蝶と蛾
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ブルガリアにおけるベニヒカゲ属蝶類の系統地理
中谷 貴壽宇佐美 真一伊藤 建夫
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2012 年 63 巻 1 号 p. 25-36

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抄録

バルカン半島は,イベリア半島,イタリア半島と共に氷河時代には,南方系生物にとってレフュジアとして機能していたため,ヨーロッパ産生物多様性のホットスポットとして知られる.バルカン半島とは一般にドナウ川より南を指す.西側にはDinaric Alpsが北西から南東方向に連なり,最高峰はProkletije(2,692m)でヨーロッパで五指に入る大山脈である.その南端では東西に連なるBalkan Mts(最高峰はBetov, 2,376m)と,南北に連なるPindos Mts(最高峰はKatafidi, 2,393m)に分かれる.蝶類はブルガリア214種,ギリシア232種に達し,地域の面積からすると蝶類の種数でも多様性が高いことが伺われる.サンプルとして,ブルガリアの北部(West and Central Balkan Mts)および南部(Rodopi, Pirin, Rila Mts)で採集したErebia属10種65個体,およびスイス,イタリアなど中欧,および中央アジア産の10種11個体を用いた.ミトコンドリアの遺伝子領域としては,種内変異の解析によく使われるND5の一部(432bp)とCO1領域の一部(510bp),合計942bpを使用し,得られた塩基配列を比較してハプロタイプを決定した. ブルガリア国内産と中欧産個体群間の遺伝距離にみられるパターン ブルガリア国内におけるハプロタイプの分化と中欧産との遺伝距離を比較すると,3つのパターンに分類することができる. (1)遺伝距離がほぼ地理的距離に比例しているパターン 近隣個体群間では遺伝的交流が認められるが,近距離の個体群間では認められない,いわゆる距離による隔離機構(島モデル)が働いていると想定されるパターンである.このグループに属する種としては,E.aethiops,E.euryale,E.medusaがある.いずれも針葉樹林帯の草原に生息する広域分布種で,その生態的特性からも推定されるパターンであって,氷河期に分布が分断されたものが,温暖期における森林帯の拡大に伴って分布を広げたと推定される. (2)個体群間の地理的距離とは相関のない遺伝距離が認められるパターン 過去に複数のレフュジアに生殖隔離されることで固定された複数の系統が,その後に分布を拡大して混生地を生じたり,あるいは地理的に至近距離で対峙している分布型であり,何らかの系統地理的要因のあることが示唆される.E.oeme,E.ligeaが属する.E.ligeaは前のグループに属するE.aethiops,E.euryaleと類似の環境に生息し,しばしばこれらの種と同所的に見られる場合が多いにもかかわらず,ブルガリア北部のバルカン山脈産と南部の山系産の個体群間の遺伝距離はきわめて大きい.さらにバルカン山脈産のハプロタイプはスイス産個体群と,またブルガリア南部山系産個体群は地理的に遠く離れた中央アジア(モンゴル)産の個体群と遺伝的に極めて近縁であることが判明した.E.ligeaはヨーロッパからユーラシア大陸の中緯度地域に沿ってロシア極東,日本列島にまで広域分布する種であるが,東西2系統に分断された個体群が,その後に分布を拡大しバルカン半島の中部で両系統が対峙していると想定される.今後大陸各地においてサンプル地点を増やすことで系統地理的な全貌を解明する必要がある.E.oemeはヨーロッパ地域特産で,中欧のアルプスでは針葉樹林内の草原に生息し分布は局限されるのに対して,ブルガリアでは森林限界より上の草原にも広く分布し個体数も多い.西はピレネー山脈から東はカルパチア山脈・バルカン半島に分布し,いくつかの亜種またはフォームに区分される.バルカン半島産は東オーストリア産と共に大型で,斑紋がよく発達する特徴を持ち亜種spodiaとされるが,北部ブルガリア産と南部ブルガリア産個体群の間の遺伝距離は大きく,遺伝距離と形態的特徴の類似性には相関性がない.両者の個体群は,その遺伝距離の大きさからみると最終氷河期以前からの別々のレフュジアに隔離分布していたことが示唆される. (3)中欧産個体群との遺伝的距離が大きいパターン 中欧産個体群との遺伝距離が大きいグループである.最終氷期よりも前に分布が分断され,その後の寒冷期にも遺伝的交流がないまま現在に至っていると想定される.E.pandrose,E.alberganusが属する.E.pandroseは森林限界付近の草原に生息するが,E.alberganusはさらに低標高の針葉樹林内の草原にも生息する.スイスでは高山草原でも草丈の高い草原にのみ見られ,食草が限定されているのかもしれない.このような離散的分布域をもつ北方系蝶類の一部の種は,最終氷期よりも前に分布が分断され,その後の寒冷期にも分布を拡大することができなかったと推定される. バルカン半島固有種 バルカン半島にはE.rhodopensis,E.orientalis,E.melasの固有種が知られているが,これらの内E.rhodopensis,E.orientalisについて解析できた.バルカン半島が主たる分布地のE.ottomanaもこのグループに属するものとして扱う.E.rhodopensisは中欧に分布するE.aetheopellaと近縁であり,森林限界付近の灌木帯に分布の中心があり,Bezbog Chalet(Pirin Mts)やGrqnchar Chalet(Rila Mts)では標高2650m以上の岩礫帯でもみられた.調査した範囲では遺伝的変異は認められなかった.E.ottomanaは中欧で多様な種分化を遂げたtyndarusグループに属し,フランス南東部とイタリア北部にも分布するが,バルカン半島が主たる分布域である.広域分布型のハプロタイプが北部バルカン山脈と南部Rila山系から見出され,同じ型はモンテネグロ産個体群からも検出された.ネットワーク樹に示すように,この広域分布型ハプロタイプを中心にして,1塩基置換のハプロタイプがRodopi Mtsに,2塩基置換のタイプがPirin Mtsと中欧(イタリア,Monte Baldo)に分布するスター型の構造を示す.本種はtyndarusグループの中では近東に分布するE.iranica,E.graucasicaと共に古い系統に属する種であって,バルカン半島から中欧(イタリア北部,フランス南東部)へ進出したものであろう.E.orientalisはRila Mtsのみから得られたため,ブルガリア南北の個体群間の比較はできなかった. 遺伝的分化の歴史 日本産高山蝶の各種については,筆者らによる大陸産の同種と遺伝的差異を比較検討した研究,および日本列島内でのハプロタイプを解析した研究がある.本州は最終氷期には大陸や北海道と陸続きにならなかったため,本州に遺存分布する高山蝶は最終氷期より前の寒冷期に大陸から渡来したものと考えられる.したがって本州の例と比較することで,バルカン半島での生殖隔離が始まった年代を推定することができる.分布した遺伝領域ND5とCO1の塩基置換数をまとめるとTable2のようになる.中欧とブルガリア産個体群間の塩基置換数は,分布が離散的なE.pandroseとE.alberganusは4〜6である(Table 2a).一方本州産高山蝶のクモマツマキチョウ,ミヤマモンキチョウ,タカネキマダラセセリは,大陸産と本州産個体群の塩基置換数が5〜7である(Table 2b).これらのデータから,離散分布型のErebia属蝶類が中欧とブルガリア間で生殖隔離した時期は,最終氷期より前の寒冷期であると示唆される.すなわちヨーロッパとアジア東部において,ほぼ同時期に北方系蝶類の個体群が隔離分布するような気候環境であったことが示唆される.またこれらの種の中欧とバルカン半島の個体群が,最終氷期を通じて遺伝的交流がなかったことは,寒冷期とはいえ北方系蝶類のすべてが分布域を拡大できたわけではないことを示唆している.同じくTable 2aによると,中欧とブルガリア産個体群間の塩基置換数は,広域分布型のErebia aethiops,E.euryale,E.medusaでは1〜2であり,最終氷期以降も遺伝的交流があったことが示唆される.またブルガリアの南北個体群間では,広域分布型のErebia aethiops,E.euryale,E.medusa,およびバルカン半島が発祥の地と推定されるE.ottomana,バルカン半島固有種のE.rhodopensisにおいては,E.aethiops以外は広域分布型のハプロタイプが南北の山域に共通して生息しており,ごく最近まで遺伝的交流のあったことが示唆される.バルカン半島で系統分岐の推定されたE.ligeaは系統地理的に極めて興味深い事象であって,今後さらにサンプリング地点を増やして,主要な分布域をカバーする集団の遺伝的構造を明らかにする必要がある.

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© 2012 日本鱗翅学会
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