2024 年 40 巻 2 号 p. 171
本書は,進化心理学という分野の考え方を読者に示す入門書である。進化心理学を学ぶと「モテるようになる」とか,「自分や他者の(よくない)欲望が説明できる」などの言説が一部で見られるが,進化心理学は決してそのような学問ではない。さらに,進化心理学とは,進化に関する心理学ではなく,進化の視点を通じて心理学の諸分野を理解しようとする学問である。つまり,進化の過程で人間の行動や心の働きがどのように形作られてきたかという観点から,心理学のさまざまな現象を考察する試みである。
本書の1章は『進化心理学とは何(ではないの)か?』と題され,進化心理学の考え方およびよくある「進化心理学」への誤解について言及されている。各節が非常に丁寧かつわかりやすく構成されており,以降の章を読み進める際の大きなガイドとなるだろう。
2章以降の章タイトルは,すべて『進化心理学と〇〇』となっている(例:2章『進化心理学と神経・生理』)。全部同じ形式なんだから〇〇部分だけで十分だろうと思われるかもしれないが,この章タイトルこそが重要で,本書を特徴づけている。進化心理学の考え方が心理学のさまざまな分野に与えた影響や,心理学の各分野の研究が進化の視点でどのように解釈できるかを示すことが本書の主旨である。進化心理学は従来の心理学に新しい説明の視座を提供(『まえがき』より引用)するものであり,その役割を読者に理解してもらおうとする強い意図が,章タイトルにも込められている。
6章『進化心理学と発達』は,従来の理論に進化心理学の視点を取り入れることで新たな人間理解にどのように役立つかが非常によく伝わる章である。具体例に基づき,従来の文化決定論だけでなく,進化の視点を加えた発達の理解が,学問的な人間理解の深化だけでなく,実社会の問題解決にも示唆を与える可能性が指摘されている。また,ある生物学的な傾向をヒトが持つことが「自然」で「良いこと」を意味するわけではなく,ヒトがそのような傾向を持つ中でどのように行動すべきかを考えなければならないという,進化心理学的視点を取り入れた人間理解とその応用に共通する注意点についても論じられている。
また,3章『進化心理学と感情』では,恐怖感情と嫌悪感情という同じ不快感情が,それぞれ異なる適応的な機能を持つ可能性がある事例を通して,進化心理学がいかに感情の機能や従来の情動分類に関する理解を深める手がかりとなるかが示されている。さらに,13章『進化心理学と教育』では,「どう教育したらよいか(悪いか)」という価値判断を伴わない,教育自体を自然現象とみなす新たなアプローチについて紹介されている。
8章『進化心理学と社会』で取り上げられているヒトの協力や社会性に関する研究は,進化心理学的観点によって大きく理解が進んだ分野である。人が利他的にふるまうことは一見自明に思われるかもしれないが,進化心理学の視点からは,ヒトが自らコストを払って利他的にふるまうこと自体が解明すべき重要な問いとなる。本章では,まず利他行動の進化に関する基本的な議論と概念が整理され,その後,集団間バイアス(内集団には好意的にふるまい,外集団には競争的・攻撃的にふるまう傾向;p. 93)に関する丁寧なレビューが行われている。研究初期から現在までの議論の展開や,残された課題についても明確に指摘されており,内集団ひいき,外集団攻撃,集団間葛藤といった社会心理学のトピックに関心のある読者には必読のレビューである。
本書全体を通して,進化心理学と神経科学の結びつきが重要な点であると読めた。多くの章で,ヒトの行動や心理とその生物学的基盤との関係を明らかにする議論が展開され,各心理学の研究分野に新たな知見や仮説をもたらす可能性が示されている。これは,2章『進化心理学と神経・生理』で述べられているように,進化心理学がさまざまな説明レベルを用いて人間の行動を理解しようとする試みが,計算論的神経科学の考え方に通じるからだろう。こうした議論から,現在の進化心理学が神経科学と結びつき,脳や神経といった「ハードウェア」において,行動や心の働き,そのメカニズムがどのように実装されているかを探求するアプローチをもとに発展していることがうかがえる。本書は,入門書としてだけでなく,こうした進化心理学の新たな動向を知るためにも充実した内容である。
もう1つの重要な点は,同じく多くの章で挙げられている「どこまでが進化で説明できるのか」という問題であろう。人間のすべての行動や心理が進化的に獲得されたものであるとは考えにくいことは,本書の各所で触れられている通りである。しかし,7章『進化心理学とパーソナリティ』において「通文化的に存在する,人を5つのパーソナリティの次元で見る傾向がどのように進化したのか」という研究の可能性が示されているように,どのような行動や心の働きを進化心理学の観点から理解できるかについては,さらなる検討の余地があるように思われる。
本書の対象読者は,概論の授業や書籍で心理学の各分野を一通り学んだ人であると思われる。これらを学んでいないと,読み進めるのが難しく感じられ,進化心理学の視点がどのように新しいのか理解するのも容易ではないだろう。多くの人に,本書を通じて従来の研究を新たな視点で捉え直し,世界を広げることの面白さを感じてほしい。