社会心理学では近年、「自由意志は存在するか」という人々の信念と関連する心理的プロセスの検討が進められている。その結果、自由意志信念はさまざまな社会的判断・行動と関連することが明らかになっており、これらの研究成果はハンドブック(Baer, Kaufmann, & Baumeister, 2008; Baumeister, Mele, & Vohs, 2010; Sinnott-Armstrong, 2014)やレビュー論文(Baumeister, 2008, 2010, 2014; Baumeister & Brewer, 2012; Baumeister, Crescioni, & Alquist, 2011)などの形で整理されている(BaumeisterとBarghの議論については、森(2012)が参考になろう)。その一方、自由意志信念の問題は社会心理学だけではなく、実験哲学という研究プログラムでも検討されている。このプログラムの目的は社会心理学とかならずしも同一ではないものの、少なくとも実証的な方法論は共有したうえで、自由意志信念という共通の問題を対象として検討をしている。そうである以上、自由意志信念の問題について社会心理学が有意義な知見を生産するためには、実験哲学と協働して検討に当たることが必要不可欠だろう。実際に、上記のハンドブックやレビュー論文の一部は、社会心理学者と実験哲学者の協働によるものである。
本論文の目的は社会心理学と実験哲学の知見を参照したうえで、人々の自由意志信念の内容と機能に関する包括的モデルを提示することにある。そもそも人々にとって自由意志とは何を意味し、またその信念はわれわれの社会生活でどのような機能を果たしているのだろうか。本論文が提出するモデルは、これら2つの問いを統合的に論じるためのものである。その際、本論文は自由意志信念に関する社会心理学的・実験哲学的検討のみならず、自由意志に関する哲学的検討を参照する。哲学の領域では自由意志信念に関する実証的な問題ではなく、「自由意志と決定論は両立するか」などの理論的(概念的)問題が長らく議論されてきた。この両者は本来別々の問題であるが、自由意志に関する哲学的検討は自由意志信念に関する実証的問いを検討する際にも有用となる。それは、哲学的検討が「そもそも自由意志とはどのような概念か」といった自由意志に関連する理論的枠組みを提供し、また自由意志信念の知見の問題点を整理するための視座を提供するからである。そこで、本論文はまず自由意志に関する過去の哲学理論を概観し(第2節)、次に実験哲学(第3節)と社会心理学(第4節)における自由意志信念の内容に関する実証研究を紹介する。さらに、責任帰属(第5節)と自己コントロール(第6節)という社会的機能に関する研究をそれぞれレビューしたうえで、自由意志信念に関するモデルと今後の方向性(第7節)について議論をおこなう。
哲学理論では、自由意志は決定論との両立性という問題のもとで議論が進められてきた。「決定論(determinism)」とは、次のような考え方を通常意味する。ある時点の世界の状態が原因となって、その次の時点の世界の状態が帰結し、自然法則にしたがってこの因果が繰り返される。それゆえ、任意の時点での状態はそれより過去の状態によって決定されることになる。このような種類の決定論は、因果的決定論であるといえる。ここで、因果を支配する自然法則は、ある種の物理学的な自然法則として理解されるのが普通である。すなわち、ある物理学的な出来事が原因となって、その次の時点での物理学的な出来事が帰結し、それらの原因と結果は特定のパターンで生起するのである。仮にこの世界の状態がそのような物理学的な自然法則のもとで因果的に決定されているとしたら、この世界でわれわれが日常的におこなっているさまざまな行為も、やはり同様に決定されているはずである。もしそうであれば、われわれ各人がみずからの自由意志によって行為を選択し、それを実行するということは、はたして可能なのだろうか。これがほかでもなく、自由意志と決定論の両立性をめぐる問題である。
自由意志と決定論の両立性に関する立場のうち、決定論的世界に自由意志は存在しないと考えるのが「非両立論(incompatibilism)」であり、決定論的世界でも自由意志は存在しうると考えるのが「両立論(compatibilism)」である。これらは自由意志と決定論の両立可能性についての見解であって、それぞれの見解は実際にこの世界がどのような世界であるのか(そしてこの世界に自由意志は存在するのか)については含意しない。その点については、非両立論と両立論のそれぞれの枠内で、以下の3つの立場が主要なものとして分類される。非両立論のなかでも、1.この世界に自由意志は存在しており、それゆえこの世界は決定論的世界ではないと考えるのが、「リバタリアニズム(libertarianism)」である。それに対し、2.この世界は決定論的世界であり、それゆえこの世界に自由意志は存在しないと考えるのが、「強い決定論(hard determinism)」である。そして両立論のなかでの主要な立場は、3.「弱い決定論(soft determinism)」である。この立場は世界が決定論的であることを認めつつ、それでも自由意志が存在することを主張する。
上述の主要な3つの立場(リバタリアニズム、強い決定論、弱い決定論)のそれぞれにおいて、多くの哲学者が論陣を張ってきた。近代哲学まで遡って例をいくつか挙げれば、Spinozaは「人間は決定論的な自然界の一部である」という強い決定論の一種となる世界観を提案した(『エチカ』)。Hobbesも機械論的自然観のうちに人間を位置づける試みをしているものの、自由は決定論と両立可能であると提案している(『リヴァイアサン』)。したがって、Hobbesは弱い決定論者に分類できる。これに対して、Kantは両立論者が想定するような自由意志概念はまともなものではないと厳しく批判しながら、リバタリアニズムの立場を明確に支持している(『実践理性批判』)。リバタリアニズム、強い決定論、弱い決定論という三つ巴の構図は現代哲学においても維持されており、これまでに重大な理論的洗練がおこなわれてきた。以下ではその枠組みのなかで、自由意志がどのような概念としてあつかわれてきたかを概観する。
他行為可能性と行為者性リバタリアニズムの考えによれば、人間は世界のなかでも特別な存在者であり、それは単なる物体や動物機械とは違って、自由意志にもとづいた行為を選択することができる。あなたがいま右手を上げるか左手を上げるか、それとも手を上げないでいるか、どれを選択するかは完全にあなたの自由であり、どの行為が帰結するかは決定されておらず、複数の行為が可能である。それゆえ、自由意志をふくむこの世界は決定論的ではないのである。さて、このように複数の行為が可能であるとしたら、それらのうちどれが帰結するかという差異は何に由来するのか。それはもちろん、行為者に由来するのでなければならない。行為者はその自由な選択において、複数の可能な行為のうちから1つを意志し、その行為を実行する。このように複数の行為が可能であることは一般に「他行為可能性(alternative possibility)」と呼ばれ、自由意志にとっての重要な条件であるとされてきた。
また、他行為可能性は「道徳的責任(moral responsibility)」が成立するための重要な条件ともされる。道徳的に責任があるということは、善い行為について賞賛を受けたり、悪い行為について非難を受けるに値することである。人間の共同体はこの道徳的責任という観点から法を体系化しており、「どのような行為が法的に禁じられるか」についての最終的な基盤が道徳的責任なのである。そして、ある行為について道徳的責任が成立するためには、他行為可能性が前提となるように思われる。われわれは道徳的に悪い行為を非難するときに、「そのような行為をすべきではなかった」というだろう。これはほかでもなく、その行為者において別の仕方で行為することが可能だった(そして、それにもかかわらず悪い行為をした)ことを前提にした言明である。実際に、もしその行為者が脅迫や強制のために自由を奪われ、別の仕方で行為をすることがまったくできなかったと判明すれば、われわれはその行為が仕方のないものとして非難を差し控えるだろう。
以上のように、自由意志にそって行為することとはほかでもなく他行為可能性のもとで行為することであり、そして他行為可能性は道徳的責任の重要な前提条件になっていると考えたくなるのである。もちろんわれわれは、たとえば過失事故によって損害を引き起こした行為を非難するときのように、一見自由意志にもとづかない行為についても道徳的責任を帰属することがある。だが、そこで行為者に対して「過失事故を起こさないようにもっと注意を払うべきだった」と非難する場合には、注意を払うという別の行為を選択できたはずだと前提しているのであり、この点でやはり他行為可能性を前提とした責任帰属をおこなっていると考えられよう。
リバタリアニズムの利点は他行為可能性を肯定することで、自由意志と道徳的責任の関連を容易に取り込むことができるところにある。この世界は非決定論的であり、われわれ行為者には複数の行為の可能性が開かれている。われわれはみずからの自由意志によってそれらのうち特定の1つの行為を選びとり、そしてそれゆえにみずからの行為について責任を負うことができる。このような描像を、リバタリアニズムは額面通りに受け入れるのである。しかし、他行為可能性を肯定することは、行為が行為者自身の心理状態をふくめ、何ものによっても決定されないことを通常含意する(心理状態が行為を決定するならば、複数の行為が可能にならないであろう)。そこで、リバタリアンは他行為可能性を認めたときに、行為を引き起こす最終原因が一体何なのかを積極的に提案する必要がある。
リバタリアンに対して、強い決定論者は他行為可能性とともに自由意志の存在を否定し(e.g., Van Inwagen, 1975)、それにともなって道徳的責任をも何らかの形で否定することが多い。実際、多くの哲学者が強い決定論を簡単に採用しないのは、それがわれわれの道徳実践を根本から破壊してしまう可能性を見て取るからである。そこで弱い決定論の出番である。弱い決定論者は他行為可能性を否定するものの、それでもなお自由意志とそれと関連する道徳的責任を位置づけようとする。Frankfurt(1969)は道徳的責任にとって(ひいては自由意志にとって)他行為可能性は本質的なものではないと論じ、この点で重要な貢献をなした。彼の論文は決定論には直接言及せずに、他行為可能性はないが「行為者性(Agency)」の観点から道徳的責任が帰属されうる状況を引き合いに出す。
Frankfurt(1969)の事例において、人物Aはほかの人物Bを脅迫したり脳を操作することによって、特定の人物を殺害させることができる。しかし、Bがみずからの理由により動機づけられてその殺害をしようとしているならば、Aはそれを見越して、わざわざ脅迫や脳の操作をしたりはしない。このような状況では、Bはいずれにせよ殺害という同じ行為をすることになり、他行為可能性を奪われている。しかしそれでも、Bがみずからの理由によって殺害をした(そしてAがいかなる介入もしなかった)ならば、Bはやはりその行為について道徳的責任を負うと思われる。もしこのような見方を認めるならば、他行為可能性は道徳的責任にとって重要なものではないだろう。この見方を敷衍すれば、道徳的責任やそれに関連する自由意志の中心的概念とは、他行為可能性ではなく行為者性であると考慮できる。
なお、行為者性はもともと、みずからの理由にしたがって動機づけられた行為をすることを概念的に意味しているが、この行為者性の定義は研究者間でかならずしも合意しているわけではない。行為者性はより広い意味で、もしくはより狭い意味で定義されることもある。たとえば、「みずからの心理状態が行為を引き起こす」もしくは「誰かによって行為を強制されていない」という意味で行為者性を定義することも可能だが、それだけでは不十分で、「主観的によい(あるいはさらに客観的によい)理由にそって行為する」という意味で定義することもある(cf., Kane, 2005)。これらのうち、自由意志信念の問題として、人々がどのレベルで行為者性を認知しているかは、今後の検討を待たなければならないだろう。しかし、いずれにしても、人々の行為者性概念の基礎にあるものは、「みずからの心理状態が行為を引き起こす」という要素にあると思われる(e.g., Monroe & Malle, 2010)。
いままで紹介してきたように、自由意志とは何なのかをめぐって、大きく分けて他行為可能性を重要視する見方と行為者性を重要視する見方が対立している。そしてそこでは、道徳的責任を帰属するというわれわれの実践をいかにして維持するかという問題が関連するのである。以上のような形で、自由意志や道徳的責任は決定論と両立しうるのかどうかという問題が哲学では検討されてきた。これはほかでもなく、自由意志概念の内実をめぐる問題である。しかしそうだとすると、人々の心のなかで表象されている自由意志概念(すなわち自由意志信念)がどのような内容をもっているのか、そしてそれが決定論の信念とどのような関連をもっているのかという、心理学的な事実が明らかにされてしかるべきだろう。この点に目を向けるのが、近年拡大しつつある「実験哲学(experimental philosophy)」という研究プログラムである。
実験哲学からのもっとも基本的な手法は、哲学を専門としない人々に対して、哲学的な命題にかかわる仮想シナリオや質問を与え、それに対する直観的判断を問うものである。この手法によって、自由意志や道徳的責任に関する人々の判断を調査することができる。まず、そもそも人々は自分たちの住む世界が決定論的であると考えているのであろうか。Nichols & Knobe(2007)の研究では、回答者の90%以上がこの世界が決定論的世界よりも非決定論的世界に近いと答えている。そして、この傾向は特定の文化圏には依存しないようである。たとえば、4カ国を対象として同様の調査を実施したデータでは、所属する国や文化にかかわらず(アメリカ82%、インド85%、香港65%、コロンビア77%;文化間で有意差なし)、人々はこの世界が非決定論的世界に近いと回答する傾向があった(Sarkissian, Chatterjee, De Brigard, Knobe, Nichols, & Sirker, 2010)。それでは、人々は両立性に関してどのような信念をもっているのであろうか。すなわち、決定論的世界における行為が自由意志にもとづくか、またその行為が道徳的責任をもつかどうかについて、人々はどのような判断を下すのであろうか。
Nahmiasらは回答者に決定論的世界に関するシナリオ(たとえば、人々の信念や価値が遺伝と環境により完全に決定される)を読ませ、その世界における行為が自由意志にもとづくか、またその行為が道徳的責任をもつかどうかを尋ねた(Nahmias, Morris, Nadelhoffer, & Turner, 2005, 2006)。その結果、回答者の多くは両立論的と分類できるような判断をした。つまり、決定論的世界での行為であっても、それは自由意志にもとづいており道徳的責任をともなうと、多くの回答者が判断したのである。このような結果は、哲学者がかつて素朴に想定していたものとは異なっている。哲学者にとっては、「自由意志と決定論は両立しない」というのが基本的な設定であり、決定論的世界からどのようにして自由意志や道徳的責任を救うような思考の枠組みを展開できるかというのが、理論的な出発点である。しかし、これらの調査実験の結果に鑑みれば、われわれの思考の枠組みにおいて自由意志と決定論はもとから両立するものなのかもしれない。一方で、シナリオや問いの抽象度が高い条件など、場合によっては決定論的世界において自由意志や道徳的責任が存在しないと判断されやすいことも示されている(Björnsson & Pereboom, 2014; Nichols & Knobe, 2007)。このように、人々の直観的判断が非両立論的であることを示唆する仮説や実証データも提出されており、単純に人々が両立論者であると現時点で結論づけることはできない。
自由意志信念の内容(実験哲学)Nahmias et al. (2005)の研究は、自由意志にくわえて他行為可能性の判断も尋ねている。その結果、道徳的に悪い行為については、自由意志と他行為可能性の判断の間で有意差がみられなかった。この結果だけをみると、自由意志信念は他行為可能性の判断と対応しているとみなすこともできる。しかし、道徳的に善い行為や中立的な行為については、他行為可能性を帰属する判断が有意に少なかった。すなわち、これらの行為には自由意志を帰属しても、他行為可能性は帰属しないのである。したがって、人々の自由意志概念の内容は他行為可能性に尽くされていないことが示唆される。また、Nahmiasの後続の研究では、ある意思決定が以前の脳の状態によって決定されているのか(機械論的決定論)、それとも以前の心理状態(思考や欲求、計画など)によって決定されているのか(心理的決定論)で、その意思決定に関する自由意志や責任の判断がどのように変化するかを検証している(Nahmias, 2006; Nahmias, Coates, & Kvaran, 2007)。その結果、脳とくらべて心理状態による決定のほうが、自由意志や責任の帰属が有意に高いことが示された。この結果は、自由意志信念が行為者性によって部分的に構成される可能性を示唆している。
以上の点についてより踏み込んだ説明として、Nahmiasはバイパス仮説を提案している(Nahmias, 2011; Nahmias & Murray, 2010)。この仮説によると、人々は人間の行為や意思決定を機械論的に描かれた場合に、そういった機械論的プロセスが心理プロセスをバイパスしながら行為や意思決定を支配すると考えてしまう。そのために、自由意志や道徳的責任の帰属が低下するのである。実際にこの仮説を支持するように、参加者のバイパス思考と自由意志や責任判断の間には強い負の相関(r =-.73)が得られている。これらの知見をふまえると、自由意志にとっての脅威と人々がみなすものは、決定論というよりも、機械論によって行為者性が奪われることにあるかもしれない。
Nahmiasによる一連の研究知見のほかにも、多くの研究が自由意志や道徳的責任の判断において行為者性が重要となることを示唆している。たとえば、Woolfolk, Doris, & Darley(2006)は、道徳的責任に関するFrankfurtの洞察が人々の責任判断に反映されているかを調べている。その結果、強制下の行為に対する責任帰属はその行為の背後にある動機の知覚によって変化することが示された。例として、シナリオ中の人物が強制されながら人を死なせる行為をしたとしても、その人物が行為を是認あるいは望みながらした場合には、その人物に対する責任の帰属が有意に高まるのである。このように、人々の自由意志信念は他行為可能性だけでなく、何らかの行為者性によっても構成されており、また道徳的責任の帰属もそれに連動しているように思われる。
以上の第3節では、自由意志や道徳的責任の判断に関する実験哲学的検討を概説してきた。哲学者はもともと、自由意志と決定論は理論的に両立可能かどうかを検討していたが、両立論を支持する立場と非両立論を支持する立場の溝は深く、哲学者の一派は実験哲学という実証的手法に訴えることで問題解決を図ってきた。すなわち、人々にとって自由意志と決定論は両立可能かどうかを調べることで、両立性に関する理論的問題の解決が進展すると考えられていたのである(なお、信念の問題は自由意志の理論的な問題とまったく関係ないという立場も存在する)。しかし、自由意志信念に関する実験哲学的検討の結果、事態はそれほど単純でないことが徐々に明らかになってきた。つまり、シナリオや問いの与え方によって、人々は両立論的にも非両立論的にも判断しうるのである。そこで、実験哲学者は両立性の信念だけでなく、それに関連する心理プロセスもあわせて検討するようになっている。これらの心理プロセスを検討する際は、心理学的な知見や方法論が有用となるだろう。とりわけ社会心理学には、自由意志に関連する概念の実証データの蓄積や実証的な手法の経験があるため、実験哲学に対して貢献できる余地は大きいと考えられる。そしてそうなのであれば、実験哲学は心理学的研究との協働をより進めていくべきであり、社会心理学の知見や方法論はそこで中心的な役割を担うものになるだろう。
これまでに、自由意志の問題に関する哲学理論と実験哲学の知見について紹介してきた。哲学理論において自由意志概念の内容はかならずしも一貫していないが、大まかに分類すると他行為可能性と行為者性の2つの要素を挙げることができる。実際に、人々の自由意志信念がこれらの要素から構成されることが実験哲学の実証データからも示唆されている。さらに、自由意志信念の内容は実験哲学だけでなく、社会心理学の領域においても分析されている。たとえば、Monroe & Malle(2010)は「自由意志をもつことは何を意味するか」を回答者に直接尋ねることで、自由意志信念の内容を検証している。これらの自由記述の回答を評定者が分類すると、1.決定や選択をする能力(回答者が言及した割合:65%)、2.自分がしたいと思うことをすること(33%)、3.内外の要因に拘束されずに行動すること(29%)、の3つの要素が抽出された。1の要素は他行為可能性、2と3は行為者性の概念とかかわっており、自由意志信念の内容は哲学理論における議論や実験哲学の実証データと整合的であると示唆される。
また、Stillman, Baumeister, & Mele(2011)は自由意志信念の内容そのものでなく、自由意志と関連する行動を参加者に想起させている。具体的には、「自由意志で行動した経験」もしくは「自由意志ではなく行動した経験」のいずれかを自由記述で回答してもらい、その内容について実験者が評定した。その結果、自由意志による行動はそうでない行動よりも、1.ポジティブな結果、2.目標の達成、3.長期的な自己利益(短期的な自己利益は有意差なし)、4.意識的な熟慮、5.道徳的行動、6.外的要因に反する行動、7.有力な他者の不在、8.集団への危害の欠如、とそれぞれ関連していた。これらの結果をふまえ、自由意志による行動は個人や社会にとって望ましい結果をうながすと解釈されている。ただし、個人や社会にとって望ましい結果が得られた場合はその原因をみずからの自由意志に帰属し、望ましくない結果が得られた場合はほかの原因に帰属する(セルフ・サービング・バイアス)といった逆方向の影響も考えられよう。
人々の自由意志信念の内容については、質問紙尺度をもちいた研究知見も参考になる(Nadelhoffer, Shepard, Nahmias, Sripada, & Ross, 2014; Paulhus & Carey, 2011; Rakos, Laurene, Skala, & Slane, 2008; Stroessner & Green, 1990; Viney, Waldman, & Barchilon, 1982)。これらの尺度研究では自由意志に関する質問項目を回答者に尋ねることで、自由意志信念の内容や強さ、ほかの概念との関連について調べている(なお、抽出される自由意志信念の内容は、実験者が用意した質問項目に依存する)。たとえば、Paulhus & Carey(2011)の尺度(The Free Will and Determinism Plus Scale; FAD+)では、自由意志、科学的決定論、運命的決定論、予測不可能性の4因子が抽出されており、回答者はそれぞれの下位概念を弁別していると示唆される。一方で、Rakosらの尺度(The Free Will and Determinism Scale; FWDS)のように、自由意志と決定論を1次元上の両極に位置づけた尺度も存在する。この場合、自由意志を肯定すればかならず決定論を否定し、また決定論を肯定すればかならず自由意志を否定することになる。
これらの質問紙尺度の違いは、先述した自由意志と決定論の両立性にかかわる立場の差異を表しており、哲学理論には両立論と非両立論のそれぞれを支持する議論があることを確認した。同様に、実験哲学でも両立論と非両立論を支持する各知見が提出されている。また同じく、社会心理学の尺度研究でも両立論と非両立論にもとづいた尺度が構成されているが、Paulhus & Carey(2011)やNadelhoffer et al. (2014)では自由意志信念と決定論信念との間に負の相関関係はなく、場合によっては正の相関関係が観察されている。この結果をふまえると、自由意志信念と決定論信念はかならずしも相反するものではなく、人々の直観的判断は両立論的であると考えられよう。ただし、PaulhusらのFAD+では因果的な決定を示唆する項目はほとんど入っておらず、決定論信念は「決定」(ある要因がその後の状態を決定する)ではなく、「影響」(ある要因がその後の状態を方向付ける)に関する認知を測定している可能性もある。この場合、自由意志信念と決定論信念の共存は問題にならないため、FAD+では人々の信念が両立論的であるという見かけ上の結果が得られているかもしれない。
自由意志信念の強さ質問紙尺度の研究は自由意志信念の内容だけではなく、その信念がどれだけ強いかを明らかにしている。先に結論から述べると、全体として人々は自由意志の存在を信じているようである。その例として、FAD+の自由意志尺度の平均値は理論的中点を上回っている(Paulhus & Carey, 2011)。同様に、FWDSの平均値も可能な尺度得点の範囲の79%に達し(Rakos et al., 2008)、さらには収監者であってもほかの人々と同程度に自由意志の存在を信じていた(Laurene, Rakos, Tisak, Robichaud, & Horvath, 2011)。また、尺度をもちいた調査研究だけでなく、社会的行動への影響を調べた実験研究の結果も、人々の自由意志信念が強いことを示唆している(e.g., Vohs & Schooler, 2008)。具体的には、自由意志信念を操作したほとんどの実験において、統制条件と自由意志(自由意志信念が肯定される)条件で有意差がなく、自由意志信念が否定される決定論条件のみで統制条件や自由意志条件と異なる結果が得られている。つまり、人々はもともと自由意志の存在を信じているため、自由意志信念が肯定されても社会的行動は変化しないと解釈される。それに対し、決定論条件では参加者の自由意志信念が低下するため、それを通じて社会的行動が変化するのであろう。
自由意志信念の強さに関しては、Wegnerの指摘も着目に値する(Wegner, 2002, 2008; Wegner, Sparrow, & Winerman, 2004; Wegner & Wheatley, 1999)。彼によると、人々の意識的意志(すなわち行為者性)の感覚は「幻想」であり、往々にして誤っている。つまり、実際には自分自身の因果的影響がないにもかかわらず意識的意志を感じたり、因果的影響があっても意識的意志を感じないことがある。しかしながら、たとえ幻想であっても、人々は多くの日常場面で意識的意志の感覚を経験しており、それは容易には消えないのである。それでは、意識的意志の感覚はいつ生じるのであろうか。Wegnerは意識的意志の感覚が生起する条件として、「先行性」、「整合性」、「排他性」の3つを挙げている(Wegner, 2002, 2008; Wegner & Wheatley, 1999)。すなわち、内的な心理プロセスが行動よりも先に生じており(先行性)、行動と整合的であり(整合性)、ほかの原因が見当たらないときに(排他性)、意識的意志の感覚が生起するという。
たとえば、Wegner et al. (2004)の実験において、参加者は二人組で二人羽織になり、実験者からヘッドフォンでさまざまな指令を受ける。二人羽織の後の参加者は指令の通りに手を動かすが、前の参加者は指令を聞くだけで実際には手を動かさない。しかし、前の参加者と後の参加者の指令が一致していると(すなわち、前の参加者にとって指令と手の動きが整合的であると)、前の参加者は「自分が手を動かしている」という感覚が増加していた。一方で、この現象は前の参加者への指令が後の参加者の行動よりも先行するときに限定され、前の参加者への指令が遅れると意識的意志の感覚は増加しない。このように、自分の行動でないことが明確であっても問題ではなく、われわれは日常生活の多くの場面で意識的意志の感覚を経験しているのである。この意識的意志の感覚は行為者性の感覚と対応しており、さらに行為者性は自由意志信念の中心的要素であることが実証的に示されている(Monroe & Malle, 2010; Nahmias et al., 2007)。そのため、Wegnerらの知見からも、人々の自由意志信念は強いと判断できるであろう。
これまでに、人々の自由意志信念は一般的に強いという結果をみてきたが、その程度は状況に応じて変化することが知られている。たとえば、Feldman, Baumeister, & Wong(2014)では、自由意志信念は選択(他行為可能性)と概念的に結びついているため、過去の選択経験を想起すると自由意志信念が強くなり、運命的決定論の信念が弱くなることが示されている。またほかの研究では、行動結果が意識的・非意識的に予期されると行為者性の感覚が増加し(Aarts, Custers, & Wegner, 2005)、この効果は特性的な自由意志信念が強い人ほど大きくなっていた(Aarts & Van den Bos, 2011)。さらに、結果情報そのものが予期される場合だけでなく、意識的・非意識的な目標と行動結果が一致している場合でも、行為者性の感覚は増加することが報告されている(Custers, Aarts, Oikawa, & Elliot, 2009)。つまり、行為者性の感覚や自由意志信念の強さは非意識的にも規定されうると考えられよう。
第3節と第4節は、第2節の哲学理論における自由意志概念をふまえたうえで、人々の自由意志信念がどのような内容をもつかを議論してきた。つづく第5節と第6節は、自由意志信念がわれわれの社会生活でどのような機能を果たしているかを議論する。このうち、第5節は自由意志信念がもたらす「責任帰属(attribution of moral responsibility)」の機能を取りあげる。本論文において、責任帰属とは「自分や他者の行為に道徳的責任を付与する」ということを意味する。それでは、なぜ自由意志信念は責任帰属の機能をもつと仮定できるのであろうか。
自由意志信念のなかでも、まず他行為可能性に着目すると、道徳的責任が成立するためには通常他行為可能性が必要になると思われる。つまり、他者の善い行為を賞賛し、悪い行為を非難するためには、「ほかの行為をとることも可能であった」という他行為可能性の仮定が前提となるであろう。したがって、他行為可能性を信じると責任帰属が促進されると予測できる。ただし、第2節で紹介した哲学理論のFrankfurt事例は、他行為可能性ではなく行為者性が責任帰属の前提条件となりうることを示唆している。実際に、Frankfurt事例を応用した実験哲学の知見は、「望んで殺人行為をしたか」という行為者性の操作が責任帰属の判断を規定していた(Woolfolk et al., 2006)。以上の知見を総合すると、他行為可能性と行為者性の信念はいずれも責任帰属を促進するであろう。よって、自由意志信念が強い人ほど責任を帰属する、また自由意志信念が否定されると責任を帰属しなくなると予測できる。
前者の予測に関して、自由意志信念と責任帰属の相関関係を調べた調査研究では、自由意志信念が強い人ほど正当世界信念が強い(Carey & Paulhus, 2013)、懲罰傾向が強い(Carey & Paulhus, 2013; Laurene et al., 2011; Rakos et al., 2008)、利他性が高い(Bergner & Ramon, 2013)、ということがそれぞれ明らかになっている。これらの変数の間に観察される正の相関関係は、責任帰属という観点から解釈することができよう。たとえば、正当世界信念は「人々が受けるに値するものを受けている」という認知を示しており、これは「自分自身の行為に責任をもつ」という責任帰属の判断とかかわっている。このように責任帰属という共通の要素をもつため、自由意志信念が強い人ほど正当世界信念が強いと示唆される。
責任帰属に対する因果的影響自由意志信念と責任帰属の関連について、いままで紹介した研究は相関関係の分析にとどまっており、「自由意志信念が責任帰属に影響を与える」という因果関係は明らかでない。この点については、自由意志信念を操作した実験研究の知見が参考になるであろう。そこで、以下ではそれらの実験的な検討をみることとする。なお、第4節でも議論したように、自由意志信念を操作した研究の仮説や結果の大部分は、「自由意志信念の否定による効果」であり、「自由意志信念の肯定による効果」ではない。これは、人々の特性的な自由意志信念が一般的に強く、自由意志信念が肯定されても実験操作の効果が得られないと予測できるためである。ただし、例外として、第6節のZhao, Liu, Zhang, Shi, & Huang(2014)は自身の研究結果を自由意志信念の否定ではなく、自由意志信念の肯定による効果として解釈している(Zhaoらの研究は統制条件が存在しないため、この解釈の妥当性はかならずしも明確ではない)。
責任帰属の機能に関する実験研究について、Brewer(2011)は自由意志信念が日常場面における侵害行為の責任帰属やゆるしの動機づけに与える影響を検証している。実験で参加者は自由意志の存在を否定する文章、または自由意志とは無関連な文章を読んだあと、仮想シナリオに登場する侵害者の道徳的責任やゆるしの程度を回答した。その結果、自由意志信念が否定されると、侵害者への責任帰属の程度が低下し、ゆるしの動機づけが増加していた。さらに、責任帰属は自由意志信念がゆるしの動機づけにおよぼす有意な効果を媒介することが示されている。このような侵害者への責任帰属やゆるしの動機づけは日常場面だけでなく、裁判場面でもとりわけ問題になると考えられよう。特に、上記のBrewer(2011)の知見をふまえるならば、自由意志信念が否定されると、被告人への責任や量刑判断が寛容になると予測できる。ただし、被告人に量刑判断を下す根拠には帰結主義と応報主義の2種類があり、自由意志信念との関連を検討する際には両者を区別する必要があろう。
量刑判断の根拠について、帰結主義は再犯防止や被告人の更生のために刑罰を下すという立場であり、被告人の量刑は望ましい結果をもたらす程度に応じて変化することになる。それに対し、応報主義は量刑がもたらす実利とは一切関係なく、被告人がその行為に応じて受けるに値する刑罰を受けるという立場である。以上の2つの量刑判断の立場のうち、自由意志信念は応報主義のみとかかわると想定できる。つまり、帰結主義の観点からは、自由意志信念が否定されても、被告人への刑罰はそれが望ましい結果をもたらす範囲で正当化される。しかし、応報主義の観点からは、自由意志信念が否定されると道徳的責任を帰属できず、被告人は罰を受けるに値しないことになるであろう。すなわち、応報主義にもとづいて量刑判断を下すかぎり、自由意志信念が否定されればあらゆる罪が免責される可能性すらある。
Shariffらはこれらの帰結主義と応報主義の根拠を弁別したうえで、自由意志信念が応報主義的な量刑判断に与える影響を調べた(Shariff, Greene, Karremans, Luguri, Clark, Schooler, Baumeister, & Vohs, 2014)。最初に、研究1は特性的な自由意志信念が強い人ほど、刑罰の根拠として応報主義を重視することを示している。つづく実験研究では、自由意志の存在を否定する文章(研究2)や機械論的な神経科学の文章(研究3)、同じく機械論的な神経科学の授業(研究4)を通じて自由意志信念を操作している。参加者はいずれかの手法により操作を受けたあと、殺人事件の裁判に関する仮想シナリオを読んだ。このシナリオで、被告人(高校生)は成功率が100%の治療プログラムを受けることになっているため、量刑判断は応報主義にもとづいていたと判断できる。参加者は仮想の陪審員の立場で、被告人に対する追加の(治療プログラムとは別の)量刑をどの程度与えるかを判断した。実験の結果、上記の手法で自由意志信念が否定されると、被告人への量刑判断は寛容になっていた。よって、自由意志信念は裁判での量刑判断という実践的場面においても、われわれの道徳的責任の判断を規定する重要な機能をもつと示唆される。
第6節は自由意志信念がもつ別の機能、「自己コントロール(self-control)」の側面についてレビューをおこなう。まずそもそも、なぜ自由意志信念は自己コントロールの機能をもつと予測できるのであろうか。自由意志信念の内容に関するこれまでの議論と関連づければ、自由意志信念が否定された状況では、自分の行為を選択することはできない(他行為可能性の否定)、もしくはみずからの心理状態が行為を引き起こすことはできない(行為者性の否定)ことになる。つまり、現実になす行為しか選ぶことはできない、あるいは特定の行為を意志してもその通りにはならないように人々は受け止めると推測される。このような状況では、みずからの衝動的反応を抑制しようとは思わないであろう。したがって、自由意志信念が否定されれば、自己コントロール(衝動的反応の抑制)の動機づけが減退すると予測できる。裏を返せば、自由意志信念は自己コントロールの機能をもつと考えられよう。
自己コントロールの機能について、まずは自由意志信念と自己コントロールの関連指標との相関関係を調べた研究をレビューする。自己コントロールを表す代表的な指標として、「内的統制感(Locus of Control) 」が挙げられる。内的統制感は物事の原因が外的要因でなく内的要因(自分自身)にあることを意味しており、自由意志信念が強い人ほど内的統制感が強く、またその結果として自尊心や生活満足度、職業成績が高くなると予測できる。この予測と一致して、自由意志信念が強い人ほど自尊心(Laurene et al., 2011; Rakos et al., 2008)や生活満足度(Bergner & Ramon, 2013; Stillman, Baumeister, Vohs, Lambert, Fincham, & Brewer, 2010)、職業成績(自分が予測する将来の業績と、監督者によって評価される実際の業績の両方;Stillman et al., 2010)が高いことが示されている。ただし、内的統制感との相関については、過去の研究結果は一貫していない。具体的には、FAD+をもちいたPaulhusらの研究では自由意志信念は内的統制感と正の相関をもつが(Paulhus & Carey, 2011; Stillman et al., 2010)、RakosらのFWDSの尺度では両者の間に負の相関がみられている(Laurene et al., 2011; Rakos et al., 2008)。
以上の研究結果の不一致は、どのように解釈できるだろうか。自由意志信念は自己コントロールの機能をもつという先の議論をふまえると、自由意志信念が強い人ほど内的統制感は強くなると考えられる。それに対し、Rakosらによると、自由意志を信じている人ほどその限界も自覚しているため、内的統制感よりも外的統制感が強くなるという。ただし、仮に自由意志の限界を自覚した結果として外的統制感が強くなったとしても、内的統制感もそれと同等以上に強いと推測される。もし内的統制感が弱くなるのであれば、自由意志信念も同様に低下するであろう。このように、自由意志と内的統制感の負の相関について十分な説明は提出されていないように見受けられるが、FWDSの尺度をもちいるとFAD+とは異なる結果が出ることが一貫して報告されている。そこで、この差異が何に由来しているのか、今後明らかにされることが望まれよう。
ところで、自由意志信念は上記の内的統制感と概念的に何が異なるのであろうか。自由意志信念が「行為の原因は何か」という原因認知と関連していることをふまえると、自由意志信念は内的統制感と同一の概念であるという印象を受けるかもしれない。しかし、人々の認知とは別に、少なくとも概念的には自由意志と内的統制感は区別することができる。例として、行為の理由がわからない(なぜかある行為をしてしまう)、もしくは理由にそって行為できない(みずからの理由とは異なる行為をしてしまう)といった行為者性を部分的に欠く場合を考えてみる。この場合、行為の原因は自分自身にあるが(すなわち内的統制感がある)、それでも自由意志があるとはかぎらないだろう。また、行為の原因が自分自身にあっても、そのことは行為を選択できることをかならずしも含意しない。このように、他行為可能性の観点からも、自由意志と内的統制感は概念的に区別できるのである。ただし、以上の概念的区別の通りに、人々が自由意志と内的統制感を本当に弁別しているかは、いまだ明確ではない。現段階では、人々の自由意志信念と内的統制感は相関レベルで異なることが示唆されているが(Laurene et al., 2011; Paulhus & Carey, 2011; Rakos et al., 2008; Stillman et al., 2010)、今後は概念分析や実験データをもちいて、変数間の弁別性を継続的に示していくことが求められるであろう。
自己コントロールに対する因果的影響自由意志信念がもたらす自己コントロールの機能に話を戻すと、Vohs & Schooler(2008)は自由意志信念がテストの不正行為に与える因果的影響を検証している。参加者は自由意志の存在を肯定する文章(自由意志条件)、否定する文章(決定論条件)、自由意志とは無関連な文章(統制条件)のいずれかを読んだうえで、読解・計算などの問題に解答した。ただし、実験者は退出して問題の採点は自分でおこない、正答数に応じた報酬を持ち帰ることが可能であった。この状況で報酬を過大に多く持ち帰った場合、テストで不正行為をしていると考えられよう。実験の結果、決定論条件の参加者はほかの条件よりも自分で持ち帰った報酬の額が多かった。さらに、操作チェックで使用した自由意志信念(FAD+)の得点は決定論条件がほかの条件よりも低く、自由意志信念が弱い人ほど持ち帰った報酬が多かった。したがって、自由意志の存在が否定された文章を読むと、自由意志信念の低下を通じてテストの不正行為が増加すると判断できる。
つづけて、Baumeister, Masicampo, & DeWall(2009)は同様の手法で自由意志信念を操作し、援助意図・攻撃行動に対する影響を検討した。仮想シナリオをもちいた研究1では、決定論条件の参加者は自由意志条件や統制条件よりも援助意図が減少していた。一方、研究3では、辛口ソースパラダイムをもちいて攻撃行動を測定した。このパラダイムでは、「辛いものが嫌いとわかっているパートナーのチップスにサルサ(辛口)ソースをどの程度入れるか」が攻撃行動の指標となる。分析の結果、決定論条件の参加者は自由意志条件とくらべて、パートナーにより多くのサルサソースを与えていた。以上のことから、自由意志信念が否定されると援助意図が減少し、攻撃行動が増加すると推測される。このほか、自由意志信念が否定されると(もしくは特性的な自由意志信念が弱いと)他者への同調行動が増加することや(Alquist, Ainsworth, & Baumeister, 2013)、自由意志信念が肯定されると(もしくは特性的な自由意志信念が強いと)外集団に対する偏見が低減することが示されている(Zhao et al., 2014)。
以上の研究は、自由意志信念が否定されると自己コントロールが低下し、その結果として社会的判断や行動が変化することを基本的に仮定しているが、この媒介プロセスに関する仮定は認知科学的アプローチをもちいた研究によっても支持されている(Rigoni, Kühn, Gaudino, Sartori, & Brass, 2012; Rigoni, Wilquin, Brass, & Burle, 2013)。たとえば、Rigoni et al. (2013)はサイモン課題をもちいて、自由意志信念が否定されると自己コントロールが低下することを明らかにしている。この課題では、参加者は注視点の左右どちらかにあらわれる刺激の色に応じて、左右どちらかの手でキー反応をおこなう。刺激(左か右)とキー反応(左か右)の位置が一致しない場合には、エラー反応が生じやすくなることが知られている。実験の結果、決定論条件の参加者は統制条件よりもエラー反応後の反応時間が短くなり、この効果は自由意志信念が低下している人ほど顕著であった。したがって、自由意志信念が否定されると、自己コントロールの1種であるエラー反応のあとの行動修正が抑制されると考えられよう。
これまでの哲学理論や実験哲学、社会心理学の知見をふまえて、自由意志信念の内容と社会的機能に関するモデルを要約する(図1)。まず、自由意志信念の中心的な概念は他行為可能性と行為者性の2つであることが哲学者の議論や実験哲学・社会心理学の実証データから示唆されている。さらに、他行為可能性の信念は責任帰属と自己コントロールをそれぞれ促進すると考えられる。なぜなら、仮に行為の選択が不可能ならば、その行為に責任を付与しようとはせず、また衝動的反応を抑制しようとは思わないからである。他行為可能性と同様に、行為者性の信念も責任帰属と自己コントロールの両方を促進すると予測できる。その理由として、もしみずからの心理状態にそって行為を引き起こすことができなければ、その行為に責任を付与しようとはせず、また衝動的反応を抑制しようとはしないであろう。
以上のことから、他行為可能性と行為者性を基盤とする自由意志信念は、責任帰属と自己コントロールを促進する機能をもつと予測できる。この予測と一致して、自由意志信念は責任帰属や自己コントロールを促進することが第5節や第6節で明らかになった。ただし、これらの研究は自由意志信念の効果を検討したものであって、他行為可能性と行為者性のそれぞれの信念の効果を検討したものではない。よって、各信念が本論文の仮定通りに責任帰属や自己コントロールを促進するかどうか、あらためて今後分析することが望ましいであろう。
本論文のモデルは責任帰属と自己コントロールだけでなく、自由意志信念がそれらの機能を通じて社会への適合を促進すると仮定している。これについて、社会規範から外れた他者に懲罰的態度をとることで、責任帰属は社会のなかの成員にそれぞれの責務を果たすよう働きかける機能をもっている。同様に、他者だけでなく自分の行為に対して責任を帰属することで、自身の道徳的なふるまいが可能になるであろう。これらの責任帰属の機能はすべて、「自分が所属する社会のなかで生きていく」という社会への適合を促進するものであると考えられる。
また、自己コントロールは利得欲求追求などの個人の衝動的な反応を抑制し、社会規範を遵守するという点で社会への適合を促進する効果をもつ。たとえば、税金を払ったり自分の順番を待つなど、社会規範にそった行動は自己の利得欲求追求の衝動を抑えたうえで、集団にとって望ましいふるまいを選択しなければならない。つまり、社会規範にそった行動は自己コントロールによって可能になるのであり、またこの自己コントロールの発揮は、自由意志の存在やその信念によって支えられていると考えられる(Baumeister et al., 2011)。もし自由意志信念が低下すれば意図的に衝動を抑制することができなくなり、社会への適合が阻害されるであろう。以上の議論から、自由意志信念は責任帰属と自己コントロールの高まりを通じて、社会への適合を促進すると推測できる。
第4節で述べたように、一般的に人々の自由意志信念の程度は強く、またその強い自由意志信念が責任帰属や自己コントロール、さらには社会への適合を促進していると想定される。しかし、人々の自由意志信念がいつでも強いとはかぎらない。たとえば、自由意志に関する神経科学的知見から、決定論や機械論、還元主義(行為や心理プロセスを物理現象に還元する立場)を擁護するような言説が唱えられることも多く(e.g., Crick, 1994)、この場合は少なくとも一時的に人々の自由意志信念は脅威にさらされるであろう。実際に、決定論などの文章を読むことによって、人々の自由意志信念は低下することがこれまでにも確認されている(e.g., Baumeister et al., 2009; Vohs & Schooler, 2008)。また、自由意志に直接関連するものにかぎらず、無意識や遺伝・環境要因の影響を示した研究知見も、人々の自由意志信念にとって脅威になりうる。たとえば、Shepherd(2012)は実験哲学の手法をもちいて、意思決定や行為を生起させるプロセスが無意識的な場合、意識的な場合とは対照的に自由意志を帰属させる程度が低くなることを示している。この知見をふまえると、「行動が無意識的に生起する」という言説は人々の自由意志信念にとって脅威になるであろう。
またさらには、無意識などに関する科学的(もしくは非科学的)言説にかぎらず、われわれは日常生活の多くの場面で、自由意志信念に対する脅威を経験しているかもしれない。自由意志信念の中心的概念が他行為可能性と行為者性であることをふまえると、たとえば、誰かに命令されて実質的に行為の選択肢がないときや、自分の意図した通りの結果が生じないときには、自由意志信念は脅威にさらされるだろう。これらの脅威により自由意志信念が低下すると、責任帰属や自己コントロールは抑制され、社会への適合が阻害されてしまうと想定できる。ただし、自由意志信念の低下がつねに否定的な影響をもつとはかぎらない。その例として、何か大きな失敗をしたときに、自由意志信念が弱いほうが否定的感情は生起しないかもしれない。しかし、全体として、自由意志信念は個人や社会にとって肯定的な影響をもたらしており、われわれ人間の社会生活を支える根源的な役割を果たしているといえよう。
モデルの限界と今後の展望本論文で提示したモデルには、いくつか限界もある。たとえば、本論文のモデルは自由意志信念の中心的要素が他行為可能性と行為者性の2つであることを提起したが、これらの要素が自由意志信念の必要条件であるかどうかは現時点で結論できない。また、自由意志信念の機能についても、責任帰属と自己コントロールの2つが先行研究の結果を説明できる有用な概念であると考えられるが、自由意志信念の機能がこの2つにかぎられるかどうかはわからない。そのため、今後も自由意志信念の内容と機能に関して、本論文のモデルにふくまれない新たな変数の存在や状況との交互作用を考慮に入れたうえで分析することが求められよう。また、モデル内の変数についても、たとえば自由意志信念と責任帰属および自己コントロールの関係は、一方向でなく双方向的であるかもしれない。つまり、責任帰属や自己コントロールが高まることで、自由意志信念が強くなるという逆方向の影響も存在する可能性がある。
Clark, Luguri, Ditto, Knobe, Shariff, & Baumeister(2014)は、上記の可能性を示唆している。彼らの研究において、参加者は不道徳な行為に関する情報が提示されると、懲罰動機づけの高まりを通じて自由意志信念が強くなっていた。つまり、自由意志信念が責任帰属に影響を与えるだけでなく、責任帰属も自由意志信念に影響を与えうるであろう。このほかにも、Ent & Baumeister(2014)は自己コントロールから自由意志信念への因果関係の存在を示唆している。たとえば、研究2では性的願望や身体的疲れ、尿意を感じている人ほど、自由意志信念が弱かった。身体がこのような状態にある人は自分の衝動やそれに対するコントロールの欠如を認識しやすいため、自由意志信念が弱くなると解釈できる。ただし、研究3では同じ衝動でも、食欲のみはダイエットをしているかどうかで相関関係が異なることが明らかになっている。具体的には、ダイエットをしていない人の場合、ほかの変数と同様に食欲を感じている人ほど自由意志信念が弱いが、ダイエットをしている人の場合、食欲を感じている人ほど自由意志信念が強かった。後者の場合、食欲を感じていることは自己コントロールの成功を意味しているため、自由意志信念が強いと想定できる。以上のように、自由意志信念の強さ自体が責任帰属や自己コントロールによっても規定されると考えられよう。
また、自由意志信念が内的統制感と関連することをふまえれば、自由意志信念の強さや内容、社会的機能には文化差が存在するかもしれない。たとえば、内的統制感の強さに関する先行研究は、日本をふくめた東アジア人は欧米人よりも内的統制感が低い傾向があることを示している(Evans, 1981; Na & Loftus, 1998)。よって、日本において、「自由意志が存在する」という信念は相対的に弱い可能性がある。他方で、態度帰属に関する研究では、東アジア人は欧米人よりも制限を受けるものの、同様に対応バイアス(行為に対応する特性の影響を過大視する傾向)を示すことを報告している(Choi & Nisbett, 1998; Choi, Nisbett, & Norenzayan, 1999; Miyamoto & Kitayama, 2002; 外山,2001)。
これらの知見を総合すると、欧米とくらべて程度は弱いかもしれないが、日本でも自由意志の存在に対して概ね肯定的な態度が形成されているのではないかと推測される。なお、自由意志信念に関する研究は日本でも実施されており、欧米の研究と整合的な知見が一部で得られている(後藤・石橋・梶村・岡・楠見,2014; 土屋・鈴木・鈴木,2012; 渡辺・岡田・酒井・池谷・唐沢,2013; 渡辺・櫻井・唐沢,2013; 渡辺・櫻井・綿村・唐沢,2014)。ただし、自由意志は神学的決定論など、宗教や歴史的背景とも深くかかわっている。そのことをふまえれば、自由意志信念の内容や社会的機能に関して、欧米の追試研究にとどまらない独自のモデルを構築していくことが必要かつ妥当であると考えられよう。
さらに、自由意志信念の問題を考えるうえで、自由意志という理論的な観点から自由意志信念という実証的観点に移したときに、実証的観点に特有の問題も指摘できるであろう。自由意志の主体はその一例である。理論的な観点からは、「誰が自由意志をもっているのか」という主体は通常問題とはならない。つまり、自由意志が存在するのであれば、脳の異常など一部の例外をのぞいて、「誰もが一定の自由意志をもっている」と仮定される。それに対して、実証的観点にもとづくと、人々の自由意志の程度には差があると判断される、もしくは行為の種類に応じて変化しうると考えられよう。Pronin & Kugler(2010)はこの可能性を支持している。彼女らの研究は、自分は他者よりも将来における選択肢が多く(他行為可能性)、行為がみずからの心理プロセスによって引き起こされている(行為者性)と判断されることを示している。このように、人は自分自身が他者よりも自由意志をもっていると信じる傾向がある。これらの主体の影響は自由意志信念の強さだけでなく、社会的機能にもおよぶかもしれない。
この点について、Baumeister et al. (2009)はみずからの自由意志信念が否定されることで自己コントロールの動機づけが低下し、他者への攻撃行動が増加することを明らかにしている。しかし、自由意志信念が否定されたときに他者の攻撃行動を観察した場合、他者への責任帰属の低下を通じて攻撃行動が減少する可能性もあり、そのことを示唆するデータも得られている(松本・櫻井・渡辺・唐沢,2014)。したがって、自由意志信念を検討する際には主体の影響など、実証的観点に特有な問題を考慮に入れる必要があろう。ただし、実証的観点と理論的観点は自由意志に関する多くの問題を共有しており、これまでの実験哲学および社会心理学の実証研究は過去の哲学理論の議論のもとで成立している。実際に、「自由意志は他行為可能性や行為者性と概念的に関連する」という哲学理論を土台として、自由意志信念の内容に関する実証的な検討が可能になった先行研究の例もある。そのため、今後社会心理学において自由意志信念に関する実証的な検討をおこなう際にも、哲学理論を参照することで、より適切なモデル構築やその修正ができるであろう。翻って、社会心理学における自由意志信念の検討は実験哲学的検討と同様に、両立性などの哲学の理論的問題に対して解決の一助となるかもしれない。
また、第3節では、社会心理学における知見や方法論が実験哲学の進展に寄与できることを議論した。つまり、実験哲学では人々の心理プロセスをあつかう研究がますます増えており、社会心理学者は自由意志信念などに関する心理プロセスの知見やそれを検証する方法論を積極的に提供することで、実験哲学の進展に寄与できると考えられる。一方で、社会心理学者は実験哲学の知見や実証的なプログラムを参照することで、これまでの議論を深化させたり、新たな研究手法を開発することも可能になると思われる。以上みてきたように、社会心理学が哲学理論や実験哲学と協働することは、いずれの領域の研究者にとっても意義深いものであり、今後もこれまで以上の協働が望まれよう。そしてそのうえで、自由意志信念に関する心的モデルの精緻化やそのモデルの適用可能性、哲学理論・実験哲学における知見との整合といった問題について、引きつづき検討することが求められる。