系列的な変化に関する調査でも、関係価値が高いことが早期の赦しを予測する一方、相手の意図への疑念が赦しを遅らせる効果をもつことが示されている(ただし、この研究では、いずれも主効果が有意であった)。同様の関係価値と意図の不確実性の主効果は、筆者らが日本人の大学生を対象に行った研究でも確認されている(未発表データ)。
もし、このような赦しの心理メカニズムが進化の産物(心理的な適応形質)であれば、文化を問わず普遍的に観察されるかどうかを確認する必要がある(Henrich, Heine, & Norenzayan, 2010)。現時点で筆者が知る限りでは、関係価値と意図の不確実性の効果については、アメリカ以外には日本で確認されているだけである。しかし、より広範な文化を含む示唆的な研究は存在する。Karremans et al.(2011)は、親密さが赦しを促進するかどうかを6カ国で検討している。この調査には、個人主義的な国(アメリカ、イタリア、オランダ)、集団主義的な国(日本、中国)、双方の要素を併せもつ国(トルコ)が含まれていた。場面想定法による研究及び回想法による実際の被害場面についての研究のいずれも、6カ国のすべてで親密さが赦しを促進することが示されていた。この結果は関係価値と赦しの関係が普遍的であることを示唆している。しかし、進化論的な議論の妥当性を確認するためには、関係価値をより直接的に測定し、意図の不確実性の効果も同時に検討する研究がより多くの国で実施される必要がある。
コストのかかる謝罪の効果謝罪・意図の不確実性・赦し意図の不確実性が赦しを抑制するのであれば、加害者側が謝罪をすることで、意図の不確実性が低減され赦しが促進されると考えられる。霊長類研究でも、ヒヒのgruntなどの融和シグナルが仲直りを促進することが示されている。ヒトの典型的な融和シグナルは謝罪であろう。謝罪は、多くの場合、加害者が自己の責任を認め、悔悛を表明することと定義される(e.g., Darby & Schlenker, 1982; Lazare, 2004; 大渕,2010)。実証的研究では、加害者の謝罪には被害者の赦しを促進する効果があることが示されている(e.g., Darby & Schlenker, 1982; McCullough et al., 1997; Ohbuchi, Kameda, & Agarie, 1989: レビューとしては大渕(2010)を参照)。Fehr et al.(2010)によるメタ分析では、謝罪と赦しの間の相関は0.40と推定されており、中程度の効果量があることが明らかにされている。このメタ分析に含まれた変数の中で、謝罪以上に大きな正の効果をもった変数は相手に対する共感だけであった(効果量は0.53)。加害者による謝罪は、被害者から加害者に対する共感(例えば、「相手も十分に苦しんだ」といった心情)を喚起する。したがって、謝罪は直接的に赦しを促進するだけでなく、共感を通じて間接的にも赦しを促進する(McCullough et al., 1997)。このことから、加害者による謝罪は赦しの特に重要な要因と言うことができる。
謝罪が赦しを導く一方、相手の意図に対する不信感は赦しを抑制する。そのため、たとえ謝罪をしたとしても十分に誠意を伝えられない場合は、謝罪の効果は大きく損なわれるか、場合によっては逆効果にさえなる(Risen & Gilovich, 2007; Skarlicki, Folger, & Gee, 2004; Struthers, Eaton, Santelli, Uchiyama, & Shirvani, 2008; Tomlinson, Dineen, & Lewicki, 2003; Zechmeister, Garcia, Romero, & Vas, 2004)。これらの研究で謝罪の誠意をどのように操作しているかは示唆的である。例えば、実験者の間違いにより不当に低い評価を受け取った参加者に対して、「ごめんなさい。あなたがあんなひどい評価を受けたのは私の責任です」と言うだけで、実験者が参加者の評価を回復しようと試みなかった場合、誠意のない謝罪とみなされ、赦しにつながらなかった(Zechmeister et al., 2004)。つまり、加害者が口頭で自己の責任を認め悔悛を表現すること(定義により「謝罪すること」)と、それが正直で誠意のこもったものと見なされるかどうかは別の問題なのである。また、「うわべの謝罪(perfunctory apology) 」という言葉が日常的に用いられ、それが研究対象になることがあることから(e.g., Darby & Schlenker, 1982)、一般人も研究者も謝罪の中には正直なものとそうでないものがあると暗に理解していると考えられる。したがって、どのような謝罪が正直なものとみなされ、意図の不確実性を低減する効果を持つのかを検討する必要がある。
コストのかかる謝罪モデルOhtsubo & Watanabe(2009)は、謝罪者は相手に誠意を伝えるために、謝罪をコストのかかる仕方で行えばよいと議論している(具体的には、相手の被害の弁済を行うことや、大事な用事をキャンセルして謝罪を優先することなどが考えられる)。この議論は、経済学及び生物学で独立に発展したシグナリング理論のモデルに依拠している(Spence, 1973; Zahavi & Zahavi, 1997)。シグナリング理論とは、ゲーム理論の一分野で、プレイヤーの間に情報の非対称性がある状況を扱う理論である。シグナリング理論では、囚人のジレンマ・ゲームの協力・非協力のような直接利得に関わる選択だけを扱うのではなく、その選択に影響する可能性のある情報のやり取りをモデルに含める。例えば、相手を赦して協力関係を維持するかどうかは、相手の行動意図に関する情報の有無に影響されるであろう。そのため、シグナリング理論では、相手に協力するかどうかとは独立に行動意図のシグナル(ここでは謝罪)を行うかどうか、それを受けて相手を赦すかどうかという選択肢がモデルに含まれる。以下、Ohtsubo & Watanabe(2009)によるコストのかかる謝罪のモデルを簡単に説明する(類似したモデルとしてOkamoto & Matsumura(2001)も参照)。
ここでは被害者と加害者という2種類のプレイヤーを考え、加害者が被害者に謝罪という形でシグナルを送る場面を考える。簡単のために、謝罪(シグナル)の送り手(sender)である加害者をS、受け手(recipient)である被害者をRと表記する。Sが謝罪するとき、RはSが心から悔悛して謝罪しているのか(自分を再び搾取することはないのか)、それとも謝罪はうわべだけのもので心を許すと再び搾取されるのかについて知ることができない。その一方、Sは自分の謝罪がうわべだけのものかどうかを知っている。ここに情報の非対称性が存在する。このとき、Sがいくら自分の謝罪が誠実であると主張しても、Rにはそれを信じる根拠がない(不誠実なSも同じように主張するはずだからである)。
ここで、Sには2種類のタイプがあると考えよう。Rとの協力的相互作用から高い利益(Bc)が得られるSとそうではないSである。前者にとってはRとの関係の価値が高いことになり、後者にとってはRとの関係価値が低いということになる。後者はRとの協力関係から利益を得ることがないので、再びRを搾取しBeの利益を奪い取ろうと目論んでいる。ただし、一回限りの搾取から得られる利益よりも長期的な協力からの利益の方が大きいものと仮定する(Bc>Be)。このとき誠実に謝罪するSとは、Bcの利益のためにRとの長期的な協力関係の回復を切望している者である。一方、不誠実なSとは、Rから赦された場合には、もう一度Sを搾取し、Beの利益を奪い取ろうと考えている者である。いずれのSであっても、Rから赦されることは自己利益にかなっているので、Rに「ごめんなさい」とか「もうしません」と言って謝るだろう。このように、Sのタイプによらず同じシグナル行動をとるような状況は、一括均衡(pooling equilibrium)と呼ばれる。一括均衡下では、RはSの「もうしません」を額面通りに受け取ることができない。その結果、誠実なSは心から悪いと思っているのに、それをRに伝えられないことになる。そこで、誠実なSは、Rに自分の誠意を伝えるために謝罪にaのコストをかけるかもしれない(Bc>a≥Be)。不誠実なSにとっては、aのコストをかけて赦してもらいBeの利益を得ても収支がマイナスになるため、このようなコストのかかる謝罪を行うインセンティブがない。そのため、コストのかかった謝罪しか受け入れられない状況では、Sのタイプにより謝罪行動に違いが出てくる。この状態は、分離均衡(separating equilibrium)と呼ばれる。分離均衡下では、Rは相手の謝罪にaのコストがかかっているかどうかを見ることで、Sが誠実な謝罪者であるのかどうかを見極めることができる10)。
上記のようなモデルの分析からは、コストのかかるシグナルが合理的選択理論のモデルであると思われるかもしれない。ところが、コストのかかるシグナルは動物の世界でも一般的にみられるものであり(Searcy & Nowicki, 2005; Zahavi & Zahavi, 1997)、必ずしもシグナルのやりとりの進化は合理性を前提としていない。例えば、コクホウジャクのオスは、繁殖期になると長い尾羽をなびかせて飛び求愛ディスプレイを行う。このオスのディスプレイを見て、そのオスの適応度を判断するメスは、シグナルのモデルについて意識的に理解しているわけではないだろう。単にコストのかかったディスプレイに魅力を感じているだけである。同様に、Ohtsubo & Watanabe(2009)も、人々はコストのかかる謝罪を受けるときに合理的な計算を行うのではなく、直感的に誠意を感じるのだろうと考えた(この点については、最後の節でもう一度検討する)11)。
謝罪コストと誠意の知覚・赦しそれでは、コストのかかる謝罪は本当に受け手に誠意を伝えるのだろうか。日常的に行われるコストのかかる謝罪は補償(compensation)である。例えば、加害者は相手の被害を弁償したり、あるいは相手の被害を可能な限り回復するためにコストをかけるかもしれない。あるいは、謝罪に贈り物を添えることも日常的に見られるコストのかかる謝罪である。補償を伴う謝罪とそうでない謝罪の効果を比較した研究では、相手の被害を補償しようとする謝罪の方が効果的であることが示されている(Bottom, Gibson, Daniels, & Murnighan, 2002; Ohtsubo & Watanabe, 2009)。例えば、Ohtsubo & Watanabe(2009)の場面想定法実験(Study 1)では、知り合いから迷惑をかけられた後、相手が謝罪をしたとして、その謝罪にどれくらいの誠意が感じられるかを回答者に評定してもらった。通常の謝罪条件では相手は「ごめんなさい」と口頭で謝ったとし、補償条件(コストのかかる謝罪条件)では相手がお詫びにお昼をおごってくれたとした。その結果、補償条件の方が誠意の知覚が高くなっていた。被害を補償することは、相手に誠意を伝えるだけでなく相手からの信頼を回復することにつながる(Desmet, De Cremer, & van Dijk, 2010, 2011)。また、上記のモデルによれば、コストが一定の額(a)を上回っていなければ正直さを補償する機能はないと予測される。この予測と一貫して、補償額が不十分な場合には(補償にかかるコストが小さい場合には)、信頼は回復されない(Desmet et al., 2010, 2011)。
このように補償には相手に誠意を伝える効果がある。しかし、補償が行われる場合には、加害者にとってコストが発生するだけでなく、被害者にとっての利益も発生する。そのため、被害者が誠意を知覚し、相手を赦すのは、相手がコストを負ったためでなく、自己の被害が回復され、気分がよくなるためかもしれない。Ohtsubo & Watanabe(2009)は、上記の補償条件を改変した場面想定法実験(Study 2)により、謝罪にかかるコストそれ自体が誠意を伝えることを検証している。この実験では、コストのかかる謝罪として、相手がアルバイトのシフトをキャンセルして急いで謝りに来た等が用いられた。謝罪者が自分のアルバイトのシフトをキャンセルしても、謝罪を受ける側には何の利益も発生しないため、自己利益の効果は排除されている。このStudy 2でも、コストのかかる謝罪は誠意があると知覚された12)。
上記の2つの実験では、誠意の知覚が従属変数であったが、それに伴って赦しの程度も上昇するのだろうか。大坪・渡邊(2008)の場面想定法実験では、コストの種類とコストの大きさを操作し、誠意の知覚と赦しの程度を従属変数として検討した(それ以外に、参加者間要因の条件として3種類のシナリオが用いられたが、ここではシナリオ条件についての結果は報告しない)。コストの種類としては、金銭的コスト(すぐに謝罪するために、すでに購入してあったコンサートに行くことを諦めてチケットを無駄にした)と時間のコスト(被害者のアルバイトが終わるまで寒い日に外でずっと待っていた)が用いられた。コストの大きさは4水準で、コンサート・チケットのシナリオの場合は0円、2500円、5000円、7500円、外で待っているシナリオの場合は0分、30分、60分、90分とコストの程度が操作された(コストの大きさは参加者内要因であった)。その結果、コストが大きいほど誠意の知覚が大きくなり(図1a F(3, 540)=30.27, p<.001)、赦しの程度も高くなった(図1b F(3, 540)=15.32, p<.001)。その一方、コストの種類の主効果(誠意の知覚:F(1, 180)=.77, n.s., 赦し:F(1, 180)=.08, n.s.)、コストの種類・大きさの交互作用効果は有意ではなかった(誠意の知覚:F(3, 540)=.65, n.s., 赦し:F(3, 540)=2.26, p=.08)。赦しに関して、交互作用効果が有意傾向になっていたが、これはコストの大きさの効果が金銭的コスト条件で小さいことに起因する(図1b)。しかし、単純効果の検定の結果、時間のコストの効果(F(3, 540)=14.54, p<.001)だけでなく、金銭的コストの効果(F(3, 540)=3.05, p=.028)も有意であった。したがって、コストのかかる謝罪は、コストの種類によらず誠意を伝え、相手からの赦しを引き出すことが示された。
それでは、この結果は文化を越えて普遍的なものなのだろうか。この問題を検討するために、Ohtsubo et al.(2012)は、日本を含む7カ国(アメリカ、インドネシア、オランダ、韓国、中国、チリ、日本)で謝罪にかかるコストを2水準の参加者間要因(コストありvs.コストなし)とした場面想定法実験を実施した。この実験では、コストのかかる謝罪としては、相手が予定をキャンセルしてすぐに謝罪に来た等が用いられた。その結果は、コストのかかる謝罪の効果の普遍性を支持するものであった。図2では、いずれの国についても、薄墨のバー(コストのかかる謝罪条件)の方が黒いバー(コストのかからない謝罪条件)よりも背が高くなっている。これは、誠意の知覚(図2a)、赦し(図2b)のいずれについてもあてはまる13)。また、この研究では宗教の効果も検討されている(インドネシアがイスラム社会であることから、十分なイスラム教徒のサンプルが含まれていた)。分析の結果、国、宗教に関わらず、コストのかかる謝罪は誠意があると知覚され、赦しを引き出すことが示された。
ここまでの場面想定法実験は、コストのかかる謝罪が効果的であることを示していた。ところが、このような場面想定法の実験結果は、現実に謝罪を受け取った場合の反応とは異なっている可能性がある。例えば、De Cremer, Pillutla, & Folmer(2011)は、独裁者ゲームの分配者が不平等な分配を行った後に謝罪するという設定で、謝罪の効果を検討している。ひとつの条件の参加者は実際にゲームを行い、もう一方の条件の参加者は同じゲーム状況で謝罪を受けたと想像した。すると、想像条件の参加者の方が相手を赦す傾向があった。つまり、場面想定法実験(≒想像条件の実験)では被害者の謝罪に対する真の反応を測定できていない可能性がある。そこで、Ohtsubo & Watanabe(2009)は、Study 3として行動実験を行い、場面想定法実験の結果の妥当性を確認している。この実験では、独裁者ゲームで不平等分配を受けた参加者が、相手からさらに謝罪メッセージを受け取るという状況を用いた。そして、コストあり条件では相手がメッセージを送るために送付料金を支払わなければならなかったと教示した。コストなし条件の参加者には、相手は自由にメッセージを送るかどうかを決めることができたと教示した。その結果、コストあり条件では、全く同じ文面の謝罪メッセージに対して高い誠意が知覚された。それだけでなく、以下のような行動指標で測定された赦しの程度にもコストの効果があった。参加者は、相手に対して苦情メッセージを送付することができると教示され、そうする意志を回答した。相手に苦情メッセージを送ることは言語的な報復であると解釈でき、それをしないことは相手を赦していることになると考えられる。分析の結果、コストなし条件では1/3(=7/21)の参加者が苦情を伝えたいと回答していたのに、コストあり条件ではそうしたいと回答したのは21人中1人だけであった。これらの結果は、コストの効果に関しては場面想定法の結果に妥当性があることを示している14)。
ここでは、モデルの分析から、コストのかかる謝罪は、被害者との関係を重視していない加害者には行うインセンティブがないため、関係を心からやり直したいかどうかの正直なシグナルとなると予測された。実験の結果も、モデルの予測を支持するものであった。場面想定法実験の結果、コストのかかる謝罪は被害者に誠意を伝え、赦しを促進することが示された。また、コストとしては金銭的なものであっても自ら不便を被るようなものであっても同様の効果をもっていた。さらに、コストの効果は文化を問わずに観察された。行動実験の結果は場面想定法実験の結果を再現しており、コストのかかる謝罪が誠意の知覚を生み、赦しを導くことが確認された。これら一連の実験は謝罪の受け手のみに着目しているが、モデルの重要な前提である相手との関係を重視している者だけがコストのかかる謝罪を行うという点は未検討である。次に、この点を検討した研究を紹介する。
コストのかかる謝罪の規定因関係価値と赦しへの期待コストのかかる謝罪が、その受け手に誠意を伝達することが示されたが、はたしてどのような要因がコストのかかる謝罪を動機づけるのだろうか。すでに確認したように、関係価値が被害者の赦しを促進し、相手の意図の不確実性が赦しを抑制する。赦しと謝罪が仲直りの要素であるとすれば、謝罪についても同様の変数がコストのかかる謝罪を促進・抑制すると考えられる。具体的には、自分にとって関係価値の高い相手を傷つけた者はコストのかかる謝罪を行い、相手からの赦しを引き出そうとするだろう。その一方、加害者にとっての不確実性は相手が自分を赦してくれるかどうかにかかわるものとなるだろう。自分が謝罪をしなくても相手が赦してくれると思っていれば、わざわざコストをかけて謝罪をする必要はない15)。そのため、ここでは相手が赦してくれるという期待がコストのかかる謝罪を抑制すると予測される16)。
近年、赦しの研究が豊富な知見を蓄積してきたのに対して(また、それに付随して謝罪に赦しを引き出す効果があるかどうかについて一定の知見が蓄積されてきたのに対して)、どのような場合に人々が謝罪を行うのかに関する研究は多くない。謝罪を行うということに関する研究では、謝罪を言い訳、正当化といった釈明方略のひとつと捉え、そのうちどれを人々が選びやすいのかという観点からの研究が行われてきている(Gonzales, Pederson, Manning, & Wetter, 1990; Hamilton & Hagiwara, 1992; Hodgins & Liebeskind, 2003; Hodgins, Liebeskind, & Schwartz, 1996; Itoi, Ohbuchi, & Fukuno, 1996; Schlenker & Darby, 1981: この領域のレビューとしては大渕(2010)の第3章を参照)。また、謝罪を行う傾向に関する個人差を測定する尺度も近年作成されている(Howell, Dopko, Turowski, & Buro, 2011; Howell, Turowski, & Buro, 2012)。
謝罪を行うことに関する研究は、上記のような比較的限られた文脈で行われているが、いくつか関係価値、不確実性低減と関わる知見もある。例えば、Exline et al.(2007)は、加害者が近しい相手に謝罪をしやすいことを示している。同様に、Riek(2010)も、相手との親密さは謝罪をしたり、仲直りをしたりという赦しを求める行動(forgiveness seeking)を予測することを示している。これは、価値ある関係仮説と一貫する知見である。加えて、Exline et al.(2007)は、相手との関係を望まないこと、謝罪にコストがかかりすぎると思っていることは謝罪を抑制することも示している。これは、コストのかかる謝罪モデルの前提と一貫するものである。
このように価値ある関係仮説・コストのかかる謝罪モデルを部分的に支持する研究はあった。しかし、人々がどのような場合に、どこまで謝罪にコストをかける意志があるかという観点からの研究はこれまでになされていなかった。Ohtsubo & Watanabe(2010)は、関係価値が親密さと相関することに着目し、場面想定法により親密さがコストのかかる謝罪に与える影響を検討した。Ohtsubo & Watanabe(2010)の実験では、参加者に親友または普通の友人に迷惑をかけた場面を想定してもらい、相手にコストをかけてでも謝罪したいかを回答してもらった。親密さがコストのかかる謝罪を促進するのであれば、親友条件においてコストのかかる謝罪の意志が高くなると予測された。ところが、実験の結果は必ずしも予測を支持するものではなかった。この実験では、コストのかかる謝罪意志は次の2通りのやりかたで測定された。ひとつはすでに入っている予定をキャンセルして謝罪を優先するかどうかを尋ねた。加えて、相手が遠くへ引っ越すと考えて、相手に直接謝罪する最後のチャンスであるとしたら、早朝であったり、空港への交通費がかさむとしても謝罪に行くかどうかを尋ねた。前者は予定をキャンセルするかどうかをカテゴリー変数として測定したのに対して、後者は朝がどれくらい早くなったら行くのをあきらめるか・交通費がどれくらい高くなったら行くのをあきらめるかを連続変量として測定した。前者の測定方法では親友条件・普通の友人条件には差がなかった。その一方、後者のやりかたで測定した場合には、親友条件の方が普通の友人条件よりもコストを負う傾向が高かった。
この結果は、必ずしも仮説を支持していない。特に、一見、仮説に一貫した後者の結果の解釈には注意が必要である。Ohtsubo & Watanabe(2010)は、親友条件と普通の友人条件の操作チェックとして、相手のために自己犠牲を支払う意志(willingness to sacrifice: Van Lange et al., 1997)を尋ねているが、親友条件の方が自己犠牲の意志が高かった。そのため、後者の結果は、単に親友に対する自己犠牲の意志の高さ(親友の見送りのためならコストを厭わない)を反映したものであり、謝罪とは直接関係しないかもしれない。このように考えると、謝罪を優先して用事をキャンセルするという前者の変数の方が、交絡要因がないより良い従属変数である。ところが、こちらの方法で測定を行った場合には、親友条件と普通の友人条件に差がなかった。これは、その後の追試実験でも確認されている(八木・渡邊・大坪,2011)。そのため、ここまでの結果は、関係価値がコストをかけてでも謝罪して仲直りしようとする動機づけを高めるという仮説を支持していない。
上記の結果を受け、Ohtsubo & Yagi(in press)は、親密さの操作は、関係価値だけでなく赦しへの期待の操作にもなっているのではないかと考えた。つまり、親友の価値は高い一方、親友には赦してもらえると期待するために、2つの効果が相殺しあい、条件差がなくなってしまうのではないかと考えたのである17) 。そこで、関係価値を測定するために、Ohtsubo & Yagiは友人の道具的有用性だけを取り出して測定することにした。具体的には、特定の友人を想起してもらった後、その友人は、学業面・クラブ活動・就職活動・社会関係・アルバイト・その他の重要な目標での成功のためにどれくらい役に立つか(あるいは、むしろその友人とつきあっていることが目標達成にとって邪魔になるか)を回答者に評定させた。その後、場面想定法により、その友人に迷惑をかけた場面を想起してもらい、相手は謝罪しなくても赦してくれそうかどうか、他の用事をキャンセルしてでも相手への謝罪を優先するかどうかを評定してもらった。その結果、関係価値はコストのかかる謝罪を促進し、赦しへの期待はそれを抑制していた(ただし、他の関連する変数と一緒に重回帰分析で検討したときには、赦しへの期待の効果は有意ではなくなった)。
Ohtsubo & Yagi(in press)は、この結果の一般性を2つの追加研究により確認している。ひとつは上記の研究と同様の場面想定法であるが、コストのかかる謝罪を相手の被害を補償することとして操作的に定義し追試した。もうひとつの研究では、回想法により誰かに迷惑をかけた場面を思い出してもらい、相手の被害を補償した(あるいは補償すると申し出た)かどうかを回答してもらった。いずれの追加研究でも、道具的有用性として操作的に定義した関係価値がコストのかかる謝罪を促進し、赦しへの期待がそれを抑制していた18)。したがって、2つの仮説はいずれも一貫して支持されたと言える。
まとめ本章では、ヒトの仲直りを理解するためにも、関係価値と相手の意図についての不確実性という2つの要因が重要であることを確認した。最後に、本章の構成とは順序を変更して、これら2つの要因がどのように仲直りと関わるかを再確認しておく(図3)。
加害者は相手との関係を続ける価値があると考え(図3-①)、相手がこのままでは赦してくれないかもしれないと思うときに(図3-②)、相手に赦してもらうためにコストをかけてでも謝罪をしようとする傾向があった。つまり、関係価値と意図の不確実性がコストのかかる謝罪を促進した。特に前者の関係(図3-①)は、コストのかかる謝罪が加害者の仲直りへの高い動機づけを反映していること、つまり正直な謝罪であることを意味している。
一方、被害者は相手との関係に価値があると考える時には相手を赦そうとするが(図3-④)、相手が再び自分を搾取するかもしれないと考えるときに相手を赦さない傾向があった(図3-⑤)。加害者によるコストのかかった謝罪は、相手が自分を再び搾取するかもしれないという被害者の不安(不確実性)を低減するのに役立つ(図3-③)。
加害者(perpetrator)にとっての①関係価値(relationship value)と②不確実性(uncertainty)はコストのかかる謝罪(costly apology)を促進する。④被害者(victim)にとっての関係価値は赦しを促すが、⑤被害者にとっての不確実性は赦しを阻害する。そのため、③コストのかかる謝罪により被害者にとっての不確実性を低減する必要がある。
つまり、関係価値は被害者・加害者の両者を仲直りに強く動機づける。その一方、相手の意図に関する不確実性は被害者側の仲直りへの動機づけを抑制する。ところが、有益なパートナーである被害者が赦してくれないかもしれないという予期は、加害者側をコストのかかる謝罪へ強く動機づけることになる。その結果、被害者側の不確実性は低減され、仲直りが達成される。
本稿でレビューした研究は、ある意味でSherif, Harvey, White, Hood, & Sherif(1961)による古典的研究である泥棒洞窟実験(あるいは、サマーキャンプ実験)の知見を再確認したと言うこともできる。Sherif et al.は、夏休みのキャンプに参加した少年たちを2つのグループに分け、お互いに競争させた。これにより、グループ間に深刻な葛藤が引き起こされた(少年たちは、相手のグループの旗を奪って焼きさえした)。その後、2つのグループの仲直りを促すための介入が行われたが、初期の介入は失敗に終わった(両グループが顔を合わせる夕食会は、食べ物の投げ合いの場となった)。仲直りへの鍵となったのは、両グループが協力しなければ達成できない共通目標の導入であった。これは、お互いの関係価値を高めたことを意味している。そして、その目標のために共同作業を行ったことにより、意図の不確実性も低減されたのではないだろうか。その結果、最後の夜には2つのグループが一緒にキャンプファイヤーを囲み、翌日、ひとつのバスで仲良く帰路につくほどになった。
本研究でレビューした研究は、この一連のプロセスを加害者、被害者それぞれの立場から詳しく検討したものと考えることができる。本研究では、便宜的にこれら2つの立場を分けて検討した。しかし、多くの対人的葛藤場面では、被害者と加害者を明確に分けることは難しいであろうし、仮にそれが明確な場合も、被害者・加害者ともに自分の主張の方に正当性があると考えるだろう(Baumeisiter, Stillwell, & Wotman, 1990)。したがって、対人的葛藤の解決には、お互いが相手に謝意と赦しの気持ちをもって歩み寄ることが必要であると考えられる。その意味で、コストのかかる謝罪と赦しの規定因として共通の要因(関係価値)を想定する進化論的モデルは、仲直りについての深い理解を提供する枠組みと言えるだろう。以下、このモデルについてのあり得る誤解に答える形で応用的な可能性を議論する。その後、本稿では十分に議論されていない論点について考える。
応用的な可能性感情的な仲直り関係価値に基づき仲直りをするということから、本稿で扱った仲直りは、自己利益を追求するための合理的な判断と考えられるかもしれない。つまり、被害者も加害者も相手のことを心から打ち解けたパートナーとは考えていないにもかかわらず、仕方なく表面的に仲良くやっているだけではないかということである。しかし、進化論的な視点は、人々の合理的な意思決定に基づく行動に関するものではない。むしろ、長期的に個人にとって有利になる感情的・直観的な行動傾向が人々に備わっていると考える。そのため、一見合理的判断に基づく行動が、むしろ感情的な基盤をもっていると予測する(北村・大坪,2012)。
関係価値と感情の関係については、いくつかの予備的な知見が存在する。Watanabe & Ohtsubo(2012)は、コストのかかる謝罪が罪悪感と正の相関を示すことを報告している。加えて、関係価値が高い相手に損失を与えたり、危害を加えた後により強い罪悪感が経験されることも近年の研究で示されている(Nelissen, 2014)。したがって、関係価値は、コストのかかる謝罪だけでなく後悔・悔悛といった感情表出も促進するだろう。このような感情表出を伴う謝罪は正直なものと受け取られ、相手の赦しを促進することが知られている(e.g., Gold & Weiner, 2000; Hareli & Eisikovits, 2006; 大渕,2010)。さらに、Ohtsubo & Yagi(in press)の研究は、関係価値とコストのかかる謝罪の関係を罪悪感が部分的に媒介することも示していた。このため、加害者が相手との関係を大切に思っていることは、謝罪コストや感情表出という複数のチャンネルを通じて効果的に伝達されるのではないだろうか(Tabak, McCullough, Luna, Bono, & Berry, 2012)。
加害者だけでなく被害者にとっても関係価値が赦しを導く至近要因であった。大坪・山浦・清水・八木(2014)の調査は、この関係価値と赦しの関係も感情(この場合は共感)により媒介される可能性を示している。これらの結果は、関係価値が罪悪感や共感といった感情的な反応を促進することで、Sherif et al.(1961)が観察したような、心からの仲直りを醸成する可能性を示している。仲直りに合理的(あるいは打算的)側面があることを完全に否定することはできないが、関係価値が感情的で心からの仲直りを導く側面があることもまた否定できない。
その一方、関係価値が高ければ常に心からの仲直りが達成されるわけではないことにも注意が必要である。第一に、関係価値と謝罪・赦しの関係は、必ずしも感情に完全に媒介されているわけではなかった。つまり、関係価値が高いために表面上は相手を赦し、関係が修復されたように見えている関係もあるはずである。第二に、関係価値が高い関係ほど相手との相互依存度が高いために、関係価値が低い関係よりも深刻な裏切り(例えば、恋愛関係における浮気、親友しか知らない秘密の漏えい)が可能になるかもしれない。このような深刻な裏切りは、相手が自分との関係にコミットしていないこと(将来も同じように裏切る可能性が高いこと)を期せずしてシグナルしてしまい、どのような謝罪も赦しを引き出さないかもしれない。今後、関係価値と被害者・加害者の感情反応についてより詳しく検討し、心からの仲直りが生起しやすい条件、表面的な関係修復が生起しやすい条件、関係解消に至りやすい条件などを明らかにしていく必要がある。
法による葛藤解決と関係修復本稿では仲直りの機能は関係修復であるという立場をとっている。このことは、ある意味で同義反復的であり(例えば、脚注7のSilkの議論を参照)、あえてそのことを明示的に述べることには意味がないという指摘があるかもしれない。しかし、司法制度の現状を考慮すると、葛藤解決にとって関係修復が大事な要素になることは、改めて強調しておく意味があるように思われる。
近年、多くの対人的葛藤解決は司法に委ねられている。しかし、司法制度はそもそも関係修復を目指したものではなく、その実質的な機能は法律を基準として当事者を“勝者”と“敗者”に分けることである(Yarn, 2000)。仲直りと裁判の違いは、次のように言うこともできるかもしれない。「葛藤の当事者たちは愛により仲直りするか、法的判断によって別れ別れになるかのどちらかである」(Yarn(2000, p. 60)が引用しているイングランド王ヘンリー1世の言葉を筆者が意訳した)。このように、裁判では関係修復が脇に置かれるために、加害者は敗者になることを避けようとして(あるいは、できるだけ自らに帰せされる非を小さくしようとして)、相手に対して謝罪しなくなるかもしれない。Keltner, Young, & Buswell(1997)は、被害者に謝罪し和解した加害者は再犯率が低くなるという知見をひきつつ、司法場面における関係修復の軽視が予期せぬ形で社会的コスト(高い再犯率、不要に厳しい量刑)を生み出している可能性を指摘している。
Diamond(2012)も、伝統的社会の葛藤解決と近代社会の司法制度を比較して、前者は関係修復を目指したものであるのに、後者は正義の原則にもとづきどちらにどれだけ非があるかを決定する過程であると指摘している。そして、お互いに面識がある者同士の葛藤を関係修復を考慮せずに解決することには問題があると指摘する。例えば、離婚訴訟においてどちらにどれだけ非があるかを決定することは、子供の親権をどちらがもつのか、どちらがどれだけ慰謝料を支払うのかを決めるために必要なことであるとみなされている。しかし、ここには関係修復という観点はない。Diamondは、たとえ離婚が避けられないとしても、夫婦にとっても子供にとっても、可能な範囲で夫婦の関係を改善しておくような手続きの方が望ましいのではないかと指摘する。
このような司法に基づく葛藤解決の問題に対処するために、近年、裁判外紛争解決手続(Alternative Dispute Resolution: ADR)が整備されつつある(Yarn, 2000)。ただし、ADRのような法廷の外での葛藤解決手続きが裁判より常に望ましいと考えるべきではない。例えば、これまでにつきあいのなかった者同士の葛藤の解決に関係修復を持ち出しても意味がないかもしれない(Diamond, 2012)。また、関係修復を目指す手続きが、必ずしも望ましい葛藤解決を達成しないかもしれないという点にも注意が必要である。具体的には、このような手続きが被害者に赦しを強要することになるのではないか、加害者の謝罪が表面的なものになるのではないか、簡単に相手から赦された加害者は十分に反省し更生しないのではないか等、関係修復を考慮した手続きを用いることにより生じうる潜在的問題の存在も指摘されている(Exline, Worthington, Hill, & McCullough, 2003)。
遺伝子決定論を越えて進化論的な議論ということで、本稿では仲直りを遺伝子決定論的に捉えていると受け取られるかもしれない。しかし、近年の進化論は遺伝子型が表現型と一対一で対応しているという考えはとっておらず、ほとんどの表現型は遺伝子型と環境の相互作用により決定されると考えている(例えば、Nettle(2009)の第9章)。仲直りという複雑な対人的過程も当然、環境の影響を大きく受けるはずである。このことをよく例示するマカクザルを対象とした研究がある。De Waal & Johanowicz(1993)は、仲直り傾向に違いのあるベニガオザルとアカゲザルという2種類のマカクザルの子供を共同飼育する実験を行った。ベニガオザルは軽い喧嘩を頻繁に行い、頻繁に仲直りも行うのに対して、アカゲザルはひどい喧嘩をときどき行い、あまり仲直りをしない。これら2種類のサルを一緒に生活させることにより、アカゲザル同士での喧嘩の後の仲直り頻度が上昇した。そして、この傾向は、2種を別々にした後も持続した。これは、ベニガオザルの仲直り傾向がアカゲザルに社会的相互作用を通じて伝播したものと解釈されている19)。近年、これに加えて、アヌビスヒヒのひとつの群で偶然生じた平和主義的な文化の世代を超えた継承(その群に新たに加わったアヌビスヒヒが、一般的なアヌビスヒヒと比べて攻撃性が低くなること)が報告されている(Sapolsky & Share, 2004)20)。このように、一見、種に固有と考えられている社会行動は、社会環境により大きく変化するのである。ヒトの幼児の仲直り傾向に文化差があることからも(Butovskaya et al., 2000)、ヒトの仲直り傾向にも可塑性があると考えられる。
仲直り傾向だけでなく、仲直り方略も環境要因により変化するかもしれない。例えば、コストのかかる謝罪として、金銭的コストも時間のコストも同様に誠意を伝える効果をもっていた。このことは、ヒトという種が、平和的な意図を伝達するために多様なシグナルを利用できることを意味している。また、悔悛などの情動表出が赦しを促進することも確認したが、Utikal(2013)の研究では、コンピュータを通じた謝罪メッセージに絵文字を添えることにも情動表出と同じような効果があった。このように、コミュニケーションのレパートリーを広げていくことができるのは、ヒトという種が言語使用により具体的な対象をシンボルに置き換えて扱うことに適応しているせいかもしれない。いずれにしても、このような能力は、仲直りに用いられる具体的なシグナルが多様な形式をとることを可能にする。例えば、異なる文化的背景をもつ者の間でも、一旦何かが適切なコストや感情表出と共通認識されれば、文化を超えた新たな仲直りシグナルが創出可能になるかもしれない。
未検討の問題第三者の介入本稿では、対人的な仲直りに焦点を当て、当事者同士が仲直りをするという前提で議論を進めてきた。ところが、ヒトの対人的仲直りには、第三者が介入することがむしろ一般的である(Boehm, 2012; Fry, 2000)。ひとくちに第三者の介入と言っても様々な形をとりうる。例えば、当事者の友人が一方に加勢することもあるだろうし、被害者の親族が代理で報復を行うことも考えられる。そのため、伝統的社会での関係修復の儀式では、当事者の親族も含め、誰もが関係が修復されたことを確認する必要がある(Diamond, 2012)。仲直りにとってより重要なのは、中立的立場の第三者による調停であろう。ADRは、このような第三者の介入を制度化したものとして捉えることもできる。先に議論したように、ADRは対人的紛争解決に関係修復を取り戻す試みと捉えられる(Yarn, 2000)。しかし、ただ中立的な第三者を入れれば仲直りが促進されるというわけではないだろう。例えば、注6で紹介したPC–MC比較を用いた発達研究は、幼稚園などでの自然観察に基づくために、おのずと教師による介入がデータに含まれている。残念ながら、子供たちの仲直りには教師の介入はむしろ逆効果であることが示されている(Butovskaya et al., 2000; Fujisawa et al., 2005)。ADRのような制度を効果的に機能させるためには、伝統的社会における第三者の介入のあり方から学ぶところが少なくないだろう(Diamond, 2012; Fry, 2000)。
第三者の影響としてはオーディエンスの影響も検討する必要があるだろう(動物のシグナルに対するオーディエンスの効果としてはMcGregor(2005)を参照)。例えば、誰かに損害を負わせたにもかかわらず謝罪しない者は、相手と仲直りできないだけでなく、オーディエンスに対しても悪い印象を与えることになるかもしれない。この場合、相手との関係ではなくオーディエンスに対する評判を気にして謝罪することになる(田中・大坪,2014; Watanabe & Ohtsubo, 2012)。また、謝罪することで逆に自分の非を多くのオーディエンスに認めることが不利になることもあるかもしれない。例えば、オーディエンスにとって自分の非が自明でない状況では、あえて謝罪をしないことでオーディエンスからの信頼を維持することができるかもしれないからである(Kim, Ferrin, Cooper, & Dirks, 2004)。このようにオーディエンスの影響は、謝罪を促進する可能性がある一方で、抑制する可能性もある。
調停者・オーディエンスという役割に加えて、第三者が代理で謝罪することもあるかもしれない。例えば、Zemba, Young, & Morris(2006)の研究によれば、組織のリーダーは、たとえ自分自身が直接関与していなくても、組織が起こした問題に対して謝罪すべきだと考えられている(この信念は、集団主義的文化で特に強い)。このような場合にも、顧客との関係(つまり、組織にとって有益な関係)がリーダーの謝罪を促進するかもしれない。ただし、これは理性的判断に基づく謝罪であり、本稿で扱ってきた感情的・直感的な謝罪とはその生起機序が異なるかもしれない。しかし、そうではあっても、受け手は同じような手がかりによって誠意を知覚するかもしれないことには注意が必要である。
ヒトの社会性・社会的認知が多くの成員(ひとつの見積もりでは150人)を含む複雑な社会に対する適応であることを踏まえると(Dunbar, 1993, 2014)、調停者・オーディエンス・代理の謝罪者など様々な第三者の影響を十分に考慮しなければ、謝罪やそれが導く仲直り・信頼回復の理解は不完全に終わるだろう。
集団間の紛争解決本稿では、関係価値やコストのかかる謝罪が対人的仲直りを促進することを確認した。しかし、このような対人的仲直り研究は、集団間の紛争解決にも役に立つのだろうか。先に引用したSherif et al.(1961)の泥棒洞窟実験の結果は、価値ある関係仮説が集団間の関係にも適用可能であることを示唆する。しかし、より深刻な紛争場面(例えば、国家間の紛争)ではどうだろうか。政治学者のLong & Brecke(2003)の分析結果は、この問いに対しても肯定的である。Long & Breckeは、20世紀に解決が試みられた国際的紛争及び内紛について、解決の成功をどのような変数が予測するかを検討している。その結果、国際紛争では、和解に向けたシグナルが紛争解決を予測することが明らかになった(分析された7つの国際紛争のうち、コストのかかるシグナルがあった4つは関係が改善したのに、そのようなシグナルがなかった3つでは関係が改善していなかった)21)。ここで言うシグナルとは、コストがかかっており(和解への意図の正直さを示しており)、これまでにない新規性をもっており、自発的になされたものであり、変更不可能なものである。コスト以外の3つの特徴のうち、新規性以外の2つ(自発性・変更不可能性)もコストと同様に正直さを保証するメカニズムと考えられる(Schelling, 1960: 自発性に関してはNakayachi & Watabe(2005)も参照)。したがって、国際紛争の解決には、仲直りの意図を正直に伝えるシグナルが重要であるということになる。
国際紛争の解決に役に立つコストのかかるシグナルとは、具体的にはどのようなものだろうか。Long & Brecke(2003)で分析されている国際紛争のひとつを例にとり考えてみよう。西ドイツ(当時)とポーランドの和解は1980年代終盤から1990年代初頭にかけて成立した。この過程で西ドイツは領地問題に関する権利を放棄し、経済的援助を約束した。西ドイツのこのような提案は、コストがかかっており、これまでに両国間で見られなかった新規な提案であった。また、この提案は西ドイツから自発的になされており、簡単に反故にできるものでもなかった。このような西ドイツのシグナルは、政治家レベルでは当然、信憑性のあるものと受け取られたであろう。それだけではなく、メディアなどを通じてそれを知ったポーランド国民もまた、西ドイツがポーランドとの関係改善を真に望んでいることを感じ取ったかもしれない。Long & Breckeは関係価値については特に言及していないが、西ドイツが提案した経済支援はポーランドにとっての西ドイツを価値のあるパートナーとしたはずである22)。このように、対人的な仲直り研究の知見は、十分に注意して適用するならば集団間の紛争解決にも応用可能であると考えられる。
本稿では、仲直りを促進する2つの要因に注目して理論研究・実証研究をレビューしてきた。本稿の大きな結論は、パートナーの関係価値を上げること、関係における不確実性を低減させることはどちらも仲直りを促進するというものである。しかし、なぜ仲直りに注目するのだろうか。ひとつの理由は、仲直りは進化の過程でヒトが身につけた特有の心理傾向に裏づけられていると考えるからである。したがって、その心理傾向をよりよく理解することは、争いの少ない社会を実現することにつながるはずである。第二に、紛争解決の研究で不足している部分を補うことになると考えるからである。従来、紛争解決研究では、紛争が生じる要因を探す研究が多かった。紛争の原因を特定し、それを減らすことで紛争が減るという引き算の発想に基づく研究である。それに対して、いがみあっている状態をどのようにしてよりよい状態にしていくかという足し算の発想による研究は相対的に少なかったのではないだろうか(Sponsel, 1996)。目に見えた紛争がないというだけであれば、2つの勢力が戦争には至らない状態で拮抗していた冷戦はまさにそのような状態であった。その冷戦が終わった後の1990年代に入り、謝罪が急速に学術的関心を集めたのは偶然ではないだろう。かつての敵を友にしていくためには、引き算の研究だけではなく、足し算の研究が必要なはずである。