ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は大きく分けて、言語についての議論と生についての議論からなっている。この『論考』の解釈に関して重要な一般的問題は、こうした2つの議論をどのように関連付けて、『論考』をいかに統一的に理解するかということである。この問題は、ウィトゲンシュタインの哲学をどのように統一的に理解するかという問題とも関連していく。しかし、本論文において私は、これらの問題に答えることを目指してはいないし、統一的なウィトゲンシュタイン像を構築しようと試みてもいない。私には、ウィトゲンシュタインこそが1つの謎であるように見える。謎に対して1つの統一的像を押し付けることにそれほど意味はない。さらに本論文は、何かに役立つという視点からウィトゲンシュタインに接近しない。ときに、「21世紀の今こそ私たちは、ウィトゲンシュタインから学ぶべきである」といった提言がなされる。しかし、ウィトゲンシュタインの哲学から、現代社会にとって何かすぐに役に立つ思想を引き出すことができるとは思えない。人には、世界の見え方が一変するときがあるだろう。本論文は、私が、世界が一変するという経験をしたときに、ウィトゲンシュタインと彼の哲学の様相がいかに変化したかについて述べたものである。この様相の変化の重要な側面は、ウィトゲンシュタインにとって哲学とは人生そのものであったという理解と、ウィトゲンシュタインの哲学の本質をなす、〈語りうるもの〉と〈語りえぬもの〉の対比をめぐる洞察である。