中東レビュー
Online ISSN : 2188-4595
ISSN-L : 2188-4595
政治経済レポート
総論: 2015年の中東地域
鈴木 均池田 明史土屋 一樹ダルウィッシュ ホサム渡邊 祥子猪口 相
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2016 年 3 巻 p. 2-32

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1. 総論: 2015年の中東地域

2015年の中東政治変動を規定しているもの

2015年の中東地域(ここでは2016年2月現在までの中東情勢を扱うことにする)においては数々の新たな展開が連続して生起しており、その度ごとに中東政治のこれまでのパワーバランスが大きく変動してきた。ここではそれらの変化のなかで、とりわけ長期的に最も重大な意味を持った動きから順に指摘していくことにしよう。

年明け早々の1月7日にパリで発生したシャルリー・エブド襲撃事件はフランス並びに欧州を震撼させ、同時に宗教をめぐる「言論の自由」の問題が深刻に問われた。また日本では、1月20日に発生したイスラーム国(IS)の邦人人質脅迫事件の心理的・社会的影響が2015年前半頃の中東アラブ世界に対する見方を決定づけた。

特に前者の事件はアルジェリア系移民らが主犯であっただけに、移民社会としてのフランスが内包する問題を改めて問うものであったが、夏以降はこれが更に大規模なかたちで欧州社会全体を舞台として問われることになった。8月以降に急増した中東地域から欧州各国への難民の流れである。2015年中に欧州に渡った難民は100万人を超えた。以前から2011年以降の「アラブの春」で旧体制が崩壊したリビアなどからイタリア・フランス方面への難民の流れは存在していたが、夏以降は戦乱の続くシリア・イラク・アフガニスタンからの難民が中心となり、その多くはトルコ・ギリシャ方面からハンガリー・オーストリアなどを経由して最終地としてドイツやフランスを目指す流れである。

この流れはその後も現在まで様々な社会的波紋や事件を伴いながら継続しており、欧州各国でも当初の「どう対応して受入れるか」という議論から、EU内での深刻な意見の対立を経て「どう流れをコントロールするか」の方へと雰囲気が変わりつつある。

こうした中、11月13日にパリで発生したIS関係者らによる連続テロ事件は、コンサート会場や近郊のサッカー場などの一般市民130人を犠牲にした凶悪なものであり、フランスのみならず欧米社会を震撼させるとともに中東方面からの難民に対する視線を一変させ、さらに一部ではイスラモフォビアによる差別的なイスラーム教徒排斥行動を助長することとなった。2月に入ってからはシリアのアレッポに対するアサド側の攻勢によりトルコ国境に向かう新たな難民の波が発生し現在も数十万人が国境地帯に滞留、現実的な問題としてトルコからの欧州への難民の流入をどう抑制するかという課題が深刻化している。

だがいずれにしても、かねてからISが領域的な支配を確立しているシリアおよびイラクが、規模的な意味で「第二次世界大戦以来」とも表現される欧州の新たな難民問題の主要な発生源となっているという状況下で、まずもって解決されるべき問題として「シリア問題」あるいは「シリア・イラクのIS問題」が新たな問題意識とともに国際社会の中で浮上することとなったのである。

イラン核合意をめぐる状況とその後の展開

予定されていた日程から1ヵ月ほど遅れて、7月14日にイランとP5+1のあいだで漸く最終的に達成されたイラン核合意は、その後も幾つかのヤマ場として設定されていた米国議会の審議(9月17日が期限)やイラン側の合意内容履行状況のIAEA(International Atomic Energy Agency)による調査報告(12月15日が期限)を経て、1月16日には核合意の履行日を迎えて米国による核開発関連の経済制裁の解除への動きが決定的になった。

この長期間にわたる困難な西側との外交交渉を成功裏に乗り切ったことは、イラン側にとって単に制裁による経済的な停滞を覆すという意味に留まらない。それはハーメネイー最高指導者を頂点とする現在の「革命体制」が1979年から36年余の時の経過を経て初めて国際的に「認知」されたことを意味している。逆にオバマ大統領の米国をはじめとする西側主要国はイラクやアフガニスタンなどイラン周辺国の問題、さらにシリア問題の解決に向けた調整などで現在イランの国際社会への「復帰」をそれだけ必要とする状況に追い込まれていることを意味するだろう。それは前述のような欧州への大量の難民流入に象徴的に表れているともいい得る。

イラン核合意後の中東地域における国際政治の最初の大きな変動は、それ故シリア方面における軍事的な新たな状況として顕在化した。8月17日にはザリーフ外相がロシアを訪問してロシアのラヴロフ外相と会談し、域内問題や対テロ対策での協力強化を表明するとともに、中東地域の諸問題について外交的な解決の道を模索するとの方針を表明した。こうした新たな動きを決定づけたのが9月末以降のロシアによるシリア空爆の開始である。このロシアの中東地域における新たな軍事的介入の開始についてはしばしば1979年末のアフガニスタン侵攻とも比較して論じられるが、35年前の侵攻との最大の相違はそれが国際社会(とりわけ米国)のシリア問題の解決に向けてのある程度の期待と暗黙の連携のもとに行われているという点である。

もちろん欧米側とロシア側とのあいだには、和平実現後のバッシャール・アサド大統領の去就という最大の懸案事項が残っている。だがIS問題に象徴されるシリア紛争の最終的な解決は国際社会にとって解決すべき喫緊の課題となりつつあり、シリアの体制を歴史的に支えてきたロシアが本格的に関与することは一面で状況の好転に向けて大きな可能性を秘めているといわなければならない。だが他方でロシアの軍事的介入は中東域内で予想外の大きな摩擦を生み出すことになった。

域内主要国の状況変化への適応と不適応

それは域内の大国であるサウジアラビアとトルコの新たな状況に対する対応である。この両国はイラン核合意後の中東および湾岸地域の域内政治バランスの転換に対し、それぞれに異なる経緯と関心のもとで自国の利害を追求しようとしている。とりわけ2011年以降の「アラブの春」以降のシリア問題では両国それぞれがISとの不透明な人的・資金的関係を保持しつつ、市民への苛烈な暴力的弾圧に反発する欧米側の意図を体現するかたちで反体制運動を支援してきた。

サウジアラビアの場合には、以前から国内および周辺国のシーア派勢力に対するイランの資金や物資の供与などによる影響力の拡大に過敏になっていた。これがイエメンの場合にはフーシー派への関与に対する過剰ともいえるイラン批判に繋がり、3月にはイエメンに対する空爆による軍事的関与へと展開した。サウジのイエメン情勢への軍事的介入は現在も継続しているが、空爆の人的被害が一般市民をも巻込む深刻な人権的問題が生じており、他方で莫大な軍事費の支出は石油価格の低迷と相まってサウジの財政を大きく圧迫してきている。

トルコの場合は2013年に可能性がみえていたクルド政党のPKKとの和解プロセスが完全に破たんし、右傾化の傾向を強めるエルドアン体制の下で国内外のクルド民族に対する軍事的弾圧の姿勢を強めている。これがシリア国内におけるクルド勢力(特にトルコがPKKとの連携を怖れるKYP)への軍事的介入にも繋がっている側面があり、実質的にはシリア領内でのトルコの影響域を拡大しようとする動きになっている。さらにトルコは9月末のロシアのシリア空爆開始直後、11月24日にロシア軍機がトルコ領空を侵犯したとしてこれを撃墜して以来、ロシアとの外交関係が最悪になっており、ロシアのシリア情勢における発言力の増大には非常に過敏になっている。

こうした極めてかじ取りの難しい状況下において、米国ケリー国務長官の主導下で1月の最終週にジュネーブでシリア和平会議の開催が試みられたが、この時はアサド政権側の代表やシリア・クルド組織の代表が先に会場入りしていたにもかかわらずサウジが支援してきた反体制グループの不参加で会議は不成立、これを見越していたかのように2月初めからシリア政府およびロシア側はシリア北部の第二の都市アレッポへの攻撃を開始する。これによって戦況はアサド政権側に有利な展開へと変わり、これを嫌うサウジが急遽シリア空爆に加わるとともに地上戦への参加も検討する状況になっている。

サウジとイランの対立関係の激化?

こうした状況の推移の中で、一時期語られたのがサウジアラビアとイランの積年のライバル関係の激化である。これは直接的には1月2日にかねて逮捕・拘束していたサウジ国内のシーア派のウラマー(学僧)であるニムル・アル=ニムル師を処刑したことに端を発し、これに反発した市民・学生らがテヘランのサウジ大使館およびマシハドのサウジ領事館を襲撃・放火したことを理由としてサウジ側が大使館職員を引き上げ、「断交」を表明したのである。

この一件ではサウジ側が明らかにイランを挑発しようとする意図が明確であり、シーア派のイラン(の脅威)をスンナ派のサウジを始めとするアラブ国が包囲する対立的構図を敢えて醸成しようとしているようにも見える。だが7月の核合意以降のイランを取り巻く外交的な状況変化を好意的に受け止めているイランとしてはこの挑発に乗る選択肢はあり得ず、サウジに対しては極めて慎重な対応に終始している。

その後サウジはイランとの対立関係よりもシリアでの既得権益の確保のためのロシアへの牽制の方に主要な関心を移しており、2月14日から2週間の予定で対イランの示威行動的な大規模な軍事演習(スンナ派20ヵ国、15万人が参加)を実施した以外にはこの問題は棚上げのような格好になっている。

アフガニスタン、リビアなどの情勢悪化

2015年はこれまで触れてきたシリア・イラクやイエメンの外にも、アフガニスタンやリビアなど中東域内の多くの国・地域において情勢の悪化が見られた。まずアフガニスタンではかねてターリバーンの支配地域にISの細胞や支持グループが浸透し、これにターリバーン内部の強硬派が呼応することが懸念されていたが、2014年9月の挙国一致政府の発足後も一向に好転しない政治経済情勢に対する不満と将来への不安は国内に蔓延しており、こうした中でモッラー・オマルの2年前の死亡公表後、9月末にターリバーン武装勢力による北部都市クンドゥズの一時占拠という事態が発生した。

だがその後アフガン国軍は米軍の側面的支援を受けつつクンドゥズを奪還、その後は変化を強める域内情勢の中で長期的な生き残りを図るターリバーン勢力側とアフガン政府側の米・中・パキの仲介による和平交渉に向けた非公式会議がドーハで持たれるに至っている。

リビアに関してもISの浸透とガッザーフィー大佐殺害後の国内の分断状態に対する内外の危機感は大きく、12月8日に国際的認知を受けた「諸派連合(HR)」とトリポリの「国民総会議(GNC)」による和平交渉の開始が発表された。だがその後シリアにおけるアレッポ攻防などの戦闘の激化によってISの要員数千人がシリアおよびトルコからリビアに移り、リビア国内のIS要員が6500人程度にまで倍増した模様である。

こうした情勢の悪化を受けて米国はリビアのISを標的にした空爆作戦を強化、2月19日にはサブラサ近くの拠点を攻撃し、チュニジアの2つのテロ事件の主犯格らを殺害した。24日にはフランス軍の特殊部隊がリビア国内でIS掃討のための作戦に入ったと報道されている。

イスラエルにおける憎悪の連鎖と紛争の日常化

イスラエルではこの間西岸地区におけるイスラエル官憲と一般市民のあいだの不毛な衝突事件が繰り返され、オスロ合意(1993年)の二国案によるパレスチナ国家の独立がますます有名無実化する中で、3月17日に実施された総選挙ではネタニエフ首相が率いる右派(極右)のリクードが勝利し、右傾化を続けるイスラエルの政治状況の変化は当面望めなくなっている。

混迷を極めるシリア情勢や先の見えないイエメン情勢に象徴されるように、中東地域においては各地で危機的な状況の中で歴史的な転換期を迎えている。とりわけアラブ各国はそれぞれに国家的な統合の深刻な課題に直面しており、2016年においてもこの状況は引き続いている。突発的な事件のあるたびに大きな情勢の変化を繰り返す現状であるが、それだけに長期的な地域の発展性がどこにあるかを見出す努力こそが求められているともいえよう。

(2016年2月26日脱稿、鈴木均)

2. イラン核問題(イラン核交渉の最終合意を受けて:ロンドンでの反応)

はじめに

4月初めの枠組み合意以来、当初6月末に設定されていたイランとP5+1(途中からEUが加わっている)の核交渉の最終合意期限は、最後の段階で交渉内容がほとんど報道されないまま再三にわたる期限延長を経て、2週間後の7月14日午後、ようやく最終的な合意に至った。

交渉の最終段階で議論された内容の詳細については不明であるが、最終的な交渉の過程において何らかの決定的な交渉決裂の可能性があったという兆候は見えない。4月の枠組み合意以来、現在まで交渉の主要な障害と見られたのはむしろ交渉当事者の外部の存在(イスラエルや米国議会)であり、当事者間の交渉は、ある時期からむしろ合意の内容を反故にしないような形でどのように将来的な道筋をつけるかの確証を相互に得るということに移っていたのではないかとも考えられる。

合意内容

現在明らかになっている限りでのイランとP5+1(およびEU)のあいだの合意内容の要点は以下のとおりである。

イラン側は:

① 今後10年間にわたってウラニウム濃縮の遠心分離器を2万台から6,104台に削減する。

② 今後15年間にわたって兵器転用可能なウラニウム(使用済み核燃料)の貯蔵量を約5トンから300kgに削減する。

③ フォルドウの地下にあるウラン濃縮施設を研究施設へと転用する。

P5+1(およびEU)側は:

① 米国およびEUが現在イランに課しているすべての核関連の制裁は、イランが合意内容を順守する限り段階的に解除する。

② 現在イランに関して課されている武器禁輸措置は今後5年間は継続し、とくに弾道ミサイルの禁輸措置については今後8年間継続する。

これに関連してイラン側はIAEA(天野之弥事務局長)による軍事施設への立ち入り調査を認めるが、これを口実にしたスパイ行為については事前にチェックを行う。

これを見る限り、P5+1(およびEU)側が交渉の最終段階においてとくに大きな妥協を行ったようには見えない。むしろイラン側が交渉の過程で掲げていた「制裁の即時解除」などの高い条件を取り下げ、最終的にP5+1(およびEU)側の大方の条件を受け入れたと見るのが妥当であろう。

ロンドンでの反応

以下では中東情勢に関する情報が常にいち早く流通し、P5+1の一角を占める交渉の当事者でもある英国でのイラン核合意に対する一般的な報道の様子と、ロンドンにおけるイラン人コミュニティの受け止め方を一瞥しておく。

(1) マスコミの報道

イラン核交渉の最終合意の第一報は英国では14日(火)の午後の早い時間にネットなどを通じて広く伝えられた。同日夜10時からのBBC-1のニュースでは、イラン核合意について冒頭の12~13分ほどを使って報道された。だが問題は、その中でイスラエルのネタニエフ首相の発言を比較的大きく取り上げ(交渉当事国以外の反応として取り上げたのは同国のみ)「イランはISと同類であり、しかもより規模が大きくて危険である」という説得力のない政治的発言を引用、その後はイランおよびシーア派の「覇権主義的な勢力拡張」に警鐘を鳴らす趣旨の解説がなされた点である。

保守系新聞のTimes紙ではRoger Boyesがイラン情勢に対する過度の警戒心とイランへの不信に満ちたあまり質が高いとは言えない論評記事「この詐欺師の取引きがイランの首の皮を残した」を載せており、さらにPeter Brookesがあからさまな悪意と偏見に満ちた「風刺漫画」を掲載している。

同日夕方に入手したLondon Evening Standard紙によれば、ネタニエフ首相が強硬な発言を続けていることについて、英国の前駐イラン大使Sir Richard Dalton氏がBBCラジオ4(後述)の番組で「この合意はイスラエルを含む同地域内の安全保障を強化するものであることがいずれ理解されると期待する」と述べている。全体としてイギリスはフランスと共に、P5+1の外部にありかつ核問題の利害関係者であるイスラエルの代弁者をもって任じていると見られるが、他方で今回の合意の当事国でもあるという立場もあり、結果的に今後の見通しについても判断保留的なニュアンスの報道に繋がっているように思われる。

他方で英国の各紙では核合意の経済的な波及効果についても抜かりなく目配りを効かせた報道が広くなされている。Times紙のビジネス欄は「イギリス系企業、イラン石油の波に乗るべく準備」と報じ、Independent紙はTom Bawdenの「原油価格の低迷と石油関連施設の問題から制裁後のイラン投資にはリスクが伴うが、(投資加速は)避けられまい」との分析を引いてイラン石油の国際市場への復帰への期待を煽っている。ロンドン市内で普通に売られているWall Street Journal紙でも「最高指導者(の発言)は核合意のワイルドカード」「中東の一部(=イスラエル・サウジ等)は合意から戦争が引き起こされると懸念」と警戒的な記事を掲げる一方で「核合意でイランの消費者市場に関心高まる」とし、「イラン核合意で石油市場がさらに供給過剰か」との中長期的な予想を示している。

英国は政治的には米国・オバマ政権とイスラエル・ネタニエフ首相のあいだの抜き難い関係の齟齬の間に立っている感があるが、他方で経済界からはイラン市場への進出の機を逃すまいという圧力があるものと思われる。その意味で2011年11月の在テヘラン大使館へのデモ隊乱入事件以来両国の大使および大使館職員が引き揚げたままになっている(領事館の業務は引き続き行われているようであるが)不正常な状態を解消することが先ずは両国関係にとって求められる所であろう。

(2) イラン人コミュニティ

ロンドンではペルシャ語新聞『エッテラート』の国際日刊版が発行されているが、政府系新聞である同紙14日付は一面トップで「核交渉、最終段階に」と報じて合意が間近であるとの予測を示し、破顔一笑のザリーフ・イラン外相を大きく掲げた。15日付の同紙では「歴史的な合意」との大見出しでプーチン露大統領・サーレヒー原子力庁長官・天野IAEA事務局長らの談話を大きく取り上げた。翌16日付の同紙では、最高指導者ハーメネイーがテヘランでロウハーニー大統領らに謁見して交渉団の努力に謝意を示した旨を報じ、ハーメネイーが現段階でこの合意を基本的に受け入れていることを暗示し、また安全保障委員会が翌週にも合意内容について承認する予定であるとのザリーフ外相の発言を報じている。

またロンドンを拠点に発行されている週刊のPersian Weekly紙も表紙に国旗を掲げて祝意を示すイラン国内の若者の写真を掲げ、「ハッピーエンド」との大見出しで今回の最終合意が国民の総意に沿ったものであるとの見方を示した。

筆者が現在住んでいるケンジントンの周辺にはロンドンでも比較的大きなイラン系のコミュニティがあり、4~5軒ほどの雑貨商や果物店、レストランが軒を連ねている。筆者は14日の午後2時頃にネット上の報道で最終合意を知り、その後大学のネット環境を使ってひとしきりネット上の報道をチェックしたのち、帰宅して自宅近くのペルシャ料理店に行ってみた。「レストラン・アパダナ」に入り、チェロケバーブを注文して堪能した後、暫らく食後の休憩をしていたところ、そのうち店内で思いがけずBBCによるイラン系コミュニティへのインタビューが始まった。

BBC側のクルーが3人(そのうちの1人の女性はペルシャ語話者)、インタビューされる側はイラン系の男女2人という構成で、50分ほどに渉った英語のインタビューを筆者は1人で聴くともなく聴くことになった。

終了後にインタビューを受けていたイラン系女性(普段は文筆家・ジャーナリストだという)に訊ねてみたところ、これはイラン向けに流されているペルシャ語放送ではなく、一般放送のBBCラジオ4(Wikiによるとラジオ2・ラジオ1に次ぐ規模の視聴者層を相手にした中波・長波・FM等を含む放送バンド)向けに収録したもので、「今夜これから短く編集のうえ夜10時からのニュース番組で放送される予定」とのことであった。インタビューの全体的なトーンを確認したところ、イランの核合意について彼女は「取り敢えず万事良くなるであろう兆候」と受け取っている由であった。

一般的にいってロンドン在住のイラン人コミュニティは、今回の核合意に対して比較的冷静かつ好意的に受け止めていると纏めることができそうである。

最後に前出のLondon Evening Standard紙はロンドンで連日地下鉄の駅前などで無料配布されているタブロイド紙であるが、14日の夕方受取った同紙の核合意関係の記事の中で「この合意は誠実な外交努力の勝利である」という趣旨のコメント記事が目に留まった。筆者の取り敢えずの結論としても、前記の表現が最も妥当なのではないかと感じている。

(2015年7月18日脱稿、在ロンドン 鈴木均)

3. イラン核合意(イラン核合意から制裁の順次解除へ)

はじめに

イランの核開発問題は1月16日に「歴史的な」合意実施の日を迎え、これによってイランとP5+1(ないしEU+3)の長年月に亘った核兵器開発をめぐる外交交渉は大きな転機を迎えたといってよい。

この交渉は1979年のイラン革命とその後の米国大使館占拠事件によって外交関係を断絶した米国・イラン関係の歴史的な転換を画するものであるが、ここではそうした歴史的評価や今後の中東の政治構造全体の変化に対する影響の考察をひとまず措いて、2015年7月14日に難産の末達成された核合意(JCPA、Joint Comprehensive Plan of Action)から現在に至る過程と12月に発表されたIAEA報告書の言及する核開発疑惑発生以降の交渉プロセスを簡単に確認し、最後に今後の展望を述べる。

IAEA報告書と合意までの交渉プロセス

昨年7月14日に達成されたイラン核合意は当初6月末を期限として設定していたものであるが、2週間の遅延を経て漸く発表された。この合意に伴って示されたロードマップに従い、国際原子力機関(International Atomic Energy Agency: IAEA)がイラン核施設調査の終了を評価期限の12月15日に発表した。

その際公表された報告書1の内容によれば、この評価は現在明らかになっているイランの過去および現在のすべての核開発問題について、イランの核不拡散条約合意内容、協力枠組みおよび共同行動計画に基づいてなされたものである。

IAEAは2002年以降ミサイルに搭載可能な核弾頭を含むイランの核兵器開発に対する懸念を有しており、2011年11月の報告ではイランが過去に核兵器の開発に着手していた具体的な証拠とともに、2003年末までにイラン側が核兵器開発プログラムの実施に入っていた可能性を指摘した。

IAEAはこの報告に基づいて、また新たな情報の提供も受けつつイラン側に12の分野で核開発の軍事転用についての速やかな釈明を求めてきたところであるが、2012年1月以降ウィーンにおいてイラン側と交渉を重ねた結果、2013年10月の段階で一旦双方の合意の見通しがなくなった。

そこで同年11月に改めて交渉の枠組みを定め、合意に至るための18の具体的かつ段階的なプロセスを設定した。イラン側はこのうちの15件については2014年の末までに履行を完了し、さらに核兵器開発に関わる残りの3件のうち1件についは2015年7月までに達成した。

こうして2015年7月14日にIAEAはイラン側と次の段階としてさらに協力関係を加速することに合意し、2015年末までに達成すべき10項目のロードマップを設定、これが国連安保理の2231号決議で支持された。

設定されたロードマップは2015年11月24日までにすべて予定どおり履行され、この段階でIAEAとイラン側はウィーンにおいて技術的な取り纏めの作業に入った。

2011年11月までにIAEAの得ていた情報によれば、イランは2003年までの段階で核兵器開発のための組織的な計画(AMADプラン)を有していた。イラン側は2015年8月15日の回答ではこれについて否定的であったが、その後の協議の結果この計画の存在について認めるに至っている。

この他核兵器開発に関わる11の具体的な疑問点について、IAEAとイラン側とで検討・確認を行った結果、イラン国内において申請されていない核燃料サイクルが存在する形跡は認められないことをIAEAとして確信するに至った。以上からの結論として、IAEAはイランが2003年以前に核兵器開発の計画を組織的に遂行しており、それ以降も技術獲得のための活動を部分的に行っていたが、2009年以降においてはこれに直結する行為に関わっている兆候はないものと認める。

こうして核合意の履行のためのロードマップがすべて消化されたことが公式に確認され、1月16日の核開発に関わる制裁解除を迎えたのである。

因みに以上紹介したIAEAの報告については米国の独立系のシンクタンクであるISIS(Institute for Security and International Science)が12月の報告書発表のほぼ同時期に内容の詳細な検討結果2を発表しており、その結論としてイラン側の非協力のために核兵器開発の疑惑は一掃されておらず、IAEAとして今後ともイランの核技術の軍事転用の可能性(Possible Military Dimensions: PMD)について調査を継続する必要があると勧告している。

だが前記IAEA報告を受けて国際的にイランに対する制裁解除が発動したということは、少なくとも政治プロセスとしてはイランによる核兵器開発の危機が存在しなくなったとの前提で、今後様々な変化が日程に上ってくることを意味しているだろう。当面はイラン産原油の輸出再開から様々な金融取引の再開、イラン産品の輸出再開等、2012年以前の経済活動の諸条件の回復と、イラン国内の様々な分野における社会インフラ整備のための新規事業への国際的な参入競争であろうが、これらの動きは一面で2015年7月の段階から既に始まっているものとも見られる。

おわりに

最後にこの合意実施が打ち切りSnapbackの途を残しているとはいえ、実質的に後戻りのない最終的な決定であるとイラン側が理解していることの反映として、イランは収監されていたイラン系ジャーナリストJason Rezaian氏および米国人4人を米国側に収監されていたイラン人7人との交換Swapで相互に釈放している。

現在のイランと米国の外交関係は1970年代までの同盟的な関係と同列に論じることはできないが、それでもシリアをはじめイラン周辺における状況の危機的な展開に押されて予想以上の速度で相互に接近する可能性が出てきている。これが更にサウジアラビアをはじめとする周辺国の警戒を惹起するというパターンは今後も暫らくは繰り返されるであろう。だが時間の経過とともに、イランが域内的にも不可欠な外交的パートナーとして次第に受容されてくる方向は不可避であると思われる。

(2016年1月18日脱稿、鈴木均)

本文の注
1  “Final Assessment on Past and Present: Outstanding Issues regarding Iran’s Nuclear Programme,” IAEA Board of Governors, 2 Dec. 2015.

2  “Analysis of the IAEA’s Report on the Possible Military Dimensions of Iran’s Nuclear Program,” ISIS, 8 Dec. 2015.

4. イスラエル政治(イスラエルにおけるアイデンティティ政治:軋轢の昂進とその背景)

「プライス・タグ」VS.「刃傷インティファーダ」

2015年を通じて、イスラエルにおいてはユダヤ系市民とパレスチナ人との反目が昂進し、暴力の応酬が常態化した。とりわけ、世俗国家イスラエルの国是を否認して「ユダヤ王国」の建設を呼号する極右国粋主義に染まった西岸ユダヤ人入植者の「プライス・タグ(Price Tag)」活動が過激化の一途を辿っている。これは、パレスチナ人に対する発砲、殴打、家屋・農地破壊といった物理的暴力を伴う嫌がらせ行為を意味するが、7月末には西岸北部ナブルス近郊でパレスチナ人民家が放火され、1歳半の幼児を含む3人が焼死する(ドゥマ事件)など、その悪質さは、パレスチナ人社会にとどまらず広くイスラエル社会にも衝撃を与えるものとなった。右派=極右派の連立政権であるネタニヤフ内閣も、さすがにこうした事態を放置できず、「ユダヤ人テロリスト」の捜索と拘禁にあたり、2016年冒頭に21歳の入植者ら2名を放火およびその幇助で起訴するに至った。しかし「プライス・タグ」活動は止まず、これに対抗するようにパレスチナ人による突発的な暴力事件が10月以降頻発した。その内容は、主として刃物による殺傷や自動車の暴走といったもので、相互に連携のない一匹狼(Lone Wolves)型犯行が切れ目なく続くという点で、ファタハ過激派やハマスなどの組織を背景とした従来のテロとは一線を画している。これらの暴発は、「プライス・タグ」への意図的な報復というよりも、和平プロセスがほぼ完全に蹉跌して将来に展望が開けない閉塞感の中でパレスチナ人若年層に生じつつあるゲシュタルト崩壊的な社会病理の顕現と見るべきであろう。

「刃傷インティファーダ」(Stabbing Intifada)とも呼ばれるこの現象の背景には、パレスチナ側の抵抗や国際社会の懸念にもかかわらず強行される入植地拡幅・増設の動きによって事実上パレスチナ国家建設の前提がなし崩しとなり、連続的で一体性を持った国土を構想することが困難となりつつあるパレスチナ人の虚無感が介在している。そうした虚無感は、一方においてユダヤ系イスラエル人への自暴自棄的な暴力の激発となって表面化し、他方で自治政府やハマスといった既存の政治勢力への失望へと結果する。その失望は、ファタハが掲げるナショナリズムやハマス的なイスラミズムを見限って、より過激で戦闘的な新しいイデオロギーを求める衝動へと容易に転化する。とりわけ、内戦下にある隣国シリアやイラクに渡れば、そうしたイデオロギーに基づいて戦闘を繰り広げる「イスラーム国(IS)」その他のテロ集団や民兵と接触することはたやすい。すでにイスラエルの諜報当局では、50名内外のパレスチナ系イスラエル市民がシリアに渡ってISに加盟しているとの分析を行っている。ルーベン・リブラン大統領自身が、「ISはすでにイスラエル国内に潜伏しているし、誰もがそのことを知っている。あらゆる調査結果、逮捕者からの聞き取り、目撃証拠、公開情報、機密情報が、IS活動分子の国内潜伏とパレスチナ系イスラエル市民の間でのISイデオロギー支持拡大の徴候を示している」と認めているのである。

「最後の審判(Doomsday)」入植地E-1

パレスチナ人に蔓延する虚無感が向けられる象徴となっているのが、E-1と名付けられたエルサレム近郊の「無人地帯」でのイスラエル側の動向であり、これに対するパレスチナ自治政府や抵抗運動の無力である。西岸最大のユダヤ人入植地マアレ・アドミムに隣接し、エルサレムからジェリコに至る西岸の「括れた腰」(最狭隘部)に突出する戦略的要衝であるE-1は、ラマッラーとベツレヘムを結ぶパレスチナの主幹線を容易に遮断できる位置にある。1993年のオスロ合意を成立させた故ラビン首相以来の歴代内閣は、このE-1に防塞機能を持たせた入植地を建設することで、「イスラエルの永遠の首都」であるエルサレムの帰属を確実にし、またその安全を保障しようと構想してきた。しかしそれは、パレスチナ側から見れば将来の主権国家の首都に擬せられる東エルサレムの完全な孤立と、国土となるべき領域の一体性の喪失を意味する。したがって、このE-1を巡ってはオスロ合意を嚆矢とするパレスチナ和平プロセスにおいても極めて機微な問題として、基本的には「現状維持(Status Quo)」が保全されるよう、国際社会の注視の中に置かれてきた。

しかし第1次ネタニヤフ内閣期の1997年、イスラエルは既存入植地拡幅の名目の下に、マアレ・アドミム周辺のベドウィン系パレスチナ人約100家族の強制退去に着手するなど、E-1への入植地建設に向けて外濠を埋め始め、2009年第2次ネタニヤフ内閣が成立すると、そうした動きに再び弾みがついた。パレスチナ和平プロセスの破綻が誰の目にも明らかになった現在、イスラエルのE-1入植渇望はいっそうあからさまとなり、昨夏には近隣のベドウィン家屋39戸がイスラエル軍によって破壊され、また入植地建設を見越した(パレスチナ人の交通用の)E-1迂回道路の建設も始められている。イスラエルの平和運動「ピース・ナウ」によれば、すでに住宅省はE-1における8000戸以上の入植者用家屋の建設計画の策定に乗り出したと伝えられる。

国際的孤立の深化

E-1を巡るイスラエルの野望を辛うじて押し止め、政府の公式見解として「具体的に何も決まっていない」すなわち現状維持に変更はないとの姿勢を少なくとも外見的に保たせているのは、国際社会とりわけ米国との関係のさらなる悪化への懸念にほかならない。ネタニヤフ首相とオバマ米大統領との個人的な反目やイデオロギー的軋轢を含め、米国とイスラエルとの「戦略的友邦」関係は史上最悪のレベルにまで低下している。そうした中、米国務省は明示的にE-1を「極めて機微な問題」と規定しイスラエルの入植強行阻止に向けて圧力を加え続けている。最近の世論調査ではイスラエルの入植政策に対して「制裁を望む」米国市民が前代未聞の4割近くに上った。さらに、入植政策を批判するヨーロッパ連合(EU)は、西岸のイスラエル入植地で生産される農産物や工業製品の輸入に対して、2015年11月に「イスラエル産(製)」ではなく「西岸産(製)」のラベルを貼るとの決定を下した。これらは、いわゆるBDS(Boycott Divestment Sanction)運動、すなわちイスラエル製品のボイコット、イスラエルからの投資引き上げ、イスラエルへの制裁発動を要求する欧米の市民運動と並んで、イスラエルの国際的孤立の深化を物語るものであろう。ネタニヤフ首相の政権基盤の重要な一端を支える極右派政党の背後には入植者の運動が控えており、その支持を失えば内閣は瓦解しかねない。しかし彼らの求めるE-1入植を強行すれば、イスラエルは確実にかつての南アフリカと同様の「除け者国家(Pariah State)」の位置へと陥落し、その政治的経済的な逸失利益は計り知れない。「最後の審判」入植地との異名を冠せられることもあるE-1の取り扱いを誤れば、極めて大きな代償を支払わねばならないとの認識が、イスラエル政府をして「現状維持」に踏み止まらせているものと考えられる。若年層を中心とする過激な入植者がそうした政府の「日和見主義」に苛立ちを募らせて「プライス・タグ」の犯行を積み重ね、逆に自力ではイスラエル側の占領政策やその入植準備に抗う方途が見当たらず、国際社会の「憐憫」に寄り頼む以外にないという虚無感・無力感に駆り立てられた西岸パレスチナ人の若年層が「刃傷インティファーダ」を発作的に展開しているというのが、現在のパレスチナにおける暴力の連鎖の位相にほかならない。

イスラエル国内のコミュニティ抗争

ところで、こうした暴力の連鎖は西岸の入植地や占領地にとどまらず、イスラエル・プロバー(グリーンラインの内側)にまで波及しつつある。いまや対立の構図は、占領者であるイスラエル人と被占領者パレスチナ人の間のそれを越えて、ユダヤ系イスラエル市民とパレスチナ系イスラエル市民の間の反目の昂進となって前景化している。中東レビュー第2号で採り上げたいわゆる「国民国家法案(Nationality Bill)」の顛末1に示されるように、イスラエルを「ユダヤ民族のための単一民族国家」と定めて非ユダヤ系市民の権利制限を推進しようとするユダヤ系市民極右派・右派の跳梁は、その後も衰えない。パレスチナ系市民の側は当然ながらこれに反発し、ユダヤ人国家の正統性そのものを否認しようとする動きを強めている。2つのコミュニティの緊張は、2015年11月のパリでのISによるテロ攻撃を契機に、さらに高まることとなった。「イスラエル国内におけるテロへの予防先制」を口実として、ネタニヤフ内閣がパレスチナ系イスラエル市民の間に広汎な支持者を持つ「イスラエルのイスラーム運動」北支部(Northern Wing of the Islamic Movement in Israel: NWIMI)を非合法化するに至ったからである。ネタニヤフ首相によれば、NWIMIは「ハマスの傀儡であり、ISの前進拠点」であって、占領地やイスラエル国内における「刃傷インティファーダ」も彼らの使嗾によるものであるとされる。しかしながら、イスラエルの情報機関の分析するところでは、パレスチナ人の暴力はさまざまな「絶望感」の混在と「失うべき何ものもない」という喪失感や虚無感の所産であり(軍情報部)、あるいは「集団的、経済的、個人的剝奪感」を背景とするものであって、NWIMIの組織的関与を窺わせる証拠に乏しい。いずれにせよ、政府のNWIMI非合法化はパリのテロ事件より遥か以前に準備されており、ただ実行のタイミングを見計らっていたに過ぎないことはほぼ明らかというべきであろう。

それでは、ネタニヤフ政権は何故、NWIMIを主要な標的としているのだろうか。今回非合法化されたのは1996年に分裂した「イスラエルのイスラーム運動」のうちでも北支部のみであり、ムスリム同胞団協会を母胎とする同運動本体(南支部)は対象となっていない。NWIMIにしても、武装闘争路線を標榜するハマスやイスラーム・ジハードなどとは異なり、基本的にはデモ行進や支持者への互助的な福祉ネットワークを通じての啓蒙活動を通じた非暴力路線を続けてきているのであって、テロを準備しているという政府の指弾には根拠がない。北支部指導者であるシェイク・ライード・サラーハ師が、1993年のオスロ合意を黙認した本体を激しく批判して袂を分かったところにNWIMIは出発する。サラーハ師の批判の要点は、オスロ合意は第一にユダヤ人国家の正統性を容認し、第二にエルサレムのアルアクサ・モスクがイスラエルに「接収」される途を開くものとなるというものであった。したがって、国民国家法案を強硬に推進しようとするネタニヤフ政権にとって、パレスチナ系市民を動員して「アルアクサを救え」運動を展開し、東エルサレムでのユダヤ人とパレスチナ人の両コミュニティ間の緊張を煽るサラーハ師の活動は、真正面から対決し排除すべき脅威と看做されたのである。

アイデンティティ政治の浸透とその帰結

このようなイスラエルにおけるアイデンティティ政治の顕在化は、周辺地域での一連の政治変動と無関係ではないと考えられる。2011年以降のいわゆる「アラブの春」は、イスラエルを取り巻くアラブ世界に、如何にして統治機構の維持や再建を図るかという治安上の問題を突きつけ、また体制が転覆されたり内戦に陥ったりした諸国に対しては、新たな統治の正統性の創出という喫緊の課題を迫った。それは同時に、それぞれの社会でのアイデンティティ政治上の主要契機を前景化させ、それが個々の社会に内在する亀裂や軋轢を噴出させるにとどまらず、国家社会の領域を超えて、越境的な混乱を創り出している。ISはその1つの典型例にほかならない。このような混乱は、当初「アラブの春」の大変動とは無関係に見られた域内非アラブ諸国家やアラブ世界内外の非国家主体間の連携・対立関係の組み換えを導出し、これに伴って地域のパワーバランスの変化を惹き起こしているのである。

例えばシリア、リビア、イエメンの内戦は泥沼化の一途となって収拾の展望が立たず、すでにこの大変動以前から内戦状況に陥っていたイラクを加えて、これら諸国では国家的枠組みそれ自体が溶解しつつあるように見える。しかもそこにトルコ、イラン、サウジアラビアといった域内の大国や、欧米・ロシアなどの域外勢力が介入・介在して混乱に拍車をかけている。地域大国のうち、トルコの懸念はシリア北部にクルド人の聖域が出現してトルコ国内のクルド武装闘争の策源地となることであり、またすでに自治権を強化拡大しつつあるイラク北部のクルド人が独立国家の樹立に動き出した際の自国内への波及にほかならない。1979年のイスラーム革命以来、国際社会との交流を絶たれて孤立してきたイランにとって、欧米によるイラク戦争の結果転がり込んできたイラクのシーア派政権とシリアのアサド政権、レバノンのヒズブッラーとを連結しておくことは、何よりもイラン本体の安全を担保する緩衝帯として捉えられている。しかしその緩衝帯は、サウジアラビアから見れば自分の勢力圏の北辺を脅かす存在であり、自国西部に隣接するイエメン・フーシ派へのイランの「関与」による攪乱と並んで容認することのできない恫喝と認識されるのである。かくして、三者三様にアイデンティティ政治に媒介されたセキュリティー・ジレンマが作動し、それぞれが自国の安全保障を追求してシリア、イラク、イエメンの内戦に介入する事態を引き起こしている。

もとより、イスラエル自体は自国の安全保障に関わる展開、例えばシリア内戦においてヒズブッラーに先端兵器が渡るといった事態にならない限り、各内戦には介入せず傍観する姿勢を堅持している。しかしながら、占領地域の、そしてイスラエル国内でも、頓挫した和平プロセスが曝け出したファタハやハマスなどの既存政治勢力の無力に絶望したパレスチナ人若年層が、新たにより過激な闘争イデオロギーを希求し、シリアやイラクに入ってISやヌスラ戦線に身を投じるという事例は着実に増えている。他方で、いわゆるリバランシング政策の名の下に混乱する中東から距離を置き、アジア重視にシフトしつつある米国の姿勢は、「ユダヤ人国家」イスラエルが米国から「見捨てられる」のではないかという恐怖を生み出している。米国の「退場」がもたらす巨大な「力の真空」を埋める勢力が不在であり、一寸先の展望も立たない不安とも相俟って、「ユダヤ人国家のユダヤ性」を前景化させて依拠するべき自己の存立基盤を確認しようとする社会心理上のメカニズムが作動している。かくして、域内のアイデンティティ政治の高揚とこれに伴う社会的亀裂の拡幅は、イスラエルやパレスチナにおいても、「プライス・タグ」や「刃傷インティファーダ」などの暴力の先鋭化といった形態をとりながら、確実にその国内を蝕みつつあると見られるのである。

(2016年2月27日脱稿)

東洋英和女学院大学教授

池田明史

本文の注
1  池田明史 2015. イスラエルの「国民国家法案」: クネセト上程の意味と背景. 中東レビュー第2号, 25-28.

5. エジプト(新スエズ運河の開通と周辺地域開発計画)

エジプトでは、スィースィー政権のフラッグシップ・プロジェクトとして、スエズ運河地域の開発が進められている。スエズ地域開発計画は、スエズ運河の拡張と沿岸部の開発の2つを軸としたもので、2014年8月に着工された。スエズ運河の拡張は1年で完了し、続いて沿岸地域の開発が始まろうとしている。スエズ運河地域の開発は、政権の威信をかけた大規模プロジェクトであり、エジプト経済の行方に影響を及ぼすだろう。

新スエズ運河の開通

新スエズ運河の開通式典は、着工から1年後にあたる2015年8月6日に開催された。新スエズ運河とは、従来のスエズ運河を拡張するもので、複線化のための新たな水路建設(35キロメートル)と既存水路の一部拡幅(37キロメートル)が行われた。当初3年と見積もられた工期はスィースィー大統領の指示によって1年に短縮され、突貫工事で期日内に完成した1。エジプト軍の監督下で実施された工事は、40社以上の国内企業と6社の外資企業によって進められた2

今回の拡張工事によって、運河通過時間の短縮とこれまでよりも大型の船舶の通行が可能となった。エジプト政府は、新スエズ運河の開通によって、2023年までに通行料収入が現在の2倍以上に増加することを見込んでいる(表1)。

スエズ運河沿いの都市イスマイリアで開催された開通式典には、アラブおよびアフリカ諸国の多数の国家元首をはじめとする100カ国以上の政府代表が出席した3。エジプト国内でも、当日を祝日にするとともに、カイロでは公共交通機関や博物館が無料開放されるなど、祝賀ムードが演出された。スエズ運河拡張工事は、スィースィー政権で初の大規模公共工事であったが、大統領の指示通り1年で完成に至ったことで、政権の実行力をアピールする絶好の機会ともなった。

表1 新スエズ運河の効果(2014年実績と2023年時点での予測)

(出所)スエズ運河庁(http://www.suezcanal.gov.eg/

スエズ運河地域の開発

スィースィー政権は、スエズ運河の拡張だけでなく、運河地域一帯を経済活動の拠点とする「スエズ運河地域開発プロジェクト(SCZone)」を推進している。SCZoneは、ヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路に位置するという地の利を生かし、スエズ運河沿岸地域を国際的な流通機能と輸出加工の集積地とすることを目指すものである。

スエズ運河地域の総合開発は、以前から度々模索されるなど、その発展可能性への関心は高かった。しかしながら、主に資金的な制約のため、実現しなかった。慢性的な財政赤字を抱える政府にとって、大規模な開発資金の調達は困難だったのである。最近では2013年にムルシー政権によって開発計画が提案されたが、開発資金の調達のために外国企業による土地所有も想定した構想であることが懸念され、安全保障を理由に軍によって拒否された4。スエズ運河地帯はエジプトにとって歴史的・戦略的に重要な地域のため、軍が決定的な影響力を持っているのである。

SCZoneのマスタープランは、レバノン創業の多国籍コンサルティング企業であるダール・ハンダサ社(Dar Al-Handasah)を中心とする企業連合によって作成された。産業集積の中核地区として、スエズ運河の北端で地中海に面している東ポート・サイード、運河中流域のイスマイリア、運河南端のスエズおよび隣接するアインソフナの3つの都市区域が指定された。これらの都市部とその周辺地区に特定の産業を集積させることで、15年以内に計100万人の雇用創出と200万人の居住者増加が計画されている5

マスタープランでは、ハブとなる都市区域の既存産業、地理条件、周辺環境などが考慮され、5つの集積有望産業として、物流、海運関連事業、情報通信、エネルギー、製造業が提案されている(表2)。

表2 スエズ運河地域開発プロジェクト(SCZone)のマスタープラン

(出所)スエズ運河庁(http://www.suezcanal.gov.eg/

エジプトへの投資の障壁として、煩雑で不透明な行政手続きがしばしば指摘されるが、SCZoneでは、経済特区法(Economic Zones of a Special Nature 83/2002)を改定し、スエズ運河地域460平方キロメートルを経済特区に指定、またスエズ運河経済ゾーン庁(General Authority for the Suez Canal Economic Zone)が投資のワンストップ・ショップとしての役割を担う。簡素な手続きと優遇措置によって、投資を促すことが目的である。さらに、軍の支持もあり、経済特区においては、外資100%企業による投資に加え、更新可能な50年間の土地利用契約の締結を可能とした6。スエズ運河地域はエジプトにとって戦略的な要衝地のため、企業による土地所有は引き続き認められないものの、規制緩和による投資環境の改善が図られている。

SCZoneは近年最大の経済開発計画であり、スィースィー体制ではじめての包括的産業政策の実践と捉えることができる。すでにトップ外交によって海外からの投資誘致を図り、湾岸諸国、ロシア、中国などの政府が投資を表明している7。それに対し、民間企業の関心は、これまでのところ内外ともに未知数である。しかしながら、SCZoneの成否は、多くの民間企業を誘致できるかが決定的に重要となる。マスタープランにあるような産業集積を実現することができるのか、行政運営も含め、スィースィー政権の本当の政策実行力が試されている。

(2015年8月27日脱稿、地域研究センター 土屋一樹)

本文の注
5  SCZoneの概要については、以下のウェブページを参照。http://www.sczone.com.eg/

6. エジプト選挙(エジプトの2015年議会選挙:スィースィー支持者がコントロールする無力な議会)

エジプトで2013年の軍事クーデター後、初の議会選挙が行われた。投票は2回に分けて行われ、第1回投票は上エジプトと西デルタ地域の14県で2015年10月18、19日に実施され、27、28日に決選投票が行われた。第2回投票は残る13県で11月22、23日に行われ、大半の当選者の決定は12月1、2日の決選投票に持ち越された。

これまでエジプトでは、2011年1月の民衆蜂起後に初の民主的選挙が行われ、現在は禁じられているムスリム同胞団の設立した自由公正党が人民議会(House of Representatives)の多数派となった。しかし、最高憲法裁判所(SCC)は議会選挙法が憲法に違反していたとする判決を下し、人民議会は2012年6月に解散させられ、以降エジプトでは議会不在となっていた。

スィースィーの民主化への「ロードマップ」?

2013年7月3日、アブドゥル=ファッターフ・アル=スィースィー率いる軍は、同胞団出身のムハンマド・ムルスィー大統領に対する民衆の抗議運動を契機に、エジプトで初の自由で民主的に選ばれた大統領に対しクーデターを起こした。クーデターによって実質的なスィースィー軍事政権が誕生すると、軍は民主化への「ロードマップ」を発表した。この「ロードマップ」は3つの重要なステップによって構成されていた。第1段階は新憲法の草案、第2段階は議会選挙の実施、そして第3段階として大統領選挙の実施という3行程である。「ロードマップ」の実施は、イスラーム主義者と軍のクーデターに反対する活動家への現代エジプト史上最も激しい弾圧を伴った。治安部隊が街頭での抗議運動を弾圧したことで、数百人が殺され、数千人が逮捕された。抗議運動は犯罪と糾弾され、多くのジャーナリストも投獄された。

ムルスィー大統領をクーデターで解任した後、スィースィー体制下で現在までに4万1000人以上が政治囚として拘束され、数百人が勾留中に死亡したと報じられている。スィースィー政権は大規模な弾圧と政治囚の投獄を繰り返し、政治活動の自由を封じ込めたのである。結果として、2015年の議会選挙の候補者の大半はスィースィー政権支持者であり、有権者にとっては選択の余地のない選挙となった。このように市民社会の自由が抑圧され、政治活動が厳しく封じ込められた環境で、スィースィー大統領を支持する候補者や政党でさえも、支持者を動員するのは困難だった。

エジプトの議会と選挙制度

現在のエジプト議会は全596議席からなり、そのうち8割の448議席が小選挙区制の個人名簿から選ばれている。全国205の小選挙区から、それぞれ1~4人の議員が選出される。120議席は全国を4区に分けた選挙区から比例代表制により選出されるが、過半数票を獲得した名簿(リスト)がその選挙区の議席全てを獲得する仕組みで、女性、キリスト教徒と若者の割り当てが別に決められている。大統領は全議席の5パーセントを超えない28人までの議員を指名できる。

エジプトの政党の多くは、比例代表制の議席を増やすよう要求してきた。比例代表制で選出する議席が増えれば、小政党も議席を獲得できる確率が高まり、エジプトの多様な政治勢力や声を代表する議会を作ることができる。しかし現在のエジプトの選挙制度は、多様な声を取り込む議会を作ることを妨げている。エジプトの選挙制度は過去数十年にわたり、エジプトの有力な一族のパトロネージ制度として機能してきた。強い政党が出現するのを妨げ、政党が連立して議会で安定した過半数を獲得する事を阻害してきたのである。2015年議会選挙では、全596議席のうち315議席を独立系議員が占め、大統領が主導する政党が議会をコントロールするエジプト議会の長い伝統からの大きな転換となった。

2015年議会選挙と投票率の低迷

2015年の議会選挙は、2011年と2012年の選挙に比べて投票率が低迷し、反対勢力の参加も非常に限られた。投票率の低迷の理由は、新たな選挙法の不透明さ、候補者の乱立、短い選挙運動期間、議会が実質的にスィースィー政権にコントロールされるようになるという見通しなどに起因するとされた。しかし、これらの要因は第二義的なものであり、考慮しなければならない最大の要因は政治的なものであった。すなわち、この議会選挙の意義について有権者が充分に説得させられていなかったという点である。ムバーラク政権転覆後の2011年と2012年の選挙は、国民の政治参加の余地があり、ポスト・ムバーラク体制の行く先、特に軍の暫定統治から文民統治へと権力を移譲し、新憲法を制定する重要な選挙として国民の関心も高かった。一方、2015年の議会選挙では、スィースィーの民主化への「ロードマップ」が幾度も変更され、ムバーラクやムルスィー政権よりも説明責任のある新しい政権が誕生する見込みが低いと見なされたのである。

軍の当初のロードマップでは、議会選挙は大統領選挙の前に実施される予定だった。大統領選挙を先に実施するというロードマップ変更の背景には、国家と社会に対するスィースィーの統制力を強化し、大統領に任命された政権の正統性を補強し、議会での審議を通さずに大統領令によって体制を強化するという目的があった。さらに議会選挙は2014年6月の新大統領就任後6ヵ月以内に実施されるはずであったが、明白な理由もなく延期された。スィースィーが議会選挙の実施に消極的だった理由として、ムバーラクの国民民主党のように彼が頼ることのできる支配的な政党がなかったことが挙げられよう。さらに議会の不在によって大統領は立法権と行政権を同時に執行することが可能となり、反対勢力が組織化する自由を制限し、自身の支配体制を強化する数百の大統領令を発布している。

2015年の議会選挙の投票率が低迷した他の理由として、若者の投票率が低かったことも挙げられる。2011年1月のムバーラク体制に反対する民衆蜂起を主導し、またムルスィーに対する軍事クーデターへとつながる2013年6月の抗議運動を先導した勢力は、メディアに誹謗中傷されて投獄されている。司法当局も新たに制定された抗議運動規制法とテロ対策法のもと、ムスリム同胞団を「テロ組織」に認定し、ジャーナリストや活動家を投獄し、2011年1月の民衆蜂起で重要な役割を果たした世俗的な「4月6日運動」を禁じることで、政権の敵対勢力や反対勢力への迫害を手助けしてきた。皮肉にも、もしムルスィー政権下で抗議運動を組織することが禁じられていたならば、民主的に選出されたムルスィーに対してスィースィーがクーデターを起こすことは難しかっただろう。

さらに、最も強固な反対勢力であるムスリム同胞団が選挙に参加せず、同胞団の政党である自由公正党が解散させられ、多くの若者が選挙をボイコットしたことも投票率の低迷につながっている。

経済的な視点から見ると、投票率の低迷は、財政赤字の軽減のために燃料やガスに対する補助金を減らし、税率と電気代を引き上げるというスィースィー政権の政策に対する、貧窮化した多くのエジプト国民の不満の高まりも影響しているだろう。人々が投票を棄権したのは、スィースィーの経済政策への反対の意思表明とも受け取れる。

反対勢力の不在によってスィースィー支持陣営との選挙競争は限定され、競争はビジネスエリート、元警察や軍の幹部、スィースィー支持のメディア界の大物の間で、誰がより政権に近づけるかという限られたものになった。2015年の選挙では、これまでと同様に選挙の全過程で正当性を蝕むあからさまな票の買収が行われた。議会選挙の投票率の低さは、投票率の高かった大統領選挙に比べ、議会の正統性を弱め、結果的に政権にとってエジプト国民は大統領をより重要視していると主張できる点で好都合だった。

議会を独占するスィースィー支持連合

スィースィーは議会選挙を非政治化し、議会から政治的影響力を取り除くことに成功した。国民の連帯の名の下、挙国一致の政党リストを期待するというスィースィーの発言を受け、エジプト諜報本部の元高官サーメフ・セイフ・アル=ヤザル(Sameh Seif al-Yazal)がスィースィー支持の政党連合「エジプトへの愛」リストを作り、政権支持の要人を取り込むことに成功した。このリストには、ムバーラク政権時代の大臣経験者や軍、警察や諜報機関の元幹部が名を連ね、コプト教徒の億万長者ナギーブ・サウィーリス(Naguib Sawiris)が創設した自由エジプト人党(Free Egyptians)を含む10政党が参加している。サーメフ・セイフ・アル=ヤザルは、「エジプトへの愛」リストは議会で大統領を支持すると宣言し、同リストは、政党リストに割り当てられた120議席全てを獲得した。また、「エジプトへの愛」リストは議会に対するスィースィーの統制力をさらに強固なものにしようと、議員の3分の2を含む「エジプト国家連合」を作るため無所属議員と協定を結ぶことにし、その協定の調整が最終段階であることを公表した。その結果、エジプト議会の多数派がスィースィー政権を強力に支持することが予測され、議会不在時に大統領令によって発布された180以上の法令を承認すると見込まれている。

現在のエジプト議会では、政党が脇に追いやられ、明確なイデオロギー、所属政党や政治プログラムを持たず、私的な経済利益と政治的影響力を追い求める個人で占められている。これは議員連合を作ることを困難にし、エジプト議会を大統領翼賛体制に変貌させている。

議会は、スィースィーとその前任のアドリ・マンスール(Adly Mansour)が大統領令で発布した法案を、2週間という限られた期間で審議しなければならない。2014年憲法は、議会不在の状況で大統領に法律を制定する権限を与えた。スィースィーが制定した法律の主な目的は、独裁体制の強化と、「テロと戦う国家という名声を取り戻す」という名目で合法的に反対勢力を抑え込むことだった。例えば最高憲法裁判所に議会を解散させる権限を与え、大統領に忠実な議会を作るため選挙法は無所属議員を増やすよう改定された。また、 軍、司法当局および治安機関は予算と給与が引き上げられ、権限が強化された。さらに、大学の学長選挙や学部長選挙は廃止され、大統領令によって任命されるようなった。抗議運動規制法とテロ対策法の制定によって、個人、NGOや非営利団体による政治活動は非常にリスクの高いものになった。このような議会のもとでは、軍、警察、官僚機構、司法機関といった国家機関がさらに強化されることが予想される。大半のエジプト国民、特に若者は表舞台の政治から排除され、持続可能で安定した政治システムの構築が妨げられることになるだろう。

おわりに

現在のエジプトの政治的弾圧と言論の自由の抑圧は、ムバーラク政権末期の状況よりも悪化している。2010年と2015年の議会選挙には幾つかの共通点がある。2010年の選挙時も、政権はムバーラクの国民民主党に有利なように選挙を操作し、反対勢力を議会から締め出した。現在のエジプトでは、ムルスィーを追い出すために軍を支援した者の中にも、スィースィー政権と政治的見解が違うとして弾圧の対象になっている者もいる。若者が集まり政治や文化について意見交換をするカイロのタウンハウス・ギャラリーやラワーベット・シアター(Rawabet Theater)といった文化センターを狙って言論抑圧が行われている。また、治安部隊は、スィースィー政権と完全に政治的見解が一致しない著名人や研究者、ジャーナリストをも弾圧のターゲットにしている。表現、集会、結社の自由といった権利の抑圧は、エジプトにおける民主的な選挙プロセスを不可能なものにしている。

大統領独裁体制下のエジプト議会において、公式な野党は存在せず、イスラミストは完全に阻害されている。スィースィー政権は支配のツールとしてエジプトの治安当局と国家機関を最大限に利用し、2015年の議会選挙で政権の支配ツールとして機能する議会を作り出した。議会は、治安機関などの主要な国家機関からの強い支持を得ている者のみが占め、軍関係者とビジネスマンは、政治権力と経済利益を求めて争っている。今の議会では、元警察官と軍人が、エジプトの議会史上で最も多い75議席をも占めている。さらに、エジプトの主要な国家機関である軍、警察そして裁判所は、議会から憲法上も法的にも守られている。このため、大統領は実質的に議会に縛られることなく統治することが可能であり、議会は政治制度、ましてや治安機関や司法セクターの改革を行う手段をもたないのである。今の議会も、政治的理由で裁判所に憲法違反のレッテルを貼られ解散させられる危険にさらされている。スィースィー体制下のエジプトでは、選挙で選ばれた議会ではなく軍をはじめとする国家機関が実権を握っているのである。

議会選挙の終了をもって、2013年7月にスィースィーによって発表された民主化への「ロードマップ」は完了した。しかし、エジプトでは、経済の停滞、低賃金、若者の失業、食糧価格の高騰が蔓延し、政治参加の余地はますます狭まり、警察の暴力に対する国民の憤りが高まっている。真の政治改革と経済改革なしで名目的に「ロードマップ」が完了しても、エジプトの安定は脅かされた状態にあり、エジプト国民にとっての希望の光は未だ見えないのである。

(2015年12月27日脱稿、ダルウィッシュ ホサム)

7. マグリブ諸国(チュニジア4団体のノーベル平和賞受賞)

概要

2015年12月10日、ノーベル平和賞の授賞式がノルウェーのオスロで行われた。「チュニジア国民対話カルテット」と呼ばれる4つの市民団体が、2011年の「アラブの春」以降、民主化への過渡期にあるチュニジアにおいて、民主主義の建設に積極的な役割を果たしたことを評価され、この賞を受賞した。日本ではほとんど報道されなかったチュニジアの4団体について解説する。

「アラブの春」後のチュニジアの達成への評価

今回ノーベル平和賞を受賞したのは、「チュニジア国民対話カルテット(Tunisian National Dialogue Quartet)」と呼ばれるチュニジアの民間4団体である。この4団体とは、チュニジアの労働組合の全国組織である「チュニジア労働総同盟(Union générale tunisienne du travail: UGTT)」、経営者の組織である「チュニジア産業・商業・手工業同盟(Union tunisienne de l’industrie, du commerce et de l’artisanat: UTICA)」、「チュニジア全国弁護士連盟(Ordre national des avocats de Tunisie)」、「チュニジア人権連盟(Ligue tunisienne de défense des droits de l’homme)」である。それぞれの組織の代表として、フサイン・アッバースィー(Houcine Abbassi)、ウィダード・ブーシャマーウィー(Wided Bouchamaoui)、ムハンマド・ファーディル・マフムード(Mohamed Fadhel Mahfoudh)、アブドゥッサッタール・ベンムーサー(Abdessettar Ben Moussa)が授賞式に登壇した。

平和賞に限らず、チュニジア人によるノーベル賞の受賞は、独立(1956年)後のチュニジアにおいて初めてであった。ノーベル賞受賞は、しばらく暗いニュースが続いていたチュニジアに、しばし明るい話題をもたらした。2015年のチュニジアでは、3月に首都チュニスのバルドー美術館で、6月に東部地中海沿岸の観光地スースで、外国人観光客を狙った武装勢力による乱射殺害事件が起こっていた。11月にはチュニス中心部の路上で、大統領警備兵の乗ったバスを狙った自爆攻撃が起こった。スースの事件を受け、7月4日、ベージー・カーイド=セブスィー(Beji Caid el-Sebsi)大統領が1ヵ月の期限で緊急事態令を発し、それ以降これが延長されている。チュニジアの緊急事態令は、「アラブの春」によるベン・アリー政権崩壊時の2011年1月から2014年3月にも施行されていたが、その後1年ほどは解除されていた。緊急事態令の再発令により、デモや集会の禁止などが可能になった。さらに、11月のチュニスの事件後は、チュニス地方を対象に夜間外出禁止令が発令された(12月12日に解除)。一連の事件によって、チュニジアの観光業やその他の経済活動は大きな打撃を受けている。さらに、政治的な閉塞感も強まっている。例えば、武装組織の取り締まりを理由に、2015年7月にテロ対策法案が国民代表議会で可決されたが、被疑者を一定期間面会なく警察に留置できる、通信傍受手続きの簡素化などといった内容が、人権侵害を引き起こしかねないと批判の声が上がっていた。

ノーベル委員会は、その声明において、チュニジア4団体の平和賞受賞の意義について次のように述べている。「チュニジアは重大な政治、経済、治安上の難問に直面している。ノルウェーのノーベル委員会は、今年の本賞がチュニジアにおける民主主義の保全に貢献し、中東・北アフリカや世界の他の地域において、平和と民主主義を推進しようとしているすべての人々を鼓舞するものとなることを望んでいる。何よりも委員会は、大きな難問にもかかわらず国民の間の友愛の基礎を築いたチュニジアの人々にとって、この賞が励ましとなることを意図している。チュニジアの事例が模範となり、他の国がこれに続いていくことを、委員会は望んでいる」(ノーベル委員会ウェブサイトのプレスリリース、2015年10月10日付)。「アラブの春」後、リビア、シリア、イエメンなどの国で混乱が深まるにつれ、「アラブの春」は中東に戦乱をもたらしただけだったと一面的な評価を下す論者もいた。チュニジア4団体のノーベル平和賞受賞のニュースは、チュニジアが民主的手続きに則って新憲法制定(2014年1月)と人民代表議会選挙(同10月)、大統領選挙(同11~12月)を完了した事実をあらためて積極的に評価し、戦乱や民主主義の欠如に苦しむ世界の人々に希望のメッセージを送ったと言える。

チュニジア労働総同盟の主導的役割

「チュニジア国民対話カルテット」の主な業績は、与党と野党の対立が憲法制定議会の解散にまで発展しかけた2013年の政治的危機において、激しく争う政党の関係を調整し、憲法制定と次期選挙までの道のりをアジェンダ化した「ロードマップ」を各政党に受け入れさせ、憲法制定議会の解散による革命後の移行プロセスの挫折を回避したことである。ノーベル賞選考においては、こうした調整が、政治団体ではなく、民間団体(市民団体)に担われたという事実も高く評価された。チュニジアでは2011年1月にベン・アリー元大統領が亡命して以降、同年10月に初の民主的な選挙が行われ、選出された議員によって、新憲法の制定を担う憲法制定議会が形成され、行政を担う臨時政府が指名された。この臨時政府はイスラーム政党の「ナフダ運動(Ḥarakat al-Nahḍa、以下ナフダ)」を中心とする3党連立政府であり、野党のうち世俗的左派政党などとは当初から緊張関係にあった。2013年には、2人の左派政治家がイスラーム主義者とされる何者かに暗殺された事件によって、チュニジア政治が大きく揺らいだ1。野党は、イスラーム主義者を放置し取り締まらなかったとして、ナフダなど与党の責任を激しく糾弾し、臨時政府の総辞職を要求した。野党議員の一部は与党への抗議のために議会を欠場し、議会前では臨時政府の辞職と、与党議員が多数派を占める憲法制定議会の解散を叫ぶストライキが起こった。ナフダなど与党は、野党と歩み寄る姿勢を見せず、政治的膠着状態が続いた。

この時、「国民対話」の運動がチュニジア労働総同盟(UGTT)のイニシアティブで組織された。UGTTが政党や民間団体の間の意見交換の場を提供したのはこの時が初めてではなく、2012年6月にも同様の「国民対話」運動を行っていた。しかしながら、2013年時のUGTTは単独ではなく、チュニジア産業・商業・手工業同盟(UTICA)と弁護士団体、人権団体に呼び掛け、協力して活動を行った。UTICAは経営者団体であり、労働組合UGTTにとっては労使交渉における交渉相手として、利害の相反する団体である。さらに、経営者の中には、ベン・アリー政権時代に汚職に関わった者もいるとの指摘もある。このUTICAと協力体制を築いた理由について、チュニジア労働運動の研究者ヘラ・ユースフィー(Hela Yousfi)は、UTICAとの協力は国民対話運動の正当性を強めたばかりでなく、国際的な支持を取り付けることをも可能にしたと指摘している(Le Mondeウェブサイト2015年12月10日付ユースフィーへのインタビュー)。このように、「カルテット」の4団体のうち、最も指導力を発揮したのはUGTTであった。

ところで、そもそも労働組合であるはずのUGTTが、なぜ「国民対話」を組織する政治的役割を自ら担ったのか。その背景には、フランス植民地期に遡るUGTTの歴史的歩みがある2。フランスによる保護領時代、労働運動組織にはヨーロッパ人労働者とチュニジア人労働者が混在していたが、植民地支配に基づく差別的な制度によってチュニジア人労働者の利益が損なわれている事実を問題視したチュニジア人労働者によって、チュニジア人のための労働組合が組織された。「チュニジア労働者総連合(Confédération générale des travailleurs tunisiens)」が1924年に組織されたが、代表者ムハンマド・アリー(Mohamed Ali, 1890–1928)を含む指導者たちが翌年逮捕され、組織は解散に追い込まれた。チュニジア人による組合が次に実現するのは、第二次世界大戦後であった。UGTTは、ファルハート・ハシェード(Ferhat Hashed, 1914–1952)らによって1946年に設立された。UGTTは、チュニジア人労働者の権利を侵害する植民地支配を糾弾し、労働組合でありながら、ハビーブ・ブルギバ(Habib Bourguiba, 1903–2000)の率いるチュニジア独立運動と共闘した。国際的には、国際自由労働組合総連盟に加盟し、フランスによる植民地支配の問題を国際的に知らしめることに貢献した。

チュニジアが1956年に独立すると、ブルギバはUGTTを政権の統制下に置こうとした。しかし、それまでの社会主義経済政策を転換し、急速な自由主義経済への移行によって貧富の差が拡大した1970年代には、労働争議が増加した。ストが禁じられていたなかで、UGTTは1978年にゼネストを強行して死者を出す大弾圧を受けた。1987年に大統領に就任したベン・アリーもUGTTに対して、取り込みと弾圧を使い分ける政策を継続した。2010年末に始まる革命時までに、UGTTの幹部の多くが政権に取り込まれていたが、末端組織においては、草の根の労働者たちが地道な組合活動を続けていた。反対勢力が弾圧を受けていたベン・アリー期において、こうしたボトムアップの組織力を持つ団体は、おそらくUGTTだけであっただろう。革命発生時、UGTT総書記はベン・アリーに近しい人物であったが、教師であり、たたき上げの活動家の経歴を持つアッバースィーに2011年に交代している。

チュニジア各地に支部を擁し、公的部門(教師などの公務員や国営企業の職員など)を中心に約70万人ともされる組合員を擁し、末端の労働者たちを結集する動員力が、UGTTの力の源である。UGTTは非政治組織であることから、メンバーの支持政党を含む思想信条は多様であるが、左派政党の支持者が多い傾向がある。2013年の「国民対話」の成功が示したのは、政治傾向の異なる政党に働き掛けることのできるUGTTの指導力と、国内外の世論の支持を取り付けることのできる戦略の巧みさであった。革命後に組織されたチュニジアの政党の多くは弱小政党であり、内紛による分裂を繰り返して国民の支持を失っていたことも、2013年の政治危機の背景になっていた。2014年10月の選挙によって「チュニジアの呼びかけ運動(Ḥarakat Nidā’ Tūnis)」が第1党となり、ナフダと連立するなど政党政治はより複雑化している。チュニジアにおける政党政治の成熟を、国民と民間団体が促し、サポートしていくことができれば、チュニジアの政治的安定にとって追い風となるだろう。

(2016年1月8日脱稿、渡邊祥子)

文献紹介

本文の注
1  2013年上半期までのチュニジア政治については、拙稿「革命後チュニジアの政治的不安定」『アフリカレポート』No. 51(2013年), pp. 63–78を参照。

2  UGTTの歴史については、ケネス・パーキンズ『チュニジア近現代史』風行社, 2015年, pp. 168–170, 194, 228–230, 292–295などを参照。

8. 寄稿(サウジアラビアを中心とする中東における省エネルギーの取り組み)

中東産油国が省エネを進める背景

サウジアラビアを中心とする中東産油国は、近年、国内の石油需要が増加傾向にある。背景には、経済の急成長や人口増加の他に、補助金により、安価に提供されるガソリンや電気等のエネルギーの国内消費が増大したことが理由として挙げられる。仮に中東産油国が現在のペースでエネルギーの国内消費を続けた場合、将来的には中東産油国におけるエネルギーの国内消費が生産を上回り、外貨獲得の柱である石油・ガスの輸出が困難になり、石油輸入国になる可能性までもが指摘されるようになっている。

この点について、王立国際問題研究所(チャタムハウス)は、2011年12月「サウジアラビアが、このまま何の対策もせずにエネルギー消費を拡大し続けると、2038 年には石油輸入国になる」旨の大胆な主張をしたことが有名だが1、実は、それ以前の2011年5月には、サウジアラビアのサルマーン現国王の実子であるファイサル・マディーナ州知事が会長を務めるJadwa Investmentが「2030年にはサウジアラビア国内の石油消費が輸出を上回る」旨の予測を公表している。

加えて、2014年11月の石油輸出国機構(Organization of the Petroleum Exporting Countries: OPEC)総会で石油生産の抑制が見送られた結果、原油価格が急落し、当面1バレル当たり100ドル台に上昇する要因に乏しく、加えていわゆるシェール革命による北米の原油生産能力の増強や対イラン経済制裁の緩和が実現した場合のイラン産原油の国際市場への復帰などから、当面、原油価格の低迷がある程度続くことが見込まれる状況で、財政収入の多くを原油に依存する中東産油国では、財政赤字が続くことが見込まれることから、インフラ事業の優先順位の調整、エネルギーや水などの補助金の削減とともに、国内エネルギー消費を減らす観点から、エネルギー利用の効率化や省エネルギーの導入を本格的化せざるを得ない状況にある。

このような状況の下、近年では多くの中東産油国の政府要人が公の場において、エネルギー補助金削減に関する発言を行っている。特にサウジアラビアでは、2013年5月に当時のジャーセル経済企画相が、補助金によりサウジ経済が歪められているとして補助金の大幅削減を要求した他、最近では、サルマーン新国王就任直後の2015年2月、サウジアラビア通貨庁(SAMA, Saudi Arabian Monetary Agency)のDr.ファアド・アル・ムバラク総裁が水とエネルギーに関連する補助金システムの改革の必要性を訴えるなど、中東産油国の意識も変化、自国におけるエネルギー消費を増大させるエネルギー補助金の改革やエネルギー使用の増大に対する危機意識が高まっていると言える。

中東における省エネルギーの概況

こうした背景に加えて、近年の地球環境問題への高まりもあり、中東産油国は国によって強弱はあるものの、2000年前後までは否定的だった再生可能エネルギーや原子力と並んで省エネルギーへの取組みを本格的に進めざるを得ない状況となっている。中東全体でみれば、省エネ政策の流れとしては、欧州の支援を受けたアラブ連盟が主導する北アフリカの国々による省エネの取組みと、湾岸のアラブ6カ国から構成される湾岸協力会議(Gulf Cooperation Council : GCC)加盟国が域内における産業規格や基準の統一標準規格の策定を目的として設置した湾岸諸国標準化機関(GCC Standardization Organization=GSO)2の所在地でもあるサウジアラビアの影響を受けつつ、国ごとに独自に進める省エネの取組みの2つの流れがある。

(1) 北アフリカにおける概況

北アフリカを中心に本格的に稼動した省エネのプロジェクトとしては、ドイツのGIZ(Germany Development Cooperation)主導により、欧州・地中海パートナーシップ(Euro-Mediterranean Partnership, EUROMED)の一環として、2006年に開始した建設分野の省エネ計画、MED-ENEC(Energy Efficiency in the Construction Sector in the Mediterranean)がある3。同プロジェクトの第1期計画は、2006年から2009年まで、10ヵ国(アルジェリア、エジプト、イスラエル、ヨルダン、レバノン、モロッコ、パレスチナ、シリア、チュニジア、トルコ)の小規模な集合住宅における実験が行われ、第2期計画では、ヨルダンの死海近郊でより大規模な都市開発も含めたDead Sea Development Zone Projectが2009年より2012年まで実施されている。

加えて2008年には、EU、GIZ、デンマークのDANIDA(Danish International Development Agency)、およびエジプトのNREA(New and Renewable Energy Authority)の支援により、アラブ連盟加盟国における再生可能エネルギーと省エネルギー普及を進めるため、RCREEE(Regional Center for Renewable Energy & Energy Efficiency)をカイロに設立、各種セミナーを開催している4。現在のRCREEE参加国は、アルジェリア、バーレーン、ジブチ、エジプト、イラク、ヨルダン、クウェート、レバノン、リビア、モーリタニア、モロッコ、パレスチナ、スーダン、シリア、チュニジア、イエメンの16ヵ国となっている。

なお、中東における再生可能エネルギーの代名詞的存在であり、持続可能な低炭素エネルギー事業を展開する再生可能エネルギー企業であるMasdar(Abu Dhabi Future Energy Company)と同社が運営するMasdar City内に本拠地がある国際再生可能エネルギー機関(International Renewable Energy Agency: IRENA)の本部を有するUAEは、2015年現在RCREEEには未加盟だが、RCREEEも再生可能エネルギーと持続可能な開発をテーマに毎年1月に実施されるAbu Dhabi Sustainability Weekの一環として、Masdarが主催する世界最大級の再生可能エネルギーの祭典とも言えるWorld Future Energy Summit(WFES)やIRENAの年次総会に参加するなど協力体制にある。

またアラブ連盟は、2010年にEU、MED-ENEC、RCREEE他の協力により、EUのエネルギー・サービス指令(EU directive 2006/32/EC on energy end-use efficiency and energy service known as “Service Directive”)を元に、「Arab EE Guideline」を発表。加盟国に対して、2015年までに概ね10年間程度の中長期省エネ計画「NEEAP(National Energy Efficiency Action Plan)」の制定を要求5、2015年5月現在の時点で、エジプト、レバノン、パレスチナなど6ヵ国が行動計画を制定済である。さらにアラブ連盟は、2011年12月アラブ電力閣僚協議会(Arab Ministerial Council for Electricity: AMCE)において、毎年5月21日をアラブ省エネルギーの日(Arab Energy Efficiency Day)とすることを決定6、2013年5月には、RCREEEなどが協力し、カイロで大規模な関連イベントを開催したほか、2015年も本部のあるカイロや加盟各国毎に各種のイベントが実施されている。

(2) サウジアラビア他の湾岸諸国の概況

GCCでは、現在、ビルなどの建築分野において、国別に独自の省エネ規制を導入しているが、家電分野などについては、この分野で先行するサウジの動きを注視、一部ではサウジの規制案をそのまま自国の規制として受け入れることを検討中の国もある。この他、自動車分野ではリヤドにあるGSOが実施するセミナーなどを通じて、GCC域内における省エネ規制内容の標準化・統一化しようとする動きもあるが、あくまで強制的なものではない。ちなみに、アラブ連盟が主導するRCREEEに参加しているのは、現時点でバーレーンとクウェートの2ヵ国、さらにRCREEEやアラブ連盟が求めるNEEAPを作成しているのはバーレーン1ヵ国のみである。

以下、筆者が直接・間接に関与しているサウジを中心に省エネの現状について説明する。

サウジは2003年から国連開発計画(United Nations Development Programme: UNDP)の協力のもと、KACST(King Abdul Aziz City for Science and Technology)、サウジ・アラムコ(Saudi Aramco)、サウジ基礎産業公社(Saudi Basic Industries Corporation: SABIC)を中心にNEEP(National Energy Efficiency Program)を立ち上げ、このNEEPを母体として、2010年にはKACST内に省エネ実施機関としてSEEC(Saudi Energy Efficiency Center)を設置している7。その後、さらに2012年には、省エネ政策をさらに強力に進めるため、近い将来のナイミ石油鉱物資源大臣の後任候補として最有力と言われているアブドゥルアジズ同省副大臣(殿下。サルマーン国王実子)をトップとして、SEEC内に商工省、水資源電力省、住宅省、交通省、財務省、都市村落省、サウジ・アラムコ、サウジ標準化公団、SEEC、サウジ電力会社、SABIC、2国間クレジット指定国家機関(DNA)などの14省庁・機関の副大臣・事務局長級のメンバーから構成される理事会(Sub-Committee)と石油鉱物資源省(実質はアラムコ)を中心とする約30省庁・機関出身の約150人のメンバーから構成されるTechnical TeamによるSEEP(Saudi Energy Efficiency Program)が立ち上げられており、本格的な省エネ計画の策定を実施している。

現在SEEPは、建築分野、輸送分野、産業分野の3分野を優先分野と定めて活動を実施しており、家庭用のエアコン、冷蔵庫などの家電製品に対する省エネ効率基準とラベリング制度の導入、新規の建築物に対する省エネ規制の導入(断熱材の義務化や住宅用断熱材の標準化)を実施したほか、2014年11月には、中東初の本格的な自動車燃費規制(Saudi Café)を2016年から導入することを石油鉱物資源省、商工省、サウジ標準化公団(Saudi Standard Metrology and Quality Organization: SASO)などと共に正式公表したほか、自動車のタイヤ転がり抵抗規制についても導入を公表している。また産業分野については、サウジ国内の石油化学、セメント、鉄鋼の3分野における本格的な省エネ導入が議論されている。さらにSEEPは、SEECやSASOとともに産業界のみならず、一般国民向けの普及啓蒙活動にも力を入れており、テレビや屋外広告と共にソーシャル・ネットワーク(特にTwitter)による広報活動に力を入れている点が興味深い8

他のGCC諸国と比較してのサウジの省エネ政策の特徴として、各種規制の統一的な運用・解釈がされていことである。個人的な経験から言わせて貰えば、一般に中東各国の法規制は、中央政府が法規制等の統一的な運用のための内部通達等を実施することが少なく、このため実際の法規制の運用・解釈が統一的でない。このため場合によっては、現場の担当者次第ということがめずらしくないが、この点サウジ政府は、省エネ分野については、周辺国と比較して相当に努力していると言えよう。特に2013年以降、サウジでは、エアコン、冷蔵庫、洗濯機など家電分野の省エネ規制が強化され、いわゆる省エネ効率などが星の数でわかる省エネ・ラベリングのステッカー貼付が義務付けられたが、確認できた範囲では、サウジ国内におけるラベルの添付率は、少なくともリヤドとジェッダで販売されている製品では、ほぼ100%となっている。その他のGCC諸国も多くが省エネ・ラベリング制度を導入しているが、現状での添付率は、筆者が個人的に確認した範囲では、ここ3ヵ月で貼付率が急上昇し、サウジ同様100%に達したUAEを除けば、高い国でも8割、低い国では2割以下という状況であり、サウジにおける徹底振りは注目される。

日本のサウジとの省エネ協力の現状

1970年代の2度の石油危機(いわゆるオイル・ショック)など、過去の経験を通じて日本がこれまで蓄積した省エネ技術やノウハウについて、中東産油国は、概ね高く評価している。特にサウジにおいては、主要国の省エネの状況を独自に比較・評価しており、この分野において、日本が世界で最も進んでいる国の1つであると高く評価している。

我が国にとって、サウジは最大の石油の供給先であり、友好国であることから、経済産業省は、2013年5月よりサウジ政府からの要請に応じる形で、定期的な意見交換や、専門家の派遣、サウジ側が期待する建築分野などの省エネ・セミナー、ワークショップ等の開催を通じて、サウジ国内のエネルギー使用量・消費量の効率化・削減のため、日本がこれまで培った経験とノウハウを提供している。

これに加えて、日本政府とは別に東京電力が2014年6月、電力の効率的利用に関するコンサルティング契約をSEC(Saudi Electricity Company)との間で締結した。この契約では、東京電力がサウジの電力供給の現状を分析、需要側の省エネ関する取り組みと配電設備の電力損失を低減する方策に関する提案を行う計画となっている。なお、過去に東京電力は、独立行政法人国際協力機構(Japan International Cooperation Agency: JICA)の業務受託(期間:2007年2月~2009年3月)により、サウジアラビアにおける電力需要改善対策を取りまとめた「電力省エネルギー・マスタープラン」を策定、その後、2009年10月より水電力省向けの同マスタープラン実施支援にかかるコンサルティングを実施した実績があり、こうした過去の実績を踏まえ、今回SECとの間で契約締結に至っている。

2国間協力に関する問題点

日本の省エネ技術は、日本固有の環境に適応して進化してきたことから、残念ながら、中東の厳しい環境の下で必ずしもそのまま利用できるとは限らない。

例えば、現在の中東における主要な省エネ政策の課題として、ビル等の建築分野の省エネがある。一般の日本人にとっては、中東は砂漠に覆われ、乾燥しているイメージがあるが、実際には、日本人が想像するより、多様な環境が存在する。例えば、中東産油国のうち、UAE、カタールなどアラビア湾岸地域にある国々は、実は日本以上に夏場の湿度が高く、加えて中東特有の砂嵐のため、ビルが劣化しやすい。このような国では、ビルのオーナーが借主に対して除湿を兼ねてエアコンを1年中稼動させることを義務付けているビルも少なくない(実際、筆者がアブダビで住んでいたマンションでも、エアコンを1年中稼動させることが、借主の義務として契約書に明記されていた)。しかも、中東では一部を除けば、比較的地震も少ないことから、ビルの施工主は、あまりコストをかけず、20年ぐらいで立て替えられるビルを建てればよいとするケースが多く、施工主にとっては、現地政府が進める新規ビルに対する断熱材の導入を躊躇することもあると聞いている。

またそもそも日本の場合、オイルショックの際に、ある日突然原油価格が数倍に値上がりして、政府・企業のみならず、国民一人一人が危機感を感じて、省エネに対する努力を始めた。しかし、中東産油国は、現時点でも自国で消費する数十年分以上の原油を保有しており、たとえ政府が省エネに関する広報活動や規制を強力に実施しても、電気・ガソリン料金は、補助金制度が残っているため、依然、日本との比較で10分の1から3分の1という料金体系を取っている。

このような状況で、中東各国の政府は、国民に対する一斉メール、ソーシャル・ネットワークや新聞・テレビ広告等を利用するなどのさまざまな形で、国民に対する省エネを訴えるキャンペーンを、特にエネルギー消費がピークを迎える夏場中心に開始している。だが政府が省エネを訴えても、国民の側に危機感がない現状では、政府担当者の懸命なメッセージも、日々流される大量の情報の中に埋もれがちであり、省エネ意識が国民全体に浸透するには、もう少し時間がかかるのではないかと思われる。また、GCCは人口に占める外国人比率が高いが、この種のキャンペーンは、現在、自国民向けであるため、主にアラビア語で発信されている国が多い。だが、湾岸諸国のUAEやカタールなどは欧米やアジア系のアラビア語を理解できない外国人も少なくない。従ってこういった人々に対する対応も課題になっている。

余談だが、筆者は2013年、エアコンのない時代に育ったアブダビの某部族の長老と面談した際、現在の仕事である省エネ協力を説明したところ、その長老から「お前、なんで意味のない仕事をしているんだ、いざとなれば、我々は海外への石油の輸出を止めて、国内に回せばよいし、それがなくなったら、エアコンのない時代、自分たちは、昔ながらの生活、そして砂漠に戻ればよいのだ」と真面目な顔で言われた経験がある。このような意見は極論なのかもしれないが、中東の人々の本音を聞いたようでもあり、今でも強く筆者の印象に残っている。

おわりに――急がば回れ?

中東産油国の政府関係者の一部では、豊かな生活になれた大人の意識を変えることは容易でない。そこで日本の諺「急がば回れ」ではないが、子供たち向けの省エネ教育や広報を強化する動きもある。特に小中学校レベルの子供たちに対して、どのような形で省エネを教えるのかについて、熱心に議論を始めた国もある。ある国では、過去に日本の某電力会社等が実施したアニメのキャラクターを利用して子供向けのステッカーやパンフレットを配布、省エネの重要性をPRしたことに注目し、自国民の子供向けの教材やポスターを作成、授業の一環として授業で省エネを教え始めている国もある。このほか残念ながら版権上の問題等で実現しなかったが、日本の広告会社にコンタクトを取って、日本のキャラクターを利用する可能性を議論した国もあった。

筆者はサウジの関係者から、アラビア語で私の娘「『璃子』の父親」という意味の「アブ・リコ」と呼ばれている。彼らの国の将来を考え、真摯に省エネに取組む姿勢を見ると(筆者のサウジのカウンターパートは、週末の金土を除く平日は、午後3時半から7時半を除く、毎日朝7時半から夜12時前後まで合宿生活状態で働いている)、私の今2歳半の娘「璃子」が将来大人になった時には、中東産油国の国民の意識も大きく変化しており、中東産油国を説明する際に、日本に石油を輸出しているだけでなく、エネルギーを賢く使っている国だと説明する時代が来ているかもしれないと時々考えているし、また、そうなると良いと心から願っている。そういったことに筆者の現在の仕事が微力でも役立てればと日々考えて仕事を続けている毎日である。

経済産業省資源エネルギー庁

省エネルギー新エネルギー部国際室課長補佐

猪口 相

本文の注
1  Glada Lahn and Paul Stevens, “Burning Oil to Keep Cool: The Hidden Energy Crisis in Saudi Arabia.” (http://www.chathamhouse.org/sites/files/chathamhouse/public/Research/Energy,%20Environment%20and%20Development/1211pr_lahn_stevens.pdf)

2  GSOの概要については以下を参照。http://www.gso.org.sa/

3  MED-ENECの概要については以下を参照。http://www.med-enec.com/

4  RCREEEの概要については以下を参照。http://www.rcreee.org/

6  「アラブ省エネルギーの日」については以下を参照。http://www.arabeeday.net/

7  SEECの概要については以下を参照。http://www.seec.gov.sa/

8  サウジの省エネ規制については、SASOの以下のHPで入手可能である。http://www.saso.gov.sa/ar/Pages/default.aspx この他に新規の省エネ規制案については、WTO/TBT協定に基づき、SASOはWTO事務局に原則通報しており、以下で確認可能である。http://tbtims.wto.org/web/pages/search/notification/BasicSearch.aspx

 
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