2018 年 15 巻 p. 31-48
19 世紀末から20 世紀初頭にかけてのシカゴは,社会学とソーシャルワーク
が袂を分かった象徴的な場といえる.市内には,セツルメント「ハルハウス」
とシカゴ大学社会学部があった.ハルハウスのアダムスらは近代的な都市が抱
える社会問題の解決に取り組み,ソーシャルワークの源流の一つに位置付けら
れている。これに対し,シカゴ大学のパークは都市を実験室と位置付け,アダ
ムスらの調査方法を女性がするものとしジェンダー化することによって,社会
学を差異化していった.
しかしながら日本では,このジェンダー化は成立しなかった.20 世紀前半
の日本の「ソーシャルワーカー」の多くは男性で,ジェンダーロールの反転現
象がみられたのである.当時の日本の研究者や実践家は欧米のソーシャルワー
クを精力的に学んでいたにもかかわらず.
本稿では,日本のソーシャルワークと社会学領域の間にある「社会的なもの」
の解釈の違いを踏まえたうえで,日本で初めてソーシャルワークを実践した方
面委員の多くが男性であったという事実を検証した.戦前は地域の有力者や素
封家の家長が名誉職として方面委員となることが多かったが,現在では,女性
の民生委員が6 割を超えるようになるなど,変化を遂げてきた.この変化は参
加の動機づけや地域社会,価値観等に変化があったことを示していると考えら
れるが,「社会的なもの」を自助と公助と共助(互助)と捉える観点は今も強
固である.