2026 年 41 巻 3 号 p. 169-170
書名から誤解されるかもしれないが,本書で紹介されているのは神経科学的研究だけではない。本書の守備範囲はもっと広い。まず第1章にて,文化神経科学・文化心理学にとっての「文化とは何か」が重点的に論じられる。続く第2章では,文化心理学の数々のユニークな実験が紹介され,認知・感情・自己の基本的なありようが文化によっていかに異なるかが語られる。第3章では,社会生態学的要因(e.g.,生業,流動性)を組み込んだ研究が紹介され,「西洋は~,東洋は~」といったステレオタイプの打破が試みられる。その後,第4章にて神経科学的研究が紹介され,第5章で遺伝子に話が及ぶ。第4・5章が本書のハイライトと言えよう。展開もダイナミックである。第4章でミリ秒単位の知見が語られた後,第5章で約4.5~6万年前の出アフリカについて語られる。この幅広さと規模感は,20数年前(評者が研究者を志し始めた頃)の文化心理学にはなかったように思う。本書の著者はじめ,この20数年間に貪欲に研究を進めてきた諸研究者の努力と力量に圧倒される。
さて,文化とは何か。本書からは,文化という概念への著者の強い思い入れを感じ取れる。著者は,人類学者クリフォード・ギアツから文化観を受け継いでいる。文化とは,個々人の表面をただ覆うマントのようなものではなく,もっと内側に「染み込」んでおり(p. 5),個々人を拘束するものだという。また,文化は「観念体系」であり,その構成要素は「意味や象徴作用を持っており,人の行動や認識を暗黙のうちに規定する」(p. 3)。さらに,ここでの「意味」は集合現象として成立するものであり,「各人の勝手な判断では決められない」(p. 3)。著者は紙幣を例に出す。千円札という「紙っぺら」が意味するものは,各人の勝手な判断では決まらず,社会を構成する人々がそれをどう扱うかという行為の中で集合的に形成される。すなわち,文化は,個々人を拘束するだけでなく,個々人によって作り出される。著者は,個人による「日頃の文化的習慣への参加は,むしろその文化を作り出すことでもある」(p. 4)とし,人間の能動性を強調する。著者が人間を「能動的」だという時(p. 4),それは(評者の理解では)観念体系が集合的に形成されるという見地と深く結びついている。文化は,個人の自由になるものではないが,同時に,個人が作り出してもいる。この矛盾しているかのような関係性は,まさにマイクロ–マクロ・ダイナミクスである。以下,このマイクロ–マクロ関係を論じた本書から評者が得た2つの着想を述べる。1つはマイクロについて,もう1つはマクロについてである。
1. マイクロについてギアツ的な文化観のもとで脳を調べる意味は何か。1つには,文化がどのように心理に影響するかを記述する際の有用性が挙げられるだろう。文化はマントのような表面的なものではなく,もっと内側に染み込むものだという。しかし,マント的な文化観は今も(陰に陽に)広く支持されているようだ。著者はこれに対し,行動・認知指標に加えて脳内指標も合わせて考えるアプローチを展開する。行動・認知・神経活動といった複数レベルで知見を積み重ねることは,可能な解釈を限定する役に立つ(e.g.,亀田,2022)。本書でも,そうした解釈の絞り込みが試みられている(例えばpp. 109–110やpp. 126–127)。この試みは人間がどこまで文化的かを問うており,人間像の根幹に関わる重要な問いと言える。
しかし,マント的文化観を仮想敵に位置づけて考えた時,どうも納得しにくさを感じることがある。こうした知見を積み重ねることは,マント的文化観の否定につながるのだろうか。そもそも,どのような知見が得られればマント的文化観は否定されるのだろうか。脳のどこで活動が見られたとしても,この仮想敵は,「その脳の反応は,マントでも生じる」などと言ってすり抜けようとするのではないか。この文化観は,あまりにも曖昧で,何を言ってもゆらゆら・ひらひらと逃げるのではないか。
つまるところ重要なのは,明確で反証可能な予測を立てられるかどうかだろう。ひょっとすると,ギアツ的文化観vs. マント的文化観という構図は,実体のない霞を相手にしているがごときであり,そもそも「勝負になっていない」のではないか(もちろん,一研究者の内なるモチベーションとしては,こういう勝負にならない勝負を挑まざるを得ず,そうした勝負が日々の研究活動を支えることはあるが,それはそれとして)。文化差があるかないかではなく,どうあるかを調べる段階においては,霞を相手にするより,もっと明確な理論から複数の対立する予測を立てるアプローチが効果的になると思われる。
文化の影響がどう表れるか(e.g.,どの部位でこそ差が生じるか)について複数の対立する予測を立てるなら,効果的なのはおそらく認知・意思決定メカニズムの理論との接合だろう。神経科学に疎い評者がこの先を論じるのは危険極まりないが,何か例がないと話が進まないので挑戦する。例えば,モデルフリーシステムとモデルベースシステムの区別はどうだろうか。坂上(2009)によれば,この2つの意思決定システムにはそれぞれ特徴がある。モデルフリーシステムは「状況に依存しない確率依存の価値生成に関係」(坂上,2009, p. 7)する。これに対し,モデルベースシステムは「生体の行動選択に柔軟性を与え」,「行動決定に先立ってシミュレーションを可能に」し(坂上,2009, p. 6),状況に応じた判断をもたらす。つまるところ,2つのシステムは状況への柔軟さが異なる。例えば選択行動において文化差が確認された時,それはこの2つの意思決定システムとどう関わるのか。思えば,行動の文化差が見出された時,それが頑健な選好によるのか,それとも状況に応じて柔軟に変わる行動方略なのかはよく議論される(e.g., Yamagishi et al., 2008)。神経科学理論と接合し,理論に裏打ちされた具体的で明確な予測を検証していくことの価値は高いはずだ。
2. マクロについて本書が強調するのは文化の集合性と人間の能動性である。個々人は日々のあらゆる局面において文化/観念体系に埋め込まれた意味に規定されながら行動し(例えば紙幣を使って買い物をし),そうした行動が集合的に観念体系を作っている。この集合性と能動性をともに持つ概念を,評者は他にも知っている。ゲーム理論のナッシュ均衡である。ナッシュ均衡とは,個々人が選択を行う局面で,「自分一人だけが戦略を変えても得をしない(ということがすべての人について成り立っている)状態」(神取,2014, p. 310)を指す。この時,プレイヤーAの戦略は,プレイヤーBの戦略を所与にすれば最適の戦略だとしても,Bが戦略を変えるとAの現戦略が最適でなくなる可能性がある。その意味で,現在のマクロな状態を作っているのはAやBといった個人の行動だと言えるし,同時に,AやBが一人でその状態を作っているわけではなく,集合的に作っている。ナッシュ均衡の概念は,本書の文化観と相性が良い。
「いや,そんな誘引構造でガチガチに縛られた人間像は能動的ではない」と思われるかもしれない。しかし,評者の見解では(別にゲーム理論に詳しいわけではないので,やはり危険極まりない議論展開になるが),誘引構造を考えるアプローチがロボットのような人間を想定しているわけではない。社会科学の理論が対象とする現実世界においては,誘引構造が常に明確なわけではない。むしろ,不明確なことが多いだろう。人間は,不確実でよく見えない世界に身を置き,自分の行為の帰結を確信できないまま,日々の意思決定を行っている。ヒューリスティックなどの心的ツールも駆使しながら,よく見えないながらも刺激と帰結の関連性を見出しながら意思決定をしている。そうした行動のひとつひとつが,社会(マクロ)の状態を規定する。集合的な文化と能動的な人間という本書の描く姿は,評者にはこのように解釈された。
もちろん,無理にナッシュ均衡で考えないといけないわけではないし,「ナッシュ均衡と同じだ」などと言われれば,著者はきっと不満だと思う。それは評者が言いたいことではない。しかし,概念間の共通点を見出し,違う概念で置き換えて考えてみることは,スコープを広げる効果があると評者は信じている。また,ナッシュ均衡などゲーム理論の概念と文化をつなげて考えることにはメリットがある。文化はマクロな存在だが,マクロはマイクロと必ずしも対応しない(e.g., Watts, 2011)。そんなマクロをどう捉えるのか。ゲーム理論を含め,数理モデル化することは,非線形の関係を考える上で有用であるし(Turchin, 2003),「言葉による推論では到達できないインプリケーションを仮説として導出できる」(浜田,2022, p. 2)。何とも捉えがたい文化なるものを捉える上で,大きな力を発揮するはずだ。
さて,評者自身にできないこと(神経科学理論との接合,数理モデル化)ばかりを書き連ねた。恥ずかしい思いで一杯だが,「今はまだできなくても,まだ頑張れる」と思えるようになったために書いた。そう思わせてくれたのは本書である。
本書では(特に第5章で),研究者としての著者の苦闘を追体験できる。真摯に貪欲に研究を続ける著者が,今どのような壁に直面しているかが丁寧に語られている。著者は現在進行系で苦悩する研究者であり,その姿を惜しみなく披露してくれている。しかも,苦悩する姿を見せながら,最後に著者は自身について次のように言う:「その姿はよれよれで,眉間にも皺がよっているかもしれない。しかしながら内実これほど幸せなことはない」(p. 172)。追う者にとって,これ以上ない「研究者の背中」を見せられた。