慶長9年 (1605年2月3日) の津波波源が, 2個分離型か, 1個合体型かは, 日本社会の直面する最重要問題のひとつである. 海洋学知識が普及していない時代には, 八丈島 (含・小島) の被害パターンが重要な鍵と考えられた.
戦後の動乱期に, その情報が日本に入り, 貿易風による大波と津波の複合という重要考察が読み落され, 1946年のアリューシャン津波が超巨大津波と想定された情況に似る.
筆者らは延べ8年間の, 八丈島をめぐる1月, 2月の季節風風向の統計を求め, 八丈島の被害パターンは, 非常に高い確率で, 季節風による大波に若干の津波が重なったものによるとして説明し尽されることを示した.
これにより, 静岡県の多数の寺の過去帳が1605年2月3日の人命損失を記録していないことを, 分離型震源との結論の鍵と考えても後顧の心配がないことが示された.
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