2015 年 2 巻 p. 138-156
Pakistan is geographically situated between China and the Gulf. In order to balance its strategic position against the major security threat of India, Pakistan formed a special and stable strategic alliance with China against common threats since the period of the cold war even though the two countries have neither a political ideology nor political system in common. On the other hand Pakistan established another special relation with Saudi Arabia on the basis of Islamic identity. With its expanding economic capacity, China proposed a project by the name of “new silk road economic corridor” with the intention of expanding and multiplying trade routes with the Middle East and Europe.
Within this framework Pakistan is expected to expand the role of an alternative land route that connects the Gulf and China for use if unfavorable emergencies occur in the Malacca route. However, the continuous political uncertainty in Afghanistan after the pullout of US-NATO fighting forces at the end of 2014 and sporadic outbreaks of terrorist acts by Pakistan Taliban in Pakistan have increased China’s anxiety regarding Uyghur issues at home. Avoiding military options for the moment, China is trying to find ways to play an active role in the security issues of Afghanistan with help from Pakistan if available.
On the other hand, it is noteworthy that the Pakistani government formed in the general election of 2008 completed its full term and transferred authority to the newly elected government in 2013, something never observed before in Pakistan’s history. Coincidently, in Afghanistan the presidential election was carried out peacefully in 2014 in spite of the Taliban threat. Although it is too early to make any definite conclusion, constitutional processes, in spite of their defects, reflected to some extent wishes for normal life of the people of Pakistan and Afghanistan who were disgusted with weak governance and the prevalence of terrorism.
東アジアの枠を超える中国の国際的なプレゼンスの増大は、今日の国際政治の動向を見る上で極めて重要な要因となったことは論を待たない。中国の経済規模に見合う化石燃料の需要拡大は、湾岸を中心に中東世界との経済的関係を不可欠なものとしている。本稿は、その中国が今後、中東世界とどのような関係を展開していくかに関して、地理的にその間に位置している南アジア、特にパキスタン・アフガニスタンの動向と関連させて考えることを課題としている。中国と中東を直接結びつける議論は少なくないが、第1に中国・中東関係において南アジアが果たす地理的な意味での両地域の輸送などの連結性(Connectivity)の観点が一層重要になった点を見逃せない。第2に、アフガニスタンやパキスタンのイスラーム主義運動の展開は、「内政不干渉」の立場から中国にとって無関係だという方針を維持できるかどうかという新たな挑戦を見せていることである。米NATO軍撤退後のアフガニスタンでのターリバーンやアルカーイダの動向、パキスタンで政府軍も手を焼き始めたイスラーム主義過激派の中国へのスピル・オーバーの危険性は無視できなくなる可能性があるからである。本稿は、この側面に一定の光を当てようとするものである。
中東・アラブ世界の変動は、2014年6月の「イスラーム国」の登場のように、イスラーム主義政治運動は今までの国家間秩序を支えたサイクス・ピコ体制などを崩そうとする別の「領域国家」の存在形態を主張しており、多様な分離独立運動に刺激を与えている。新疆ウィグル自治区における民族問題を抱える中国にとっても一つの挑戦と見ることもできる。また「アラブの春」が従来のアラブ諸国の支配体制に与えた衝撃は、2013年7月の軍事クーデター後のエジプトとそれを支えるサウジアラビアなどのムスリム同胞団に対する厳しい対応に反映されている。他方、ムスリム同胞団に対する対応の相違はアラブ湾岸諸国内の対立も生んできた。サウジアラビアとイランの間のいわゆる「冷戦」は相変わらず厳しいものがあるが、スンナ派とシーア派という宗派間対立が独自のモメンタムとしてパキスタン国内、あるいは「イスラーム国」を巡る対立の中で、その激しさを増している。
中東イスラーム世界の不安定性を加速させている要因には、オバマ政権の中東政策の動揺と予測困難性があり、そこには米国の国際政治上の相対的な地位低下がある。中国などが対中東政策の独自の選択肢を多様化・柔軟化させる必要性を示唆している。2014年11月の米中間選挙で共和党が勝利し上下院で多数を占めたことは、対中東政策においてオバマ色を薄める強硬路線が出てくる可能性を生んでいる。
またもう一つ無視できないのは、直接的には2014年初頭以降のウクライナ問題を巡る西側諸国によるロシア封じ込めの動きである。ロシアによるクリミア半島の併合は、セルビアからのコソボの独立と無関係ではないが、冷戦終焉以降の国際秩序が揺るぎつつある一面を示している。ウクライナ問題の複雑さは、西側諸国のロシア制裁やロシア弱体化政策にイスラエルを含む中東・アラブ世界が必ずしも同調していないことである。2014年3月24日、ロシアはG8参加資格を停止されたほか、米国およびEUはロシアの特定の個人や組織・企業に対して、それぞれ旅行禁止など、独自の制裁措置を発動してきた。米欧側が経済制裁を重視している背景には、対イラン経済制裁がイラン側の軟化を引き出したという「成功体験」が支えになっていると見られる。EUはロシアの5大銀行、3エネルギー企業、3防衛企業との取引停止などの措置1をとったが、これはロシア経済にとって大きな打撃となりうるものである。しかしプーチンの逆制裁は西側の対ロ輸出に影響を及ぼし、ロシアの石油ガス輸出にも影響を与える。この間隙を縫う形でロシアと中国・インド・トルコ・エジプトなどとの貿易が加速化される可能性が生じている。
さらに欧州諸国との関係がパレスチナ問題を巡って一定の緊張を生んでいるイスラエルが、新興経済圏と経済関係を深めようとしていることも新たな動きである。特に兵器とその技術の輸出を巡ってのインド・中国・ロシアなどとの交流の強化は、イスラエルの外交戦略の重要な構成部分となりつつある。
このような背景のなかでオバマ政権の動きを見ると、現在の国際秩序に対する脅威が、ロシアなのか「イスラーム国」なのか、あるいはイランの核開発なのか、どこに重点を置いているのか揺れているように見える。米政府内の相違、あるいは米政府と議会との関係などがオバマ政権の政策に反映しているためと見られる。
2014年半ばから顕著になった予期せざる油価の半減という大暴落は、イランを含む湾岸諸国あるいはロシアのような産油国にとっても大きな打撃であり、中東世界を経済的政治的に揺るがすもう一つの要因となりかねない2。石油輸出国と輸入国で受ける影響は大きく異なるわけであるが、この油価問題で極めて注目すべきことは、OPECが減産政策を放棄しているばかりか、一層の価格の低落さえ容認する姿勢を見せていることである。その目的は、競合するオイルサンドやシェール・オイルからOPECのシェアを守ることであり、油価が戻れば競合油種の採算性が取れるようになり、OPECのシェアを奪うことになりかねないからである。これはシェール・オイルなどの新参者に打撃を与えようとする挑戦の意味を持っている。
前記のように、中東を巡る今日の情勢は極めて流動的となっており、そこでは「アラブの春」を引き起こした社会変動、「イスラーム国」などを生んだ既存の国際秩序への意識的な挑戦など、いわば「下からの」流動化を促す変動が起きている。大きな枠組みを構築し維持するだけの強力な指導力を持った米国などの「上からの」力に部分的なほころびが見られることも、不安定化の要因となっている。現段階は冷戦崩壊直後に生まれた国際的枠組みが挑戦を受けており、世界は新たな国際秩序を模索する段階に入っているといえよう。そのなかで政治・安全保障面では中東地域の新参者的側面を持つ中国が徐々に役割を増大せざるを得ない状況に追われている。アフガニスタン・パキスタンは中国にとって国境を接し、かつ国内のウィグル問題との接点もあり、その中東政策を試される場所ともなっているのである。
まずここで取り上げるパキスタンについて、その有する特殊な重要性を指摘しておきたい。第1に、パキスタンは非アラブ世界で、2億人近くのムスリムを抱える大国であり、イスラーム世界に対する思想的イデオロギー的影響が大きいことである。建国の経緯からして、イスラーム世界に属するというアイデンティティーは極めて重要な意味を持っている。イスラーム協会(ジャマーティー・イスラーミー)の指導者マウドゥーディー(1903~1979)がエジプトのムスリム同胞団のサイード・クトゥブ(1906~1966)に与えた思想的影響力はよく知られているし、イスラーム経済論・金融論において理論的指導性を発揮している学者にパキスタン人が極めて多いことも知られている。第2に、パキスタンにおけるイスラーム主義政治運動の役割が1970年代以降急速に大きくなっており、ソ連のアフガニスタン侵攻以降、一部ではその過激化が進んでいることである。特にパキスタン・ターリバーン運動(Tehrik-i-Taliban Pakistan: TTP)は今世紀に入って軍を含む政府機関との武力対立やテロを激化させてきた。しかし同時にアフガニスタンを主たる舞台とするアフガン・ターリバーンに対するパキスタン軍の姿勢は融和的であり、それが問題を複雑化させている。他方では、パキスタンを憲政の常道に戻そうとする動きも小さくはなく、議会制民主主義が機能している側面もある。パキスタンは議会制民主主義とイスラーム主義の対立が最も厳しい時期を迎えており、その帰趨が中東・イスラーム世界に与える影響は大きい。第3に、パキスタンは、製造業など経済活動・技術水準においてイスラーム世界における地位が最も高いといってよく、その面での影響力が大きい。1998年には自国で開発製造した核爆弾による実験を行い、今日事実上の核兵器保有国とみなされている。またパキスタンは米国金融資本のゴールドマン・サックスによって新興経済圏(Brazil, Russia, India, China and South Africa: BRICS)に次ぐ可能性のある新興経済圏、いわゆるネクスト・イレブンの一国と見られている3。パキスタンの経済力・技術力は軽視すべきではない。
南アジアでパキスタンはインドに次ぐ大国であるが、インドとの対抗がすべてに優先されていることはパキスタンの安全保障政策を理解するために重要である。このパキスタンが特殊関係といってよい緊密な関係を有する国が3つある。それは米国、サウジアラビアと中国である。すべて何らかの形でパキスタンにとっての安全保障、つまりインドと対抗する上で不可欠な存在と理解されている。パキスタンを理解する3つのAが重要だという俗諺があるが、それはArmy(軍)、America(米国)とAllah(神すなわちイスラーム)の頭文字のAである。
米国との関係は、軍を主軸に非常に密接である。インドを視野にいれた安全保障戦略において不可欠な後立てと見ているからである。それにも関わらず、米・パキスタン両国は恒常的な信頼感で結ばれているというよりも、相互不信感がしばしば噴出する不安定な側面を常時内包している。パキスタン軍の「反テロ」政策においても、特定の組織がテロ組織であるか判断する場合、対印戦略において有用であるかどうかの基準が見られ、その選択基準に対する米国の不信感もある。他方サウジアラビアおよび中国との特殊関係は、すべて透明な形で相互関係が公表されているわけではないが、表面上では極めて緊密であり、その関係も安定的である。相互協力の範囲は経済関係のみならず軍事・安全保障の分野にまで拡大している。
政治体制が相互に著しく異なるサウジアラビアと中国が、ちょうど地理的に両国の間に位置しているパキスタンとの関係では、それぞれ緊密で恒常的な相互支持を行ってきた。サウジアラビアとパキスタンを結び付ける共通点は、支配の正統性にも関連するイスラームの果たす政治的な役割である。これに対して中国とパキスタンを結び付けてきたものは、冷戦期後半ではインド・ソ連の緊密な関係に対抗する戦略的バランスの保持であった。冷戦の終焉後はソ連が解体されて後継国家はロシアとなったが、中国・パキスタン関係の重要性は基本的に保持されるとともに、新たな意義も付加されて強化され今日に至っている。
サウジアラビアはメッカ・メディナというイスラームにとって最も重要で神聖な都市を擁する王制の国であり、イスラーム(スンナ派)の最大の庇護者を持って任じている。これはサウジアラビアとその王政に統治支配の正統性を与える最も根幹的な要素である。一方、パキスタンのアイデンティティーにとってもイスラームは極めて重要である。パキスタンが1947年8月に英領植民地からインドと並んで分離独立したのは、「ヒンドゥーが支配する」インドにおいてムスリムは支配される「民族」として生きることはできないとして、「ヒンドゥー民族」と異なる「ムスリム民族」の概念を生み出し、民族自決権を根拠にしたものである。そこでは英領インドは「ヒンドゥー民族」と「ムスリム民族」の両民族の国と想定したのである。建国直後のパキスタン「ムスリム国家」ではあっても、それが「世俗国家」志向なのか「イスラーム国家」志向なのかについては未解決であった。東パキスタンがベンガル民族主義を掲げて1972年にバングラデシュとして独立したのは、パキスタン国家が内包するひとつの問題点を表面化させるものであった。1977年にクーデターで登場したジア・ウル・ハック以降、パキスタンではイスラーム化の動きが強まっていった。アフマディーヤ派4をイスラームとして容認し得るか、シーア派をどう見るかなどの問題が次第に表面化するようになった。サウジアラビアとの関係は国家のアイデンティティーを強化するものとして、またスンナ派が主流である点も両国を結び付けた。さらにパキスタン人のサウジアラビアへの出稼ぎ、石油の供給、軍事訓練面での協力などが両国関係を固める役割を果たした。1979年末以降のソ連軍のアフガニスタン侵攻に対して各種ムジャヒディーンをパキスタンとサウジアラビアは協力して支援した。2001年10月までアフガニスタンのターリバーン政権を承認していた国はパキスタン、サウジアラビア、UAEの3か国であったことが想起される。またサウジアラビアはパキスタンの政治家の亡命の受け入れ先として、間接的にパキスタン内政への発言力を行使してきた。2013年6月首相に返り咲いたナワーズ・シャリーフ(1949~)は2000年から2007年までサウジアラビアに亡命していた。パキスタンはサウジアラビアとの関係を「最も重要な相互間パートナーシップ」と規定している。
他方、中国はマルクス主義を奉じる共産党が支配している国であり、宗教活動はしばしば政治的理由から警戒され抑圧されている。宗教政策に関する限り、中国とパキスタンは正反対の立場に立つといってよい。しかし中国は今までパキスタンとの緊密な関係は「全天候性」なものとみなしており、従来パキスタンの政府・軍の首脳が就任後、最初の訪問先は北京であることが恒例化されている。両国を結び付けたものはイデオロギーではなく、冷徹な力のバランスの観点からの接近であった。その事実上の強固な同盟関係は中国国内の文化大革命などの混乱、パキスタンにおけるクーデターなどの政変などに関わりなく存続した点に、両国関係における地政学的重要性が示されている。その協力関係は政治・経済・輸送・文化の各分野で深められており、スィンド州では中国語を公立学校の教科に取り入れる動きも進んでいる。またパキスタンは中国からミサイル技術供与などの軍事援助を受け、通信衛星打ち上げや原子力発電所の建設支援などで合意している。中国との技術協力もあり、パキスタンは兵器輸出国の一角に登場している。従来パキスタンは主として中国からの兵器輸入国であったが、当初中国の支援を得て開発したJF-17戦闘機が2014年12月初頭のカラチでの国際防衛展示会に登場するに至った。パキスタンはJF-17戦闘機を国産戦車や偵察用無人機と並ぶ兵器輸出の柱にする方針である。JF-17は中国とパキスタンが共同開発した単座式全天候型多用途戦闘機で、マッハ2の速度で飛行でき、空中給油も可能である。2003年に中国の成都で試験飛行も行われ、中国では「梟龍」(枭龙)、パキスタンでは「サンダー」(Thunder:「雷」)という愛称で知られる。パキスタン国産機は、まずパキスタン空軍に引き渡されることになっている。同機は価格競争力があるとされており、特に湾岸諸国への売り込みに熱心で、軍事訓練ミッションを送り込んでいる。パキスタンを媒介として中国と湾岸の一つの軍事協力の結び付きが生まれている。
また、両国はパキスタン北部のギルギット・バリティスタン州5(旧称は“北方地域:The Northern Territories”でカシュミールの一部)を経由する中国の新疆ウィグル自治区のカシュガルとパキスタンのアボッターバードを結ぶ1300キロのカラコルム・ハイウェイで結ばれており、トラック輸送による国境貿易が活発に行われている。中国とパキスタンの間では2007年7月以降、自由貿易協定が実施に移されており、パキスタンには低廉な中国製品が流入し、中国企業の進出も進んでいる。パキスタンにとって今や最大の輸出仕向け地は中国となっている。さらに中国経済の拡大と石油などの輸送問題から、パキスタンが中国と湾岸の間に位置するという地理的条件が中国にとってのパキスタンの重要性を一層高めてきている。しかしTTPの活動を十分抑制し得ないパキスタン軍に対して中国が懸念を募らせていることも事実で、この「反テロ」問題は中国・パキスタンの間の行き違いを生み出す可能性がある不安材料となっていることも事実である。
同時にサウジアラビアと中国との直接的関係も重要性を増している。2006年1月のアブドゥッラー国王の訪中以来、両国首脳の相互訪問は頻繁に行われてきた。中国にとっては安定的な石油の確保が主眼であり、サウジアラビアにとっては石油の輸出市場として、また米国の中東政策外交上の選択肢を広げる意味からも中国は重要である。
中国とサウジアラビアを中心とする湾岸諸国(Gulf Cooperation Council: GCC加盟国およびイラク・イラン)との貿易関係は近年深まっている。IMFの貿易統計によれば2012年の中国本土からの湾岸諸国への輸出は総輸出額の3.46%を占め、筆頭はUAE向けで1.44%を占める。UAE特にドバイは中国にとって中東・アフリカ市場に商品を売り込むための中継地となっている。他方、輸入は総輸入額の7.61%を占め、筆頭はサウジアラビアで3.02%を占めている。ほとんど原油輸入と見られるが、輸入で注目すべきはイランの比重が1.37%で過去10年間コンスタントに高い比重を占めていることである。もう一つ注目すべきことは、2005年にイラクからの原油輸入が始まり、当初は極めて少量であったが、2012年には0.7%にまで比重を高めていることである。
中国と中東世界との関係と結び付きを考える場合、中国にとって内陸・西部地域の戦略的重要性が急速に浮上していることを考慮に入れなければならない。その第1は欧州を含むユーラシア大陸の貿易輸送路としての役割の重要性である。第2に、中央アジアなどの石油ガス輸入のパイプラインのルートという側面である。すでに2009年以降トルクメニスタンの天然ガスが3000キロを通って新疆省までパイプラインで輸送されており、中央アジアの天然ガスは中国の2014年の国内需要の4分の1近くを占めており、今後とも極めて重要である。第3に、中東湾岸の石油ガスの中国への輸送ルートとして、インド洋・マラッカ海峡を経由するという海上ルートが持つ不安定性を意識した、緊急時に代替輸送ルートを求める動きと関連している。パキスタンのアラビア海に面したグワーダル港の建設に中国が力を入れ、今日その運営管理を中国企業が担っているのも、パキスタンから陸路で新疆ウィグル自治区へ石油を輸送する代替ルートを求める動きと無関係ではない。中国はこれを「中国・パキスタン経済回廊」と呼び重視している。パキスタンが中国にとって一層重要になってきた一因はそこにある。
中国のユーラシア戦略で地理的に不可欠な役割を果たしている内陸・西部地域は漢民族以外の少数民族が多数居住している地域でもあり、ウィグル民族、チベット民族などセンシティブな民族問題と宗教問題を内包している。特にウィグル問題は近年、暴力的紛争が多発していること、ウィグル問題が中国内の民族問題としてだけではなく、イスラーム・アイデンティティーを通じて国際化する契機を強く孕んでいること、さらにウィグル族の一部が「東トルキスタン・イスラーム運動」、「アル・カーイダ」、TTP、イスラーム国などに参加していることから、「中華民族の夢」を掲げる習近平体制にとって最も神経を使わざるを得ない問題を内包している。ちなみに、この場合の「中華民族」はウィグル族・チベット族などを含む独特な概念である。中国共産党が党員の宗教信仰に関する締め付けを厳しくしているのも、ウィグル問題などを視野に入れた動きと見られる。中国にとって西部地域は、経済発展の巨大なポテンシャルを持つフロンティアであると同時に、対処を間違えると中国全体にとっての政治リスクの震源地ともなりうる問題を抱えた地域となっている。
中国の習近平体制が発足以来、積極的に追求し始めた対外政策の柱の一つは、海と陸のシルクロードの構築をうたう壮大なビジョンである。習主席は2013年10月の中央アジア歴訪の際、カザフスタンの首都アスタナのナザルバエフ大学の講演のなかで、「新シルクロード経済回廊」構想を打ち出した。これは中国から欧州までの道路・鉄道さらに石油ガスのパイプラインを整備することを目指すものである。これには東西のみならず南北の流通路を整備することを含み、欧州と中国を結ぶ基幹行路だけではなく、イラン・トルコのほか湾岸・アラブ地域との輸送路も視野に入れた壮大なものである。さらに中国は陸のシルクロードとならんで、「21世紀の海のシルクロード」構想を同時に打ち上げている。この構想は、南シナ海、インド洋、アラビア海を経て東アフリカ、さらに西アフリカまでも含むような広がりを持っている。この陸と海の大構想をまとめて「一帯一路」構想と呼び、全中国を巻き込むキャンペーンとして力を入れている。
習主席の「新シルクロード経済回廊」構想は、対象地域間の経済発展戦略の共有、太平洋からバルト海に至る交通網の整備(高速鉄道建設を含む)、貿易・投資交流の推進、域内本位通貨の兌換・決済を推進、関係各国・地域の人々の友好交流の強化を挙げている。それは経済・交通・運輸・金融の分野を軸とする協力関係の推進ということができる。その具体化は現段階で進行中であり、最初から完結したビジョンがあるわけではない。しかしその鍵となるのは、連結性(Connectivity)の概念であろう。中国を重要な核とする独自の連結網をユーラシア大陸と南シナ海からアフリカまで構築したいというのが壮大な夢であろう。
「新シルクロード経済回廊」ビジョンにかける中国の戦略的意図は複合的なものである。第1に、中国経済は過去30年間追求してきた輸出依存型から国内市場重視および格差是正型発展への徐々の移行を不可欠なものとしている。そのためには前記で示したように内陸地域・西部地域の開発が鍵となる。1999年に打ち出された「西部大開発構想」は「新シルクロード経済回廊」の前段階に位置づけられる。西部地域の発展のためには、独自の国際的広がりを必要とする。それは東の太平洋に向かうルートだけではなく、西の中央アジア・西アジア・欧州へつなげる別方向のルートの重要性が高まってくる。陝西省・四川省・甘粛省・青海省・新疆ウィグル自治区などは中央アジアとの経済的パイプを求め、その産物・製造品の中央アジア市場へのアクセスを強く求めている。第2に、輸送ルートの多角化・多様化である。特に陸路を通じる輸送には、輸送距離と時間・輸送コストの削減ができるというメリットがある。例えば、連運港から欧州(デュッセルドルフなど)へのルートによって輸送距離の短縮と海路より数日間の時間の短縮が見込まれている。第3に、輸送網の整備は巨大なインフラ・プロジェクトを必要としており、インフラ建設の経験を積んだ中国建設業にとって得意な分野となっていることである。第4に、陸上輸送は通過国との安定した政治的信頼関係を不可欠とするが、関係を維持できれば、海上輸送における有事の際の第3国の妨害の可能性を減じることができる。中国には通行輸送の安全保障の観点から内陸ルートを好む考え方が存在する。「新経済回廊」のカバーする範囲は、中国が設立のイニシャチブを取った地域協力機構である上海協力機構(Shanghai Cooperation Organisation: SCO)のメンバー国・オブザーバー国を含めた地域より一層広範な地域が対象となる。SCOの加盟国は中国・ロシア・カザフスタン・クルグズスタン・タジキスタン・ウズベキスタンの6か国で、オブザーバー国はモンゴル、パキスタン、インド、アフガニスタン、イランとなっている。対話パートナー国としてはベラルーシ、スリランカ、トルコである。SCOは2014年のドシャンベ首脳会議において、今までオブザーバー国であったパキスタン、インドなどの正式加盟国への格上げ問題を具体的に議論することになった。
「一帯一路」構想には、石油や各種資源、輸出商品の輸送路の経済性と安全性を確保しようとする意図が反映されている。「一路」構想では、中国は南シナ海からインド洋への進出に力を入れてきた。近年、ミャンマー、バングラデシュ、スリランカ、パキスタンの港湾建設に中国は大規模な援助を行ってきた。2014年9月中旬に習近平主席はインドのほか、モルディブとスリランカを訪問した。人口30万人程度のインド洋に浮かぶ島嶼国モルディブへの中国国家主席の訪問は初めてであるが、国家主席自ら足を運ぶということ自体、中国がいかに海洋戦略を重視しているかを示している。スリランカへの中国主席の訪問は28年ぶりであった。また南太平洋諸国への接近にも積極的である。11月21日から23日まで習主席はフィジーを公式訪問し、中国と国交を有する8か国首脳を首都ナンディーに招き会談した。習は「南太平洋の島国が中国の発展という快速列車に乗ることを歓迎した」と述べ、域内の島々での港湾や空港などインフラ開発を支援していく考えを表明した6。しかしインド洋への中国の影響力増大について、インドは中国の息がかかった国による「真珠の首飾り」作戦で対印包囲網の形成と見て警戒心を持ってきた。2015年1月8日に行われた大統領選挙で現職のラジャパクサ大統領が敗北して、前保健相のシリセナが新大統領に就任した。前大統領は親中国として知られていたが、新大統領は全方位外交を訴えた。これは一時的であれ、中国に不利な巻き返しと見られた。
中国は海路が不安定な政治状況に左右されるリスクを自覚している。その点で「一帯」戦略を推進する目的は何であろうか。中国の論者は「アラブ世界とスエズ運河の周辺情勢は全体的に不安定であるため、中国は替わりのルートを探さなければならない。これこそ、『シルクロード新経済ベルト構想』の戦略的価値である」と述べている7。ユーラシアを横断する鉄道などの陸上輸送は所要時間が短く、かつコストを削減できるケースが少なくない。また北極海航路も北東アジアと欧州を結ぶルートである。世界第2の経済規模を持ち発展の可能性が高い中国が、リスク回避の観点を含め、中東アラブ世界に輸送ルートを依存することを避けようとしていることは注目すべきである。石油ガスの輸入先としての湾岸の存在は不可欠であるが、同時にできたら依存度を減らしたいという本音も隠していない。エジプトも含め、湾岸やエジプトなども発展戦略を再検討していく必要性を示唆しているといえよう。
米NATO軍は2014年12月28日にアフガニスタンでの13年にわたる米主導の国際治安支援部隊(International Security Assistance Force: ISAF)の「不朽の自由」作戦を正式に終了した。ISAFには約50の国が関与した。この作戦で外国兵約3500人が戦死したが、そのうち米兵は2224人の犠牲者を出している。最大の兵力が動員されたのは2010年の14万人であり、ターリバーンの拠点であるヘルマンド州とカンダハル州で大規模な掃討作戦が展開された。しかしターリバーンを完全に抑え込むことはできなかった。米オバマ大統領は同日ハワイで「米国史における最長の戦争は責任ある帰結に向かっている」と発言した。2015年1月1日からは米軍1万800人を主体とする1万3500人からなる訓練と一部戦闘を担う支援部隊による「断固たる支援」作戦業務に引き継がれたが、今後はアフガン軍と警察に治安の責任主体が移転される。しかし米NATOとアフガニスタンの間に引き続き一定数の兵員の残留を認める相互安全保障合意(Bilateral Security Agreement: BSA)が存在しており、オバマ大統領は少なくとも今後2年間、必要とあればアフガン政府軍のターリバーンあるいはアルカーイダに対する反テロ作戦支援のため地上および航空支援を行うことを認めている。そこには米軍戦闘機や無人機攻撃も含まれる。他方「ニューヨーク・タイムズ」の同日の社説は、米軍が10万人以上を動員した時もターリバーンに勝利できなかった事実を想起して、その戦略に批判的な主張を展開している8。また、アフガン・ターリバーンのスポークスマンは12月28日の米NATO軍の撤退を「敗北の儀式」と呼び、「アフガニスタンから外国兵が一人もいなくなるまで戦う」と反発した。
ターリバーンを壊滅できなかった点で、13年に及ぶアフガン戦争は米国にとって失敗であったと言わざるを得ない。アフガニスタンはその時代の超大国にとって鬼門であることを再び証明することになった。振り返れば19~20世紀にかけて英国はアフガニスタンとの3度の戦争で、一時的に勝利したこともあるが長期的で安定的な支配を打ち立てる点では失敗した。1979年末のソ連軍のアフガニスタン侵攻も安定的な親ソ政権の樹立に失敗し1989年には完全撤退を強いられた。ソ連はアフガニスタンと類似した社会政治体制下にあった中央アジアを支配し、その社会主義化を実現したという「成功体験」を基礎にアフガニスタンに臨んだが、軍事的にも支配に失敗したのである。今度は2001年10月に米国は「ソ連の失敗」は繰り返さないという自信を基礎にアフガニスタン攻撃を開始し、ターリバーン政権の打倒には成功したが、その後安定した政権樹立には成功せずターリバーンの復活を許した。今回、撤退後のアフガニスタンへの決定的な影響力を維持することなく撤退という選択肢を余儀なくされたのである。
今後のアフガニスタンの動向を予想することは困難である。しかし、それを検討するためのいくつかの条件を列挙することができる。第1に、アフガニスタンの安定化のためにはターリバーンとの和解は必要条件であるという認識がアフガン政府や米国を含む関係者の間で共有されていることである。ターリバーンは2013年6月18日にカタールのドーハに連絡事務所を開設したが、米国などと条件が折り合わず7月5日に閉鎖された。しかしその後も米国や中国が直接接触のパイプを維持しようとしていると見られる。ターリバーンとの交渉の前提としては、アルカーイダなどの国際的な目的を掲げる過激なイスラーム主義運動とは異なり、アフガン・ターリバーンがあくまでアフガニスタンを土壌とする問題解決という共通の基盤を承認し合うということが重要である。そのうえで、アフガニスタン政府は交渉と軍事的圧力の併用でターリバーンに臨む方針を持っている。第2に、アフガニスタンでのターリバーンへの支持がどれ位強固であるかである。後述するように、大統領選挙の過程などで国民の多くが戦闘とテロに疲れており、憲政のノーマルな実施に対する支持が増加しているように見える。また「イスラーム国」登場のように、イスラーム主義運動を取り巻く国際的条件も変わってきている。第3に、アフガニスタンに最も影響力を有するパキスタン、特にその軍部が、アフガニスタン内での政府とターリバーンの和解条件を承認するかどうかである。後述するようにパキスタン内でのTTPのテロ活動に対してはパキスタン軍も危機意識を強めてきており、アフガン・ターリバーンに対する政策が変化する兆候も見られなくはない。それは、今まで見られなかった反テロでのアフガニスタン政府との協力の余地の拡大である。
(2) アフガニスタン新政権の発足アフガニスタンでは、9月末に、約半年間に及ぶ決選投票の結果を巡る混乱の収拾がはかられ、アシュラフ・ガニー(Muhammad Ashraf Gani Ahmadzai)新大統領が就任した。その背景には米ケリー国務長官の斡旋など、ガニーが大統領決選投票の対抗馬であったアブドゥッラー・アブドゥッラーを、挙国一致内閣の行政長官に指名するという妥協策の成功があった。その結果、ガニー大統領とアブドゥッラー行政長官のコンビによる異例の新政権が発足した。行政長官は憲法上に規定のないポストであり、大統領と行政長官がほぼ同一レベルで権限を分担するという曖昧な内容となっている。新内閣の発足は難航したが新政府発足後3か月半を経た2015年1月12日に至ってようやく閣僚名簿が発表された。解決すべき困難な課題が山積しているが、何とか組閣にたどり着けたことの意義は小さくはない。
なお、ガニー新大統領は世界銀行勤務の経験を有する国際派であり、経済政策・実務でも経験を持っている。他方アブドゥッラー行政長官も外相を経験した国際派であるが、同時に多様な民族・宗派武装勢力で構成された北部同盟のなかで生き延びてきた調整能力を有している政治家である。ガニー大統領は多数派民族集団パシュトゥーンに属するが、アブドゥッラー行政長官はパシュトゥーンの血も入っているがタジク系と見られている。その意味で新政府はパシュトゥーン、タジク2大民族集団を代表した形である。今回、第1副大統領に北部に基盤を有する軍閥を率いてきたウズベク人のドーストムが任命された。パシュトゥーン、タジクさらにハザーラ民族に伍してウズベク人が地位を高めたとみることもできる。ドーストムも他の軍閥指導者と同様に内戦過程の残虐行為で批判をされてきた来歴を有するが、民族集団間のバランス政治のなかで生き延びてきた。人民民主党のナジーブッラー政権時から生き延びてきた世俗主義者でもある。
新政権の発足は決してスムーズとはいえないが、カルザイ前大統領の任期終了に伴って、アフガニスタンにおいて曲がりなりにも選挙で選出された新大統領に平和裏に政権が移譲された事実は重要なことである。カルザイ前大統領が引退後も院政的に事実上の権力を保持し続けるのではないかという懸念が一部で見られたが、その可能性はほぼなくなったといってよい。国際的国内的な政治力学がアフガニスタンの「憲政」プロセスをかろうじて守ったともいえよう。いうまでもなく、アフガニスタンで憲政あるいは議会制民主主義が定着しているとは言い難い。欠陥や問題点はいくらでも見つけることができる。しかしテロの頻発に対する反発と疲弊、国民統合を求める国民の静かな世論も決して弱いものではなく、一部ターリバーンの警告にもかかわらず大統領選挙が決選投票を含め2回行われた事実も無視できない。
(3) 注目される中国の動き中国はアフガニスタンと国境を接している6か国の一つであるが、アフガニスタンへの軍事介入はもちろん政治分野でも「傍観者」的姿勢を維持してきた。しかし、米・NATO戦闘部隊のアフガニスタン撤退計画が進むなかで、中国の同国への関心は強まり関与の姿勢が次第に明確になりつつある。2014年初頭王毅外相はカーブルを訪問して、アフガニスタン外相と会談を行った。そこではアフガニスタンの安定が経済問題だけではなく、中国の西部地域を含む中央アジアにとって重要であるという認識で一致した。新疆ウィグル自治区におけるウィグル問題には中国政府は以前よりも本腰を入れざるを得なくなっている。ウィグル系の東トルキスタン・イスラーム運動やアルカーイダ、TTPさらに「イスラーム国」への警戒心は極めて根強い。中央アジアに居住するウィグル人の運動についてはそれぞれの政府に取り締まりを期待しており、その一定の枠組みをつくってきた。アフガニスタンとも2013年にテロリストなどの相互引き渡し条約を結んでいる。
中国外務省は2014年7月18日に、アフガニスタン問題に関する特別代表としてアフガニスタン、インドでの大使経験者である孙玉玺(Sun Yuxi)を任命した。孙特別代表の任務は明示されていないが、アフガニスタンが南アジア・中央アジアのテロリストの避難基地となり中国の西部地域の安全を脅かすことがないような条件作りであるとみられる。
今までも、中国は時宜に応じて開かれてきた中露印3国間外相会議の場を利用して米軍撤退後のアフガニスタンの安定化に関して意見交換をするなど外交活動を展開してきた。3国ともアフガニスタンの今後の不安定性がもたらす脅威感を共有している。それは3国とも米軍の一定数の残存を承認した米アフガニスタン間のBSAを支持している点に表れている。米国の元駐アフガニスタン大使のザルマイ・ハリールザード(Zalmay Khalilzad)も、中国が徐々に政策を転換しつつある兆候を見ている9。中国はターリバーンの(単独での)政権復帰には反対し、政権に参画する場合も暴力の放棄を条件としているが、仲介役を果たす準備があることを示唆してきた。さらに中国・アフガニスタン・米国間でのアフガン調停会議に前向きであるという。
就任後のガニー大統領が最初の訪問先として選んだのは中国であった。北京で10月末に開かれたアフガン問題に関する第4回イスタンブル・プロセス閣僚会議に出席するためであった。中国がアフガン問題で国際会議を主宰するのは初めてのことであり、またアフガン新政府にとっては最初の国際会議であった。イスタンブル・プロセスはトルコとアフガニスタンが2011年に発足させたもので、域内諸国のイニシャチブによるものという点で特徴を有する。北京会議はその第4回目に当たり、そのテーマは「『アジアの心臓部』地域の持続可能な安全と繁栄のための協力の深化」であった。
10月28日、ガニー大統領は習主席と首脳会談を行った。中国は「ガニーを中国の旧い友人」と呼び、両国間協力の新たな時代の始まりとして戦略的パートナーシップの方向性を話し合った。翌日の発表では、中国はアフガニスタンに新規援助20億元(約3億3000万ドル)の供与を約束し、今後5年間で3000人のアフガン人の職業訓練で協力することになった。ちなみに2001年以来の中国の対アフガニスタン援助累計は2億5000万ドルであり、大幅な増加である。10月30日のイスタンブル・プロセス閣僚会議で、中国政府は「和平と再建フォーラム」構想を提案した。このフォーラムを構成するのは、アフガニスタン政府、アフガン・ターリバーン、パキスタン、中国の4者である。そこには経済建設と和平プロセスをリンクさせる発想を提示していた。
2014年11月29日、孙特別代表は公の席で初めて、パキスタンのペシャーワルでアフガン・ターリバーンの代表者と会い、中国がアフガニスタンの和平プロセスに参加する条件について協議したことを認めた。さらにターリバーンの二人の代表が11月に中国と意見交換のために北京を訪問したというニュースがパキスタンやアフガニスタンのメディアで伝えられている。ターリバーンの代表団はカタールのドーハに駐在していたカーリ・ディン・ムハンマドであると伝えられている10。
中国が徐々にアフガニスタン問題への関与の姿勢を強めていることがわかる。中国の強みは、アフガン・ターリバーンに影響力を有するパキスタンと事実上同盟関係にあること、今までアフガニスタンの内戦・紛争に関与の歴史はほとんどないこと、投資余力を有していることなどである。しかし、他方では経験不足であり、またイスラーム世界への対処の仕方に習熟していないことなどが弱点となりやすい。その意味で不確定要素が多い。
中国はアフガニスタンに関心を持つのは、国内外の治安の観点からのみではない。シルクロード経済回廊構想においてアフガニスタンはユーラシア大陸の南北・東西を結ぶ輸送路のハブとなりうる地域であるが、現在では一種のブラックボックスのような障害として立ち塞がっている。また未開発のアフガニスタンの資源にも関心が深い。ロガール州のメス・アイナクでは30億ドルの投資計画で銅鉱山開発プロジェクトを始めているし、中国石油(China National Petroleum Corporation: CNPC)は2011年にアムダリア流域での石油ガス探査権を獲得している。
12月4日、ロンドンで開催された「アフガニスタンの自立に向けた支援について話し合う閣僚級国際会議」において、ガニー大統領は以下を主眼とする改革プログラムを発表した11。それは汚職取組みの強化、近隣諸国との協力関係の構築、ターリバーンとの和解促進である。しかし外国援助依存で経済活動を賄ってきた状況から自立への方向に向かうには、治安の回復が大前提である。アフガニスタンの一人当たり国民所得(2012年)は680ドルに過ぎず、外国軍・外国援助に依存した特需依存型経済から農業・鉱業・手工業・サービス経済への移行は決して容易ではないことはいうまでもない。中国にとってアフガニスタンへの関与政策は大きな可能性とリスクの双方を伴った新たな外交上の試練となっている。
前述でも強調したように、パキスタンの外交政策は対インド政策によって規定されている。カシュミール帰属問題は1947年8月の独立以降、両国の深刻な対立問題となり、今日に至るまで解決の目途が立っていない。その対立は領土紛争であると同時に建国理念の対立でもある。印パ対立において両国の人口規模・経済力・正規軍規模などを比較すればインドが圧倒的に有利になる。パキスタンにとっては、その不利なバランスをどう軍事的に回復するかが最大課題であり続けている。パキスタンにおいて軍が政治的に重要な役割を果たしてきた背景もそこにある。特に軍事と外交は軍が大きな枠組みを決めるという形であったといってよい。
そのなかでパキスタンにとってイスラーム主義運動を対印戦略に動員することも選択肢となってきた。これにはインド支配下のカシュミールなどでの攪乱工作もあれば、アフガン・ターリバーンへの支援も含まれる。デュアランド・ラインなどパキスタンと係争問題を抱えるアフガニスタンは伝統的に親インドであった。そのなかで1996年に成立したターリバーン政権のみが親パキスタンであり、2001年のターリバーン政権崩壊後もパキスタン軍部がアフガン・ターリバーンとの関連を断絶できなかった基本的背景はそこにある。当時のムシャラフ大統領が米国の圧力でターリバーン政権支持を撤回したのは、パキスタンにとって極めて苦痛に満ちた選択であった。
しかしイスラーム主義運動に対する支援はパキスタンにとって諸刃の刃となりうるものである。アフガン・ターリバーンに刺激を受けながら2007年12月に結成されたTTPは、アフガニスタンと接する連邦直轄部族地域(Federally Administered Tribal Areas: FATA)の北ワジーリスタン州のマフスード(Mehsud)部族を基盤にしつつ過激なテロ活動を展開し始めた。TTPによる女子生徒マラーラ襲撃事件で知られるスワート渓谷のミンゴラ市などに属し、2009年2~5月にかけてTTPの支配下におかれシャリーア(イスラーム法)を導入していた時期があった。スワート渓谷はハイバル・パフトゥーンフワ州(前北西辺境州)に属する。TTPはアフガン・ターリバーンと異なり、主たる攻撃の標的をパキスタン政府・軍においている。また反シーア派の傾向も強い。しかし重要なことはTTPの活動と影響力は北ワジーリスタン州のマフスード部族に限定されていない全パキスタン的規模だということである。パキスタンのジャーナリストであるムジャーヒド・フセイン(Mujahid Hussain)は、TTPなどパキスタンの主要なイスラーム急進主義運動の活動拠点あるいは支持基盤は、パンジャーブ州、特にパンジャーブ州南部である点に注意を喚起している12。パキスタンにおけるパンジャーブ州の存在は政治的経済的に極めて大きく、軍人・官僚などの支配体制の主柱となる統治機構の指導層を輩出している。パキスタンの支配体制において同州出身者のコネクションは極めて強力なものがある。連邦下院選出議席数でも全体の272議席のうち半数以上の148議席が割当てられている。
さてパキスタンの政治状況において、公然と活動している既存の政党とTTPを含む各種イスラーム主義グループとの関係をどう見るかが重要なカギになる。両者の関係は、対立、妥協、協調、支持など多様かつ複雑な形態をとっているからである。そこに軍というアクターが入ってくると一層事態は複雑である。現与党のムスリム連盟(N派:ナワーズ・シャリーフ派)もイスラーム主義運動とのパイプを持っている。野党となったパキスタン人民党(Pakistan Peoples Party: PPP)は世俗主義的傾向を有する政党とされているが、2007年に暗殺されたブットー女史は首相時代(1993~1996)にアフガン・ターリバーンの育成で指導的役割を果たしたことが知られている。さらに新興政党であるパキスタン正義運動(Pakistan Tehrik-e Insaf: PTI)は心情的にイスラーム主義運動と親近感を持っている。政党と各種イスラーム主義運動は相互に利用したり影響しあったりする相互浸透の関係にあるといえよう。この相互浸透の関係はなぜ生まれるのであろうか。それは政治的経済的利権、選挙で集票、部族などのネットワークなどさまざまな組み合わせで生じるものであろうが、基本的潮流を決めているのは、「インドとの対抗」という大義名分であろう。これはインドがどう対応するかにも関わる相互性に依存しているが、インド・パキスタン分離独立という歴史の爪痕がまだ現代を規定しているとみることができる。
さて、ここ数年のパキスタンの政治において注目すべきことは、アフガニスタンの「憲政正常化」に向けての動きと並行した類似の動きが見られることである。つまりパキスタンでも2013年5月に行われた国民議会選挙の結果、多数を占めたムスリム連盟(N派)のナワーズ・シャリーフが首相に任命された。正式の手続きを通じて前政権のPPPのアシュラフ首相と首相交代が実現した。2008年に選出されたザルダーリー大統領(PPP)は5年間の任期を全うして、次期マムヌーン・フセイン大統領にトラブルもなく引き継ぎが行われた。選挙で選出された政権から次の選挙で選出された政権にスムーズに権限移譲が行われたことは、実にパキスタン建国以来の歴史において初めてのことである。しかも選挙でPPPは野に下り、ムスリム連盟(N)が勝利し、与野党が交代するという選挙でもあった。またパキスタン軍の事実上の政治指導者でもある陸軍参謀長のカイヤーニー大将であるが、2007年に就任して2010年に3年間の任期延長がなされたが、2013年11月の任期切れに伴いラヒール・シャリーフ中将に混乱もなくその職責が引き継がれた。軍のクーデターや露骨な政治介入が珍しくなかったパキスタンにおいて、軍が文民政府の任命に従ったという点で新たな動きともみられる。これは長い戦乱とテロにパキスタンとアフガニスタンの国民も疲れており、憲政に沿った平和と政治の安定化を求める動きを部分的であれ反映するものであろう。
しかしTTPによると思われるテロ活動は散発的であれ続いており一面激しさを増している。2014年6月10日、カラチ国際空港が10人の機関銃で装備したグループによって襲撃され犯人を含む36人が殺害された。これはTTPとウズベキスタン・イスラーム運動(Islamic Movement of Uzbekistan: IMU)のメンバーが参加したもので、IMUが自国内の反体制運動の性格から脱し国際的ジハード集団に転化してきていることを示すものであった。また12月16日、ペシャワールの軍関係者の子弟が多い陸軍パブリック学校で、TTPによる襲撃により生徒132人を含む152人が殺害されるという悲劇が起きた。これは規模の大きさ、犠牲者が学校の生徒であったことから、パキスタン世論にも深刻な衝撃を与えた。TTPスポークスマンのM.オラサーニは犯行声明を発表して、2014年6月に開始されたパキスタン軍による北ワジーリスタン州でのTTP掃討作戦で民間人が殺されたことに対する報復措置であると述べた。今回のテロに対してアフガン・ターリバーンが異例の非難声明を発表しその虐殺を非難した。TTPのテロ活動が果たしてイスラームの防衛的ジハードの論理から肯定されるものかどうかという問題が改めて提起されるものである。女性と子供はジハードの対象から外されているのが多数派の理解であろう。アフガン・ターリバーンは世論の動きに敏感になりつつあるサインと見ることができる。シャリーフ首相は2013年6月就任した際に、TTPとの対話を模索していたが、強硬策をとらざるを得なくなっている。また相互不信感が強いパキスタンとアフガニスタン両政府の間で初めて、この事件を契機に反テロで共同行動をとる可能性が出て来ている。
もう一つ注目すべきは「イスラーム国」のTTPへの影響である。1014年6月にシリア・イラクの北部地域を基盤に建国宣言をしたカリフ制を掲げる「イスラーム国」は、すべてのイスラーム教徒の忠誠を求めている。その呼びかけに応じてカリフを自称するバグダーディーに忠誠を誓ったのはエジプトのシナイ半島中心で活動している「エルサレムの支援者」(Ansar al madina al maqdas)と「TTP」の一部である。しかしTTPの主流は同意していないと見られ、TTP内は分裂していると見られる。ビン・ラーディンの後を継ぐ総括的指導者であるザワーヒリーは、シリアではヌスラ戦線を自らの代表とする立場を表明して「イスラーム国」のISISと対抗するとともに、アル・カーイダはその主要な活動地域を南アジアに置くと宣言している。
宗派対立や民族対立で現在の中東アラブ世界で起きている動乱と対立を説明しきることはいうまでもなく間違いである。現実には政治的指導権や経済的資源を巡る紛争が宗派・民族対立の形で噴出する。同一宗派間あるいは同一民族間での対立も時として非常に大きくなることも珍しくない。しかし当初は経済的利害に起因している対立が宗派・民族間対立に転化され、さらにその対立が理念化されると、その理念である虚像が一人歩きし始める。それが今度は解決可能な現実の利害対立である実像の解決を困難にする。
「イスラーム国」に見られるジャディーディー虐殺や隷属化や反シーア派など狭隘な立場に立つ他宗派排斥の動きの強まりは、今日中東イスラーム世界で広範に見られる現象であるが、その観念化された虚像が今度は現実の政治経済の問題の解決を困難にする。今日イデオロギー化され理念化された宗派対立・排斥の動きが一層強まっているように見える。インドでヒンドゥー主義的価値を全インド的なものにしようとする国家奉仕隊(Rashtriya Swayamsevak Sangh:RSS)の動きが、思想的に親近感を有するモディー首相の登場に伴い活発化している。これがパキスタン側のイスラーム過激派グループを一層刺激するという悪循環を生じさせることが懸念される。ミャンマーで仏教徒の一部でムスリム(ロヒンギャー)排斥の動きも見られる。宗派主義が自立性を持って他宗派を排斥する動きがイデオロギーとして自立化してひとり歩きする現象が国際的に拡大することをどう阻止していくかという課題は、南アジアにおいても大きな課題となっている。
南アジアで起きている「憲政化」の力学は過激派のテロ活動を抑える方向の端緒なのか、あるいは一時的な現象に過ぎないのか、あるいは政党とイスラーム主義運動の相互浸透が進む複雑なプロセスなのか、まだ明確な方向は見えない。他方、アフガニスタンは米NATO戦闘部隊撤退後の新たな段階に入っている。中国など周辺諸国が慎重ではあれ、従来以上に介入姿勢を強めているのは、アフガニスタンの平和と安定が自国の安定と強くかかわっているという危機意識によるものである。中国だけではなく、インド、パキスタン、米国、ロシア、さらにはアフガン・ターリバーンを含む多様なアクターがどのように相互に関わるのか、従来の発想を超えたアプローチが期待される。
(2015年2月1日脱稿)