抄録
近年、当事者研究やオートエスノグラフィの形で、自らのマイノリティ体験が表現されたものを目にすることが増えてきた。筆者らが関わりを持つ日本語教育の中でも、日本語の母語話者規範や日本語の所有権を批判的に考えるために、非母語話者が書いた物語を読んだり、いわゆる「日本人」ではない人が書いた自伝的物語を読むことも増えてきた。しかしながら、そのような体験の書き手、語り手は、その語る/書くという行為をどのように感じているのか。また、それらを読むことは「共生」につながるのか。本フォーラムでは、日本語教育に従事する三人が、マイノリティ体験を読む、語ることについて話し合った。話し合いの中では、日本語教育の実践の中で、日本語、および日本文化の正統性をめぐる葛藤が生じていること、マイノリティ体験が消費されていると感じること、マイノリティ体験を語ることが語り手自身を疎外する体験となっていることが言語化された。これらの点は、論文にはなりにくいが、当事者研究、オートエスノグラフィに対する大きな問題提起となっており、オートエスノグラフィを読むマジョリティ側が問われている現状を浮き彫りにした。