2023 年 38 巻 3 号 p. 62-63
自然資源の枯渇、「異常」気象の常態化、高齢化による社会保障費の増大、公的債務の膨張、財政破綻の可能性など、私たちの暮らす社会が本当に持続できるのかをめぐる問題は、日々の生活のあらゆる側面に、もはや誤魔化しようのない、具体的な姿を見せている。その一方、戦争、疫病、格差・貧困、経済停滞による社会不安は、私たちの関心を「自分たち・いま・ここ」に引きつける。
「未来よりも今」、「世界よりも身の回り」という切実な不安と、それで良いのかと思う心奥の憂いとの間で揺れながら、私たちは“とりあえず”、毎日の「安全・安心」(という信念)を保つことに腐心しやすい。本書は、こうした現代社会の根本的な葛藤を「世代間問題」として捉え、その射程と解決への道のりを論考した真摯な著作である。
最初に著者の廣光俊昭氏について、紹介させていただきたい。廣光氏は、財務省の行政官として主計企画官・主計官・総合政策課長を歴任した後、2021年夏季からは外務省に出向、在アメリカ合衆国日本国大使館公使を務められている。行政官としての傍ら、財務総合政策研究所の研究員として先端的な学術研究に取り組み、その成果を内外の学術誌・図書に公刊、2021年には一橋大学大学院経済学研究科から博士(経済学)の学位を授与された。評者は、西條辰義教授(高知工科大学)が主催したフューチャーデザイン第1回ワークショップ(総合地球環境学研究所,2017年11月)で初めて廣光氏と面識を得た。それ以来、行政官・研究者として超人的な活躍をされる廣光氏の姿に感服している。何よりも、以下で見るように、廣光氏の学術的著作の切れ味は、鋭く深い。
本書が扱う「世代間問題」とは、複数の世代(generation)に関わる利害対立をどう認識し、調整をどう考えるかという問題を指す。ここでの世代とは、いま生きている複数世代(若者・中年・老年)だけではなく、この世に生を受けていない将来世代をも含む。私たちが資源を蕩尽する能力が人類史上未曾有の水準に達したからこそ、「世代間問題」は、アクチュアルな問題として新たに浮上した。気候正義をめぐるGreta Thunberg氏の活動、SDGsなどの話題は、毎日のようにメディアを賑わしている。
しかし、「将来に配慮すること」は倫理的に見て、そう単純な話ではない。本書の第1章で廣光氏は、①時間的位置の隔たり、②将来世代についての無知、③将来世代の存在そのものが現世代の行為に依存していること、④世代間倫理の現実化の困難、という4つの論点を取り上げ、世代間倫理の射程を議論している。
たとえば、①の「時間的位置の隔たり」について見てみよう。「将来世代に配慮する」ことは、“当然の常識”にも思える。しかし、いったいどのくらい配慮すればよいのか? 無限に続いていく(はずの)将来世代の福利・効用を、私たちの福利と同じく割り引かずに等しく扱うとすれば、現世代の受け取る福利は限りなくゼロになる。現世代を「無限に続く人類」に奉仕する言わば“道具”として使うことの危険(宮崎,2003; Roemer & Suzumura, 2007)を避けるとすれば、どのような論拠に基づき、どの程度の「時間割引」が必要か?さらに私たちは将来世代の具体的な姿(ニーズや選好)を知らない(②)。将来世代の存在そのものも私たちの行為次第であり、生物学的性質を含めて属性を一変させてしまう(環境劣化に耐えられる人工身体を作る:宮崎,2003)かもしれない(③:Parfit, 1984)。そしてもちろん、世代間倫理を単なる「心がけ」を超えて行為や政策に具体化し、その実効性を担保することには、大きな現実的困難が伴う(④)。
廣光氏は、本書で、「世代間にもし道徳的な関係があるとすればどのような根拠に基づくのか」を論考する。「現世代が将来世代に一方的な責務を負う」という考え方ではなく、異なる世代間に「互恵関係」を見出し、世代間関係を「共同事業の関係」として捉える可能性を探る。
ここで読者は直ちに思うだろう——若者・中年・老年など現世代同士の互恵性はともかく、生まれてもいない将来世代と「互恵関係」を築く? 将来世代との「共同事業」? そんなことは端的に言って、論理矛盾では!?
しかし、待っていただきたい。将来世代との間に「公共的な互恵性」を築くためのロジックを整備し、その現実化可能性を探ること——廣光氏はこのチャレンジに向けて、以下のようなプランに立ち、哲学と経済学を駆使した議論を展開する:
「私たちは未来の人類に対して責任を負っている」
——この言葉は、SDGsが国際目標となったいま、メディアを含むさまざまな場面の常套句(cliché)になっている。しかし、「責務」として世代間倫理を捉えることは、現世代内での“共通理解”によって作られた一方的なものではないのか? 孤立した現世代が将来世代に対して与える「恩恵」である以上、「責務」の実行は、現世代の「心のありよう」にすべて委ねられてしまう。この脆さを乗り越え、世代間倫理を「責務」ではなく、「互恵性に基づく協力関係」に転換することはできないだろうか。第2章で、廣光氏はゲーム理論を用いて思考を進める。
世代間倫理に関わる意思決定に特徴的な問題は、「決定の逐次性」(sequentiality)にある。時間は一方向にしか流れない。逐次的な互恵性を考えるための道具として、下降型(descending)、遡上型(ascending)という2つの間接互恵性の概念はよく知られている。これらの間接互恵性の理念は、私たちの社会においても、教育や、賦課方式年金として制度化されている。しかし、いったん協力が崩れると協力の連鎖が以後途絶してしまう脆さのゆえに、長期にわたる世代間問題(世代1の行為は遠く離れた世代にも影響する)では、これらはうまく機能しない。では、どのような道筋が可能か?
ここで、廣光氏は、驚くべき提案をする。「直接的な協力関係」(“公共的互恵性”:Gotoh, 2009)を基盤に、世代間倫理を考えるという道筋だ。まだ生まれていない将来世代との間の直接的な協力関係!
このことを考えるために、まず次のような思考実験にお付き合いいただきたい。「あなた自身は普通に天寿を全うする。ただ、あなたが死んだ30日後、小惑星が地球に衝突し全人類は死に絶える。この事実を知ってしまったあなたは、自分の人生に無気力にならないだろうか?」
この“荒唐無稽”な設問は哲学者Scheffler(2013)の発案によるものだ。Schefflerは、人は自分の死後も人類が存続することを前提に、生存中の活動に意味を見出す存在だと考える。もし「死後の生の存続」に関心をもつことがヒトの中心的な本性(human nature)ならば、現世代と将来世代の間に共通のルール、すなわち「生の存続」を実現するという共通目標に向けて、直接的な協力関係(公共的互恵性:Gotoh, 2009)に入る契機が生まれる。
廣光氏は次のように論じる:「存続する価値のために応分の務めを果たすというルールは、ほかの世代がそのルールに従うことを期待できるとき、各世代が従うべき合理的なルールとなる。ルールの共有に関する期待があるとき、世代間で共同事業が立ち上がる。」
評者にはすとんと腑に落ちる考えだが、“老年”ゆえの独善かもしれない(齋藤・亀田,2018)。そこで、先の思考実験に挙げた「地球完全破壊シナリオ」を東京大学の学生118名(年齢中央値24歳)に聞いてみた(髙橋・亀田,2022)。図1に結果を示した。左側が自分、右側が「他の人々」が「どの程度無気力になると思うか」という質問への回答である。若い東大生たちは、自分はそう思わないと留保しながらも、「他の人々」は無気力になるだろうと回答した。この回答は、「生の存続の価値」が人々のコミュニケーションにおいて有効なナラティブ(Shiller, 2019)、あるいは規範として機能する可能性を示唆している。
つまり、現世代は将来世代に一方的な責務を負うのではなく、「生の存続」を実現するという共通目標のもと、将来世代との「共同プロジェクト」に参与する。廣光氏はこの洞察をゲーム理論により定式化し、その是非を一連の実験室実験により丹念に検討している(第3・4章)。詳細を紹介する紙幅は残されていないが、私たちの概念的追試(髙橋・亀田,2022)でも、廣光氏の実験結果と整合する結果が得られた。
哲学とゲーム理論に基づく廣光氏の論考は、一見すると抽象的だ。しかし行政官としての氏の真摯な実践を目にするとき、その背景にフィロソフィーがあることの豊かさ・強さ・リアリティを実感する。社会心理学研究者である私たちが、この著作から学ぶことはとても大きい。