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論稿
トルコにおける2015年総選挙とエルドアン体制の政策変容
岩坂 将充
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2016 年 3 巻 p. 96-109

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Translated Abstract

In Turkey, the political system in which Recep Tayyip Erdoğan plays the most important role – the “Erdoğan regime” – has been in place since November 2002. After Erdoğan’s party, the Justice and Development Party (Adalet ve Kalkınma Partisi, AKP), won the general elections and he became the prime minster, they were successful in maintaining the single-party administration over ten years. Even since becoming the president and devolving the premiership to Ahmet Davutoğlu in August 2014, Erdoğan has been at the center of the Turkish parliamentary system.

However, in the Turkish general elections in June 2015, the AKP failed to get a majority of parliamentary seats for the first time, and the Erdoğan regime seemed to be faced with a crisis. The regime was able to regain the single-party administration in the early general elections in November 2015 by carrying out significant political change after their first electoral defeat. In this sense, for Turkey and the Erdoğan regime, the year 2015 was not only the year of the election, but also of political change.

This paper analyzes these two general elections in 2015 and the changes of the political tendencies of the Erdoğan regime which have been observed since the general elections in June 2015 in particular. It also focuses on the changes in the strategies and the relationships among Turkish political actors including President Erdoğan, the AKP government, and the other major political parties.

はじめに

2002年11月以来、トルコではエルドアン(Recep Tayyip Erdoğan)を中心とした政治体制――ここではエルドアン体制と呼ぶ――が続いてきた。エルドアンは、新興の公正発展党(Adalet ve Kalkınma Partisi: AKP)党首として同月実施された総選挙に勝利し単独政権を打ち立てた後、2003年3月からは首相を務め、続く2回の総選挙(2007年6月・2011年6月)でも単独政権の維持に成功した。さらに、2014年8月には議院内閣制を採用するトルコで初の直接選挙となった大統領選挙にも出馬・勝利し大統領に就任、公的にはAKPを離党し党首・首相の座をダヴトオール(Ahmet Davutoğlu)に譲ったものの、過去に類を見ないほど政治に積極的に関与する大統領として依然トルコの政治的中心となっている1

しかし、このように順風満帆に見えたエルドアン体制は、2015年6月総選挙においてAKPが初めて議会議席の過半数を割り単独政権の維持に失敗したことで、1つの転機を迎えることとなった。かろうじて議会第一党に踏みとどまったAKPは、連立政権の不成立を受けて実施された同年11月総選挙で再び単独政権に返り咲いたが、この過程においてエルドアン体制は6月総選挙以前とは異なる路線を歩み始めたのである。この意味において、トルコとエルドアン体制にとっての2015年は、選挙の年であっただけではなく、政治的変化の年でもあったといえる。

本稿では、これら2015年の2回の総選挙を分析するとともに、とりわけ6月総選挙後に顕著に見られたエルドアン体制の政策の変容――トルコ民族主義的傾向の強化――が、総選挙の結果だけではなく、それらを通じてみられた各アクターの戦略や関係性の変化に強く影響されたものであることを明らかにする。

1. 2015年6月総選挙

(1) 総選挙前の状況とAKPの「勝利」条件

2015年6月総選挙は、トルコ大国民議会(Türkiye Büyük Millet Meclisi: 一院制550議席。以下、議会)の任期満了に伴う、2011年6月以来の総選挙となった。2011年6月総選挙では、親イスラーム2で中道右派のAKPが過半数と単独政権を維持(327議席)、続いてアタテュルク主義を標榜する中道左派の共和人民党(Cumhuriyet Halk Partisi: CHP)が135議席、トルコ民族主義を掲げる右派の民族主義者行動党(Milliyetçi Hareket Partisi: MHP)が53議席、クルド系で左派の平和民主主義党(Barış ve Demokrasi Partisi: BDP)が多く推す無所属が35議席という結果であった[T.C. Başbakanlık 2011]。

このような議席状況のもと、2014年3月には地方選挙が、そして8月には大統領選挙が実施され、トルコ政治はエルドアン首相からエルドアン大統領=ダヴトオール首相という体制へと移行した。そして、この体制のもとでの初の総選挙である2015年6月総選挙は、事前の世論調査結果によって、総選挙前に議会に議席を有していたAKP、CHP、MHP、そしてBDPの事実上の後継政党である人民民主党(Halkların Demokratik Partisi: HDP)の4党によって議席が争われると予想されていた[Bugün, 25 May 2015; Yeni Şafak, 4 June 2015など]。

この総選挙における最大の争点は、エルドアン大統領がAKP党首・首相時から掲げていた大統領制導入の可否であった。現行の1982年憲法によると、トルコは議院内閣制に位置づけられるため、大統領制の導入には憲法改定が必要となる。そのため、マニフェストに大統領制実現を掲げたAKPの獲得議席数が、改憲ならびに大統領制の導入を左右することとなった[AK Parti 2015a]。より具体的には、議会全550議席のうち、①全議席の3分の2以上である367議席以上、②5分の3以上である330議席以上、③過半数である276議席以上、のうちいずれのラインを上回るかによって、総選挙後の大統領制導入の見通しが変化するということである。憲法第175条によると、①の場合には、大統領の承認もしくはレファレンダムでの有効投票数の過半数の賛成によって改憲、②の場合には、レファレンダムでの過半数の賛成が必要、③の場合には、単独政権は維持できるものの改憲には野党との連携が必須、という状況となる3。ダヴトオール首相およびAKP政府にとっては、与党としては③のラインを超えればひとまず「勝利」と呼べるものであったが、エルドアン大統領にとっては①もしくは②が総選挙での最低限の「勝利」となり、首相・政府と大統領との間での「勝利」条件が異なる状況が生じていた。

またこれと深くかかわる点として、HDPの得票率も、総選挙の重要な注目点であった。HDPは、BDPをはじめとするトルコのクルド系政党の系譜を汲むものであり、一般にもそのような認識のもと評価されていた。しかし、共同党首の1人であるデミルタシュ(Selahattin Demirtaş)のリーダーシップのもと、クルド系だけではなく、その他様々なマイノリティを支援する政党として主張を繰り返すことで、支持層を拡大していった。また、BDPなど従来のクルド系政党の候補は、トルコの選挙制度におけるいわゆる「足切り」(得票率が有効投票数の10%未満の政党は議会に議席を持つことができない)4のため、無所属として立候補したうえ選挙区で10%以上を得票することで当選し、その後会派を組むという手法を採用してきた。しかしHDPは、2014年8月の大統領選挙においてデミルタシュが9.76%を得票したことから[YSK 2014a; 2014b]、クルド系にルーツを持つ政党としては初めて、党として総選挙への参加に踏み切ることとなったのである。これにより、HDPの得票率が10%を超えた場合には、これまでの手法に比べHDPは多くの議席獲得を見込めると同時に、AKPやCHP、MHPといった政党が従来の得票率を確保できた場合にも、その議席数の減少が避けられない事態となった。つまり、ダヴトオール首相・AKP政府とエルドアン大統領のいずれにとっても、HDPの得票率が、それぞれの「勝利」の行方を決定づける鍵となっていたのである。

(2) 主要政党の政策

AKPやHDPに対し、総選挙前に野党第一党であったCHPと第二党のMHPは、世論調査によるとそれぞれの支持者数の変動は限定的であり、AKPに代わって単独与党の座に就くことは極めて難しいと予想された[MetroPOLL 2015a; 2015b; 2015c]。これら主要政党は、いずれも最低賃金の改善や失業対策を掲げるなど、経済政策においては大きな相違はみられなかったが、前述の大統領制の導入に加えクルド問題「解決プロセス(çözüm süreci)」についてはそれぞれ異なる姿勢を示していた。ここでは、総選挙結果について分析する前に、主要政党の政策を整理・確認したい。

クルド問題の解決プロセスとは、「テロ組織」に指定されているクルディスタン労働者党(Partiya Karkerên Kurdistan: PKK)との問題解決や国内マイノリティとしてのクルド系住民の権利保障を目指す民主的開放(demokratik açılım)政策をより具体化させるかたちで、2005年頃からエルドアンが提唱したもので、2012年12月にAKP政府がPKKの実質的指導者で1999年以来収監されているオジャラン(Abdullah Öcalan)との交渉を開始したことから、本格的に進められた。解決プロセスは、2013年3月にオジャランがPKKのトルコからの撤退方針を発表するなどの一定の成果を挙げ、2014年2月にはダヴトオール首相をはじめとするAKP政府とHDP・オジャランとの間でPKKの武装闘争放棄に関し一度は合意するに至った。しかし、3月にオジャランが武装闘争放棄の条件として提示した監査委員会(izleme heyeti)の設置にエルドアン大統領が猛反発したこと[Hürriyet, 21 March 2015; Milliyet, 21 March 2015; Radikal, 23 March 2015]、そして4月にエルドアン大統領が協議の余地がないと明言したことで[Zaman, 29 April 2015]、解決プロセスは6月総選挙前には著しく停滞した5

こうした解決プロセスや大統領制導入に関しては、AKP以外の主要政党は一概に否定的なわけではなく、党によって姿勢が異なっている。CHPは、AKPが目指す大統領制については明確に不支持を明らかにしており、またこれまでAKPが主導してきた解決プロセスについては政府ではなく議会主導での取り組みを求めた。MHPは、トルコ民族主義を掲げしばしば極右とも評されることから、クルド問題については非常に強硬な姿勢を見せてきた。従来の解決プロセスには反対の立場を明確にしているとともに、「テロ組織」であるPKKを厳しく非難している。一方、大統領制については、CHPほど明確な否定は行っておらず、「憲法の最初の4条」――国家形態・性質・一体性や公用語・改定不可条項について――の堅持を強調するに留まっている。またHDPは、解決プロセスについてはAKPとともに推進してきた経緯があり肯定的であるものの、大統領制については、地方自治など他の憲法改定の内容によって曖昧な態度であり、6月総選挙前には批判的な傾向を強めた。

(3) 総選挙結果と分析

2015年6月総選挙は即日開票が行われ、高等選挙委員会(Yüksek Seçim Kurumu: YSK)によると投票率83.92%という状況で、得票率はAKPが40.87%、CHPが24.95%、MHPが16.29%、そしてHDPが13.12%となり、この4党に議席が配分されることとなった[YSK 2015a]。その結果、AKPが258議席、CHPが132議席、MHPが80議席、HDPも80議席を獲得することとなり、AKPは初めて参加した2002年11月総選挙以来初の過半数割れを喫し、13年近く維持した単独政権が終焉を迎えることとなった。

このような結果は、エルドアン大統領の「勝利」条件であった367議席もしくは330議席以上どころか、ダヴトオール首相・AKP政府の最低限の目標であった276議席をも下回るものであり、かろうじて比較第一党は維持したものの、政治的には完全に「敗北」ともいえるものであった。一方、HDPにとっては歴史的快挙ともいえる結果となり、得票率では下回ったものの議席数ではMHPと並ぶ勢力を確保した。前述のように、HDPが得票率10%を超えた場合にはAKPの苦戦が予想されていたが、これを3.12ポイント上回ったため、AKPの議席減少がより大規模なものになったと考えられる。また、CHPはほぼ現状維持となったが、MHPは20議席以上増やすなど、AKPからMHP・HDPへと議席が流れる結果となった。

こうした状況については、2~3月に解決プロセスで大きな進展を見せたAKPからのトルコ民族主義・右派寄りの支持者のMHPへの流出、そしてHDPの総選挙参加に伴うAKPからのクルド系支持者の流出に加えて[KONDA 2015a, 48; 51-52]、最大の争点であった大統領制導入の観点からも分析が可能である。たとえば、総選挙前に実施されたメトロポール社(MetroPOLL)によるアンケート調査では、「トルコの行政制度はどれであるべきか」との問いに対して、現行の議院内閣制という回答が53.1%であったのに対し、大統領制という回答は31.7%にとどまっている[MetroPOLL 2015b, 4]。また、選挙直後に実施された同社のアンケート調査では、「AKPが単独政権に必要な票を獲得できなかった理由」として、エルドアン大統領の演説(16.3%)、収賄・職権濫用(14.2%)、クルド人によるHDPへの投票(6.9%)、大統領制の主張(4.2%)、権威主義化(3.9%)などが挙げられており[MetroPOLL 2015d, 11]、憲法上中立性が求められる大統領による露骨なAKP支援や野党批判、そして大統領制を主張する演説が、与党AKPに大統領制に必要な議席数を与えなかった重要な要因の1つであったことがうかがえる。同時に、「AKPが単独政権に必要な票を獲得できなかった責任は誰にあるか」という問いに対する回答では、エルドアン大統領(50.6%)、党組織(14.3%)、ダヴトオール党首(11.2%)の順となっており[MetroPOLL 2015d, 12]、エルドアン大統領の選挙戦への過度な介入がある種「AKP離れ」を生じさせたともいうことができる。

(4) 連立交渉の推移

こうした、いずれの党も過半数に満たないという選挙結果を受けて、主要政党の間で連立政権の樹立が模索されることとなった。憲法第116条では、45日以内に組閣の必要があることから、エルドアン大統領はまず比較第一党であるAKPの党首・ダヴトオールに組閣と連立交渉を命じた。

ダヴトオールは、まず第二党であるCHPの党首・クルチダルオール(Kemal Kılıçdaroğlu)と連立交渉を開始した。いわゆる「大連立」実現の可能性として注目が集まった交渉であったが、数回の会談を経て決裂が明らかとなった。クルチダルオール党首は決裂後の会見において、AKPがあくまでも早期選挙のための短期の連立あるいはAKP少数政権への支持を求めたのに対し、CHPが国会議員の任期である4年間の連立を提案したことが、最大の相違点となったことを明らかにした[Milliyet, 14 August 2015]。また、対外政策や教育政策においても両党の間に大きな隔たりがあったという[Radikal, 13 August 2015]。

ダヴトオールは続いてMHPとの連立交渉に臨んだが、MHP党首であるバフチェリ(Devlet Bahçeli)は当初は連立の可能性を示唆するも、結果として通常の連立政権、早期選挙のための連立政権、少数政権への支持のいずれも拒否するかたちで決裂した[Radikal, 17 August 2015]。また、残るHDPについては、デミルタシュ党首がAKP-CHP連立政権が成立した場合には支援すると表明していたものの、自党の連立参加を否定していたため、交渉は行われなかった。

そしてAKPを除くCHP・MHP・HDPの連立も、MHPとHDPが激しく対立しているために実現の目処が立たず、45日以内の組閣が不可能となり、エルドアン大統領は8月24日に再度の総選挙実施を決定、投票日は11月1日とされた。これによって、約2カ月間の非常に短い選挙戦が始まることとなった。

2. 2015年11月総選挙

(1) 暫定政権期とAKPの動向

再度の総選挙に向けて、8月25日には比較第一党であるAKPの党首ダヴトオールに暫定政権の組閣が命じられた。この時点から、6月総選挙のように異なる「勝利」条件を持ちながらも「敗北」の回避を共通目標としたAKP・エルドアンによる、MHP・HDPの切り崩しと、HDP・PKK批判を伴うトルコ民族主義的傾向の強化が見られ始めた。

暫定内閣は、憲法第114条によると得票率によって政党毎に入閣人数が定められているが、人選と担当については首相の裁量となっている。そこでAKPは、MHP初代党首の故アルパルスラン・テュルケシュ(Alparslan Türkeş)の子息でMHP副党首であるトゥールル・テュルケシュ(Tuğrul Türkeş)を副首相として入閣させた。MHP規律委員会はこれを問題視し9月にテュルケシュを除名したが、彼はその後AKPに入党した。

さらに、AKPはHDPとPKK、そして解決プロセスに対し批判的な態度を強めていった。ダヴトオール率いる暫定政権は、7~8月頃からPKKならびにそのシリアにおける姉妹組織・民主連合党(Partiya Yekîtiya Demokrat: PYD)に対する空爆を実施し、エルドアン大統領は従来のかたちでの解決プロセスの終了を宣言した[Cumhuriyet, 28 July 2015]。このことは、HDPの無力さのアピールとイメージ低下を狙いつつ、トルコ民族主義への接近を示したものであるといえる。

また、同時期に治安に関する不安が急速に拡大していたことも看過できない。7月20日には南部のスルチ(Suruç)での爆発で30名以上が死亡、10月10日には首都アンカラでも爆発が起き100名以上が死亡した。これらはともに自爆テロとされ、各党ともこれを強く非難したが、連立不成立から暫定政権という道をたどったトルコではこれに伴い強く安定した政府を求める声が高まった。AKPは、11月総選挙に向けた選挙マニフェストにおいて「安定性(istikrar)」を1つのテーマとして打ち出しており[AK Pari 2015b]、この点は有権者に大いにアピールした。ダヴトオール自身も、AKPが政権にない状態は治安の不安定化につながると、有権者に強く訴えかけた[Radikal, 20 October 2015]。

こうしたAKPおよびエルドアン大統領の一連の動きは、MHPやHDPの切り崩しによって、6月総選挙で失った票の再獲得を狙ったものであった。またそれはもちろん、再度の「敗北」を回避し、再び議会の過半数を獲得しAKPによる単独政権を回復するためであり、さらには大統領制の導入に向け必要な議席を確保するための戦略であるといえる。そして11月総選挙においては、この戦略が大きな成果を挙げ、結果を大きく動かすこととなった。

(2) 総選挙結果と分析

11月総選挙は、投票率に関しては85.23%と前回よりも1.3ポイントほどの上昇に留まったが、各党の得票率には大きな変動が見られた(図1)。AKPが前回を9ポイント近く上回る49.5%を獲得し、CHPが25.32%、MHPが11.9%、そしてHDPが10.76%となった[YSK 2015b]。そして議席数は、AKPが約60議席増の317議席、CHPはほぼ変わらず134議席、MHPは半減の40議席、HDPは20議席近くを減らし59議席となり、AKPが「敗北」を回避し約5カ月を経て単独政権に返り咲くこととなった。得票数としては、AKPは6月総選挙で失った票よりも多くの票を11月総選挙で得たこととなり、その意味では獲得議席以上の回復であったものの、第1章第1節で挙げたエルドアン大統領の「勝利」条件には届かない状況となった。

図1 2015年6月・11月総選挙の議席数と得票率の推移(議席・%)

出所:[YSK 2015a; 2015b]より筆者作成

投票先を6月総選挙から変更した有権者は400万人以上と考えられるが[KONDA 2015b, 43]、AKPの得票数の増加の直接的な要因は、①6月総選挙で他党に投票した有権者からの票の移動、そして②6月総選挙で投票しなかった潜在的AKP支持者の投票、に大別して考えることができる。①については、さらに①-1. MHPから、①-2. HDPから、①-3.その他小規模政党――特に6月総選挙で統一名簿を組織していた至福党(Saadet Partisi: SP)6と大統一党(Büyük Birlik Partisi: BBP)7の「国民連合(Millî İttifak)」――から、というケースが考えられるが、トルコの民間調査会社コンダ(KONDA)の分析によると、①-2.における票数の移動はわずかであり切り崩しは成功とはいえず、むしろAKPの増加した得票数の約半数は①-1.および①-3.のケースであるとされている[KONDA 2015b, 71-72; 75]。これらについては、トルコ民族主義を標榜するMHP、そして親イスラーム色の強いトルコ民族主義ブロックであるSP-BBPともに、イデオロギー的にAKPに近い存在であったことが要因の1つと考えられる。前述のように、AKPおよびエルドアン大統領は6月総選挙以降、トルコ民族主義的な発言とともに、同時にHDPやPKKなどのクルド系組織への非難を強めていた。こうした傾向は、イデオロギー的に接近可能なMHPやSP-BBPを主なターゲットとした戦略と考えられ、AKPがこれまでの政権運営能力とあわせて治安の回復や安定の必要性を強調する中で、死票を回避し、安定した政府を求めての右派有権者の取り込みに成功したといえる。

これに加え、MHPは他の主要政党と異なり、明確な地域的な基盤を有していないことも、著しい後退につながったと考えられる。AKPは地理的には南東部を除き全国万遍なく支持を得ており、ほぼすべての県で得票数を増やしている[KONDA 2015b, 47]。CHPは伝統的にエーゲ海やマルマラ海地域で強い。また、HDPはクルド系住民が多く住む南東部を牙城としている。一方、MHPはアダナ(Adana)やオスマニイェ(Osmaniye)といった限られた県を除いては目立った強さはなく、また大都市でも状況はあまり芳しくない。そしてもちろん、HDPとは反対に南東部は従来から苦手としている[KONDA 2015b, 53]。こうした地盤の脆弱性は、AKPへのイデオロギー的な近さとともに、特にMHPの後退を加速させたといえよう。

そして②については、6月総選挙でHDP・MHPに投票した有権者が投票に行かなかったことも、AKPの得票率と議席数の増加に拍車をかけたことが明らかにされている[KONDA 2015b, 41-45; 71-74]。特に、HDPの票田である南東部では、11月総選挙は6月総選挙に比べ著しく投票率が低下しており[KONDA 2015b, 72]、結果的にAKPに利することとなったと考えられる8

このように、11月総選挙におけるAKPの過半数再獲得と単独政権への返り咲きは、有権者による安定の必要性に対する認識に加え、AKPのトルコ民族主義への傾斜が重要な後押しをしたといえる。こうしたAKP・エルドアン大統領のトルコ民族主義的傾向の強化は、総選挙後もHDP非難やPKK・PYD攻撃、シリアやイラクにおけるトルコ系のテュルクメン人(Türkmenler)への言及の増加といったかたちで継続しているが[Hürriyet, 24 November 2015; Radikal, 21 December 2015など]、果たしてこうした政策の変容は選挙と憲法改定をめぐる戦略のみによって実現したものなのだろうか。

以下では、本章で示したようなエルドアン体制の変容には、戦略的な側面以外にも、アクター間の関係性の変化が不可欠であったことを示すものとする。

3. エルドアン体制の変容とアクター間の関係性の変化

(1) エルドアン大統領とAKP政府

前述のように、ダヴトオール首相らAKP政府とエルドアン大統領との間には、解決プロセスをめぐって方針のずれが生じており、また6月総選挙においての「勝利」条件も異なっていた。これらはすべて、エルドアン体制内の不一致をうかがわせるものであったが、次第にエルドアン大統領優位での安定が見られ始め、解消へと進んでいった。

不一致の解消の端緒となったのは、6月総選挙に向けてのMİTフィダン次官(Hakan Fidan)の擁立をめぐる一連の動きであった。2010年5月からMİT次官として解決プロセスに取り組んできたフィダンは、ダヴトオール首相の意向もありAKPからの国会議員立候補が検討されてきた。これを受けてフィダンは2015年2月に次官職を辞し立候補への準備を進めたが、エルドアン大統領が自身の許可のないこうした行動に強く反対したことで、3月には立候補を断念し、次官へと復帰した[Radikal, 10 March 2015]。この出来事は、AKPに対するエルドアン大統領の影響力を誇示するとともに、ダヴトオール首相との力関係を如実に示したものであるといえる。そしてこのような傾向は、6月総選挙でのAKPの「敗北」以降、よりいっそう顕著となり、エルドアン体制はエルドアン大統領が主導権を握るかたちで安定へと向かっていった。

たとえば、AKP-CHPによる「大連立」交渉が決裂した際にも、エルドアン大統領によるダヴトオール首相の譲歩に否定的な発言が決定的であったとされる[Sabah, 12 August 2015; Milliyet, 23 August 2015]。また、9月に行われたAKPの党中央決定運営委員会の刷新においては、古参党員やダヴトオール首相の側近とされた人物は排除され、エルドアンの娘婿であるアルバイラク(Berat Albayrak)を含むエルドアン大統領に近い人物が数多く登用された[Hürriyet, 13 September 20159。さらに、11月総選挙にむけた候補者名簿の作成においても、エルドアン大統領が最終調整を行ったとされている[Hürriyet, 19 September 2015]。

エルドアン大統領とダヴトオール首相・AKP政府との関係は、11月総選挙における党勢の回復によってエルドアン大統領の主導権がさらに確固たるものとなっていった。このエルドアン体制内におけるアクター間の関係性の変化は、前章までで述べてきた政策の変容を支える、重要な背景であったといえる。

(2) HDPとPKK

その一方で、AKP政府とともに解決プロセスを推進してきたHDPとPKKとの間で不一致が拡大したことも、エルドアン体制自身の安定と相まって体制の政策変容を容易にした。

HDPはオジャランとの対話を通して解決プロセスに寄与してきたが、PKKの指導者であるはずのオジャランの指示にPKKは必ずしも従っておらず、PKKがHDPとオジャランが志向する民主的な政治プロセスに本格的には合流していない状況が明らかとなっている10。これはひいては、HDPに対するクルド系住民以外からの支持の減少や、安定した治安を求める人々のAKPへの投票を導くものであった。

こうした事態を避けるため、HDP共同党首であるデミルタシュは、とりわけ6月総選挙以降、PKKによる暴力の再燃についてしばしば強い非難を繰り返してきた。これは、「我々はPKKによる暴力を認めない」、「我々はPKKと協力関係にない」といった非常に直接的な言葉でも示されている[Cumhuriyet, 31 July 2015; Hürriyet, 28 September 2015]。しかし前述のように、治安の不安定化を伴って、状況はAKPに有利なものとなっていった。

またこれは、クルド系住民を代表する組織間の主導権争いであるともいえ、6月総選挙においてHDPが議席の獲得に成功したことによる、PKKの存在意義の低下という側面も含んでいる。さらに、収監されているオジャランとそれ以外のPKK幹部との間での主導権争いも、これに重なっていることに留意すべきである。この状況は、PKK出身者が母体となって結成されたクルド系組織の連合体であるクルディスタン社会連合(Koma Civakên Kurdistan)が11月総選挙後に行ったAKP政府との停戦終結の発表によって、さらに深刻なものとなった[Cumhuriyet, 5 November 2015]。

そしてAKP政府とPKKとの武力衝突を受け、HDPおよびデミルタシュは非常に厳しい立場に立たされている。12月には、自身も参加したトルコ・クルディスタン地域のクルド系市民組織連合体である民主社会会議(Demokratik Toplum Kongresi: DTK)が同地域の「自治(özyönetim)」を要求したことについて、あくまでも政治と交渉を通して進めていくことを強調した[Cumhuriyet, 30 December 2015]。この点においては、PKKと同様、デミルタシュをはじめHDPもその存在意義を主張する必要性に迫られているといえよう。

こうしたHDPとPKK、あるいはクルド系アクター間の政治・交渉と武力衝突をめぐる乖離は、エルドアン大統領とAKP政府との間の不一致の解消との相乗効果により、結果的にはエルドアン体制の政策の変容を後押しするものとなっているのである。

おわりに

2015年6・11月という2つの総選挙を経たトルコでは、単独政権に復帰したAKPが、エルドアン大統領によって確立された強力なリーダーシップと、クルド系組織間の不一致とを背景に、選挙戦略という意味合いを持ちつつトルコ民族主義的な傾向を強めてきた。先に述べたように、これらはいずれかが欠けていても実現が困難だったものであり、エルドアン体制における政策の変容は、複合的な視点で考察する必要がある。

今後のトルコ政治情勢は、2015年12月現在では、総選挙・地方選挙・大統領選挙の実施はすべて2019年実施予定であることから、こうしたエルドアン体制のもとでの推移が予想される。しかし一方で、経済状況の著しい悪化や、国際情勢の大きな変化、大規模なデモおよび軍の介入傾向の発現といった選挙以外の要素が生じた場合には、エルドアン体制に再度政策の変容がおとずれうるだろう。特に、2015年11月のトルコ軍によるロシア軍機撃墜を契機に急速に悪化したロシアとの関係は11、経済面にも悪影響を及ぼすものであり、エルドアン体制において試練を課すものであるといえる。

2015年に大きな節目を迎えたトルコとエルドアン体制の動向に、引き続き注視する必要がある。

本文の注
1  現行のトルコ共和国憲法(1982年制定)では議院内閣制が採用されており、大統領はあくまでも「共和国と国民の一体性を代表する国家元首」としての象徴的な意味合いが強い。2007年10月の憲法改定により大統領が直接選挙での選出と変更された後も、憲法上執政権は首相・内閣が有している状況が継続している。憲法の原文については、本稿では議会ウェブサイト掲載のものを参照した(https://www.tbmm.gov.tr/anayasa.htm 、2015年12月31日閲覧)。

2  本稿では、親イスラームとは「厳格な世俗主義(lâiklik)を建国理念の1つとするトルコにおいて、しばしばそれを超える範囲でイスラーム的な主張を行う傾向」を指すものとする。ただし、トルコの場合には、たとえばシャリーアの適用などを公然と唱えることは現実的には困難であることに留意が必要である。

3  憲法第175条によると、大統領は①および②の場合においても、議会に一度だけ差し戻すことが可能である。

4  国会議員選挙法(Milletvekili Seçimi Kanunu, 法律2839号;1983年)第33条による。当該条項は、1987年5月に改定された。

5  エルドアンは国家情報機構(Millî İstihbarat Teşkilatı: MİT)とともに解決プロセスを推進してきた経緯がある。第三者機関である監査委員会の設置は、MİTの関与を減退させ、ひいてはエルドアンが解決プロセスの主導権を失う可能性があると考えられた。詳細については、第3章第1節を参照のこと。

6  SPは、トルコの親イスラーム政党の中心的政治家であったエルバカン(Necmettin Erbakan)の系譜を汲む政党であり、前身の美徳党(Fazilet Partisi: FP)が2001年に憲法裁判所によって閉鎖された後、AKPと2つに分裂するかたちで設立された。なお、AKPのクルトゥルムシュ現副首相(Numan Kurtulmuş)は、SP党首を経て2010年に離党、人民の声党(Halkın Sesi Partisi)を設立後、2012年にAKPに合流した人物である。

7  BBPは、トルコ民族主義を基本路線としつつ親イスラーム色が強い政党として知られる。1980年クーデタ後の民政移管の際に設立された保守党(Muhafazakâr Parti)を直接のルーツとし、1985年に民族主義者労働党(Milliyetçi Çalışma Partisi)に改称、さらに1993年にクーデタ以前に存在したMHPへと名称を変更しトルコ民族主義を強調し始めた党から分離して誕生した。

8  11月総選挙の際に、6月総選挙でHDPやMHPに投票した有権者が投票に行かなかった理由については、今後詳細な分析が求められるものの、以下の点が推測される。HDPについては、①解決プロセスの停滞状況の継続に対する否定的反応、②6月総選挙における得票率・議席数に由来する安心感など。MHPについては、①連立交渉におけるバフチェリ党首の言動に対する否定的反応、②6月総選挙における得票率・議席数に由来する安心感など。

9  アルバイラクは、11月総選挙後の組閣においてエネルギー・天然資源相に任命された点にも、注意が必要である。

10  たとえば、第1章第2節に示したオジャランによるPKKのトルコからの撤退表明については、一部を除き実現されなかった。

11  AKP政府はトルコ・シリア国境付近におけるロシア軍機の度重なる領空侵犯を主張しているが、ロシア政府はこれを否定している。また、第2章第2節にも示したように、エルドアン大統領らが、ロシア軍機がシリア北西部のテュルクメン人の居住地域を爆撃していたと主張し撃墜を正当化している点は、トルコ民族主義的な傾向を端的に示すものであるといえる。

参考文献
 
© 2016 独立行政法人日本貿易振興機構アジア経済研究所
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