教育哲学研究
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道徳の普遍的法則に基づく教育の可能性
愛国者と世界公民
倉本 香
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2001 年 2001 巻 84 号 p. 71-86

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抄録

周知のように、カントは道徳理論において、ア・プリオリに自ら立法した道徳法則に従って自己規定する主体が自律的主体であることを明らかにしたが、カントが一七七六年から一七八七年にかけて断続的に行った教育学講義からは、カントが教育の中心は道徳的陶冶にあり、その最終目的は世界公民的見地から世界福祉に関心を持つ人間、即ち、世界公民の育成にあると考えていたことを読みとることができる.つまり、カントの教育論はカントが道徳理論で明らかにした自律的主体の形成理論として解することができるのである。その際、カントが自らの教育理論を実践するものとして評価した汎愛派のバゼドウとの思想的連関に着目してみたい。カントが教育学の講義でバゼドウの著書を教科書として使用し、さらにカントがバゼドウの汎愛学舎を支援したことは有名なエピソードであるが、当時の学校には根本的な欠陥があると考えていたカントにとって、体罰や無意味なコトバ知識の暗記に頼った従来の教育方法を批判して「人間の友 (Menschenfreunde) 」としての実践的市民の育成という教育理念を掲げたバゼドウの学校は、「自然にも全公民の目的にも適合した教育施設」 (II 447) と思えたようである。しかし、「明らかに徹底的に堕落している」学校教育の改革構想を世に問うたバゼドウが目指したのは、人間の友としての実践的市民、即ち「愛国者 (Patriot) 」の育成であり、カントが目指したのは世界公民の育成であった。すると次のことが問題となってくる。カントが愛国者の育成を目指したバゼドウを評価するのはなぜか、愛国者への教育と世界公民への教育はいかにして両立し得るのか、という問題である。従来ほとんど着目されることがなかったカントとバゼドウの思想的連関について本論文ではこのような観点から考察し、以下のことを明らかにしてみたい。 (1) カントとバゼドウの接点は、道徳的品性樹立のための指導者への服従・従順という「徳の訓練」を重視する点において認められるが、「徳の訓練」は「法則的強制への服従と自由の使用とを結合」 (IX 453) して自律的な実践的主体を形成するためのものとされること、 (2) 世界公民である自律的・実践的主体を同時に愛国者にもなし得るためには反省的判断力の原理が不可欠であるが、しかし (3) ア・プリオリな普遍的法則と反省的判断力との協働は、カントが考えた、自己の行為の道徳性を判定する厳密な基準を「あたかも道徳的であるかのように」合目的的に考えられた別の基準にすり替えてしまうことに等しく、そのために、本来ならば道徳法則に従う自律的な世界公民のための教育が、自己を「あたかも道徳的であるかのように」思いこむだけのたんなる愛国者の育成となってしまう可能性があることを指摘する。 (4) そして最後に、ア・プリオリな道徳法則によってのみ意志が規定されるというカント実践哲学の基本的枠組みを再度見直し、道徳性の超越的な基準とともに普遍的法則を自らに対して与えるということが自由な行為の可能性の制約そのものであり、この制約によってのみ世界公民への教育が可能となることを確認したい。

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