中東レビュー
Online ISSN : 2188-4595
ISSN-L : 2188-4595
論稿
イスラエル経済:グローバル化と「起業国家」 第Ⅰ部:ネオリベラリズムとグローバル化
清水 学
著者情報
ジャーナル フリー HTML

2017 年 4 巻 p. 42-53

詳細
Translated Abstract

With its geopolitical implications, Israel’s presence in the Middle East is conspicuous. Over the last two decades, Israel has rapidly expanded its sphere of influence to other parts of the world through economic transactions. Its dramatic development has been supported by its economic globalisation and high-tech industry. Israel currently belongs with the developed economies as a member state of the OECD, with a per-capita income of US$ 35,000, and is often referred to as a “success story” that other countries can draw lessons from for their own economic development.

Part One attempts to analyse the factors, mainly related to economic policies, which contributed to the paradigm shift in Israel’s development strategy from the Zionist socialistic ideology to the neoliberal globalising policy orientation. The turning point was the economic reform introduced in 1985, which enabled the Bank of Israel to play an independent and leading role in monetary and fiscal policies against the rampant hyperinflation at the time. However, it should be noted that the reform package was a co-product of Israel and the US administration, supported by financial assistance attached to the reform. For the US, an economically stabilized Israel was an essential strategic asset against the Soviet Union. Since then, various reforms were introduced gradually, such as liberalisation of the labour market, privatisation, liberalisation of the financial market, and capital transfers. However, the voluminous favourable grant from the US was essential in absorbing balance of payment constraints and various social tensions through the transition period. Therefore, Israel’s transition to a neoliberal globalised economy was not a model that could be easily imported by other developing countries in the region.

はじめに

イスラエルは中東地域において特異な国家として存立してきた。この国は独特の民族主義思想であるシオニズムを動員力として欧州などからのユダヤ人入植者によって建設された植民国家である。地理的には中東に位置していながら米欧との文化的政治的経済的関係が重要な役割を果たしてきた。イスラエル経済は今日、軍事技術にも直結するIT・エレクトロニクス・バイオテクノロジーなど先端ニッチ産業とそれを支える新興企業が注目を集めている。そのなかで活発な起業活動を展開しているモデル国家としてのイメージを打ち出すことに成功し、経済技術分野で国際的にも独自の存在感を持つようになっている。一人当たりGDPも2015年現在34,300ドルで先進国水準に達しており、2010年には中東地域では唯一のOECD加盟国となっている。リーマンショック以降の経済成長率は3~4%程度であるが、米欧日と比較すれば満足すべき水準となっている。

このようなイスラエル経済の現状に対して、いくつかの国は学ぶべき一種の発展モデルの視点から注目している。中国はその一つである。高成長時代からやや低めの成長率時代である「新定常」経済へのソフトランディングを模索するなかで、習近平主席・李克強首相など政府・党指導部が機会あるごとに「起業」の大衆化を通じた経済活動の活発化というキャンペーンを展開しているが、そのなかでイスラエルの起業モデルに注目していることは間違いない。2016年1月には北京、9月にはテルアビブで「中国イスラエル・イノベーション・サミット」が開かれ、政府関係機関と多くの企業が参加して経験交流と企業連携の可能性を模索している。中国にイスラエル・モデルが移植できるかどうかは別として、中小企業の役割と技術革新に今後の経済発展を強く期待しているといえよう。

現在のイスラエル経済を特徴づけるキーワードを挙げるとすれば、グローバル化、活発な軍需・ニッチ型高技術志向起業ブーム、中東における周辺諸国との政治外交的関係とパレスチナ占領地問題という独自の制約条件の3点であろう。

本稿の課題はイスラエル経済の現段階の特徴と課題を明らかにすることであるが、第1部と第2部に分けて考察を加えることにする。第1部にあたる本稿では今日のグローバル化・経済自由化へのプロセスを準備した1980年代の経済発展戦略の転換とその後の経済政策の変化を検討する。第2部では具体的な産業技術発展を支えた政策と特殊な諸条件、起業メカニズムを検討することにする。地政学的諸条件については必要に応じて第1部でも第2部でも言及する。

1. 経済安定化計画前のイスラエル経済

中央銀行のイスラエル銀行(Bank of Israel:以下BOI)の有力な総裁(在職1991年‐2000年)の一人として知られるヤコブ・フレンケルは「現代イスラエル経済が始まったのは1985年である」と断言している1。1985年に導入された経済安定化計画(Economic Stabilization Plan:以下ESP)こそが、イスラエル経済を今日の高い段階に導いた決定的な転換を示すものであったという認識であり、それ以前の経済政策と質的に異なる方向に転換したとみなしているのであるが、この認識は多くの専門家によって共有されている2。ESPの理論的基礎はネオリベラリズム(新自由主義)で、従来のイスラエルの経済運営を主導してきた国家主導型開発路線とは異なる政策目標を追求するものであった。従来の政策目標は、経済成長と雇用の確保であったのに対して、ESPは物価安定を最重点課題とし、そのために財政規律の強化を強調するものであった。政策手段としては、財政政策から通貨金融政策への転換である。新政策が目指した課題は、労働市場の規制緩和、金融市場の自由化、貿易・資本移動の制限撤廃、外資の受入れなどである。

1985年に始まる転換を理解するために、それまでのイスラエル経済発展の段階的特徴をみる必要がある。これは単に回顧のためではなく、なぜ改革が必要になったかを理解することと、経済改革における「経路依存性」(path dependency)3にも目を向けることが不可避だからである。経路依存性とは、一定の時期における一連の政策決定が、過去に行われた諸政策によって影響を受けることを指す。すでに状況が変化して妥当性が失われているのにも関わらず、その制約が生きている場合は特に問題とされる。

シオニズム国家イスラエルは1948年5月に独立を達成した。その経済発展戦略を規定したものは、いうまでもなく、その置かれた客観的経済状況であるが、同時に注目されるのは建国に至る指導理念あるいはイデオロギーの役割である。指導理念やイデオロギーは時には現実の政策を規定するうえで大きな役割を果たすからである。特に植民国家であるイスラエルにおいてはそのシオニズム・イデオロギーは経済面でも重要な影響力をもった。イスラエルは1947年11月の国連総会決議を根拠にパレスチナの一角で独立を達成したが、周辺アラブ諸国との戦争、とりわけ1967年6月の第3次中東戦争でパレスチナのヨルダン川西岸とガザを占領下に置いたことはその後のイスラエル経済にも大きな影響を与えた。しかし何よりも安全保障、国家機構の整備、経済成長などは優先事項であった。

経済政策の理念は概しては社会主義あるいは労働シオニズムの色彩を色濃く帯びた開発国家の理念と重なっていた。ロシア・東欧からの移民の間ではマルクス主義の影響が残り、それが民族主義と結合した社会主義的シオニズムを生んでいた。社会主義シオニズムは当時植民地から独立を達成した国々の建設理念と共通する面も持っていた。それは国家主導型輸入代替工業化戦略であるが、同時にユダヤ人の民族国家を構築しようとするシオニズムの理念からすれば、ユダヤ人の優先的雇用機会の確保が重視されていた。その雇用問題で独立以前からパレスチナで重要な役割を果たしてきた組織として重要なのはヒスタドルート(労働総同盟:Histadrut)である。ヒスタドルートは1920年に創設されたもので一種の第3セクターと位置付けられる巨大組織である4。ヒスタドルートはほかの国に見られるような労働組合には限定されない保健サービスなど多様な機能を担ってきた。それは圧倒的多数の労働者を組織した労働組合であるが、個人農まで組合員として受け入れている点は若干異なっている。当初はアラブ人を組合員として組み入れることは想定しておらず、ユダヤ人労働者の利益を守ることが眼目であった。しかしヒスタドルートの決定的独自性は、ユダヤ人の雇用を確保増大させることを目的として自ら雇用主として機能しようとした点である。そのためハポアリム(労働)銀行に代表されるように、銀行、保険、建設、製造業を含む巨大コングロマリットという存在に成長していた。労働組合兼巨大企業グループでもあるというヒスタドルートの特異の存在はシオニズム思想との関連抜きでは理解できない。ESP以降の政策は労働政策、金融政策を含め、ヒスタドルートの役割変化を促すという課題を直視せざるを得ないものであった。

さて、今日に至るまでのイスラエル経済を見る上で、ESP導入以前を次の2段階に分けて大雑把に分けて考察することが問題点を明らかにするうえで役立つであろう。

第1段階は1950年代初頭から1970年代の前半までの期間で、高成長・低失業率・低インフレ率で示されるように順調な成果を挙げた時期である。1954年から1973年までの年平均成長率は約6%となっている。この時期の経済発展は、国内の資本調達に依存するのではなく、主として海外からの一方的に移転される資金を国家あるいはヒスタドルートなどの機構を媒介として配分する方式を通じて達成された。具体的には、各種ユダヤ基金やドイツからの賠償金(1954年以降)、1960年代末以降急増した米国の援助(贈与および借款)に支えられたものである。この時期に起きた大きな政治的変動は1967年6月戦争である。この戦争でヨルダン河西岸とガザを占領下においたことは、イスラエル経済にとっても大きな与件の変化を意味した。パレスチナ占領地はイスラエル商品にとっての専属市場となって輸出の約1割を吸収する安定した輸出市場となった。同時に、イスラエル経済への低廉な労働力の供給地として機能した。この二つの新たな要因はイスラエル経済の高成長にも寄与することとなった。

第2段階は1970年代半ばから1980年代半ばにかけての約10年間で、低成長と混乱と危機の時期であり、いわばイスラエル経済にとって「失われた10年」である。1973年10月の第4次中東戦争と石油危機、1979年のエジプトとの国交樹立、1982年6月のレバノン戦争のようにイスラエルに直接関連する地政学上の変動も起きている。特に1973年、1979年の2度にわたる石油危機、それに伴う油価の高騰は石油を輸入に依存せざるを得ないイスラエル経済にとって大きな打撃となった。この時期は世界経済における大きな構造的変動期でもあった。1971年8月に米国はドルと金の交換を廃止し、1973年には主要通貨が変動相場制に移行した。いわゆるブレトンウッズ体制の根幹であったドル為替本位制が大きく揺るがされ、世界経済は新たな不安定な状況に入った時期である。イスラエル経済を見ると、1974年から1985年の間の年平均成長率は0.3%という停滞状況にまで低下し、失業率も上昇に転じた。さらに危機意識を高めさせたのは国際収支赤字とハイパーインフレの進行であった。1974-78年の年平均インフレ率は42%であったのが、79-85年の年平均インフレ率は185%というハイパーインフレとなった。1984年末のインフレは年率で400%を超えた。インフレ要因の一つは財政赤字であり、1973-84年の対GNP比財政赤字は平均17.3%という危機的状況を見せた。注意しておかなければいけないのは当時、賃金と税金は物価指数と連動していたため、実質賃金と税収への打撃は最小限に限られていたことである。しかし同時に名目賃金の上昇はインフレを加速させる要因でもあった。これが1985年のESP導入に至る前提条件となったのである。

この時期に社会を揺るがした経済問題で注目を集めた事件として、1983年10月に起きた銀行株暴落がある。これはインフレ高進と為替レート切下げ不安を背景としたものである。当時、テルアビブ証券取引所(TASE)での株式取引総額の約半分は銀行株であったが、銀行株は一般的に着実に値上がりする株として一種の確定利付債券のようなイメージで受け止められていた。しかし、イスラエル・シェケルの大幅切下げを警戒した投資家が銀行株を売却し、それを米ドルに転換しようとしたことから暴落が始まった。TASEは急遽株式取引所を閉鎖して市場の沈静化をはかり、その再開には2週間という異例の期間がかかった。時価総額でGDPの3分の1を占めていた銀行株はあっという間にGDPの20%にまで下がったからである5。政府は市場の混乱と社会的影響力を懸念して最低限の買い支えを発表してようやく混乱は収まった。イスラエルにおける個人投資家は成人人口の半分を占めると言われ、その比率はおそらく世界一であろう。社会的不安の拡大を懸念した政府は株価安定のためにGDPの4%相当の買い支えを行う6という異例の対応策をとった。その結果として、イスラエルの主要銀行は国有化されることになった。偶々筆者は当時イスラエルに滞在中でTASE閉鎖当日、TASE関係者との面談を予定していたため、閉鎖の現場を見ることになった。テルアビブの市街では、預金を引き出してドルに換えようとする群衆が銀行に殺到する光景も目撃した。 

2. 発展戦略の転換点としての1985年の経済安定化計画

1985年に導入された経済安定化計画(ESP)は、現在に至るイスラエル経済の発展方向を規定した分水嶺になっている。前記のような低成長とハイパーインフレの並存は経済政策関係者の危機意識を強めていた。当時1970年代以降の米国を中心とする経済理論におけるケインズ主義からネオリベラリズムへの「パラダイム転換」が進行しており、この背景の一つには各地でみられたスタグフレーション(経済停滞とインフレの並存)に対する危機意識があった。ネオリベラリズムに基づく、いわゆる「ワシントン・コンセンサス」が形成される時期でもあった。ESPは何より当面のインフレ抑制を通じて経済の立て直しをはかることに向けられた。同時にESPに至る前段階においても経済自由化の初歩的試みもあったことを考慮に入れる必要があろう7

しかしESPに至るプロセスにおいて注目すべきは、米国の強い関与が重要な意味を持ったことである。米国は戦略上の要請も考慮に入れ、イスラエル経済の安定化のために積極的に関与した。つまり米国にとっては単なる外国の経済改革という意味だけではなく自国の戦略的利益をも考慮に入れた関与であった。1981年1月に発足したレーガン政権は対ソ戦略を重視し、「イスラエルを中東における米国の戦略的資産」と考え、政権が発足した年に米・イスラエル間で「戦略協力に関する了解覚書」を交換している。それは「中東地域に対するソ連の脅威を抑止するため、双方は戦略上の協力を拡大する」ことを目指したものである。1984年には両国の空軍・海軍の合同演習が開始され、1986年にイスラエルがDSI(戦略防衛構想)に参加することを認める了解覚書が交換された。

シュルツ米国務長官は1983年、「イスラエル経済の不安定性は中東における米国の地政学的利益を脅かす問題」としてとらえ、イスラエル経済の改革のための4名で構成される特別諮問チームを結成した8。特別諮問チームの議長はニクソン・フォード政権で経済諮問委員会議長を務めたハーバート・ステインで、他のメンバーのなかには後のBOI総裁(2005年‐2013年)を務めることになるスタンレー・フィッシャー9がいた。フィッシャーは本稿執筆現在、米国連邦準備理事会(FRB)副議長のポストにある。フィッシャーは米イスラエルの二重国籍を保有しているが、特別顧問チームでは米国の立場を代表してイスラエル側に改革を迫った。同時に過渡期の経済困難を支えるため米国は16億5000万ドルの特別援助を用意し、改革実施を条件として供与する方針を示した。ここに米国側の強い政治的意志を見ることができる。注目すべきことは第1に、シュルツ国務長官自身が経済学者であるが、特別顧問チーム全員が自分と見解を共有するシカゴ学派の新自由主義者で固められていたことである。第2に、シュルツ国務長官は単に改革メニューをイスラエル側に呈示して客観的に検討することを求めただけではなく、「安定化計画」をイスラエルに押し付けようとする政治的意図が背後にあったことである。

ESPが目指した政策的主柱はBOI(中央銀行)の地位と権限を大幅に強化することにあり、独立性を強化されたBOIの指導力でマクロ経済政策の転換をはかるというものであった10。1954年に設立されたBOIはそれまで財務省の事実上の影響下にあり、政府の経済政策を支援する役割を担わされていた。具体的にいえば財政赤字を自動的に埋め合せる任務を果たすことであり、自律的に通貨政策を実施し得る状況にはなかったのである。改革の目玉はBOIの独立性を保証し、政府財政の赤字埋め合せができないようにすることであった。BOIを媒介にして財政規律を確立してインフレを抑制することであったが、当然のごとく財務省側の一定の抵抗があった。しかし1985年7月末に中央銀行法改正案がイスラエル議会(クネセト)を通過したことは、財務省側の抵抗は結果としてそれほど大きくなかったことを意味する。これにはいくつかの理由が考えられる。第1に、財務省側もハイパーインフレを何とかしなければならないという危機意識を共有しており財政規律を強化する原則そのものには反対ではなかったことである。第2に、経済政策に関する理論的「パラダイム転換」が米国で進み、イスラエルの経済政策担当者にも影響を与えていたことである。第3に、米国の改革への圧力を無視できなかったことである。

ESP導入に関して注意すべき点は、経済自由化政策が突然導入されたわけではなく、その前史があり、特に「失われた10年」の時期は様々な部分的自由化も試みられたことである11。さらにESP導入に前後して、経済政策の「中立化」のイメージが広がったことである。それ以前は経済政策の受益者や負担が可視的であった。資源配分のありかたが政治的イッシューであったからである。しかしネオリベラリズムはマクロ経済の指導原理でもあり、経済的アクター(政府・企業・個人等)は同一のゲームのルールのもとで活動することが期待されるのである。経済政策の判断は専門家以外の人には簡単に扱えない技術的問題とみなされ、その権限がBOIや財務省、経済学者の知的世界に集中されることになった。経済政策が政治世界から離れて専門家の領域に移され、経済的アクターの利害に影響を受けない「知的中立的」というイメージが生じたのである12。BOIが大きな影響力を持ちえたのは、この「知的中立性」というイメージが独り歩きする環境であった。

3. ESP後の自由化とグローバル化

ESP以降現在に至るイスラエル経済の変動は、基本的にネオリベラリズムに基づく金融・労働市場などの自由化とグローバリズムの展開である。このプロセスを詳細に追うことは避けるが、必ずしも改革のペースは急進的とはいえず、漸進主義的な側面が強かった点は注視しておく必要がある。

ESPによるインフレ抑制政策の効果は直ちに現れた。1986年のインフレ率は19.6%に急落し、1986年から1991年までのインフレ率は年16-20%の間で揺れ動いた。ハイパーインフレの克服にはたしかに成功したが、それでも低インフレ率というには高すぎインフレ問題は持ち越された。しかし1987年に始まる第1次インティファーダ、1990年以降の100万人にも及ぶ大量の旧ソ連圏からの移民流入という財政支出増大要因があるなかで、インフレ率が20%程度の枠内で収まったのは経済政策としてはまずまずの成果であったとみてよい。しかし政治的与件の変化のなかで財政支出を削減できないとする財務省と物価安定化を最重視するBOIの間の緊張が続いた。1989年には財政赤字は対GNP比で6.1%にまで上昇した13。しかし同じネオリベラリズムを信奉するBOIと財務省の間で妥協が成立し、その結果1991年には財政赤字削減法が議会を通過した。注目すべきはこの法律制定で指導権を発揮したのはBOIであり、BOIの側から政府に対して明確な財政規律ルールを求めたことである。BOIが強調したのはネオリベラリズムにより忠実な論理であった。それは、第1に歳出の増大が民間資本の投資資金をクラウンディング・アウト14する弊害を生むこと、第2に、均衡財政とインフレ抑制こそが当時加速化し始めていた金融自由化の継続と深化のための前提条件だということ、第3に、移民流入に伴う雇用と住宅建設の必要性に関して、労働市場の自由化と民間部門による住宅供給で対応すべきである、というものであった。

次に注目を集めた1990年代を通じて経済改革を巡る課題となったのはインフレ・ターゲットの導入問題であった。1991年9月BOI総裁に就任したヤコブ・フレンケルは1985年のESP導入後も二ケタインフレが続いていることを問題視し、それを2‐3%にまで引き下げる必要性を主張した。BOIと政府がインフレ目標を事前に提示し、その実現に責任を持つことは、経済活動の安定性を保証し、同時に自由な国際間の資本移動と為替レート政策の一層の柔軟化の前提条件となるという理論である 。しかし財界と財務省は、低インフレ率実現のために金利引上げが必要になり、それがイスラエル通貨を強くすることに繋がるとし、輸出競争力を重視する点からも低金利政策を要求して抵抗した。しかし為替レート管理の柔軟化とセットにしたBOIのインフレ・ターゲット論が基本的に受け入れられ、1992年以降インフレ・ターゲットが実施に移されることになった。ちなみに1994年のインフレ・ターゲットは8%であった。

4. 金融市場と労働市場の自由化

労働市場と金融市場の自由化は、ネオリベラリズムの観点からすれば、イスラエル経済の効率化・グローバル化にとって必要な政策であった。2003年に両市場の一層の自由化を大胆に進めたのは、シャロン政権で財務相をつとめたネタニヤフ(現首相)であった。税率の引下げ、公務員給与の切り下げ、さらに公務員4000人の削減などである。労働市場と金融市場は通常別のものであるが、イスラエルにおいては両者が緊密に関連する側面があり、それを結び付けていたのはヒスタドルートであった。ネタニヤフの政策は直接、ヒスタドルートの弱体化をねらっていたのである。ヒスタドルートはネタニヤフ改革に激しく反発した。

(1) 金融市場の変化と現状

イスラエルの経済自由化プロセスにおいて、金融市場は大きな変動の中心となった。それ以前の政府は資本を経済主体に対して政策上の優先度に応じて直接配分する役割を担っていたが、その政府の役割は著しく減退したからである。それに対して資金・資本の配分は市場メカニズムあるいは金利機能に依存することとなった。第2に、金利・為替などの規制緩和であり、それに伴う金融市場のグローバル化である。

第3に、資本市場のグローバル化も進展している。IPO(株式公開)市場、特にIT関連企業のIPO市場は米国のナスダック(National Association of Securities Dealers Automated Quotations)が重要な意義を持つようになった。特にIT関連企業はイスラエル国内ではなく当初からナスダックでの上場を選好する傾向が強まった15。IPO市場の国際化と差別化である。外資によるイスラエル企業の買収も急速に進展し始めた。2010年代になるとイスラエル企業による海外企業の買収・合併が次第に活発化するようになった。例えばイスラエルのデレク(Delek)グループは北海油田開発に従事しているイタカ・エナジー(Ithaca Energy)社を12億4000万ドルで買収することを決めた。イタカ・エナジー社はトロントとロンドン両証券市場に上場されているが、デレク社はすでの同社株式の19.7%を保有している。

ナスダックは、1971年に全米証券業協会(NASD)が開設した米国にある世界最大の新興企業(ベンチャー)向け株式市場である。1990年代にIT産業の発展が始まり2000年代に入ると本格的な企業・ベンチャービジネスが発展するようになったが、ナスダックでのイスラエル企業のIPO(株式公開)が活発化した。ナスダックで米企業が圧倒的に多いのは当然としても、イスラエル企業のIPOの事例は、全欧州、韓国、日本、シンガポール、中国、インドのそれを合計したよりも多い。ナスダック市場は投資家にとってはイスラエル、インド、米国などのIT企業などの投資先を比較検討する場でもあり、投資家の媒介でITベンチャー企業同士の情報交換などの場も提供していたと見られる。現在、テルアビブ証券取引所(TASE)とニューヨーク株式市場、特にナスダック市場との連動性が指摘されている。

他方、イスラエルにおける資産運用のビジネス化の条件が整備され始め、2005年以降、投資マネージャーが手数料を取ることが合法化された。現在ではイスラエルを拠点とする本格的な投資資産マネージメント会社KCPSがテルアビブとニューヨーク双方を拠点として活動している。かつてイスラエルの年金ファンドあるいは生命保険ファンドはほぼ年利6%の国債を購入することによる資産運用を行ってきた。しかしイスラエル国債が償還されても自動的に再発行されなくなると、機関投資家の資産運用のスタイルは変わり、民間投資ファンドに向けられるようになった。海外の投資ファンドもイスラエル株式証券市場に注目するようになっている。金融ジャーナリストの世界にイスラエル人は少なかったが、今や国内においてもこれらの専門家に対する需要が生まれている。

第4に、信用供与における銀行の役割の低下と金利引き下げ競争などの激化が見られる。イスラエルの銀行シスエムは、商業銀行12行、外国銀行4支店、外国銀行11代表事務所で構成されている。しかし特定のグループへの集中度が顕著であり、主要5グループで資産の94%を占めている。ハポアリム、レウミ、ディスカウント、ミズラヒ・テファホート、ファースト・インターナショナルである。経済・人口規模を考慮に入れるとイスラエルの銀行は寡占的でかつ非効率な経営体質を持っていた。2015年現在、レウミ銀行株の6%を除くと、全銀行が再民営化されている16。もうひとつ注目すべきは機関投資家などのノン・バンキング部門による企業向け信用供与の増大である。2003年には企業向け融資の83%を占めていた銀行の比重は2007年末においては52%にまで低下した。諸金融機関関係の貸出競争は激化している。機関投資家との競争もあり、銀行が大規模企業への貸出金利を低く抑えざるを得ないる要因となっている。2008年のリーマンショック以降、家計、小企業向け融資の比重を高めようとしており、このリテール部分での金利引き下げ競争なども起きている。従来はマージナルな領域である僻地やパレスチナ人地域への融資先の拡大が見られる。グローバル化のなかで世界経済における低金利時代の影響をイスラエルも受けている。

第5に、2008年のリーマンショック後の政策的動きは、先進資本主義国の課題と重なる政策が追求されている。資本市場を規制する諸制度の強化、反トラスト機構、BOIの銀行監視官、資本市場・保険・貯蓄監視官の設置などである。

(2) 労働市場の変化とヒスタドルートの役割低下

ESP後、イスラエルの労働市場は大きな影響を受けた。第1に、インフレ率の急落に伴い、ヒスタドルートの政労使交渉に対する期待が低下したことである。第2に、1990年以降の集中的な旧ソ連圏からの移民流入と質的にも多様な労働力の参入は労働市場を大きく変動させたことである。その移民数は約100万人に達したが、当時人口500万弱程度であったイスラエルにとって極めて大きな移民の波であった。移民の約3分の2がユダヤ系であり、その他は関係者であったとされる。旧ソ連からの移民のなかには高学歴者も多く技術的に高い能力を有する人材も少なくなかった。第3に、IT関連労働力は労組による交渉で労働条件を決定するより、個人レベルでの交渉が多く、それがヒスタドルートの役割を低下させたことである。第4に、年金基金の運用におけるヒスタドルートの役割停止である。2003-04年に導入された年金制度改革においてヒスタドルートが保管・運営していた年金基金が国有化され、その後そのまま民営化された。それ以前はヒスタドルートが保管する年金基金は国債投資に向けられていたが、民営化された年金基金の大部分は社債や株式市場に向かうことになった。この政策はヒスタドルートの弱体化と金融資本市場の強化を関連させるものであった。第5に、金融産業コングロマリットとしてのヒスタドルートは、クール産業(Koor Industries)、ソレル・ボネ(Solel Boneh)、クパト・ホリム・クラリト(Kupat Holim Clalit)などの製造業・建設業にまたがる巨大産業グループと大銀行であるハポアリム銀行を保有経営してきたが、従来しばしば見られた補助金あるいは優先的受注のようなことは基本的になくなった。性格としては労組としての活動ではないが、間接的に労組としてのヒスタドルートの影響力に関係するものである。第6に、占領地パレスチナ人の抵抗運動は西岸・ガザの低廉な労働力依存の比率を相対的に減らし、東南アジアやアフリカなどからの合法・非合法の労働力の導入が増加したことである。

ヒスタドルートの地盤沈下はネオリベラリズムの導入の結果であるが、その結果、労働者の間の格差拡大と貧困というあらたな問題も生じている。2003年のBOI調査局の報告も貧困問題の重要性に言及している17。いうまでもないが、ネオリベラリズムはイスラエル社会の階層間関係にも大きな影響を及ぼしたのである。

5. 輸出市場構造の変化

イスラエルは自由貿易協定の締結による貿易拡大政策を早期に採用してきた。1960年代と70年代にかけてEU諸国と自由貿易協定を結んだが、1985年に米国との間で結んだ自由貿易協定は対米輸出拡大で重要な役割を果たした。1990年代になるとこれ以外の国との間で輸入割当の廃止と関税引き下げが進み、1991年には非関税障壁の撤廃とそれを関税で代替するプログラムが導入された。1997年にはトルコとの自由貿易協定が調印された。

20世紀末から21世紀にかけて顕著な動きは、中国、インド18、ロシア、トルコとの貿易が急増したことである。1997年のこれら4カ国からの輸入は10億ドルで総輸入額の3.5%であったが、2000年には22億ドルで6.3%、2008年には87億ドルで13.4%に達した。輸出で見ると、1997年は9億110万ドルで総輸出額の4%、2000年には14億ドルで4.4%、2008年は40~60億ドルで9.8%に達した。急速な伸びである。貿易相手国は欧州と米国が中心であるが、それ以外ではこれら4カ国の比重は無視できない。

小括

「失われた10年(1973年‐1984年)」の低成長・インフレに対処するため、1985年に導入された経済安定化政策は経済戦略のネオリベラリズムへの決定的な転換を示すものであった。その後の改革は漸進的なものであったが、インフレ抑制・緊縮財政主義を通じてグローバル化に向けての準備が進められた。ITバブルやリーマンショックも比較的軽微に乗り越えられた点では政策転換は経済界で肯定的に評価されている。また外資によるイスラエル企業の買収や証券投資、他方ではイスラエル資本の海外投資も進んだ。加えて、ヒスタドルートの地盤沈下のようにイスラエルの階層間の社会的変動を引き起こした。

同時に注目されるのは米国の援助と関与の大きさである。軍事的戦略的に米国との緊密な関係は知られているが、経済的な支援においても米国の支援は極めて重要であった。「失われた10年」で国際収支の赤字補填、経済安定化計画導入に際して16億ドルの支援、その後の年間30億ドルに及ぶ贈与などは、イスラエルがラテンアメリカ的対外債務危機に陥る危険性から救った。さらに注目すべきは経済政策の具体的内容に関する分野での米国の役割と影響力である。安定化計画におけるBOIの独立性とマクロ経済政策での主導権の行使を支援し、その後のBOIと財務省との意見対立では中央銀行側を支援し、ネオリベラリズムの進展を支援した。米国とイスラエル双方でネオリベラリストが主流の地位にあり意思疎通がしやすかったことも事実であるが、政策面での指導関与が見られたことも無視できない。イスラエルにおけるネオリベラリズムの導入は米国にとってもひとつの実験であり、かつ「モデル性」を持ったものであるが、同時に中東地域における「先進性」を誇示するうえからも失敗が許されない実験であったともいえよう。米国にとってのイスラエルの戦略的重要性は米国のコミットメントの深さにも反映されていた。換言すれば、中東を含む他の発展途上国にとって成功が保証されていないという意味で、容易に応用することが難しいモデルであった。

本文の注
1  Daniel Maman & Zeev Rosenhek, The Israeli Central Bank – Political economy, global logics and local actors, Routledge、2011、New York, p.1.

2  Paul Rivlin, The Israeli Economy from the Foundation of the State through the 21st Century, Cambridge University Press, 2011, p.69.

3  溝端 佐登史・堀江 典生「市場経済移行と経路依存性 —体系的レビュー—」、一橋大学『経済研究』第64巻第4号(2013年)、pp.338-352。

4  Benjamin Gidron and others, The Israel Third Sector, Between Welfare Stata and the Civil Society, Kluwer Academic/Plenum Publishers, New York, 2004, pp.83-87.

5  Haim Barkai & Nissan Liviata, The Bank of Israel, Vol.1 A Monetary History、Oxford University Press, 2007, pp.166-168.

6  Ibid.,p.167.

7  Ibid. pp.159-162.

8  Dniel Maman, op.cit.,pp.61-62.

9  Ibid., pp.63-65.

10  Haim Barkai, op.cit., pp. 203-207 Daniel Maman, op.cit pp.57-69.

11  Paul Rivlin, op.cit., pp.50-52.

12  Daniel Maman, pp.107-109.

13  Daniel Maman op.cit.p.81.

14  「クラウディング・アウト(Crowding out)」とは、政府が資金需要をまかなうために大量の国債を発行することによって、金融市場での金利が上昇し、民間の資金需要が抑制される現象を指す。

15  IBRT, Israel Yearbook & Almanac 2000, Jerusalem, p.85.

16  Bank of Israel (Supervisor of Banks, The Economics Unit), Israel’s Banking System Annual Survey 2015, p.ⅰ.

17  Bank of Israel (Research Department), The Economy :Development and Politics, Annual Report 2003, p.ⅴ.

18  Ashok Shama & Dov Bing, India-Israel relations: the evolving partnership, “ Tee Israel Affairs”, Vo.21, No.4 (2015), pp.620-632.

 
© 2017 独立行政法人日本貿易振興機構アジア経済研究所
feedback
Top