2016年の中東地域は、少なくとも域内政治に関する限り専ら米国の大統領選挙による米国の対中東政策の変化と状況変化の方向を注視していたという側面が強いように思われる。それは少なくとも全体として極めて低調だった選挙戦の結果11月12日にドナルド・トランプが大方の予想を覆して当選し、その直後から2017年1月20日の大統領就任までに現在に至る対中東政策の転換とそれに伴う主要な政治的変化が始まっていたように見えることは否定できない。
もしヒラリー・クリントンが当選した場合、中東政治のその後の展開はより明確な方向性をもってある種の「安定的なシステム」に向かったことであろう。それはイランの核合意(JCPOA)に象徴されるオバマ大統領のレガシーを当初は継承しつつ、イスラエルなどとの関係改善を視野に次第にヒラリー的な色彩を強めていくという政権交代による政策変化のショックがより少ない経路であり、多くの外交的難題を抱える中東地域としては望ましい選択肢でもあったに違いない。
そこでは米国の政治的・軍事的な持続的影響力のもとで、サウジアラビア・トルコ・イランという各政治アクターが利害の調整を図りつつ、シリア問題・イラク問題・イエメン問題などの中東地域が抱える主要な課題の解決に向けた新たな動きを進めるという安定的なシナリオを思い描くことが可能であったという事ができよう。だが周知のように、トランプ政権の発足によってこうした予想はすべて覆った。
一挙に不透明感を増した中東情勢トランプ大統領は選挙運動中から対イランの核交渉に否定的な発言を繰り返してきた。またかねて核合意に否定的な立場だったイスラエルのネタニヤフ首相との急速な接近、サウジアラビアとの連携強化など、オバマ大統領の時代とは全く異なるアプローチで中東地域における米国の立ち位置を軌道修正していこうとしているように見える。だがそれは他方では複雑を極める中東政治の現場からの米国の影響力の後退という側面を色濃く持っている。このことを何よりも物語っているのがシリア情勢におけるロシアの発言力の米大統領選直後からの顕著な増大である。
これは2016年12月のロシア軍の支援によるアレッポ陥落で当面のアサド体制継続が確実になったシリア情勢が象徴的に物語っているように、中東地域におけるロシアの影響力の顕著な伸張を一方で伴っている動きである。だが言うまでもなくロシアは中東地域において米国の覇権を代替するような存在にはなり得ない。
そこで現在の中東地域で生じている事態を要言するとすれば、それは20世紀中ばの冷戦時代にも似たある種の政治的なブロック化の進行であり、全体的な政治情勢の不安定化の中で主要な政治アクター間の合従連衡の試みが繰り返され、根本的な問題の解決は先延ばしされ続けるといういささか暗い見取り図しか得られない事になる。もう少し具体的にいえば、シリアからイラク方面におけるロシア(およびイラン)の影響力が以前よりも増大し、イランはロシア(および中国)との連携を強化する。さらにロシアはアフガニスタン方面でも(イランを梃子に)新たに影響力を強化する可能性があるだろう。
これに対して米国はイスラエル、サウジアラビアおよびGCC諸国など従来からの親米国との連携を強化し、特にイランを政治的・軍事的に包囲する方向で中東地域における覇権を維持しようとの試みを続けるであろう。だがその場合に個々の局面においてトランプ政権内の誰が主導権を握るのか(ティラソン国務長官かマティス国防長官か、或いはトランプ大統領本人か)、イスラエルの立場がどの程度反映されるのかなど、主要なファクターは現状において未だに不透明なままである。
中東政治の今後の見通しはどうなるかここでごく簡単にではあるが、中東域内の政治アクターごとに改めて現状を通観しておくことにしよう。まずイランに関しては米大統領選後のシリア情勢の急展開によって域内での影響力が増した一方で、トランプ大統領の登場によって米国との関係改善の可能性は当面大幅に遠のいた。経済的にはJCPOAの維持による西側との関係強化が喫緊の課題であるが、その主要な相手先であるEUもまた不安要因を抱えている。とりわけ5月のフランス大統領選の結果次第ではJCPOAの根幹が揺らぐ可能性もあり、イランの外交はあらゆる方面で正念場が続くことになる。
現在中東域内でイランの最大のライバルと目されるサウジアラビアも、厳しい状況に置かれている。ひとつは2015年3月の軍事介入以来、出口の見えない状態が続いているイエメン情勢である。また一時期は反アサド体制側に立って軍事支援を行ってきたシリア情勢もアサド体制の存続を認めるかどうかの局面になっている。さらに国内的にも副皇太子ムハンマド・ビン・サルマンの主導する経済改革にひと頃のような勢いがなくなっていることは大きな不安材料である。
エルドアン大統領が主導するトルコもまた国内的な政治基盤は盤石とは言い難い。そもそもエルドアン大統領は2016年7月の軍部によるクーデター未遂後、首相の更迭やメディアの統制などの強権的な手法で体制の維持強化を目指してきた。だがクルド人政党PKKの徹底的な弾圧や「イスラム国(IS)」攻撃によりイスタンブルをはじめ都市部での治安上の不安が増しており、外交的に中東域内での対周辺国関係を重視するのかトランプ側に乗るのか、決めかねているのが現状であると言うべきであろう。
トランプ大統領の登場で中東域内での立場が改善すると見られたイスラエルにしても、直面している現状は好材料ばかりではない。トランプ大統領が当初表明していた米国大使館のエルサレムへの移管についても当然ながらアラブ諸国からの強い反発と懸念で実現の見通しは立っておらず、パレスチナ問題の「二国家解決案」についてもトランプ大統領の発言で葬られたと判断するのは時期尚早である。
最後に「アラブの春」を経験した2011年以降国内的な混乱と経済不振に悩んできたエジプトであるが、同国はトランプ政権の登場により中東域内での政治アクターとしての地位を若干回復する可能性が出てきている。それは経済的にはスィースィー政権が漸くこぎつけたIMFとの融資合意であり、また域内政治的にはサウジおよびUAEなどの紅海方面への政治的比重のシフトである。だがこれもサウジ・エジプト間の新たな緊張の火種となる要素を内包しており、今後の展開については予断を許さない。
こうした中で特に懸念されるのは、米国トランプ政権が核武装の強化と軍事費の大幅拡大を掲げている点である。これに対しては中国が既に対抗して軍事費を拡大すると表明しているが、米国がかねて標榜している「対テロ戦争」の新たな主要な標的として将来的にイランを想定しているとすれば、中東湾岸地域における米軍基地等の新たな増強・展開と対イランの軍事的緊張、さらには核施設などの軍事目標に対する軍事攻撃の可能性も否定できないと考えるべきであろう。
その背景には38年前のイラン革命とその後の米国大使館占拠事件に由来する米国内のある種歪んだ対イラン認識と、そこを出発点にしてきた中東政策の矛盾の永年の蓄積がある。トランプ政権内において現実的な情勢判断を堅持する勢力(それは多くの場合軍事関係者という事になるだろう)の賢明な選択に期待する以外にはないというのが実相であろう。
(2017年3月6日脱稿)
新領域研究センター 鈴木均
近い将来において中東地域の政治・経済・安全保障をめぐって注目に値するのが、中東諸国、特にサウジアラビアやUAEなどの湾岸産油国による、紅海岸地域と「アフリカの角」地域1への進出である。19世紀末から20世紀初頭にかけて、欧州の列強がアフリカへの植民地進出を競った「アフリカへの殺到(Scramble for Africa)」2が、担い手を変えて新たに展開されているかのような状況が生じている。
中東諸国にとって紅海岸とアフリカの角地域は、経済的な成長の場として、そして政治や安全保障上の協調・団結の機会としての可能性を秘めている。それと同時に、中東諸国による関与は、紅海岸とアフリカの角地域に新たな紛争を刺激することにもなりかねず、中東における既存の紛争・対立構図を、紅海岸とアフリカの角地域に持ち込む危険性を秘めている。
本稿では中東諸国の紅海岸地域・アフリカの角地域への、経済的、そして政治・安全保障面での進出の概略をまとめつつ、そこに秘められた可能性と危険性の両面を指摘したい。
1. 「中東」と「アフリカ」の地域概念の不分明化中東とアフリカは、近代において、画然と分かたれた異なる地域として認識されてきており、両地域に対する世界各国の通商・外交、あるいは安全保障政策も、別個に策定され実施されることが通例であった。しかし近年、中東とアフリカの境界は不分明になっている。
特に、両地域の境界領域である紅海からアフリカの角地域にかけて、両地域の接近と融合を進める、政治的・経済的、そして安全保障上の動きが、表面化している。それに応じて、日本を含む各国の政策の策定と実施においても、中東とアフリカを横断的にとらえて対処する必要が出てきている。
これは地域研究の対象の設定という観点からも見逃してはならない動向である。近代における地域認識が「中東」と「アフリカ」を別個の存在としてとらえてきたという事実を前提として、地域研究も「中東研究」と「アフリカ研究」を分け、それぞれに異なる研究者育成の制度と経路を備え、学部や学科、研究所の部門、学会などのあらゆる段階において異なるセクションを設けてきた。
しかし歴史上は、中東とアフリカを確然と分けることができた時期はそう長くはない。特に、紅海岸からアフリカの角地域にかけては、元来は連続性・不可分性があり、そこにおいて中東とアフリカは活発に交流していた。旧約聖書に登場する「シバの女王」の支配国の所在が、現代の歴史学ではイエメンあるいはエチオピアのいずれかに比定されることや、コーランやハディースに記録されたイスラーム教の草創期の事跡で、アラビア半島の紅海周辺のメッカに設立されたイスラーム教団が、多神教徒との抗争で不利な立場に立たされた時に、その一部がエチオピアに逃れたように、古代・中世においてアラビア半島と「アフリカの角」地域は密接な関係を持っていた。
西欧人が東アフリカに進出した時に見出したのは、海岸都市や内陸の河岸に位置する都市に居留地を築き、通信・輸送ネットワークを張り巡らせ、黄金・象牙・奴隷などのアフリカ産出の産品を国際市場に仲介する「アラブ商人」の姿だった。西欧人による「大航海時代」や近代初期のアフリカ「探検」も、アラブ人あるいはインド人が開拓した交易ルートやインフラを利用して行われたものだった。地理的な条件がほぼ一定である以上、前近代における中東とアフリカのつながりは、近代において一時的に阻害されたとしても、諸条件が前近代の状態に近似したものに変化すれば、容易に復活しうると考えておかなければならない。
近代において中東とアフリカの区分が明確に設定されるに至った政治・経済的条件の最たるものは、西欧あるいは欧米諸国の関与であり、支配である。西欧諸国の植民地進出と、帝国主義的な領土獲得競争の過程で、西欧列強のパワーバランスに基づき、植民地行政の政策と制度に多くを依存して、中東とアフリカは近代において地域として形成された。民族主義と反植民地主義運動を経た主権国家や民族の形成も、それぞれの地域の枠組みの中で進められ、地域単位での国際政治が展開されてきた。米ソが主導する冷戦時代、そして冷戦後の米国単独覇権の秩序の中でも、欧米諸国の関与は、中東とアフリカを別個の地域として存続させる影響を持ち続けて来た。
しかし現在、欧米諸国、そして米国の中東やアフリカ諸国への影響力が相対的に低減することにより、中東とアフリカを分けていた歴史的・制度的な要因も自明ではなくなっており、中東とアフリカを横断した人的・経済的関係が再び前面に出る条件が整いつつある。
2. 湾岸諸国の紅海岸・アフリカの角地域への進出近年に顕著なのは、紅海岸・アフリカの角地域への中東諸国、特に湾岸諸国の進出である。紅海・アフリカの角地域には、経済的な発展の可能性が多く秘められている。中東諸国が、外部のアクターとともに、この地域の開発に関与していくことは、中東諸国の政権の動揺や内戦などの混乱の根本的な要因と見られる低成長や貧困や高失業率を打破し、経済成長の実現、機会の創出と社会的配分の原資を得るために一助となると期待しうる。サウジアラビアやUAEなどの湾岸産油国の資源・資本は、エジプトからエチオピア、さらには「拡大アフリカの角」地域のケニアやウガンダも含めた東アフリカの豊富な労働力と拡大する市場との間に相互補完性があり、それらの地域の産業化を推進する要因となると共に、そこから利益をうるいわゆるwin-winの関係になりうる。ここに、中国が資源や市場を求めて人的資源や技術力や資本を注ぎ込んで進出し、道路・鉄道などインフラ開発を推進していることは、中東諸国の紅海岸・アフリカの角地域への経済進出にとって追い風となる。
例えば、2016 年 1 月には、サウジ西部の紅海岸のヤンブーでサウジアラムコが中国石油化工(シノペック)と合弁で進める大規模石油精製施設YASREF(Yanbu Aramco Sinopec Refining Company Project)の竣工式典が行われた。同年10月に中国はジブチ−アジスアベバ間を結ぶ電化鉄道の完成式典を行った。中国はこれを皮切りにエチオピアの全土に及び、南スーダンやスーダンとの国境地域に至る鉄道網の敷設事業の多くを担うと見られている。これは農業部門を中心にエチオピアとの経済関係を強化するサウジに必要なインフラを提供する形になる。
特筆すべきは、湾岸産油国のアフリカの角地域への進出が、経済面に限定されず、安全保障に関わるものを含むようになっていることである。その背景には、イエメン内戦にサウジアラビアやUAEが介入し、イエメンとバーブル・マンデブ海峡を挟んだ対岸のジブチやエリトリア、ソマリランドの有用性が増していることがある。また、サウジアラビアとイランとの地域覇権競争が激化しており、紅海岸やアフリカの角地域からイランの支配が及ぶことを排除する、あるいは予防的に阻止することが、サウジの安全保障上の優先的課題となっていることがある。
サウジアラビアはジブチと安全保障協定を締結し、ジブチに軍事基地を建設する計画を推進している。2016年1月のサウジ・イランの外交関係断絶に追随して対イラン断交を行った国は、スーダン、ジブチ、ソマリアであり、いずれも紅海に面した諸国であった。それ以前からイランとの国交を(それぞれの理由で)断絶していたエジプトとイエメンを加えると、紅海岸とアフリカの角地域の沿岸諸国は、エリトリアを除いて、全てイランとの距離を置いたということになる。サウジの紅海岸・アフリカの角地域への外交攻勢は、イランに対抗する陣営の結成努力の一部であり、最も成功している部分と言える。
これと並行してUAEは、その国家の規模に比して顕著な海外基地展開を開始しているが、それらは紅海・アフリカの角地域に集中的に分布している。UAEは元来ジブチの港湾開発に密接に関与してきたが、その外交関係は2015年4月に急速に悪化し、5月には国交断絶に至っている。それに対して同年9月以後、UAEはジブチの北方の隣国エリトリア最南部のアッサブの港湾を租借し、大規模な軍港と飛行場を整備している。また、2017 年2月には、ジブチの南方の隣国ソマリア北西部の未承認国家ソマリランドの議会が、ベルベラ港をUAEが軍港として利用することを承認した。
これらの湾岸諸国の紅海岸・アフリカの角地域への進出は、イランを共通の敵として想定した、ある種の地域的な集団的安全保障の枠組みとして発展する可能性を秘める。特に、サウジが安全保障面で紅海岸の地域大国としてのエジプトと協調すれば、アラブ諸国の団結や、産油国と非産油国の協調といった積年の課題の解決に向けて進むための機会ともなるだろう。この点で2016年4月のサルマーン国王によるエジプト訪問の際の数々の合意は、サウジとエジプトの間の、スエズ運河からティラン海峡を経てバーブル・マンデブ海峡に至る一帯における包括的な安全保障上の協調の進展を期待させるものだった。特に、ティーラーン海峡で両国を結ぶ大橋の建設の合意や、ティーラーン島とサナーフィール島の帰属問題の決着は、紅海の安全保障をめぐってサウジとエジプトが一体となって進む姿勢を共に示したものに見えた。
3. 対立の萌芽しかし中東諸国の紅海岸・アフリカの角への進出は、逆に様々な紛争を新たに引きこすか、中東で既に存在する紛争を現地に持ち込む可能性がある。まず、サウジアラビアとエジプトの協力関係が、進みかけながら頓挫し、むしろ対立が表面化していることがある。
ティーラーン島とサナーフィール島のサウジへの帰属確認はエジプト国民の強い反発を招き、これを違憲とする司法判断によって先行きが不透明になっている。エジプトは2017年1月5日、新たに南方艦隊を設立し、紅海岸の海上覇権を譲らない姿勢を見せる。
この背後には、サウジがエチオピアとの関係を強化している点があるものとみられる。サウジがエチオピアとの関係を強化する過程で、エジプトが強く反対してきたルネッサンス・ダム計画3を黙認する方向性を示しているのに対して、エジプト側の反発が強まっている。サウジは従来から、スーダンやエチオピアで農業開発に投資し、食の安全保障を確保しようとしてきた。これに対してエジプトはナイル川の水源の確保を水の安全保障上死活的と捉えている。ルネッサンス・ダム問題をきっかけに、ナイル川の水源をめぐるエジプトとエチオピアの紛争において、サウジの国益がエジプトの国益と背反しかねないことが浮き彫りにされた。サウジの紅海岸・アフリカの角地域への進出は、対イランという文脈でのアラブ諸国・スンナ派諸国の団結をもたらす可能性があるが、それ同時に、むしろサウジとエジプトの国益の衝突と、それに起因する対立を招きかねなくなってきた。
また、湾岸産油国の間でも足並みは揃っていない。サウジアラビアがジブチに進出したのに対して、UAEはジブチとの対立を深めており、国交断絶にまで至っている。
ジブチ政府がUAEとの関係を冷却化させた背景には、ジブチの中国との関係強化があると見られる。中国と湾岸産油国がアフリカの角へ進出するに際しては、アフリカの角諸国が中国と湾岸産油国を「競わせる」局面が今後も出てくると見られる。
UAE はジブチの拠点を失った直後から、エリトリアのアッサブ、ソマリランドのベルベラへの進出を加速させ、それらの国を港湾開発や基地の提供国としてジブチと競合させる姿勢を示している。湾岸産油国の進出がアフリカの角諸国の間の競合や摩擦の原因となる場面もまた多くなるだろう。
未承認国家ソマリランドの政府・議会がUAEにベルベラの軍港開発を許可しているのに対して、ソマリア中央政府はサウジに対してUAEの進出を食い止める仲介を求めている。UAEの進出がソマリアの国際的に承認された政府と未承認のソマリランド政府の間の紛争の原因となり、それがまたサウジアラビアとUAEの間の立場の相違を明らかにする。紅海岸とアフリカの角地域への中東諸国の関与は、新たな紛争を胚胎しながらも着実に進んでいる。
(2017年3月7日脱稿)
東京大学先端科学技術研究センター 池内恵
本文の注トランプ米新政権の誕生早々に発せられた移民規制の大統領令では、入国禁止対象となった7カ国のうちスーダンを含めれば6カ国が中東諸国であった1。中東は明らかに、トランプ政権にとってはイスラム圏の中でもとりわけて敵視・危険視される地域となっている。実際、イランのミサイル発射実験に対して強く警告し2、追加の制裁実施を示唆するなど、新政権はオバマ前政権が積み上げてきた対イラン核合意(Joint Comprehensive Plan of Action:JCPOA)3をはじめとするこれまでの対話路線の成果を反故にしかねないような強硬姿勢を示し始めている。その一方、トランプ大統領は選挙戦の最中から米国大使館をテルアビブからエルサレムに移す意向を公言し、あからさまにイスラエル右派に迎合する言動を繰り返してきた。これに対して、アラブ諸国はもとより、広くイスラム世界から強い反発や懸念が向けられてきたのも事実である。そして現実に、2月半ばに行われた米=イスラエル首脳会談において、トランプ大統領はネタニヤフ首相に対して当面考え得る最大のリップサービスを行った。すなわち、パレスチナ問題の解決に向けて過去四半世紀の間、国際社会のコンセンサスであり、また和平プロセスの前提とされていた「二国家解決案」に拘らないとの姿勢を示したのである。こうした言明は、パレスチナ側がイスラエルを「ユダヤ人国家」として認めること、およびパレスチナの領域全体に対する安全保障上の管轄権はイスラエルが掌握することを「二国家解決案」をめぐる交渉の必須要件としてきたネタニヤフ首相の立場に擦り寄るものと看做されている。
もとより、言明と行動との間には距離がある。イランに対して警告を発したのは事実だが、追加制裁の中身は米国内資産凍結者の従来のリストに若干のイラン関係組織や要人の名前を付加する程度に過ぎない。対イラン強硬姿勢を共有するネタニヤフ首相との首脳会談でも、JCPOAが「最悪の合意である」との確認がなされたものの、性急な合意の破棄には言及されていない。大使館のエルサレム移転についてもトランプ大統領は個人的願望であるとしつつ、「移転に関する議論が緒に就く段階」だとして政治日程に乗せるには時期尚早との見解が示された。同様に、首脳会談を「二国家解決案の埋葬」として祝祭気分に沸いたイスラエル極右派の解釈もまた、即断に過ぎるであろう。トランプ発言は正確には「二国家であろうが、一国家であろうが、当事者双方が納得するものであれば‥(中略)‥自分には異存はない」というものであって、二国家解決案を真っ向から否定しているわけではない。
隠された論点むしろ、米=イスラエル首脳会談で前景化したこれら一連の議題の背後に、隠された論点が介在しているところに留意するべきであろう。2011年のいわゆる「アラブの春」から中東全域で前景化しているアイデンティティ政治(identity politics)4の騒乱の中で、パレスチナ問題を軸とするイスラエル国家とアラブ諸国家との対立抗争は後景に退くこととなった。ユダヤ人とアラブ人、ユダヤ教徒とムスリムとの間の争闘は、アラブ人とペルシャ人、トルコ人とクルド人、あるいはスンナ派とシーア派、アラウィ派、ホーシー派、ドルーズ派、ザイド派といったムスリム内部の錯綜した対抗関係の中に埋没している。その中で、相対的に屹立して勢力の保全や伸長にとりわけ腐心しているのが、イラン、トルコ、サウジアラビア、そしてエジプトの四カ国にほかならない。アイデンティティ政治の文脈でいえば、民族的にはペルシャ人、トルコ人、アラブ人の三極構造になり、宗派的にはシーア派のイランとスンナ派のトルコ・サウジアラビア・エジプトとの二項対立の図式になる。いずれの場合においても、イランを当面の主敵と看做す米国とイスラエルとの利害は、トルコ・サウジアラビア・エジプトと結んでイランを封じ込めるという大枠において一致するのである。
そうだとすると、パレスチナ問題や米大使館移転問題でこれら潜在的・顕在的な同盟相手を刺激し、不必要に軋轢を増幅するような事態を招来する施策を両国が選択するとは思えない。とりわけパレスチナ和平に関しては、トランプ大統領は執拗に「取引(Deal)」という言葉を援用した。それも、パレスチナ問題が「より大きな取引」の一部と解釈される文脈においてである。なるほど、米新政権が二国家解決案に拘らないとの立場を示したのは事実である。しかし敢えて忖度すれば、それは従来の手順、すなわち国際調停団の仲介によるイスラエルとパレスチナの当事者間直接交渉の結果としての二国家解決案に拘らないということに過ぎないのではないか。「中東の混乱の根幹にパレスチナ問題がある」との伝統的認識は、「パレスチナ問題が解決すればアラブ=イスラエル紛争も解決し、アラブ=イスラエル紛争が解決すれば他の諸問題も解決が容易となる」との「刷り込み」を導出してきていた。「パレスチナ問題は多様に存在する中東の混乱の一部に過ぎず、それが解決されても他の諸問題の解決には連動しない」との新たな認識が旧来のそれと置き換えられるのであれば、パレスチナ和平に対するアプローチにも変化の余地が出てこよう。
対外波及論から対内波及論へ二国家解決に基づくパレスチナ国家樹立からアラブ=イスラエル全面講和へというこれまでの「刷り込み」を和平の対外波及論(Inside-Out)と呼ぶとすれば、他方でアラブ=イスラエル事実講和からパレスチナ和平へという逆コースの対内波及論(Outside-In)が台頭しつつあり、そうした潮流が米=イスラエル首脳会談において顕在化したと見ることができる。イスラエルがすでに和平条約を締結しているエジプト、ヨルダンに加えて、サウジアラビアをはじめとする湾岸アラブ諸国との事実上の連携を強化して、共通の敵であるイランを封じ込める。そのためには米大使館のエルサレム移転といったアラブ世界やスンナ派イスラム世界の敵意を煽る路線を転換する。パレスチナ国家樹立については店晒しの状態に置いたまま、イランとの対抗で協働するスンナ派諸国とイスラエルの関係安定の対内波及でパレスチナ側を押さえ込む。おおよそ、首脳会談で描かれた中東の近未来とはこのようなものではなかったかと考えられる。
問題は、トランプ大統領やネタニヤフ首相が想定するこうした「バラ色の未来」が、中東の現実にどこまで妥当性を持つかというところにある。イランを封じ込めるスンナ派諸国といっても、例えばトルコにはクルド問題が、サウジにはイエメン問題が、エジプトにはムスリム同胞団問題がそれぞれあるように、各国にとってイランの脅威は自国が抱える喫緊の課題というプリズムを通して異なる見え方をしているはずである5。これらを一括りにして共同戦線を構築しようという試みが困難を極めるであろうことは、イラク・シリアの内戦において「イスラム国」を共通の敵として駆逐殲滅しようとした一連の作戦が難航し続けている経緯からも明らかであろう。
UAE はジブチの拠点を失った直後から、エリトリアのアッサブ、ソマリランドのベルベラへの進出を 加速させ、それらの国を港湾開発や基地の提供国としてジブチと競合させる姿勢を示している。湾岸産油国の進出がアフリカの角諸国の間の競合や摩擦の原因となる場面もまた多くなるだろう。
さらなる問題は、パレスチナ和平の対内波及論にある。アラブ諸国との関係安定がパレスチナに波及するという観測がそもそも楽観的に過ぎるし、たとえ波及するとしても相当の時間が必要となる。蚊帳の外に置かれたパレスチナ人の憤懣は、すでに激発に向けて臨界状態に達しているという見方もある。とりわけ、ガザ地区においてはイスラエルに対する武力挑発が再燃する危険性が高い。イスラエル現政権の言動を見る限り、これに対するイスラエル側の報復は、過去二度の「ガザ戦争」の比ではないと見るべきであろう。いったん戦火が再燃すれば、米国やイスラエルが夢想するスンナ派諸国とイスラエルとの「暗黙の協働」の可能性は一瞬にして粉砕される確率が極めて高いといわなければならない。
(2017年2月28日脱稿)
東洋英和女学院大学 池田明史
本文の注米国におけるトランプ政権発足の直後、筆者は2017年の2月初めにイランを訪れ、テヘラン市内およびエスファハーン周辺でかねてからの知人・友人、大学教授や地方小都市の住民に至るまでのイランの人々に1月20日に政権を発足させたばかりの米トランプ大統領についての印象を短時間あるいは相当な長時間にわたって訊いた。
トランプ米新大統領については昨年11月の大統領選挙の際に行われた米国のテレビ討論が初めてイランでも放送されるなど、イラン経済およびイラン人の日常に大きく影響するJCPOAの今後の行方に関わるだけに、現状では国内の最高権力者から庶民にいたるまでのすべてが強い関心を抱かざるを得ない状況である。
トランプ大統領の対イラン姿勢への不安感イラン国内では都市部と地方とを問わず、私が対話したイラン人のほとんどがトランプ大統領の政治的な行動について著しい不安感を抱いていたことを指摘しておくべきであろう。彼らはトランプがイラン国民に対して明確な理由や政治的背景などとほぼ無関係に軍事的攻撃や核兵器使用までを現実に行い得るのではないかと恐怖心を抱いている。
このような事態は1979年の革命以来これまでの米イ関係を振り返っても、実はあまり例のない事であると言わなければならない。これまで米国の歴代大統領は基本的に革命体制下のイランを「正当かつ永続性のある政権」と認めてきておらず、もしイランの現体制が崩壊する兆候を見せた場合にはむしろ積極的に体制の転換に向けた働きかけを行っていくという方針を採ってきた。
だがトランプ大統領の場合、こうした従来の対イラン姿勢とは大きく一線を画している。彼のイランに対する最初の政策は1月27日にイランを含む中東・アフリカ7カ国からの米国入国を90日間禁止し、さらに難民資格が認められた人々の入国を120日間停止するという大統領令に署名したことであるが、イラン国民にとってこれが明確に示しているのは「イランの保守的な『革命支持勢力』」との敵対ではなくて「イラン国民全体」との敵対ということなのである。
この政策によって数多くの米国に家族を持つイラン人などが実際にアメリカ入国を拒否されるなど多大の不便をこうむっており、その典型的な例が映画監督アスガル・ファルハーディーのアカデミー賞授賞式欠席であったことは改めて言うまでもない1。
トランプとアフマディネジャードの比較こうした不安と恐怖に満ちた雰囲気の中で筆者が対話した多くのイラン人が一律に口にしていたことは、「トランプは(政治家のタイプとして)アフマディネジャードと似ている」あるいは「酷似している」という表現である。このような表現がイラン国内の所謂マスメディアで流されている筈もない事を考えればこれは驚くべきことであるが、しかしイランでの近年の政治的な経験(とりわけ2009年の民主化運動とその現在までの帰結)を考えると首肯できるものでもある。
それはアフマディネジャードの「イスラエルを地図から抹殺する」発言をはじめとする挑発的な発言がトランプの「イラン核合意は私の知る最悪の交渉だ」という表現と同質のものであることをイラン人がよく知っており、彼らのポピュリスト的な政治姿勢に潜む共通の危険性を直感的に看取しているからに他ならない。
アフマディネジャード元大統領はイラン国内で現在政治的な要職には就いていないが、イラン大統領選挙に立候補するという意向が伝えられ、2016年9月26日に最高指導者ハーメネイーがそれを却下する旨の発言をしている。いわばアフマディネジャードの政治生命はわずかに首の皮一枚が繋がった状態に置かれているのであるが、それでも彼の存在価値があるのは、国際的に厳しい監視の続くイランの政治的選択について最悪の場合のカードを残しておこうという体制側の意図が働いているものと思われる。
トランプとアフマディネジャードの相似点筆者は2月にイランを訪れて2000年頃からの継続で地方小都市の調査を行った際、イラン国内でアフマディネジャードを支持する層とアメリカでのトランプ支持層のあいだに思いがけぬ類似性があることに気づかされた。アフマディネジャードについては以前から地方農村部において広い支持層のあることが欧米のマスコミなどで指摘されていたが、2000年頃から農村部小都市をフィールドにする筆者はこの観察にかねてから違和感を抱いていた。
ところが今回エスファハーン周辺を調査で訪れた際、たまたま立ち寄ったベルスィヤーン村(人口約2,000人)の雑貨商で実際にアフマディネジャードの古ぼけた選挙ポスターを目にし、「ここでは住民の多くがアフマディネジャードの支持者だ」という証言を耳にした。さらに筆者が調査対象としているエスファハーンから西に約100kmのヴァルザネ2では、「この町は(改革的な)ロウハーニーの支持者が多いが、周辺の農村部ではいまだにアフマディネジャードの支持者が圧倒的である」という発言を聴いて、同じ「地方」といってもこのかなり明確な対比の中に「トランプとアフマディネジャードを繋ぐ線」があるのではないかと感じた次第である。
アフマディネジャード政権というのは実はイランの地方行政について独特のアプローチをしていた。それはハータミー時代に導入されたショウラー議会制度による地方自治の定着という方向を否定し、その上で大統領自らがイラン国中の地方都市を何度も巡回して嘆願書というかたちで「住民の声」を直接吸い上げ、さらにそれに対して可能な限りの回答や対応を準備するということに多大のエネルギーを注いでいたのである。
さらに政権末期の2013年頃には貧困層への対応というかたちで全国的に国民に直接現金を給付するという政策も実施していた。おそらくはこうした政策が、地方において発展の展望が見出し難い農村部の支持層(それがどれ程の確固とした支持者であるかは別として)を現在までも一定程度確保している理由であろうと考えられる。
米国社会におけるトランプの元々の支持層というのも地方工業都市のなかば打ち捨てられた白人労働者層であるとすれば3、そこにはかなりの構造的な類似性があるように思われる。多くのイラン人はたとえ無意識であれ、両者のあいだのこうした相似点を直感的に看取しているということが出来るのではないだろうか。
アフマディネジャードの復活の可能性現時点においてアフマディネジャードが5月の大統領選挙に出る可能性はかなりの程度低いものと考えられる。また彼が次期大統領になる可能性などは殆どないと断言すべきかもしれない。だがそれでも彼が現在のイランの政局において「最後の/究極の選択肢」として意識されているということの意味は無視すべきではないだろう。
仮にアフマディネジャードが大統領として復活した場合、イランと米国の関係は恐らくこれ以上考えられないほど最悪のものになる可能性があり、その事は最高指導者ハーメネイーもよく自覚しているのではないだろうか。だがそのような可能性を残している事にイランの為政者は政治的な選択肢のひとつとして何らかの意味を見出しているということであろう。
5月19日に実施される予定のイラン大統領選挙は今後具体的な候補者のリスト作成から資格審査へと進んでいく筈であるが、このプロセスにおいて具体的にどのような展開があるかを予測するのは困難である。だが確かなことは、これまでトランプ大統領に対する姿勢を明確にしていないイランがこの大統領選挙の過程で今後4年間の対外政策の基調を定めてくるという事であり、それはサウジアラビアやイスラエルを含む域内政治の方向性にもまた少なからぬ影響を与えるだろうという事である。
新領域研究センター 鈴木均
本文の注IMF理事会は、2016年11月11日、エジプトへの融資(拡大信用供与ファシリティ)を承認した。今後3年間で計120億米ドルを供与するもので、8月の暫定合意から3カ月後の承認となった。
今回のエジプト政府とIMFの融資合意は、ムバーラク政権退陣以降で3回目だった。しかし、過去2回は暫定合意にまで至ったものの、いずれも実施を前にエジプト側が合意を撤回した。2011年6月の合意は、当時政治権力を掌握していた軍最高評議会(SCAF)によって取り消された。暫定統治下で長期の融資協定を結ぶのは慎むべきという判断だった。2回目は2012年11月にムルスィー大統領(当時)によって延期された。融資条件となった経済改革の実施を回避するためだった。
過去2回とは異なり、今回の融資交渉は、エジプト政府自らが経済改革を推進するなかで行われた。その結果、通常はIMFが融資条件となる改革メニューを提示するが、今回はエジプト政府がすでに自ら作成・実施していた改革をIMFが融資条件として追認したと報道されている4。
実際、スィースィー大統領は、就任当初から経済改革に積極的な姿勢を示している。就任直後のエネルギー補助金の削減から始まり、最近では、付加価値税の導入(2016年9月)、公的部門法(Civil Service Law No.18/2015)の改正(2016年11月)、変動為替相場制への移行(2016年11月)、エネルギー価格の引き上げ(2016年11月)などを実施した。
今回のIMFとの融資合意は、一連の経済改革の成果であり、低迷する経済を好転させる契機となることが期待されている。本稿では最近の経済改革状況と今後の見通しを考える。
変動為替相場制への移行2016年のエジプトは深刻な外貨不足に直面した。外貨不足は「アラブの春」以降の経済低迷を象徴する現象であり、2013年には約10年ぶりに並行為替市場が復活している。湾岸アラブ諸国からの経済支援などによって外貨危機こそ回避していたものの、2016年初めの時点で約10%だった公定為替レートと並行市場レートの乖離は、年後半にかけて徐々に拡大した。
外貨不足への対処として、エジプト政府は、一部消費財の輸入制限、関税引き上げ、闇業者の摘発などを実施し外貨需要の抑制を図った。さらに、エジプト中央銀行は2016年3月に為替レートを14.5%切り下げ、1米ドルあたり8.78エジプト・ポンド(LE)とした。しかし、その後も外貨不足は解消せず、並行市場も存続した。
並行市場では、2016年3月末に1米ドルあたりLE10となり、さらに4月半ばには同LE11、7月下旬に同LE12、9月末に同LE13と、通貨安が進んだ。そして、10月には公定レートの調整が近いという観測が広がり、並行市場では1米ドルあたりLE18まで減価した。その結果、公定レートと並行市場レートの乖離は100%以上になった。
2016年半ば以降に深刻となった外貨不足は、資金力のない中小輸入業者だけでなく、大手企業の活動にも影響を及ぼした。Eastern Company社(タバコの生産・販売)やJuhayna社(飲料・乳製品メーカー)といった業界最大手企業も外貨不足によって原材料の輸入決済が困難となっていると伝えられた5。
外貨不足が危機的な状況になるなか、エジプト中央銀行は、2016年11月3日、変動為替相場制への移行を発表した。これまでは中央銀行が市中銀行に対して定期的に外貨を供給することで為替レートを管理していたが、今後は自由な市場取引によって為替レートが決定することになる。変動相場制による為替レート決定の実質的な初日となった11月6日には、市中銀行において1米ドルあたりLE16で取引され、移行前の公定レートから80%以上の減価となった。
インフレ率上昇への対応2016年春以降の急激な通貨安はインフレ率の上昇をもたらした。エジプトは慢性的な貿易赤字を抱えており、また小麦をはじめとする基礎物資の多くを輸入している。そのため、並行為替市場での通貨安の進行に合わせるかのようにインフレが昂進した。それまで10%前後で推移していたインフレ率は2016年6月に14%まで上昇し、それ以来2011年以降で最も高い水準で推移している(図1)。
(出所) Central Bank of Egypt (www.cbe.org.eg)
インフレの昂進は基礎物資の不足を招いた。たとえば、2016年初旬に米と食用油の不足が表面化し、さらに10月には砂糖が店頭から消えた。いずれも長年食糧補助制度の対象品目となっている基礎食糧であり、政府が安定供給を重視している品目である。政府は軍を動員するなどして早期の安定供給回復を図ったが、基礎物資の不足とインフレ率の上昇はスィースィー大統領の支持率低下を招いた6。
政府は、インフレ対策として、食糧補助金を増額した。1人あたり月額LE15の補助額を2016年6月にLE18に引き上げ、さらに12月にLE21にすることを発表した7。その結果、2016年後半に計LE6(40%)の補助金増額となるが、たとえば補助金付き砂糖は2016年11月に1キログラムあたりLE2値上げされるなど、補助金付き食糧の公定価格も上昇傾向にある。そのため、食糧補助金の増額幅がインフレ対策として十分かどうかは、現状では明らかでない。
IMFとの融資合意スィースィー政権は、2016年7月下旬、それまで否定していたIMFとの融資交渉が合意間近なことを明らかにした8。その5日後にIMF調査団がエジプトを訪問して最終協議を行い、8月11日に暫定合意に至った9。
IMFとの合意に対して、債務増加を懸念した一部の下院議員などから撤回を求める声が上がったが、合意に反対する声は大きくなかった。スィースィー大統領は、当面の困難を予想しつつも、IMF融資が経済好転の契機になるとして、合意の重要性を説いた10。
最終合意の条件について、政府はその詳細を明らかにしていない。しかし、少なくとも、財政赤字の削減、為替制度の改革、輸入決済のための外貨確保は、融資承認の条件と考えられる11。実際、エジプト政府は、8月以降にサウジアラビアや中国からの外貨支援の獲得、付加価値税の導入、省庁の経費削減、変動為替相場制への移行、エネルギー補助金の削減など、経済改革を次々と実行した。その結果、IMFは11月11日の理事会で融資を承認し、即日1回目の融資分として27.5億米ドルを供与した12。
今後の見通し最近の経済改革は、通貨減価によるインフレ昂進、増税による可処分所得の減少など、国民の生活を短期的にいっそう困難にすると予想される。その一方で、緊縮財政策によってマクロ経済安定化に道筋をつけることが経済好転に不可欠と考えられているため、政府は改革を後退させるような政策介入を控えなければならない。現在の政府は、限られた政策によって国民の負担を抑えつつ、マクロ経済の安定化を達成するという、難しい経済運営を求められている。IMF融資という「最終手段」の効果が出るまで、改革を継続できるのか。経済好転に向けて、エジプト政府は正念場を迎えている。
(2016年11月25日脱稿 土屋一樹)
本文の注2017年1月21日、トルコ大国民議会において憲法改正案が340議席の賛成により可決した。そして、憲法改正の是非を問う国民投票が4月16日に行われることが決定し、ここで過半数の賛成があれば、正式に憲法改正の運びとなる。現在の憲法は、1982年11月に制定されたものだが、EU加盟との関連などで、2000年代に入りたびたび修正されてきた13。また、2010年9月12日には憲法改正の国民投票が行われ、26の条約が改正されている。その中でも、今回の憲法改正に向けた取り組みが大いに注目される理由は、18項目における改正の中に大統領が国家元首としてだけではなく、行政の長も兼ねるとする第104条の改正が含まれているからである。
大統領が国家元首と行政の長を兼ねるという実権的な大統領制については、2014年8月に行われたトルコで初めての国民の直接投票による大統領選挙でレジェップ・タイイップ・エルドアンが勝利した後、エルドアン自身がたびたび言及していた。しかし、他党は実権的大統領制に強く反対し、国民も懐疑的な姿勢を見せてきた。2015年6月の総選挙でエルドアンの出身政党である公正発展党(Adalet ve Kalkınma Partisi)は2002年11月の選挙以降維持してきた単独与党の座を一時的に失ったが(同年11月の総選挙で再び単独与党となる)、その原因の1つがエルドアンによる大統領制への度重なる言及だと指摘された。
それでは2015年6月からわずか1年半しか経っていないにもかかわらず、どうして大統領制は議会を通過するまでに正当性を高めたのだろうか。その大きな要因の1つは、2016年7月15日のクーデタ未遂事件であった。この国家転覆の危機をエルドアン大統領のリーダーシップの下で回避したことで、国民のエルドアン大統領への支持および信頼が強まった。しかし、国民の支持が多いだけでは議会で大統領制への移行を含む憲法改正案が通過することは難しい。憲法改正に関しては、大国民議会の全550議席中367議席の賛成があれば議会を通過し、大統領が承認するだけで改正となる。また330議席の賛成があれば、議会通過後、国民投票でその是非を問うことが可能である。公正発展党は316議席を有しているが、それだけでは330議席には達しない。それではどうして330議席以上(340議席)を確保することができたのか。その理由は、大国民議会で40議席を有する民族主義者行動党(Milliyetçi Hareket Partisi)が公正発展党支持に回ったためである。本稿では、民族主義者行動党について概観したうえで、なぜ同党が公正発展党の憲法改正案を支持するようになったのかについて検討する。
民族主義者行動党とは民族主義者行動党はトルコで最も影響力のあるナショナリスト政党である。ヨーロッパのナショナリスト政党は排外主義をその特徴とするが、民族主義者行動党もトルコ国内では独立あるいは自治を掲げるクルド人勢力を敵視している。ただし、ヨーロッパのナショナリスト政党がその出自を重視するのに対し、民族主義者行動党は多様な民族が入り混じるトルコの実情を踏まえ、出自よりも「トルコ人」というアイデンティティーに重きを置く。
民族主義者行動党の起源は1958年に創設された共和農民党にあるが、特に1965年に元軍人であるアルパスラン・トゥルケシュ14が入党してから存在感を高めた。共和農民党は1969年に民族主義者行動党となり、トゥルケシュが初代党首に就任した。1970年代には2度、連立政権に加わり、首相補佐官を経験した。1970年代、世界の他の地域同様、トルコでも右派と左派の抗争が激化した。民族主義者行動党は右派陣営の後ろ盾として抗争を激化させたとし、1980年の9月12日に軍部が起こしたクーデタで他の既存の政党と同様に解党させられた。その後、1983年に保守党として再始動し、1985年に民族主義者労働党、そして92年に元の民族主義者行動党と党名を変更した。
トゥルケシュはカリスマ的な指導者であったが、彼は選挙で成功を収めることはできなかった。1980年9月12日クーデタ前で最も高い得票率を記録したのは1977年総選挙の6.42%であった。1982年憲法では、少数政党が乱立するのを防ぐため、得票率が10%以下の政党は議席を獲得できない10%足切り条項が導入された。これは民族主義者行動党にとって痛手であった。トゥルケシュの指導の下では、福祉党と選挙協力した91年総選挙に16.9%の得票を得た以外は10%の壁をなかなか破ることができなかった。契機となったのは、皮肉にも1997年にカリスマ的指導者であったトゥルケシュが死去したことであった。トゥルケシュ後、新たに党の指導者となったのが、現党首のデヴレット・バフチェリである。元大学教授で経済を専門とするバフチェリの党首への選出は、民族主義者行動党の中道化、穏健化を意味した。バフチェリ体制下で初の選挙となった1999年総選挙で、民族主義者行動党は約18%の得票率を獲得し、第二政党へと躍進し、連立与党となった。その後、公正発展党が躍進した2002年の選挙では8%の得票率で議席獲得を逃がしたが、2007年、2011年、2015年の2度の総選挙ではいずれも議席を獲得している。カリスマ性はトゥルケシュに劣るが、党運営に関してはバフチェリの方が優秀だと結論づけられる15。
党内結束の乱れと7月15日クーデタ未遂2015年6月の選挙後から、民族主義者行動党の結束は乱れ始めた。同選挙では単独与党が出ず、第一党となった公正発展党のアフメット・ダーヴトオール首相(当時)が各政党に11月の再選挙までの暫定内閣の立ち上げに協力を要請した。バフチェリはこの要請を断ったが、トゥルケシュの長男で民族主義者行動党の有力者であったトゥールル・トゥルケシュ16はバフチェリの意向に反し、この要請を個人的に受諾した。この行動が造反であるとし、トゥルケシュは同年9月5日に民族主義者行動党を離党させられ、その後、11月の再選挙に公正発展党の候補として出馬し、現在は首相補佐官を務めている17。さらに11月の再選挙で民族主義者行動党は、6月の選挙の際には16.3%であった得票率が11.9%まで下落し、獲得議席数は得票率では下回るクルド系の人民民主党(Halkların Demokratik Partisi)の59議席よりも少ない40議席に終わった。この結果、バフチェリの指導体制に党内から懐疑的な声が上がり始めた。特に正道党(Doğru Yol Partisi)の議員として90年代に内務大臣を務めたメラル・アクシェネル18は、11月の再選挙で候補に含まれなかったことを不服とし、バフチェリを批判し、新たな党首候補に名乗りを上げた19。しかし、結果としてアクシェネルの主張は退けられ、アクシェネルは2016年9月に離党宣告を受け、12月に正式に離党が決定した。
党内の足並みの乱れに加えて、7月15日クーデタ未遂が民族主義者行動党に打撃を与えた。7月15日クーデタ未遂後、エルドアン大統領と公正発展党を中心に、トルコの一体性が強調されトルコ・ナショナリズムが高揚した。公正発展党はイスラームを重要視する、親イスラーム政党としての側面が強調されがちだが、トルコ・ナショナリズムを重視する中道右派政党でもある。クーデタ未遂後、公正発展党は後者のトルコ・ナショナリズムに力を入れ、同様の主張を展開する民族主義者行動党の支持者たちの取り込みに成功したと言われている20。公正発展党が2015年7月にクルディスタン労働者党(PKK)との停戦交渉を打ち切り、PKKのテロ行為には妥協しない姿勢を採り続けたことも民族主義者行動党の支持者たちを引き付けるうえでプラスに働いた。
バフチェリの方針転換このように、党内の足並みの乱れと7月15日クーデタ未遂で求心力が低下したバフチェリは賭けにでる。これまで頑なに反対してきた実権的大統領制への移行に理解を示し、公正発展党と協調していくことを明確にしたのである21。2016年11月に憲法改正を前向きに支持していくことを発表し、12月10日に公正発展党と民族主義者行動党は21項目の憲法改正を大国民議会で審議することを要請した22。そして前述したように2017年1月21日に18項目における憲法改正案が大国民議会で可決された23。仮に4月16日の国民投票で憲法改正が正式に決定した際には新たに創設される副大統領の1人にバフチェリが就任するのではないかと予想されている。
公正発展党と民族主義者行動党の「ナショナリズム同盟」により、憲法改正案は大国民議会を通過したが、国民投票を経て憲法改正が正式に決定する可能性は五分五分と見られている。世論調査の結果も賛成が40%から60%まで割れている。また、民族主義者行動党も決して一枚岩で公正発展党に協力しているわけではない。1月には党首補佐官のアティラ・カヤが憲法改正に反対し、辞任している24。
これまでのところ、バフチェリの賭けは成功しているように見えるが、党内でも反対意見があり、求心力を完全に回復できたかは定かではない。また、公正発展党と密接な関係を築いたことで、有権者からすると公正発展党と民族主義者行動党の違いが分かりづらくなった。今後、バフチェリがどのような党運営を行い、党の存続および党内での彼自身の生き残りを図っていくのか、引き続き注視していきたい。
(2017年3月10日脱稿)
地域研究センター 今井宏平
本文の注