中東レビュー
Online ISSN : 2188-4595
ISSN-L : 2188-4595
論稿
ロシアの中東政策 ―プーチン大統領のシリア政策を通じて
清水 学
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2016 年 3 巻 p. 49-73

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Translated Abstract

The active initiative taken by Russian President Vladamir Putin by bombarding the antigovernment forces in Syria at the end of September 2015 startled the world by its precalculated boldness. Russian intervention has radically changed the dynamic of the war by empowering the Syrian government of Bashar Assad, and has resulted in a ceasefire agreement which starts on 27th February 2016, led by Russia and the US. No one can predict at present the next stage of conflicts in Syria or whether it will result in a positive solution to the tragic wars there. However, there is no denying the fact that Russia has played an important role in the development of the game. This paper analyzes the motivations of Putin in intervening in the Syrian crisis and the factors which have enabled Russia to play an enlarged role in the Middle East, seemingly beyond its objective capabilities. Legacies of international networks built during the Soviet period; shrewd tactics in making use of the inconsistency and vacillation of US policies, particularly towards the Middle East; its historical experience of interaction with the Muslim cultures, including domestic ones; its geopolitical perception of world politics, and the export of energy resources and military weapons as tools of diplomacy are some of the factors which explain Russian behavior. At the same time, the personal leadership and accumulated experience of President Putin in formulating Russian diplomacy and in manipulating different issues in a combined policy should be taken into account. His initiative in Syria succeeded to some extent in turning world attention away from the Ukrainian issue, aimed at changing the present sanctions imposed by the West. Another phenomenon to be noted in the international arena is the newly developed mutual interaction between Russia and the Arab countries in the Gulf. Frequent visits to Russia by autocratic leaders, including kings, emirsand princes do not always reflect a shared common interest between Russia and the Arab leaders. On the contrary, in spite of sharp and fundamental differences in their attitude toward the issues related to Syria, Iran and Yemen, the Arab leaders find it necessary to communicate with Russia and to know Russia’s expected strategies and intentions towards the Middle East, apart from its oil and gas policies. The Iran deal on the nuclear issue in July 2015 may have been a factor behind the phenomena.

はじめに

本稿の課題は、緊迫する中東情勢、特に「アラブの春」以降の展開においてロシアの政策と関与が重要な役割を有する局面が続く中で、その意味と特徴を探ることである。具体的にはシリア問題に対する関与のありかたに今日のロシアの中東外交が集中的に現れていると見られるところから、シリア問題を中心に考える。ロシアは広大で国境を接する国が多いだけではなく、これらの国々が極めて多様な性格を有することから、必然的に地政学的思考が鍛えられている。ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)崩壊後に「地政学」にはロシアにおいて正式な地位が与えられ1、ドゥーマ(国会)には常設の地政学委員会を組織されるに至っている。強力な指導権を有するプーチン大統領(1952~)は「地政学」的国益を自覚した外交を展開しており、異なる地域の問題をリンケージさせて有利な局面を創り出そうとする戦略が得意である。

1. 今日のロシアの国際的位置

ソ連が1991年12月に解体されてからほぼ4半世紀経過した。第2次大戦後の国際関係を大きく規定した要因であった米ソ対立を軸とする「冷戦構造」の崩壊はそれより若干早いが、この歴史的激変は国際関係の根本的構造変化を期待させるものであった。ソ連の後継国家ロシアは「社会主義」から資本主義への体制転換(市場経済化)を推進し、経済的にも欧州と接近し、貿易・投資の流れを通じて世界経済の一翼に参入するプロセスが始まった。このような変化を通じて「冷戦構造」の規定要因の1つであった、「資本主義」対「社会主義」という体制間あるいはイデオロギー的対立は過去のものとなったと見られてきた。

しかし今日ジャーナリズムの一部で「新冷戦」という用語が登場し、現段階のロシアと米欧間の緊張関係を指す用語として使用されている。この「新冷戦」の由来を追うのは本稿の課題ではないが、ロシアは北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)の東漸、EUの加盟国拡大、東欧におけるミサイル防衛システム(Missile Defense: MD)配備の動きを自国に対する安全保障上の脅威とみなしてきた。この一連の動きがロシアの対米欧不信感を生み出してきたことは事実である。コソボ独立を巡るNATO軍のセルビア空爆(1999年)、グルジア(現ジョージア)・ロシア戦争(2008年)が重要な契機となるが、さらに2014年2月のウクライナの政変で米欧とロシアの対立は新たな段階に進んだ。同年3月、ロシアのクリミア編入という展開を踏まえ、ロシアはG8のメンバー国から「追放」された。

2015年12月末にプーチン大統領によって署名され発表された「ロシア連邦の国家安全保障の戦略について」と題する文書によると、米国がロシアの安全保障にとって脅威の1つであることが初めて明示的に指摘された2。2009年5月20日付けでメドベージェフ大統領のもとで発表された「2020年までの安全保障戦略3」においては米国とNATOに対する警戒心を示しながら、直接的脅威とは明言されていなかったことと比較すると、今日の段階の緊張の高まりが示されているといってよい。2009年文書では「ロシアは、共通する利害を基盤とし、ロシア・米国関係が国際情勢全般に与える重要な影響を踏まえながら、米国との対等かつ本格的な戦略的パートナーシップの構築を目指していく」と述べられていた4。それに対して新文書は「国際的および国内問題における独立した政策が米国とその同盟者の反発を引き起こし」、「ロシアに対する政治的、経済的、軍事的かつ情報面での圧力につながる」と掘り下げた分析を行っている。「新冷戦」という表現は国際関係の無視できない側面を示している。

しかし重要なことはロシアがソ連の後継国家といっても、米国と対抗する意思を持ったソ連ほどの力は到底持ちえないという事実である。ロシアは人口規模では1億4000万人ほどであるが、経済的には中国、インド、ブラジル、南フリカと並ぶ新興経済圏BRICsの一つと分類されるレベルである。しかも2014年の名目GDPで見ると世界第10位に甘んじており、ブラジル、イタリア、インド以下に位置づけられている。それにもかかわらず、ロシアの国際政治における存在感はその経済規模で想定されるより遙かに大きい。特に注目されるのは、中東地域、それはシリア、エジプトなどアラブ世界の一部のみならずトルコ、イランにおけるロシアの外交的イニシアチブと影響力は米国も無視できないものがあり、戦略的に高いプライオリティーを与えた対応を余儀なくされていることである。

その要因を挙げてみると、第1に、ロシアは国連安全保障理事会の常任理事国であり、かつ米国に次ぐ有力な二大核兵器保有国の1つを維持していることである。第2に、原油・天然ガスの最有力の生産・輸出国の1つであり、エネルギー資源の輸出が有力な外交手段となっていることである。第3に、ソ連時代の遺産の継続・発展である軍需産業あるいは航空機産業の一定の優位性である。第4に、ユーラシア大陸の欧州からアジアの内陸にまたがる地球上の陸地の1割以上を占める広大な領域国家であり、多くの国々と国境を接し、様々な地政学的関係を結んでいることである。これは強さにもなるが弱さにもなりうる両義的なものであるが、異なる地域の問題を相互にリンケージさせて有利に問題を解決するうえで強さを発揮し得る。シリア問題でのイニシアチブを通じてウクライナ問題に関する国際的圧力を緩和させようとするのはその一例である。第5に、ソ連時代に築き上げた影響力とネットワークが残存し、それを外交的に行使し得る国々がまだ遺産として存在していることである。特に中東への影響力は衰えたとはいえ、無視できない。第6に、米国の外交政策に不満あるいは不安を持つ国々が、その不満を表明し、場合によっては米国の政策に対抗する上で、米国とは一線を画そうとするロシアとの関係を有力な外交上のカードとして利用してきたからである。

ロシアとイスラーム世界との関係は単にソ連時代に構築されたものではなく、その置かれた地理的条件もあり、それ以前の長くかつ複雑な歴史的背景を担ったものである。1552年にロシアのイヴァン4世はカザン・ハン国を征服したが、そこでのテュルク系ムスリムがカザン・タタール人として、彼らの一部はロシア帝国内のムスリム・エリートとなった。1768~1774年のロシア・オスマン帝国戦争の結果、1783年にクリミアはロシア帝国に併合された。クリミア・タタールの一部もロシア帝国に組み込まれた。19世紀初頭にカジャール朝ペルシャからグルジアとアゼルバイジャンを併合した。さらに19世紀を通じて中央アジアのロシアの征服・併合が進み今日のイスラーム世界であった中央アジア5カ国にほぼ相当する地域を支配下に置いた。これらのプロセスはロシアの正教文化の一方的移転というより、イスラーム教徒の間の多様な文化がロシア文化にも影響を与えるものでもあった。ロシアのイスラーム世界への対応で直接現代に繋がるものとしては、ソ連時代のアラブ民族主義に対する支援の姿勢を見せた時期と1990年末から8年間も続いたアフガニスタン侵攻とその失敗がある。

第7に、無視し得ないのはプーチン大統領の個性と外交的手腕である。国際政治において特定の個人が重要な役割を果たしうることがあるが、今日のロシア外交を評価する上でプーチン大統領という個性は考究に値する。ソ連時代からKGB5で鍛えられた国際政治感覚を有するプーチンの指導者としての資質という個人的要因は無視できない。プーチンは米欧と比較した場合のロシアの相対的弱体性を十分自覚しており、その弱体性をどう補っていくかという問題意識に支えられた戦略的戦術的思考にしばしば鋭さが見られる。特に米欧外交の弱点あるいは亀裂を巧みに利用する外交に手腕が発揮されることがあり、これが米欧をいら立たせてウクライナ問題に関連して対ロシア封じ込め政策を強化させることに帰結している。ロシア側においては封じ込められようとしているという「危機意識」はロシア国民を結束させる役割を果たしており、危機の度にプーチン支持率が高まるという現象を生んでいる。この高支持率はロシア当局の情報操作によるものだけとは簡単には断定できない。なぜならばソ連時代と異なり一般の人々が西側の情報に接する道は開かれているからである。むしろロシア人の伝統的な深層心理と関連するものであろう。

米欧のロシアの対外政策に対する警戒心・不信感は異常に強い。この一種の「対ロシア恐怖心」の由来は筆者にとって必ずしも明らかではないが、同時に「ロシアはヨーロッパの一部」という愛憎半ばする感情も同居している。ロシア正教世界と西欧キリスト教世界の間には、その価値観の共通性とともに、それゆえに両者の相違を強く意識することに起因する特異な対立感情・違和感が存在するものと見られる。振り返って見れば冷戦の底流にはイデオロギー対立だけではない別の文化的衝突も含まれていた可能性がある。ハロルド・マッキンダーの地政学6の底流にも海洋国家英国の内陸国家ロシアに対する同様な感情が看取される。今世紀に入って、またウクライナ問題以降、米欧の多くのメディアにおいて反露感情が強まっているのも共通に見られる現象である。本稿ではこの問題の考察に入ることはできない。

ロシアの「影響圏」は多層的である。第1に旧ソ連圏である。それにはバルト3国(リトアニア、エストニア、ラトビア)、中央アジア諸国(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)、コーカサス諸国(アゼルバイジャン、ジョージア〔旧グルジア〕、アルメニア)、スラブ諸国(ウクライナ、ベラルーシ)およびモルドヴァの15カ国が該当する。しかしバルト3国はロシアの「影響圏」からは基本的に脱したといってよい。さらにジョージアが親米・親欧州・親NATO色を強めている一方、ウクライナでは親露、反露で内戦が展開されているのは周知の事実である。他の国々とロシアとの關係は複雑かつ流動的であり、独立国家共同体(Commonwealth of Independent States: CIS)の安全保障機構である集団安全保障条約機構(Collective Security Treaty Organisation: CSTO)に加盟しているのは、2015年段階でロシア、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの6カ国となっている。ムスリムが多い中央アジア3カ国が加盟しているのは注目される。他方2008年のグルジア・ロシア戦争を経てグルジアから「独立」したアブハジア、南オセチア、ソ連解体後モルドヴァから「独立」した沿ドニエステルの3共和国は国際的承認をほとんど得られていないが、ロシアの援助と支援が不可欠な「国」として存在する。第2に、旧東欧圏についてはほとんどがNATOとEUの東漸と組み入れの対象となり、ロシアの影響圏から脱している。しかしセルビアは文化的宗教的関係からロシアとの関係が緊密である。第3にシリア、イラク、リビア、イエメン、エジプトなどのアラブ諸国、北朝鮮、キューバ、ベトナム、ラオスなど多様な「社会主義」を経験した国々がある。しかしイラクは米英の対イラク戦争でロシアは影響力を失い、「アラブの春」でリビアは分裂してロシアの足掛かりは失われた。シリアでは「アラブの春」の影響下で外部勢力が深くコミットした内戦が深刻化しており、現在ロシア外交が試されている国である。イエメンでも国内の反政府運動がその後内戦に発展し、特に2015年以降サウジアラビアが危機意識を持って介入している。1979年革命後のイランについては、イスラーム主義の国内への影響には警戒しつつも、その反米的側面を重視して「友好」的関係を構築しようとしてきた。キューバは2014年に米国と関係正常化が始まり、今後のロシアとの関係は流動的である。北朝鮮との関係は2国間関係がスムーズではないにしても引き続き重視されるであろう。

このようななかで、シリアへの影響力を保持し、エジプトとの関係を強化しようとするロシアの努力を理解することは難しくはない。中東情勢の混乱はロシアにとって、その独自の存在と役割を強調し得る機会を与えていることも事実であり、中東はロシアが国際的に存在感を高める上で最も重要な地域となってきた。それは米国とは異なる役割を果たすという独自の機能を今でも打ち出し得るということであり、それを可能としているのは米国外交の不整合あるいは隙と思われるところにくさびを打ち込む戦略である。換言すれば「敵失」を巧みに利用する能力を未だに有していることでもある。そのくさびはロシアの貿易・投資面でのチャンスを広げることにも繋がっている。

2. NATOとEUの東漸

ソ連崩壊後の1991年に、NATOは北大西洋協力評議会(Nnorth Atlantic Cooperation Council: NACC)、1994年には「平和のためのパートナーシップ」を発足させ、旧ソ連・東欧諸国との協力を促進するための枠組みを創設した。1997年のNATO首脳会議でポーランド、チェコ、ハンガリーの3カ国が第1次拡大の対象国と認定されて1999年3月に実現、2004年にはバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)とスロバキア、スロベニア、ブルガリア、ルーマニアの7カ国が加盟、2009年にはクロアチアとアルバニアが加わりNATOは28カ国体制となった。さらに1999年4月には加盟希望国に加盟支援を行う「加盟行動計画(Membership Action Plan: MAP)」が採択された。当面の参加国はマケドニアとモンテネグロであったが、シリア空爆を始めたロシアと米欧の間の駆け引きが進展していたなかの2015年12月2日にNATOはモンテネグロに対して加盟手続きに入るよう正式に招聘する手続きをとった。NATOの東漸はロシアの警告にもかかわらず継続されているが、シリアでのロシアの関与に対するNATOの戦略と連動していると見ざるを得ない。

プーチンが大統領に就任した2000年(第1期)前後以降、ロシア外交と米欧との間には隙間風が目立つようになった。1999 年3月~6月にかけてコソボ問題と関連して実施されたNATOによるユーゴスラビア(当時)のベオグラード空爆は、ロシアにとってはそのユーゴスラビアに対する影響力を弱体化させようとする米欧の戦略と受け止められた。このNATOの空爆は国連安全保障理事会の決議なしに行われたものである。その後の展開のなかで2008年、NATOの支援を背景にアルバニア系ムスリムを主体とするコソボ共和国がセルビアからの独立宣言を行った。コソボ独立はセルビアの合意を得たものではない。ロシアにとってコソボ問題は第二次大戦後の国境変更を行った最初の事例として米欧に対する不信感を強める契機となった。

さらにロシアの対米不信を強めたのは、米国が2001年12月にABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約からの一方的離脱をロシアに通告し、2002年6月に正式に離脱したことである。米国は新たに欧州にMD(ミサイル防衛)を配備する理由をイランのミサイルを対象にしたものと説明したが、ロシアはその通りに受け取っておらず、ロシアの核ミサイルを無力化させるものとして、新型ICBMの開発に走らせている7

他方、2003年11月のグルジアでのシュワルナゼ大統領を追放した大衆運動である「バラ革命」、2004年11月のウクライナでの大統領選挙で当選した親ロシア系ヤヌコビッチに対する親西欧大衆運動であった「オレンジ革命」、2005年4月キルギスでアカーエフ大統領が大衆蜂起で追放された「チューリップ革命」という一連の「カラー(色)革命」が続いた。「カラー革命」の性格は多様であるが、グルジアとウクライナについては大衆運動の主体がロシアの影響力を弱めることを要求する親西欧派であったことが、プーチン大統領の米欧に対する警戒心を深めることになった。他方、「カラー革命」はセルビアを経て、エジプトの2001年の「1月25日革命」へつながった側面があり、その点では「アラブの春」にも影響を与えた。

北京オリンピックの最中の2008年8月に起きたグルジア(現ジョージア)・ロシア戦争は直接的にはグルジアの先制攻撃に起因すると見られるが、グルジアの攻撃を予知していたロシア軍の介入もあり南オセチアとアブハジアはグルジアから「独立」した。グルジアはロシア軍の挑発を主張しているが、ロシアはグルジアがNATO諸国を戦闘に引き込もうとする意図があったとしてグルジアとNATOに一層不信感を深める契機となった。

ウクライナ問題はロシアにとってはNATOとEUの東漸と深く関わっている。ウクライナのヤヌコビッチ大統領がEUとの連合協定調印を延期すると決めたことが2014年2月27日の反露右派民族主義勢力による大統領追放という事実上のクーデターに繋がった。ロシアは3月18日にクリミアの国民投票を経る形でクリミアのロシア編入というドラスチックな手段に訴えた。これに対して6月4日、G8サミットはロシアを排除し、対露制裁強化で一致した。

クリミア半島の帰属問題は歴史的経緯を見れば白黒が明白な単純なものではない。ソ連時代の1954年に当時のソ連共産党第1書記であったフルシチョフはロシア連邦に帰属していたクリミア半島をウクライナに編入する決定を行った。当時ソ連を構成していた共和国間の領域の変更はしばしば行われていたものであるが、住民も帰属先による大きな変化を予期しなかったため、それは特に強い反発を呼ぶものではなかった。しかしソ連邦の解体とウクライナの独立は、ロシア語住民が圧倒的なクリミア半島の住民にとっては、帰属問題の性格は異なるものとなった。ソ連解体後1992年1月にロシア議会は「ソ連が1954年にクリミアをロシアからウクライナへ移管したことは違法だ」と決議する一方、ウクライナ内のクリミア議会も同年5月にバハロフ最高会議議長の下で独立を決議しクリミア共和国憲法を制定した。しかしロシアの積極的な支援が得られなかったため同年9月に独立を取り消している。しかし1994年1月のクリミア自治共和国の最初の大統領選挙では、独立を主張するメシコフが独立を取り消したバハロフを破って当選し、議会も再度独立を決議した。メシコフはクリミアの時間をモスクワ時間に合わせ、通貨をウクライナ・クーポンからロシア・ルーブルへ戻そうとしたり、ウクライナ人に外国人パスポートを発給したり、ウクライナ国籍を持たないロシア人経済学者を副首相に任命しようとするなど、ウクライナ中央政府をまったく無視した政策を取ろうとした。しかしウクライナ政府は1995年3月にクリミアへの武力介入の構えを見せつつ、クリミアの大統領と独自憲法を廃止させてウクライナの統治下に戻させた。クリミアはウクライナ国内の自治共和国として残り、1998年12月にウクライナ政府の承認の下で新たな憲法が制定された。つまりウクライナ支配下でクリミア住民は選挙を通じてしばしばウクライナからの独立あるいはロシアへの編入を求める意思表明をしてきたのである。米欧もその経緯を知っているが故に、クリミア編入に関する対ロシア非難については歯切れが悪く、迫力を欠く一因となっている。その点ではクリミア帰属問題とウクライナ東部問題には微妙な相違が見られる。しかし同時に、ロシアもクリミア編入が西側に与えるインパクトを知らなかったわけではない。しかしウクライナの政情不安がロシアが租借しているクリミアのセヴァストポリ黒海艦隊基地へ影響が及ぶことを懸念して編入をいわば電撃的に行ったものである。

他方、東部ウクライナでのロシア兵参戦の事実について、ロシアは否定的な表明を行ってきたが、2015年12月末の恒例の記者会見でプーチン大統領は次のような注目すべき発言を行った。「その地域(東部ウクライナ)における軍事的分野を含む特定の問題に対処する人々がいないと我々は決して言明したことはない。しかし、そのことはそこにロシアの正規軍がいるという意味ではない。その相違を感じるべきである8」。これは少なくともロシアの義勇兵が参加している可能性を認めたものと見られる。

3. 対抗的新国家主義イデオロギー

米欧のなかには根深い対露不信感が存在しているが、それがここ2,3年の間に深化される傾向がみられる。特にロシアが2014年2月にクリミアのロシアへの編入を行ったことが影響を与えているが、その背景はもっと深いところにあり、多様な要因が重なったものと見られる。西欧とは異なる民主主義などに関する独自の「価値観」、理解が難しい国民性、市場経済化といってもガスプロムなどエネルギー関連国有企業の戦略的役割を重視する「国家資本主義」的傾向の強まり、「海洋国家」とは異なる「内陸国家」的行動様式などであろう。このような西欧の観点に対して、ロシアの側ではマッキンダーの地政学の主張を逆用する形で、ロシアは「海」の文明を代表するというより、「陸」の文明を代表しているという見方もあり得る。他方、「ロシア人の皮膚を一皮むいたらタタール人の顔が現れる」という言説があるように、ロシア文明は非西欧的なものとの混合という認識もあるかもしれない。米欧のメディアでは非常にしばしばロシア人あるいはロシアが人間の形で表象されずに、「熊(クマ)」の形で表現される。これが何を表現したいのかは恐らく多様な解釈が成り立つが、理解しがたい「不気味な」行動様式という側面も含まれているように思われる。

他方、プーチン大統領自身のイデオロギーはある意味で常に流動的であり、体系づけること自体が容易ではない。しかしアイデンティティーとしてロシア正教を中心とするロシア文明の伝統を称揚し、それを国民統合のシンボルとしようとしてきたことは間違いない。その場合ソ連時代につくりあげた1つの「空間」は特別の意味を持っている。複雑な文化的背景が混入したユーラシア国家であるロシアの文明的特徴を規定するに際しては「伝統」の意味が大きくなる傾向が強く、一種の神秘主義的統合の助けが必要になる。ソ連時代は反共主義者で国外に追放されたニコライ・ベルジャーエフ(1874~1948)や、ロシアのような多様な構成部分を有する国家では権威主義的政権が不可欠なものだと主張するイワン・イリイン(1883~1954)はプーチンがしばしば言及する思想家である9。またプーチン体制下のロシアにおいて、過去の歴史を美化する新国家主義の称揚が見られる。新国家主義にも多様な潮流があるが、代表的なイデオローグとして浮上した元モスクワ大学教授のアレクサンドル・ドゥーギン(Alexandre Dugin)は、その著書『第四の政治学3』で反リベラリズム、反共産主義、反ファシズムに立つ「第四の途」を提唱している。米国のヘゲモニーに強く反対するとともにプーチン体制下のロシアにおいて、過去の歴史を美化する新国家主義の称揚が見られる。ドゥーギンは今世紀の初めに「ユーラシア主義(Eurasiaism)」運動を始めたが、この「ユーラシア主義」のユニークさは、欧州の辺境のロシアとしてではなく、独自の正教・ユーラシア文明を担っているロシアという自負にあるだろう。西欧のカトリックやプロテスタントとは異なる、独自のロシア正教文化の強調は、西欧がその価値観を普遍的なものとして押し付けることに反発するベースとなっている。その影響下にあると思われるラブロフ外相は2014 年11 月22 日の外交防衛問題評議会年次大会(モスクワ)での講演のなかで、EU など西側諸国が「キリスト教嫌い」(Christianophobia)に陥っており、欧州文明がキリスト教を基礎としている事実に触れていないと非難した。ロシアは伝統的価値に基づく「開明的保守主義」により「キリスト教徒の守護者」の役割を担っていることを示唆したものである10

その「開明的保守主義」で注目されるのは東方正教会だけではなく、ロシア社会のイスラーム的伝統も含まれる独自のものと理解される。ロシア史におけるタタール人の役割も決して小さくなかった。プーチンは北コーカサス地方のチェチェンやダゲスタンの分離主義を力で抑えつけたが、他方ロシアでは国内のムスリムを文明のなかで「ユーラシア主義」のもとで包括しようとする思想傾向も現存する。チュルク系民族やイランに対する親近感も表明される。またロシアは2005 年以降イスラーム諸国会議のオブザーバー国となるなどイスラーム世界との良好な関係維持には神経を使っている。ロシアは中東イスラーム世界とのネットワークの構築・保持の必要性を強く認識している。そのため国内のムスリム・コミュニティーやタタールスタン自治共和国などを中東イスラーム世界との交流の窓口として重視している。

しかし「アラブの春」以降の展開は、リビアの事実上の解体、イラク・シリアにおけるIS(イスラーム国)に代表される一定の領域を確保したイスラーム過激派の登場など、より国際化したテロ集団との対決はロシアにとっても深刻な挑戦となっている。

現在のロシアの対外政策を理解する上で新たな「国家主義」的潮流は重要である。確かにロシアにおいて無神論的イデオロギーとしてのマルクス主義それ自体はソ連時代の経験などを踏まえて放棄されているが、国家が経済の管制高地を掌握するという「国家資本主義」的発想自体は放棄されておらず、またソ連邦という形で諸民族を包括した「帝国」へのノスタルジアは生きている。プーチン大統領が拡張的「国家主義」を遂行しているのか、あるいは政権の基盤として利用しつつも現実の政策はロシアの力の限界を十分知った上での抑制的なものであるかは見解の分かれるところである。しかし米欧の「圧迫」はこのような民族的プライドを刺激する場合、指導者に対する支持は強化され、経済的苦境のなかでもロシア人の「我慢強さ」が発揮されてきたことも考慮されるべきであろう。

11月7日のロシア10月革命記念日をエリツィンは「和解と合意の日」と名前を変更して残存させたが、プーチンは2005年「和解と合意の日」を廃止した。これにより「社会主義」との連続性を遮断した。代わりに11月4日を1612年11月4日にポジャルスキーを指揮官とする国民軍がモスクワを解放したのを記念した「国民統合の日」とする重要な祝日とした。つまり、さまざまな宗教、民族、階層の人々が、祖国を救い、国家としてのロシアを守り抜くために1つになり、それが、ロシアの将来のために実現した、真の国民的統合であったという理解である。その結果、ロシアにとって2つの重要な祝日は、5月9日の対独戦勝記念日と11月4日の国民統合の日となった。2つとも外敵からのロシアの解放である。ロシアの底流にあるこの感情を外的世界がどう対応するか、またNATOの「東漸」が与えた心理的効果をどう見るかは重要な問題である。

4. ロシア・エジプト関係の新展開

エジプトはアラブ世界において人口が最も多いというだけではなく、地理的条件からも、またアラブ世界での政治的文化的影響力という点からも重視されてきた。過去においてもナーセル大統領の時期にはソ連とエジプトは極めて緊密な関係を構築していた。1970年代半ばのサーダート大統領の下での親ソ路線から親米路線への大転換で両国関係は冷え込んだが、ムバーラク大統領はソ連およびロシアの国際政治における重要性には常に注意を払ってきた。

2013年7月のエジプト軍事クーデターでモルスィー大統領が政権を失うと、事実上のエジプト軍事政権とロシアとの関係は急速に親密度を増した。同年11月にロシアのセルゲイ・ショイグ国防相とラブロフ外相がカイロを訪問し、エジプトのシーシー国防相(当時)とファハミー外相と会談した。ファハミー外相は両国間の軍事を含む協力関係が断絶したソ連時代の1974年以前の緊密な関係構築時代に戻る期待を表明し、ロシアのショイグ国防相は軍事(空海軍)面での協力を再開する可能性に言及した。軍事クーデター以降、ロシア・エジプト関係が新しい段階に入ったといってよい。シーシー国防相はエジプトにとって対米関係と米国からの軍事援助の重要性は十分認識しつつも、オバマ政権のエジプト新政権支持の姿勢の曖昧さに対して、ロシアの支持というカードを利用して米国に圧力をかけようとしたと見られる。ソ連時代にエジプトがしばしば対ソ友好関係をカードとして米国に圧力をかけるというパターンが事実上復活したと見てもよい。

シーシーは2014年2月国防相として初めて訪露したが、シーシー自身が大統領選立候補を公にはしていなかった段階でプーチン大統領が立候補を勧めるという異例な発言を行い、エジプト新政権への強力な支持を表明した。大統領に選出されたシーシーは同年8月12日に2度目の訪露を行ったが、これはアラブ・アフリカ以外では最初の外国訪問でありシーシー大統領のロシア重視の姿勢を示すものであった。ソチでの会談後、エジプト大統領は共同記者会見で両国関係が近年大きく前進してきた点に触れ、新スエズ運河バイパスは両国に大きな機会を与えていると述べた。他方、プーチン大統領はエジプトがロシアから小麦を400万トン輸入しており、それはエジプトの総小麦消費の40%に相当するとし、ロシアは小麦生産でエジプトに協力する可能性も検討したと語った。またロシア人観光客350万人がエジプトを訪問していると語った。プーチン大統領はエジプトへの兵器売却を進めることを約束し、同年9月には35億ドルに及ぶ兵器売却が合意された。これはウクライナ問題に関してロシアが受けている経済制裁を無視して行われたものである。

2015年2月9~10日、プーチン大統領は2005年以来初めてのエジプト訪問を行った。そこでは西部エジプトのタバアでの原発設置協力に関するメモランダムが調印されたほか、軍事協力再開の可能性も協議された。さらにシリア、イラク、リビアなど中東北アフリカ情勢に関して意見交換が行われた。

シーシー大統領は2015年8月に第3回目の訪露を行い、エジプト・ユーラシア関税同盟(EACU)の自由貿易地域を設置するための協議を行った。スエズ運河基軸開発プロジェクトへのロシアの投資とシリア情勢が議題になったと見られる。シリア問題に対する認識でも両国に共通点が多い。また地中海沿岸の都市ダバアの原子力発電所の建設でも合意した。第3回目訪露時には、シーシー大統領はモスクワへ来ていたアブダビのシェイフ・ムハンマド・ビン・ザイエド・アルナヒヤン皇太子とも会談している。

ロシアとエジプトを結び付ける要因は何か。エジプトのシーシー政権は人権問題などで米欧との間に溝があり、また米欧の経済制裁を受けているロシアも米欧との関係が緊張しており、対米関係で一定の共通点を持っている。その意味ではロシア・エジプトとも両国関係を強化して対米交渉のカードとして利用しようという動機がある。シリア問題あるいはイスラーム運動については世俗主義勢力への支援という共通面がある。エジプトはサウジアラビア・UAE・クウェートからの援助が経済運営において不可欠となっているが、シリアのアサド政権に対する姿勢では湾岸諸国と異なっており、その点ではロシアとの協調はシーシー大統領にとって湾岸諸国と異なる立場を支えるものとなっている。

しかしロシア・エジプト間でも突発的な問題が生じることがある。エジプトの保養地、特にシナイ半島のシャルム・エル・シュイフなどは暖かい太陽を求めるロシア人にとって人気のある格好の観光地であった。それはクーデター以後の観光客の減少したエジプトにとっても貴重な外貨獲得手段であった。しかし、2015年10月31日にシャルム・エル・シュイフを飛び発ったロシアの民間航空機が空中で爆破し、乗客200人以上が死亡するという事件が起きた。エジプト側がまだ原因を調査期間中であったのにもかかわらず、ロシア当局は11月17日の段階でテロによる爆破であったと発表した。他方、ロシアは当時8万人と言われたエジプトの観光地にいるロシア人を救出輸送するとともにロシア機のエジプト観光地への飛行を禁止した。ロシアにとっては緊急事態であり、国民の生命の安全を確保するという当然の措置ではあったが、観光業の復興に経済の再生をかけてきたエジプトにとっては極めて大きな政治的経済的打撃として受け止められた。ロシアの性急な対応に対する不信が強まったと見られるが、これによる関係悪化は最小限に留めることは両国政府の利益であり、エジプトの受けた打撃にもかかわらず、関係修復の努力は続けられると思われる。

ロシア・エジプト関係を見る上で重要なポイントは、1979年以来のいわゆるキャンプ・デービド体制、つまりイスラエルとの不戦を米国の支援体制化で維持するという枠組みを崩すだけの意図も力も持ちえないだろうということであろう。その意味ではエジプトにとって相変わらず対米関係が最重要ということであり、ロシアにとっての課題は米・エジプト関係の隙間風を利用しつつ、それをできるだけ長期的な構造的な関係に固めていくかということであろう。

5. シリア内戦に対するロシアの外交イニシアチブ

2015年秋以降シリア内戦に対するロシアの積極的参加、特に9月30日以降の空爆参加はシリア情勢を動かす新たな要因として登場した。ロシア軍が旧ソ連地域以外で公然と独自の軍事作戦を展開したのは冷戦終結後初めてのことである。シリア内戦自体は「アラブの春」の余波を受ける形で2011年に始まったが、周辺地域諸国さらに主要大国の直接的間接的関与を含み急速に国際化した。さらに2014年の『IS』が登場しシリア内戦は一層複雑化した。シリア内戦では30万人の死者を生んだといわれ、また家を失ったものが国民の半数に上り、さらに大量の国内外の難民を生み出すという大きな人道的悲劇を生んできた。この状態からの「脱出路」が求められていた。シリア内戦を巡る関連諸国間の対立構図を見ると、シリアのアサド政権を支持する外部勢力としてイラン、ロシアさらにレバノンの民兵ヒズボッラーなどがあり、これに対して反アサド勢力を支持するサウジアラビア、カタール、UAEなどオマーンを除く湾岸アラブ諸国とヨルダン、さらにトルコなどがあり、そのなかで米欧諸国はアサド大統領の退陣をシリア和平の前提条件として要求してきた。ここにはイランとサウジアラビアの間の覇権抗争の反映もあり、別の世俗主義対イスラーム主義の間の抗争も反映されているように見える。しかし単に宗派間対立というより、関連各国の国内支配体制への影響という側面を重視して分析すべきであろう。2015年3月にイエメンでのホウシー派の支配地域拡大に危機感を持ったサウジアラビアを中心とするアラブ連合軍による空爆も開始された。サウジアラビアはホウシー派に対するイランの支援に警告しているが、イエメン内戦はシリア内戦とリンクしている側面と同時にイエメン独自の問題が絡み合った問題となっている。

(1) ロシアにとってのシリアの重要性

ロシアにとって中東地域は独自の重要性を持っている。1つはソ連時代に培った影響力が残存しており、それを利用し得るからである。「アラブの春」のなかでリビアのカッザーフィー政権が崩壊したことは痛手であったが、シリアのアサド政権との緊密な関係は維持された。特に2011年以降のアサド政権に反対する勢力の拡大に伴い、アサド退陣を求める米欧の動きはアサド政権にとってのロシア、さらにイランの支援の重要性を一層高めることになった。シリアにはシリア人と結婚したロシア人女性が3000人ほどいるといわれ、在シリア・ロシア系住民という広義の「同胞」に対する保護というはロシア国内では強く関心が持たれる課題である。

(2) ロシアのシリア空爆と新イニシアチブ

ISに対する対応において、ロシアは2014年8月に開始された米国など有志国連合によるシリア空爆を批判してきた。イラクのIS支配地域に対する空爆の場合は、イラク政府の要請を受けており、国際法上一応問題はない。しかしシリアに関しては国連安保理の決議もなく、またシリア政府からの要請がないにもかかわらず空爆を行うことは国際法上の根拠のない不法なものであるという立場からである。

他方2015年9月4日、プーチン大統領はISと戦うアサド政権に対してそれまで軍事援助を行ってきたことを明らかにした。そのうえで、「テロと過激主義に対決する一種の国際的連合」を結成するよう呼びかけた。これは有志連合の空爆が十分効果を挙げていないという、その弱点を突いたロシアの外交攻勢の一環と見るべきであろう。それは中東地域においてロシアがキー・プレーヤーの1つであり、ロシアを除外した中東の問題の解決はあり得ないというメッセージを発したことを意味している。それは西側を揺さぶり、かつ分断し、ウクライナ問題に関連して受けている経済制裁などの不利な条件を緩和させる上でも有効な手段の1つとなりうるものである。

2015年9月末にはロシアは独自のシリア空爆を開始したが、これはシリア政府から要請されたという形をとった。一見唐突に見えたロシアのシリア内戦に対する関与の戦略的関心と位置付けには以下の4点が挙げられよう。第1に、アサド政権の支配地域の縮小のなかで政権支持の緊急性が増したことである。第2に、ISやアルカーイダ系と言われるヌスラ戦線に代表されるイスラーム過激派に打撃を与えて弱体化させる必要性である。ロシアなど旧ソ連圏からISに参加している者の数は7000人という推測がある。ロシアからは約2000人、中央アジア諸国からは約3000人、その他コーカサス諸国などの旧ソ連圏で約2000人とされる。ISで戦闘経験を積んだものが帰国してテロ予備部隊になることに対する警戒心も極めて強い11

第3に、シリアの持つ戦略的位置である。シリア第2の港タルトゥースはロシア海軍の補給基地を果たすことができると言われ、クリミア半島のセヴァストポリ港を基地とするロシア黒海艦隊が地中海に展開する上で重要な意味を持つ。今回のシリア作戦ではロシアのカスピ海小艦隊も参加し、カスピ海から発射された巡航ミサイルがイラン上空を飛翔してシリアのIS支配地域に着弾した。ロシアのショウグ国防相は4艘の軍艦から11カ所の目標に向けて26発の巡航ミサイルが発射されたと述べた。西側軍事筋はカスピ海が果たし得る軍事的役割と1500キロメートルを飛翔して目的物を狙うロシアの軍事能力に注目した。もちろんシリアでの空爆は地中海でのロシア黒海艦隊が中心となっていることは明らかである。他方、シリア軍事筋はシリア地上軍がロシア空軍の支援を受けて攻撃を行ったと述べた12。しかしロシアのシリアへの関心をタルトゥース港の補給基地としての役割に限定して判断すると間違う可能性がある。また地中海でタルトゥース港に代わるべき別の補給地を獲得できればシリアに対するロシアの関心が失われると見るのも正しくない。なぜならば補給基地の確保の重要性のみに限定する見解は一定の意味はあるが、代替地が見つかれば安易に同盟国を見限る事があるという印象をロシアの友好国に与えるとすれば、その否定的な影響力は決して小さくはないからである。米国のような強大な軍事大国にとっては友好国や同盟国を課題毎に役柄を取り換えることの影響はそれほど大きくないかもしれない。米国に対する信頼性の喪失はあっても米国は無視できない存在感を持ち続けるからである。しかしソ連時代という過去との連続性を有するとはいえ、超大国の座を降りたロシアにとっての外交的資産は友好関係の継続性と恒常性にあり、短期的な利益で見捨てたりしないという信頼性の確保も1つの有力な外交的資産だからである。

第4に、極めて重要なのは、シリア、テロ問題が膠着しているような状況のなかで、ロシアが事態の打開に向けて新たな国際的イニシアチブを発揮する機会だと判断したことである。特に米国の対シリア戦略の不透明性の隙をついたことである。米オバマ政権はシリアのアサド政権の退陣を前提とするシリア政策を掲げてきたが、反政府勢力のなかでそれに代わるべき「穏健派」は極めて弱体だという現実がある。他方反政府派としてはISあるいはアルカーイダ系のヌスラ戦線という過激派が主体となっているというジレンマがある。仮にアサド退陣が実現しても、その後のシリアはイスラーム過激派の制覇するところになるのではないか、あるいはリビアのような無政府状態になるのではないか、その危険性をどう除去し得るのかという不安に十分答えていないのである。米国主導の有志国によるIS地域への空爆が目立った成果を挙げずに膠着状態になってきており、一方で大量のシリア難民がEU諸国に大挙して押し寄せるなかで、現状打開を求める声は国際的にも高まってきていた。そこでロシアは国際社会に1つの選択肢を突き付けたのである。ISと戦うためにアサド体制と協調するのか、それともアサド体制を無視して単独でISと戦うのか、どちらのほうがより現実的かという選択肢である。

米国を中心とする対IS有志連合のなかで、イラクとシリア双方で空爆を行ってきたのは米国、オーストラリア、カナダ、フランス、ヨルダンである。対イラクのみの空爆に参加してきたのは、ベルギー、デンマーク、オランダ、英国である。対シリアのみの空爆に参加してきたのは、バハレーン、サウジアラビア、トルコである。それらの空爆が具体的にどの地域をターゲットにしてきたかも不明であり、ISだけが目標であったのかどうかも定かではない。そのなかで米国はロシアの新たな空爆の対象の85~90%が「穏健な反対派」であると非難してきた13。米国、サウジアラビア、トルコなどの空爆の目標に関しても同様に不明確さがつきまとっている。

(3) アサド大統領の訪露とロシアの立場

アサド・シリア大統領は2015年10月20日、突如モスクワを訪問してプーチン大統領と会談した。これは2011年夏にシリアで内戦が勃発して以降アサド大統領の初めての外国訪問でもあった。短期的であれ国外に出られたことは体制の安定性が高まったことを示す政治的メッセージになった。アサド訪露の後、モスクワはトルコのエルドアン大統領とサウジアラビアのサルマン国王とも電話会談をしたことを明らかにした。アサドはロシアの支援に感謝すると同時に、ロシアの介入はテロがシリアで一層拡大するのを阻止する上で貢献していると評価した。他方、プーチン大統領は「積極的に戦闘に参加」したのは、「長期的な問題解決の基礎には、すべての政治的勢力、エスニックおよび宗派集団の参加に基づく政治プロセス」が不可欠で、そのプロセスを容易にすることが目的であると示唆した。これは、ロシアがアサド政権を今後とも支援し続けることを意味していないとも解釈し得るものであり、アサドの退陣も条件付きであり得ることを意味したと見られる。今後のシリア問題の解決において、絶対に政権を手放さない姿勢を示してきたアサド・シリア大統領とプーチンとの間に一定の相違が存在していると見ることもできる。ロシアは当面はアサド政権を支える方向で動いているが、長期的な政治プロセスとしては、アサド体制の無条件の存続という形でのシリア内戦の解決を必ずしも展望しておらず、アサド政権支持勢力を含む、一種の挙国一致体制を志向していると見られるからである。アサド政権の即時退場を条件としていない点ではロシアの路線は西側と明確に異なってはいるが、アサド政権にとっても現段階では受け入れがたい選択肢を含むものである。ロシアにとってはアサド政権への支持と延命策だけでは外交政策の指導権を獲得するには不十分である。アサド政権を再強化した上で、シリア問題の解決策を示す必要がある。それはアサド政権と反政府派の協議による新たな選挙と新憲法制定によるシリアの統一と主権回復である。その場合、過激派グループは排除するとしており、その意味では反政府派の内実が限定的になっている。しかしアサド政権の無条件支持ではないこと、同時に世俗派のアサド政権排除を前提としない点でより現実的であると見ることもできる。

(4) ロシアのシリア問題解決提案

2015年11月13日、フランスでイスラーム過激派(IS)によると見られる同時テロが発生し100人以上の市民が殺害されるという事件が起きた。フランスのホランド大統領は市民の批判に押され、実効性のある反テロ対策を模索せざる得なくなった。ロシアは機敏にフランスに共同行動を求めるアプローチを行ったが、11月16日ホランド大統領は対IS作戦で米露に協力を求め、米露を相次いで訪問し、オバマ米大統領およびプーチン大統領と会談した。ロシアはアサド政権を含めた解決案の現実性をアピールすることでアサド排除を問題解決の前提とする米欧の路線にくさびを打ち込もうとした。

11月20日頃、シリア問題解決のために18カ月以内の新憲法策定を含むロシアの和平プロセス案が国連周辺のジャーナリストの間に伝わった。ロシア側はリークされたことに不快感を表明しながらもそれがロシア案であることを認めた14。この案は第2回ウィーン・プロセスの場で提起された。これによると、過渡期におけるアサド大統領の退陣については言及されておらず、ただ現大統領が憲法原案作成委員会の議長をすることはないとされている。それは国連の特別代表のスタファン・デ・ミストゥラがシリア政府と「反対派グループの代表」の間で、2012年6月に主要国の間で合意を取ったジュネーブ・コミュニケに基づいており、完全な行政権を有する移行政府を樹立するための政治プロセスを開始するよう呼びかけている。

アサド政権の処遇とは別のもう1つの困難な課題は、「反対派」グループのなかで「テロリスト」グループを特定することである。その合意に基づき将来のシリアの政権に参加し得るかどうかが決定されることになる。ISや「ヌスラ戦線」が除外されることは当然のように見えるが、トルコ、サウジアラビア、カタールなどの見解が一致できるのかどうか、意外に難しい側面を有することも否定できない。

(5) シリア問題を巡るウィーン会議

ロシアの対シリア空爆はシリア問題解決の切迫性に焦点を当てることとなり、いわゆるウィーン・プロセスを始動させる契機となった。2015年10月30日にウィーンで関係国外相レベルの会議が開催された。事実上のイニシアチブをとったのは米国、ロシア、トルコ、サウジアラビアである。そこには米国と国際的シリア支持グループ(ISSG)が参加した。ISSGは米国、中国、エジプト、EU、フランス、ドイツ、イラン、イラク、イタリア、ヨルダン、レバノン、オマーン、カタール、ロシア、サウジアラビア、トルコ、UAE、英国、国連、アラブ連盟という国際組織と関連国で構成されている。シリア政府とシリア反政府派は参加していない。なおオーストラリアと日本はロシアの反対によって参加していない。この会議で注目されたのは、イランが初めてこのような会議に参加したことである。ここでは、シリアの統一・独立・領土の一体性・世俗的性格の保持が原則として合意され、国連にシリア政府と反対派の間の政治プロセスを開始するよう要請された。それは新憲法と選挙を通じてシリアを世俗的統治に導くものとされているが、しかしアサド政権の将来に関する見解の一致は見られなかった。シリアに関しては欧州で難民問題が政治局面を揺るがす段階に入っている時期と重なった。

第2回ウィーン・プロセス会議はパリでの同時多発テロ後の11月14日に開催された。そこではフランスがロシアに歩み寄る方向が見られ、プーチン外交にとっては得点となった。フランスはNATOの集団的自衛権の発動は控え、EUの集団的自衛権に依拠することでロシアを過度に刺激しないよう配慮を見せた。

(6) 国連安保理決議の成立

2015年12月18日、国連安保理においてシリアの和平をめざす決議案が全会一致で採択された。米主導のシリア空爆が安保理決議もシリア政府の要請もなく実施されてきたことを、ロシアは従来「国際法違反」として非難してきたが、賛成に回ることによってロシアの立場からも合法的なものとなった。米欧をロシアとの協調路線に引き込んだ点でプーチンの狙いはある程度達成された。今後国連事務総長のイニシアチブに任される「新統治体制への移行プロセス」開始(2016年1月)以降の行程、つまり「信頼に足る、包括的、世俗主義による統治体制」(6カ月以内)、「自由で公正な選挙実施」(18カ月以内)の実現は決して容易ではない。アサド政権の退陣問題、容認される反対派の構成勢力に関して関係諸国間で合意が簡単にできるとは思われないからである。しかし一定の枠組ができたこと自体は評価されるべきであろう。 

6. 湾岸アラブ諸国の「モスクワ詣で」

時期的にはロシアのシリア空爆開始とは前後するが、2015年7月14日のイランの核開発問題に対する合意のインパクトは中東各国にとって非常に大きなものであった。ウィーンで行われてきたイランと関係6カ国(国連安保理常任理事国とドイツ)の間でのイラン核開発問題に関する直接狭義が最終合意に達した。このことは、イランの核開発に神経を尖らせてきたイスラエル、イランの地域的プレゼンスの高まりに危機意識を持つサウジアラビアなど湾岸諸国にとって衝撃であった。その後イスラエル、サウジアラビアは米オバマ政権の説明を了解したかたちとなっているが、米国外交に対する不満はくすぶっていると見られる。

ロシアとイランは対米姿勢で共通面を有してきたが、イラン核合意は両国の協力関係を公然と強化するうえで有利な局面を提供した。プーチン大統領は2015年11月23日、ガス輸出国フォーラム首脳会議に出席するために7年振りにイランを訪問し、最高指導者ハーメネイー師、ロウハーニ大統領と会談した。プーチンはこの訪問を通じて、新たな段階での両国の対シリア政策についての意見交換を行ったものと見られる。プーチンはモスクワを立つ前にイランに対するウラン輸出禁止を撤廃したが、これはロシアがイランから濃縮イランを輸入する計画と結びついている。この動きは7月のイラン核合意に基づいて可能になったものである。また4月にはS-300ミサイル・システム5基の売却禁止を撤廃している。イランのS-300購入計画についてはイスラエルが特に強い懸念を表明している。

そのなかで注目されるのは湾岸アラブ諸国首脳やヨルダンの「モスクワ詣で」と見られる動きである。ロシアのシリア政策に賛同しているとは見られないこれらの国々の動きは、米外交に対する不満の裏返しと見られる。同時にアサド政権に対してロシアと反対の立場をとるが、ロシアの本音を知るためには接触が不可欠とみなし、さらに調整の可能性を模索する動きとも見られる。

サウジアラビアの第二皇太子で国防相でもあるムハンマド・ビン・サルマンは2015年に2度も訪露している。最初は6月18日にサンクトペテルスブルクでジュベイル外相、ナイミ石油相と一緒にプーチン大統領と会い、主として国際石油市場や経済技術協力で協議したと伝えられる。第2回はロシアのシリア空爆作戦開始後の10月11日にムハンマド国防相はソチに飛びプーチン大統領と会談した。シリア問題が主要な話題になったと見られる。シリア問題の解決方向で立場を異にする両国が意見情報交換を行ったことは意味がある。

またアブダビのムハンマド・ビン・ザイエド皇太子は航空ショーへの参加のため2015年8月25日に訪露し、プーチン大統領と会談している。

2016年1月2日にサウジアラビアでシーア派指導者ニムル師が処刑された問題でイランとサウジアラビアの間が緊迫、テヘランでサウジアラビア大使館がデモ隊に襲撃される事件が起きた。これをきっかけにサウジアラビアは1月3日イランとの国交断絶を発表し、両国関係は最悪となった。イランとの断交はバハレーン、スーダン、コモロが追随した。バハレーンを含む湾岸諸国首脳のその後の訪露は続いている。

カタールのアミールであるタミーム・ビン・ハマドは2016年1月17日に初めてのロシア公式訪問を行った。中東・北アフリカ情勢と天然ガスを中心にエネルギー問題を協議したと見られる。中東地域の問題ではイエメン、パレスチナ、リビアに関して意見交換が行われ、シリア問題に関しては「満足すべき解決」に到達すべきであるという点で意見が一致したと伝えらえた。両国はシリア問題では見解を異にしているが、カタールとしてはロシアのシリア問題解決への見取り図を知る必要を感じていたことは間違いない。タミームはプーチンに対して「世界の安定という点ではロシアは主たる役割を果たすことができる」と述べた。なおロシアのタタールスタン自治共和国ルスタム・ミンニハノフ首相は2015年12月8日カタールを訪問しタミームと会談している。

2016年2月8日、バハレーンのハマド国王はロシアのソチを訪問し、プーチン大統領とシリア情勢などをめぐり会談した。バハレーンはサウジアラビアなどと協調し、有志連合が対IS地上作戦に踏み切れば「参加する用意がある」(駐英大使)との立場を取っている。ロシアが支援するシリアのアサド政権を敵視しているが、プーチンは国王に自制を促したとみられる。一方、国王は大統領に対し、ロシアの空爆で反体制派を狙わないよう迫ったと見られる15

報道されているようにシリア問題が重要なテーマであることは事実にしても、サウジアラビア・イラン間の断交という新事態を踏まえた上での湾岸諸国首脳の訪露は、イランとも関係が良好なロシアの役割に対する期待も反映されているとも推測される。

7. 新たな要因としてのロシア・トルコ関係の劇的な暗転

ロシアのシリア空爆の影響は、ロシア・トルコ関係を劇的に暗転させる契機となった。トルコ軍は、2015年11月24日、トルコ軍の戦闘機がシリアとの国境付近で国籍不明の軍用機が領空侵犯を行ったとして撃墜し、軍用機はシリア北西部ラタキアの近郊に墜落したと発表した。これに対してロシア国防省は、撃墜されたのはシリア上空6000メートルを飛行していたロシアの爆撃機スホイ24であったとしトルコの行動を強く反発した。同日ソチで訪露中のヨルダンのアブドラ国王との会談の中で、「テロリストの手先がロシアの爆撃機を背後から襲った」と述べ、トルコをテロリストの手先と呼び強く非難し、ロシアの爆撃機がトルコに脅威を与えるものではなかったと強調した。これに対して、トルコのダウトオール首相は同日、「たび重なる警告にもかかわらず領空を侵犯されれば、トルコにはそれに対応する権利がある」と述べ、撃墜は当然の判断だと強調した。

ロシアは報復措置として、トルコへのチャーター便の運航禁止やトルコ人に対するビザ(査証)免除の停止、トルコ産食品の禁輸、トルコ国籍者の雇用禁止など、一連の経済制裁を決定した。トルコは天然ガスの6割をロシアから輸入してきたほか、ロシアの観光客の経済効果も大きかった。その意味でトルコにとっても経済的に打撃が大きい制裁を受けるというリスクを冒してでもロシア爆撃機を撃墜した意図は何かということであろう。トルコが支援しているトルクメン人反政府武装勢力をロシア機が空爆目標としていた可能性も高い。

2015年12月の国会に対する恒例の年次報告で、プーチン大統領はトルコ戦闘機によるロシア機Su-24の撃墜事件を取り上げ、ロシアは決して忘れないと強調した。トルコの決定は依然として理解できないとして「おそらくアッラーのみがそれを知っている。アッラーはトルコの支配グループから良識と判断力を奪うというかたちで罰しようと決意したように見える」と皮肉った。それは、恐らくトルコの真意が読めないプーチンの本音を部分的に示しているように思われる。特にトルコがNATOあるいは米国との間で持っているパイプと関連があるかどうかはロシアが最も懸念するところである。

シリア・クルド人勢力は弱体なアラブ反政府派よりも強力であり、クルド労働者党(Partiya Karkerên Kurdistan: PKK、現在はKKK)の政治部門とされる人民保護隊(Yekîneyên Parastina Gel: YPG)は米国のISも視野に入れたシリア戦略の有力支持勢力となっていた16。米国はKKKはテロ組織としYPGとは区別しているがトルコ政府は双方をテロ組織としている。トルコ・ロシア関係が悪化するなかでロシアもYPGとの関係を強め、YPGは米露との良好な関係を利用してISへの攻撃を強めている。他方、アサド政権はロシアの空爆などの支援により攻勢に転じており、2016年2月10現在シリア第2の都市であるアレッポを奪還する作戦を展開している。ロシアの空爆やヒズボッラーの支援がシリアの戦局を変えつつあり、米国はロシア、アサド政権、ISをにらんだ事態の打開という難しい局面を迎えている。

8. ロシア経済にとって厳しい国際石油市場

ここ1年半程ロシア経済は厳しい時代を迎えており、プーチン外交といえどもその制約条件のなかで動いていることを見逃せない。換言すれば、プーチン外交はこの悪条件をどう外交的に打開していくかという課題と結びついていると見ることができる。ロシア経済にとっての悪材料とは、第1に2014年8月以降の原油価格の暴落と低油価の長期化の可能性、第2にウクライナ問題に起因するとされる西側の対ロシア経済制裁、第3に米国が低金利政策の是正を図ろうとする動きである。これらの諸要素はルーブルへの切下げ圧力となっている。IMFの2015年のロシア経済の成長見通しはマイナス3.8%でG20のなかで最も悪い数値となっている。

2014年8月以降の原油価格の暴落に対してロシア中央銀行は同年11月11日、ルーブルをフロートさせた。その結果ルーブルはその後1年間でほぼ50%下落した。ロシアはサウジアラビアに次ぐ世界で2番目の原油輸出国であり、国際石油価格の動向はロシア経済を直撃する構造になっている。資本の国外流出を止めようとして金利を大幅に引き上げた。しかし当面の油価状況はロシアにとって厳しい。第1にOPEC、より具体的にいえばサウジアラビアが2014年半ば以降、伝統的な国際油価のバランサーとしての役割を放棄しているからである。サウジアラビアは米国のオイルシェールの開発に伴う新たな原油供給構造を考慮に入れて世界市場におけるシェアの維持を最重点の課題としており、オイルシェール・ビジネスを低油価政策によって揺さぶろうとしてきた。さらにイラン核開発問題の妥協が成立したことを受けてイランの原油輸出拡大が予測されている。また米国の原油輸出解禁が国際石油市場に与える影響も注視されている。2014年の世界の原油生産量(日量)を米エネルギー省統計で見ると、米国は同年にサウジアラビアを抜いて世界トップの1402万バレル、第2位はサウジアラビアで1162万バレル、第3位はロシアで1085万バレルとなっている17

ロシアにとっては厳しい国際石油市場が続いている。2015年年末に至り油価は一層下落傾向を強め、2016年2月10日現在では1バレル30ドル以下という2008年の経済危機以来の最安値に落ち込んでいる。油価低迷の主要な背景は経済的な要因であることは明らかであるが、副次的影響としてのサウジアラビアの対ロシア戦略も一定の影響を与えている側面がないとは言えない。特にロシアがシリアのアサド政権を支援し、またイランとシリア政策で調整を進めていることに対して、サウジアラビアやUAEなどが不快感を持っていることも確かで、油価の低落のロシアへの打撃も見定められている。しかし油価低落は湾岸諸国経済にも次第に重荷になりつつあり、補助金削減による石油製品を含む価格引き上げの経済的社会的影響は湾岸諸国も無視できなくなっている。

第2の要因としては対露経済制裁である。2014年7月にEUが課した経済制裁としては、ロシア政府系銀行が発行する債券や株式の購入、油田開発などに関連する先端技術の提供、新規の武器取引の禁止、軍事・民生両分野で使用可能な技術の軍事利用が疑われる場合の提供禁止が挙げられる。2014年7月16日、米国はロシアの主要産業に対する新たな制裁措置を発動、EUも同調した。さらに、同年7月29日、金融、エネルギー、防衛産業などに対する追加制裁を発動した。これに対してロシアは8月7日、欧米の農産物の輸入禁止を表明した。この政策は一時的にロシアの国内農業生産を刺激している側面もある。

プーチン大統領自身のロシア経済に関する評価も非常に厳しいものに変わっている。2015年12月17日に行われた恒例の年末記者会見で、長い冬が待っていること、経済の弱さは当分続くこと、一層耐乏生活が必要であることを強調した18。ロシア経済と予算が原油1バレル当り50ドルを想定していたと述べ、当時の原油市場の35ドルがいかに厳しい状況であるかを示唆した。それまではロシア経済が困難に陥っていることは認めていたが、危機とは見ていなかった。今回はロシア経済が危機の最も厳しい段階を乗り越えたが、危機そのものは継続しているという認識を強調した。また年金制度が陥っている困難にも言及し、年金の赤字を財政支出で補っている現状を考慮に入れて、年金制度そのものを維持するための努力の必要を強調した。その後、経済顧問の方から人口規模の停滞問題についても補足的説明がなされた。しかし油価はさらに暴落し、中国経済の変調など2016年に入ると世界経済全体が不況の可能性を前にして萎縮し始めている。

終わりに

プーチン大統領のシリア問題に対する「カケ」はかなり有効に機能している。シリア問題に関してロシアの関与なしに解決の展望が描けないことを米欧に事実上納得させることに成功したからである。ウィーン・プロセスの再開にしてもロシアの空爆がきっかけになっている。またパリの同時多発テロで事態の緊急性を認識したフランスのホランド大統領はロシアの立場に接近することになった。また欧州諸国にとってシリア難民を始めとするイラク、アフガニスタンなどからの大量の難民の流入は、シリア問題などが欧州国内状況を揺るがす問題となっていることを認識させた。ロシアの役割に関する評価の相違はウクライナ問題に起因する対露制裁の継続に関してEU内部で分裂を生じさせ、EUは12月14日対露制裁の継続問題の検討を延期せざるをえなかった。これはまたウクライナ問題から国際的関心を外す、あるいは弱めることになっており、その点に関してプーチン外交の巧みさは遺憾なく発揮されている。しかし他方で予期しなかったトルコとの衝突と軋轢が生み出す否定的影響は経済的には新たな困難を生み出すことになった。米欧にとってシリア問題は、対露制裁とIS対策の間でどちらに優先度を置くべきかの選択肢と関わるものとなっている。それが具体的な形で現れるのは、アサド政権に対する対応である。米欧があくまでアサド排除をシリア問題解決の前提条件とするか否かが当面の選択肢である。ロシアはアサド排除を前提条件から外すこと、それを前提とする米欧との間でも共同行動の可能性を拡大することにより、ウクライナ問題を巡る対ロシア制裁を解除させることを狙っている。このようにウクライナ問題とシリア問題がリンクされていることにも問題の1つの焦点がある。

さらに問題を複雑にしているのは、中東諸国のシリア問題に関与する視点が、サウジアラビアを代表とするスンナ派指導体制のイランなどシーア派勢力に対する対抗戦略と重なっていることにある。アサド政権の退陣をシリア問題の解決の前提条件とする発想には、イランの支持を受けているアサド体制の退陣でイランの影響力を削ぐことに重点が置かれている。イエメンでの反政府ホウシー派勢力に対する空爆作戦はサウジアラビアにとって同一の意味を持つ戦略である。サウジアラビアにとっては、ロシアのアサド体制支持・強化策はその観点からは望ましくない。他方イエメンのホウシー派空爆作戦には米軍がインテリジェンスの側面で援助しており、その意味では米国はスンナ派諸国勢力を支援していることになる。それはイランとの核協議の妥結に努力した米国に対するスンナ派諸国の反発を抑制する意味、あるいはサウジアラビアを支えることでイランを抑制するという意味があるのかもしれない。いずれにしても宗派間対立がシリア問題と絡むと、シリアが今後どのような体制になるかの問題が大きな課題となってくる。

しかし同時に重要な第3の課題は、本質的な問題が未解決で残されていることである。IS問題への関与でロシアにとっても米欧が直面してきたものと同様な課題がつきつけられることになった。それはロシアの空爆がアサド政権の作戦遂行の側面支援になったことは事実であるとしても、またIS支配領域の拡大を抑制していること、またある程度ISの弱体化に寄与できたとしても、それを壊滅させるには不十分で決定打を欠いていることである。空爆による一般市民の犠牲者数も増加している。これについてロシアも米欧との協調を不可欠としている。どのような手段でならばISを孤立させ、壊滅に追い込んでいくことができるかという問題である。またアサド退陣問題でロシアに柔軟姿勢が出ているようにも見えるが現実の戦闘の行方、特にアレッポを巡る攻防戦の行方が状況転換の契機になるかもしれない。シリア正常化への過渡期において米欧・サウジアラビア・トルコがどれ位柔軟な対応ができるかも焦点である。シリア正常化が分断の固定化とは異なる国民統一への展望を引き出し得るかであろう。第4にロシアの現状にとっての影響がある。連日のシリア空爆に伴う戦費がロシア経済に与える負担の問題があり、国民生活への影響が大きい点で、それがプーチン政権にとって内政上の制約条件となりやすいからである。しかし「ナショナリズム」や民族的プライドの問題にかかわる場合、ロシア人が発揮する「我慢強さ」についても考慮する必要がある。しばしばロシア情勢を見誤った歴史的教訓があるとすれば、それはこの「我慢強さ」である。その点を過小評価することは対露戦略において誤りを犯す可能性があることを常に留意すべきであろう。

最後に指摘しておくべきことは、IS問題、アサド問題、イエメン問題など表面的に争点となっている中東の諸問題のなかで、根本的でかつ深刻な中東和平問題、つまりイスラエル・パレスチナ問題は解決の目途が立たずますます混迷の度を深めていることである。深刻さにもかかわらず放置されているこの問題が与える影響の広範な性格を考えると、ロシアにとっても米欧にとっても引き続き取り組むべき課題であることは変わっていない。

(2016年2月10日脱稿)

補足:

本稿脱稿後の2月27日、米露の提案で シリアで一時停戦が発効した。今後の動きは予測の範囲ではないが、初めての停戦の試みであり、これがロシアの2015年9月末以降の動きの1つの結果であることは間違いない。引き続き、ロシアの役割を無視できないということであろう。(2016年2月28日)

本文の注
1  ソ連において「地政学」は帝国主義国の侵略を合理化するものとして否定的意味をあたえられていた。

2  The Japan Times, Jan.4,2016

3  ロシア大統領府「2020年までのロシア連邦国家安全保障戦略」『大統領府HP』2009年5月13日<http://kremlin.ru/text/docs/200905/216229.shtml>(2009.5.13)

5  ソ連国家保安委員会の略称で、1954~1991年のソ連崩壊まで存在したソ連の諜報機関・秘密警察である。現在ロシアにおける後継組織はロシア連邦保安庁(FSB)である。

6  Mackinder, H.J., "The Geographical Pivot of History", The Geographical Society, Vol. 23, No.4, (April 1904), 421-437

7  『プーチンの実像 -証言で暴く「皇帝」の素顔』朝日新聞出版 2015年 272-273頁

8  The Financial Times, Dec.18,2015

10  ラブロフ外相の現代世界に対する認識を示すものとして、2015年1月21日の記者会見を参照。http://archive.mid.ru//brp_4.nsf/0/D1AFD0A22ABD9AB443257DD4004F33B5

11  Expert, 2015,Oct.5-11

13  Japan Times, Nov.12, 2015

14  Ibid.

17  「日本経済新聞」2015年12月17日

18  Financial Times, Dec.18, 2015

 
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