India’s status in the world has been elevated since the beginning of this century, supported by its accelerated economic growth. In order to grow from a regional to world power, the foreign policy of a nation needs to be adapted to the new circumstances. In this context, the new relations between India and the Middle East attract our attention. We must also consider the repercussions of domestic politics on the subject, particularly since the advent of the BJP government under Narendra Modi in 2014.
Ever since the BJP government came to power in 2014, India has begun to question the assumptions of political principles such as “secularism,” established under the Congress party government since the country’s independence in 1947. The new orientations could be termed as a paradigm change or a watershed in the political framework in the history of independent India. In the domestic field, the BJP government challenges the Indian “secularism” and pursues a sort of “ethnic democracy,” a concept introduced in Israel. Concerning its foreign policies India is gradually discarding its use of the traditional non-alignment principle and pursues a combination of multiple alliances taking into account the rising influence of China.
The ruling party, BJP, is the political wing of the RSS, an influential Hindu right-wing ss organization promoting Hinduism as the national identity of the Indian nation. The BJP and RSS particularly target the Muslim community in their campaign to promote “Hindutva,” a Hinduized national integration concept. The Indian “secularism” traditionally emphasizes equal consideration of every religious community in India. However, the Modi government in 2019 annulled the constitutional clauses that guaranteed special allowances to the Jammu and Kashmir state with Muslim majority and introduced an amendment to the citizenship law which excluded Muslims while considering granting citizenship to illegal refugees.
Under these circumstances, the Modi government pursues three different policies toward the Middle East. The first policy is to promote trade and investment, primarily from the viewpoint of mutual economic interests. India’s dealings with the Gulf countries and East Africa are typical cases where the Modi government employs this policy. The second policy is to enhance India’s regional dominance and neutralize any interventions from neighboring Muslim countries in India’s domestic policies concerning the Muslim citizens in the country. The third policy is a newly emerged special relationship with Israel, which has strategic, technological, and ideological implications in the reorganization of power structure in the South West Asia.
現代世界の動向を大きく規定しているのは、第1に2008年のリーマン・ショックとして表現される金融危機の深刻な傷跡が多様なかたちで噴出していることである。それは途上国における経済困難として現れていることはもちろん、欧州、日本における経済停滞、各地での排外的民族主義の台頭、一国中心主義などの形で現れている。第2に、米国トランプ大統領に代表される自国利益中心主義「アメリカ・ファースト」が他国の困難に対する無理解だけでなく、特定の政治目的を達成するために経済制裁を多用し、それを第三国にまで及ぼす形で、国際経済秩序を脅かしていることである。第3に、米中対立が長期にわたる問題として意識され、それが国際関係を規定する要因となりつつあることである。それは貿易・先端技術だけではなく、中国の「一帯一路」政策に対する対応までが戦略的に考えられるようになっている。
そのなかでインドもある意味では翻弄されているわけであるが、同国は「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」のキープレーヤーとしての役割を期待される一方、懸案の経済発展の実現にとって足踏み・停滞現象が浮上しており、構造的ボトルネック問題が浮上し始めるというジレンマのなかにある。さらに第2次モディBJP(Bharatiya Janata Party: インド人民党)政権の政治的課題の優先度がインドの「ヒンドゥー社会化(Hindutuva:ヒンドゥツヴァ)」に置かれていることは、宗派問題・カースト政治というインドにとって最もセンシティブな分野を揺り動かす意味を持ち、中東を含む近隣諸国との関係への波及効果の大きさという点で予期しえないほどの深刻な問題を内包している。
本稿は以上の視点を前提に、インドの「ヒンドゥー化」政策が主としてムスリムを強く意識したものであることに注目し、モディ―政権登場(2014年)以降におけるインドと中東地域との関係を考察しようとするものである。
モディ政権は伝統的なインド外交を踏襲している側面もあるが、同時に新たな特徴も顕在化している。第1に、同政権はインド独立以来の、特にネルーに代表される非同盟政策などの「理想主義」的な外交路線に強い反感を持っており、その清算を追求している。ネルー外交はインドの強大化・大国化への途を抑制してきたのではないか、より「実利的」外交を追求すべきではなかったかという認識である。モディ首相は従来のインド外交からすれば異例なことであるが、2016年のベネズエラ、2019年のアゼルバイジャンでの非同盟運動首脳会議に出席しなかった。外交面でネルーに対する反発心は強い。パレスチナ問題への関心は低くなっている一方、イスラエルへの急速な接近が見られる。また実際の外交行動では非同盟路線と一見類似したバランス外交が見られるが、それは一種のプラグマティズムの結果であって非同盟主義的発想に基づくものではない。
第2に、モディ政権は外交面で極めて野心的であって、南アジアの地域大国からグローバル大国への道筋をつけようとしていることである。そのためにも経済的基盤を強化しようとし、かつ軍備拡張と新鋭兵器獲得への意欲は強い。モディ首相は就任以来積極的に外遊日程をこなしている。
第3に、中国の影響力増大への対抗を意識して米日などとの軍事協力拡大を最大限に利用しようとしている。従来インドの影響圏と考えていた南アジアへの中国の進出が顕著で、その影響力が浸食されていることに対する大きな懸念を有しており、インドはその維持に神経を使っていることである。中国の「一帯一路」戦略に明示的支持を与えたことが一度もないのも、その懸念の現われである。中国がパキスタン経済回廊(CPEC)構築に力を入れていることについても特に警戒している。同時に中国の経済力と貿易関係の比重の高さ、投資期待については無視できず、対中関係で軍事的衝突や無用な摩擦を避けるべく、中国との関係を慎重に調整している。
第4に、インドは対米接近にもかかわらず、ロシアとの伝統的友好関係を地政学的理由から重視する路線は保持されている。2018年にはロシアからS-400(超長距離地対空ミサイルシステム)購入契約を行い、米国をいら立たせてもいる。2019年9月4日、ウラジオストクで開催された「東方経済フォーラム」に初めて参加したモディ首相は主賓格として扱われた。そこではロシアからインドへのLNG輸出に関する覚書にも調印している。
第5に、経済発展戦略として、インドを国際的な製造拠点(Make in India)として育成することを目指して、そのために、東南アジア・東アジアとの経済関係を強化することを目指している。しかし2019年末になると関税政策などで内向きの保護政策をとるなどやや停滞傾向を示し始めた。
第6に、エネルギー基盤を強化するため中東との関係を強化するとともに、湾岸資本の導入にも力を入れている。
(2) インド太平洋戦略の登場とインドインド外交に与えられた新たな外的枠組みは「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」構想である。これは安全保障の観点からインド洋と太平洋を一体として捕えようとする枠組みとして重視しようとする構想である。この構想は2016年8月のケニアでの第6回アフリカ開発会議(TICAD Ⅵ)で安倍首相が初めて提唱したが、その戦略を担う主体として、米国・日本・オーストラリア及びインドの4か国(QUAD)が想定された。FOIPにおいてはインドに重要なあるいはカギになる役割が期待されたことに大きな特徴がある。FOIPの戦略的位置づけは関連各国によって微妙に異なるが、インド・日本にとっては中東・東アフリカまでもが対象に組み入れた発想となっている。
当初は「構想」ではなく「戦略」であったが、台頭する中国を意識した軍事的戦略的なトーンが強いという印象を避けるために、その後「構想」に変更された。2018年5月の米国は、従来の米「太平洋軍」を「インド太平洋軍司令部」へと改称し、2019年6月1日に米国防省は「インド太平洋戦略レポート(Indo-Pacific Strategy Report)」を発表した。このプロセスでFOIPのイニシャチブは事実上米国側に移り、軍事面が重視されるようになった。トランプ政権以降、米国は中露を主要なライバルと見る戦略に転換したが、特に南シナ海での中国の進出を意識していることは否定できない。他方ASEANは自らの地域が米中の対決の場とされることを懸念し、2019年6月23日の第34回首脳会議で独自の「インド太平洋アウトルック(ASEAN Outlook on the Indo-Pacific)」を採択した。そのなかで、BREXITで揺れる英国、アジア太平洋に利権を有するフランスが別の意味でインド・太平洋地域への関心を高めている。
インドはFOIPのインド洋重視を歓迎し、最大限に自国のために利用しようとする。特に軍事面での共同演習、先進的兵器の購入の機会を重視してきた。同国は南アジアの地域大国からグローバル大国への野心を隠していない。同時に、直接国境を接する中国と無用な対立に巻き込まれないよう慎重な対応を模索している。2018年5月の武漢での非公式首脳会議を経て、モディ首相は2019年10月11日に習近平中国国家主席をインドに招待し、南インドのタミル・ナードゥ州ママラプラムで非公式首脳会談を行った。これは両国間の懸案を事実上凍結して、協力できる分野を調整することを目的としている。米中経済技術摩擦が強まるなかで中国はインドとの間に無用なトラブルをつくりたくない。インドは中国の「一帯一路」には支持を表明したことがなく一線を画す戦略については保持しているが、インドも悪化する経済状況のなかで中国との経済関係は重要である。
他方で、インドの動向がFOIPの成功にカギになるとみなす米国はその取り込みを重視しており、インド独自の動きに対して過度に厳しい対応することは自制している。モディ政権はその点を見ながら外交の自由度を保持・拡大しようとして。例えば、イランのチャーバハール港開発へのインドの支援はもともとFOIPに関係のないプロジェクトであるが、FOIPと絡めることによってトランプのイラン制裁の例外措置を獲得している。
インドと中東、特に湾岸地域とは歴史的・政治的・経済的に深い関係を保持してきた。しかし現段階では宗派政策もからんだ近隣外交とは異なり、実利に基づく外交という性格を強めている。ヒンドゥー至上主義のBJP政権との宗教上の問題は基本的に阻害要因にはなっていない。湾岸はインドにとって原油の主要な輸入先、インド製品の輸出市場、インド人出稼ぎ労働者の受け入れ先として本国送金などで協力関係の保持を必要としている。またインドは湾岸諸国の経済力、特に融資・投資能力に注目し、経済発展のためにその資金の導入には深い関心を示してきた。一部では「反テロ」のような安全保障面での具体的協力の可能性さえ出てきている。しかし、インドはイラン対サウジアラビア、あるいはUAEおよびサウジアラビア対カタール、イエメン内戦とそれへの湾岸諸国の対応など、中東湾岸域内における地域紛争からは距離を置き、実利外交を追求してきた。
第1に、石油ガスの自給ができないインドは中東湾岸諸国にエネルギー資源を依存せざるを得ない。インドの原油の輸入依存度は年々増加傾向にあり、2018/2019年度(2018年4月~19年3月)には83.7%にまで高まり、前年度より3%増大した1。インドは中国とならび中東原油の巨大な輸入国であり、中国の原油輸入量は世界第1位、インドは世界第3位の原油輸入国となっている。ちなみに第2位は米国である。国際石油市場におけるインドの比重の高まりを考慮に入れて、国際エネルギー機関(IEA)は2019年12月初旬、インドに準加盟国の地位を与えるための交渉に入ることを決めた。インドに石油備蓄の義務を課すとともに、IEAの意思決定に関与する権利を与えている。インドはOECDのメンバー国ではないので、準加盟国のための「戦略的パートナーシップ」の地位を新設、それにインドを加えることで、世界全体のエネルギー消費に占めるIEAの比重を4割まで高めることができる2。他方、中国、インドネシア、ブラジルは現段階ではIEA加盟の意向は持っていない。
ここで重要なことは、インドの原油輸入依存度が今後とも高まると見られていることである。2018-19年のインドの原油輸入先はグローバル化しているが、第1位はイラクで4661万トン、第2位はサウジアラビアで4033万トン、第3位はイランで2390万トン、第4位はUAEで1749万トンとなっているように、中東特に湾岸の比重がクウェートを入れると6割と、非常に高いままとなっている。サウジアラビアは伝統的にインドに対する最大の石油供給国であったが、2017-18年度以降はイラクにトップの座を譲った。インドにとって湾岸が特に重要であることは言うまでもない。第5位はベネズエラで1732万トンであるが、前年度はUAEよりもベネズエラの方が多かった。以下、第6位はナイジェリアで1683万トン、第7位はクウェートで1078万トン、第8位はメキシコで1028万トン、第9位は米国である。米国が対印輸出を急増させているのが注目される。
しかしインドにとって原油輸入問題において米国トランプ政権の圧力を無視できなくなっている。米国による対イラン、対ベネズエラ経済制裁の影響を直接受けることになり、次節で述べるように、2019年5月以降はイランからの輸入の停止を余儀なくされている。また新たな動きとして、米国がシェール・オイルとシェール・ガス双方の生産高において世界第1に浮上したことである。その結果、米国は原油とLNGで輸出余力を持ち輸出国で世界市場に登場しつつある。米国は中東を含む石油輸出国と競合する可能性が高まり、中東産油国が相対的に厳しい状況に置かれる可能性がある。インドにとっては原油・ガスの調達先が拡大することになる。すでに2020年2月24日に訪印したトランプ米大統領はインドへの石油・ガスの輸出促進を明言した。
第2に、インドの労働力の供給国としての役割である。インド人は湾岸諸国に大量に出稼ぎに行っており、肉体労働のみならず、専門職の分野でも活動している。短期滞在者のみならず長期の滞在者も少なくない。一部は湾岸諸国の国籍を取得している者もおり、出稼ぎ労働者の本国送金はインドの国際収支を支える重要な役割を果たしている。中東に居住するインド人出稼ぎ労働者の絶対数の掌握は難しいが800万人は下らないと見られる。出稼ぎ労働はインド全域で見られるが、湾岸諸国のなかでインドの特定の地域との関係が強い場合がある。例えば、カタールでは南インド、特にケーララ州出身者の存在が目立つように思われる。
以下、インドとの関係が深い中東のうち、それぞれの特徴を有する3か国を取り上げて、当面の課題を見ておきたい。
(1) インド・イラン関係とチャーバハール港開発インドとイランの関係は伝統的に良好である。それは直接国境を接していないこと、パキスタンがインドとの関係において、またイランとの関係において異なる理由に基づく対立要因を孕んでいるために、緩やかなかたちでの共通の利害が存在するためと見られる。またインド人が自らをアーリア人の末裔と位置付ける考え方からすればイラン人の同人種的あるいは文化的共通意識が底辺に流れているかもしれない。インド・イラン関係は1979年の「イスラーム革命」によっても、また2014年にインドのヒンドゥー至上主義政権が登場しても基本的に大きな変化を受けていない。両国を結ぶものは非イデオロギー的な「国益」であり、宗教的問題によって影響を受ける関係にはなっていない。しかし、イランがインドの対ムスリム政策が一定の限界を超えると判断した場合、影響が出てくる可能性も否定できない。
しかしトランプ政権の対外政策の展開はインド・イラン関係は強い影響を与えることになった。最大の摩擦要因は対イラン経済制裁への協力を求めてイランからの原油輸入の完全停止を求める米政権の圧力である。米国はインド・太平洋戦略においてインドを事実上の同盟国に組み込もうとしつつも、原油の輸入という重要問題でトランプ大統領は「同盟国」に特別扱いを認めなかった。2019年5月23日、インドのシュリングラ駐米大使は、インドが4月の100万トンの輸入を最後にイランからの原油輸入を全面禁止したと発表した3。米国が同年4月、対イラン石油禁輸制裁の適用除外としていた措置を撤廃したことに伴い、インドは止むを得ずこれに従ったものである。駐米インド大使はイランからの原油輸入は総輸入量の約1割に相当し、輸入禁止がインドにとっても厳しい意味をもつことを認めた。さらに米国からは制裁対象国のベネズエラからの原油輸入停止まで求められた。
同時にシュリングラ駐米大使は、インドとイランは長期間にわたって文化的な結びつきがあり、広義の隣国であると述べた。イラン政府への不信感を有するトランプ大統領の対イラン観をインド政府は共有するかという記者の質問には答えなかった。4
しかし米国の対イラン制裁に例外がないわけではなく、インドがイランのチャーバハール港建設に支援することは黙認した。それはインドが中央アジア・アフガニスタンに影響力を行使するために、そのアクセスを確保することが不可欠だという条件を理解したためと見られる。チャーバハール港はイランの南東部でパキスタンと接するスィースターン・バルーチスターン州にあるイラン唯一の海洋港であり、イランの最南端の町でオマーン湾に面している。ホルムズ海峡の外側に位置していることはこの港町に独自の戦略的価値を持たせている。イランは1980年代にはチャーバハールを南東部の発展の主柱にしようとし、1993年には自由貿易産業地区が設置された。同港はパキスタンを経由せずにインドとアフガニスタン、中央アジアを直接連結する戦略的ルートとなりうるものである。同港は西部インドのムンバイ港やグジャラート州カッチ地区の良港カンドラ港との連結が容易である。インド西部は経済発展の一大中心地であり、内陸アジアの輸出市場が大々的に開かれることによるメリットが大きく、このためインドはチャーバハール港に戦略的価値を見出だし開発のための援助をしてきた。しかしそのプロセスには紆余曲折があり、対イラン経済制裁の一環として一時8500万ドルの援助を凍結したこともあった。2016年にはイラン核合意(JCPOA)を受けて対イラン制裁解除の動きが出ると、インドは同時に援助額を5億ドルに引き上げた。インドにとっては隣国パキスタンで同じくオマーン湾に臨むマクラーン地域にあるグワーダル港の開発計画が中国の大々的支援で進められるなかで、それに対抗するものとしてチャーバハール港開発が一層戦略的に重要になったということである。グワーダル開発は中国パキスタン経済回廊建設において鍵の一つとして重視されているものである。他方アフガニスタンは内陸国であり、対外貿易の圧倒的部分をパキスタンのカラチ港に依存せざるを得ないことは、大きな経済的制約条件であった。アフガニスタンとインド双方にとって物流面でパキスタンへの依存度を減らすことは重要で、イラン経由ルートの開発は選択肢を増加させる意味で戦略的にも重要である。現在、チャーバハール港からアフガニスタン国境近くのザーボルまでの鉄道敷設がインドの資金協力によって着工されようとしている。チャーバハールでは2017年12月3日には開港式が行われ、インドからの小麦が同港を経由してアフガニスタンに搬送された5。18年にはアフガニスタンからチャーバハール港を通じて7億4000万ドルの輸出が行われている。だが、これがたとえイラン制裁の例外となっているにしても、このプロジェクトに応札する企業にとっては米国の政策の動向が常になっており、参画に消極的になっているとも伝えられる。
(2) インド・サウジアラビア関係サウジアラビアにとってインドは原油の重要な輸出先であり、また「石油後」の経済発展構想である「2030年ビジョン」において、同国が対インド投資を通じて発展が見込まれるインドの経済発展の受益者になろうと考えている。サウジアラビアにとっては従来の伝統的な宗教面戦略面でのパキスタンとの関係も相変わらず重要ではあるが、「石油後」を睨んだインドの経済的利益の共通性の方が重視される傾向が強まっている。現段階のインド・サウジ関係を象徴するのは、2019年10月末のモディ首相のサウジ訪問であった。これはサルマン国王の招待によるもので、エネルギー・金融分野での協力を深めることが課題とされた。モディ首相の訪問直前の8月初旬にジャンム・カシュミール州の自治権を大幅に削減する強硬策を実施し、カシュミール州はもちろん、全インド的にムスリムの激しい反対が伝えられていた。パキスタンも激しくインドの措置に反発し、カシュミール問題の国際化を図ろうとするとともに対インド貿易を切断するという対抗措置をとっていた時期である。しかしカシュミール問題はモディ首相のサウジ訪問に影響を与えなかった。
インドとサウジアラビアの経済関係深化を象徴しているのは、サウジ・アラムコとインドの最大級財閥リライアンスとの業務資本提携である。これは2019年8月12日、サウジ・アラムコとリライアンス財閥のムケッシュ・アムバーニー(Mukesh Ambani)の間で合意されたもので、アラムコ側はリライアンス・インダストリーズの株式20%(150億ドル相当)を買入れるとともに、アムバーニーはアラムコから日量50万バレルの原油を購入することとなった。リライアンス・インダストリーズは石油精製と石油化学を抱えるインド最大の民間企業であり、同社のジャムナガル製油所は日量120万バレルの原油処理能力を有している。同社の株式時価総額は750億ドルに相当する。その筆頭株主は会長ムケッシュ・アムバーニー自身でその48%の株式を保有している。サウジ・アラムコはこの取引によって原油の大口輸出先を確保するとともに、インドの大財閥の一角に食い込んだことになる。リライアンスにとっては最大の外国資本の受け入れとなっている。今回の取引によって、両国は単なる原油の買い手・売り手という関係から、サウジがインドの石油ガスの川下部門のプロジェクトに出資することによって、戦略的パートナーシップを具体化させる第1歩となった。ちなみにリライアンス財閥はモディ首相との関係が極めて緊密であることが知られている。
(3) インド・イスラエル関係の深化インドの外交面で、従来の会議派政権とBJPモディ政権の差異を最も際出たせるものの一つは対イスラエル関係である。モディBJP政権のイスラエルへの接近である。インドは1947年11月の国連総会でのパレスチナ分割決議において反対票を投じ、翌年のイスラエルの国連加盟にも反対した歴史を持っている。それはネルーに代表される対中東外交が、アラブ民族主義への共感、民族解放運動の一環としてのパレスチナ解放運動支持のほか、アラブ世界との石油、出稼ぎ労働者などの経済的結びつきも重要だったためである。またイスラエルに対する国内のムスリムの複雑な反応や反発も気にせざるを得なかったという背景もあった。インドがイスラエルを承認したのは1950年9月であるが、イスラエル領事館が首都ニューデリーではなくムンバイに開設されたのは1953年になってからであった。さらにイスラエル大使館の開設までにはアラブの感情を刺激することを懸念して長い時間がかかり、1992年にようやくインド・イスラエル両国関係は大使館レベルに引き上げられた。しかし、インドの知識人や大衆の間ではインドの独立運動の経験から、パレスチナ解放運動に対する同情が強く、世論面でもイスラエル関係の強化には抵抗があった。マハートマ・ガンディー自身は南アフリカでシオニストの人々との交流が非常に深かったが、シオニズムそのものに対する原則的批判・反対では譲ったことがなかった。インドとPLO(パレスチナ解放機構)はすでに1974年に正式の交流を始め、1988年11月18日にインドはいち早くパレスチナ国家を承認した。
ちなみにインドには1947年の独立当時、約5万人のユダヤ人が居住していたが、ムンバイなど大都市で主として経済活動を営む「白色系」ユダヤ人のほか、南部ケーララ州のコーチンには「黒色系」ユダヤ人が居住し、その他「褐色系」ユダヤ人といわれる人々も存在していた。「黒色系」ユダヤ人は元々ユダヤ系の家庭で雇用されていた現地インド人が改宗したとされており、そのことに対して当事者たちも自認している。インドではいわゆる「ユダヤ人差別」は伝えられておらず、都市でのユダヤ系企業家はパールスィー(イラン系ゾロアスター教徒)とならび、インドで雇用を創出してくれるという意味でプラスの評価が高かったように思われる。他方で、元々イラク系ユダヤ人でインドのムンバイを拠点に活躍したサッスーン財閥は、インド資本主義の発展においても英国支配支配下のアヘンを含む対中貿易において重要な役割を果たしている。
インド独立とイスラエルの建国と重なる時期にインド系ユダヤ人の多数がイスラエルに移住した。1978年に筆者はヘブライ大学のR.カハネー教授とテルアビブとエルサレムを結ぶ幹線道路周辺のインド系モシャーブ(村)を二つほど訪ね、インタビュー調査したことがあった。彼らはケーララ州から来た「黒色系」ユダヤ人であったが、インドからイスラエルへ移住した理由について質問したのに対して、インドでのユダヤ人差別はなかったが、移住は主としてパレスチナへの宗教的な憧憬に基づくものであるという答えを寄せた。カハネー教授によれば、イスラエル社会への同化で最も難しいのはエチオピア系ユダヤ人とインド系ユダヤ人だということであった。
2017年7月初旬、モディはインドの首相として初めてイスラエルを訪問し、イスラエル側の熱烈な歓迎を受けた。モディ首相は共同声明で「イスラエル・インド関係はここ数年で著しい発展を遂げた」とし、「テロリズム、過激主義、暴力」との共同の闘いを呼びかけた。ネタニヤフ首相も両国間の協力強化を訴えた。協力分野としてIT,農業、安全保障などを挙げている。ネタニヤフ首相は2018年1月中旬6日間の長期の訪印を行い、多面的な協力分野について協議した。これはイスラエル・インド関係が新たな段階に入ったことを示すものであった。ネタニヤフはインドとの関係緊密化を重要な政治的資産と見なしており、2019年7月のクネセト(国会)の選挙運動に際してもリクード本部前の掲示で、世界の有力指導者であるトランプ米大統領、プーチン・ロシア大統領とならんでインドのモディ首相と握手している場面を掲げた。インドはイスラエルにとって最有力の兵器輸出先であり、IT,サイバー攻撃対策、農業分野を含め、実務的な協力が進展している。
ネタニヤフ首相の訪印直後の2018年2月18日、モディ首相はヨルダンでアブドラ国王と会った後、インドの首相として初めてパレスチナを訪問した。ラマッラではアッバース・パレスチナ大統領と会談し、インドはパレスチナ独立国家を支持するという立場を表明した。これはインドのイスラエル接近にもかかわらず、伝統的な外交枠組みの継続性を確認して、アラブ・ムスリム諸国との間で一定のバランスをとろうとするものであった。
(4) 東アフリカ・インド洋への視座モディ首相が中国の南アジアやインド洋への進出を意識して、印僑の進出の歴史が長い東アフリカやインド洋島嶼国への影響力を確保しようとしてきた。2015年初頭、モディ首相はインド洋の島嶼国であるセイシェル、モーリシャス、スリランカを歴訪した。インド洋で中印間の影響力競争で目立つのはモーリシャスである。モーリシャス人の68%以上がインド系であるといわれ、ヒンドゥー教徒が半数強を占めている。さらにモーリシャスは最大の対印直接投資国の地位を保持している。これはタックスヘイブンであるモーリシャスを利用したインド資本の迂回投資という側面が大きいが、両国の相互経済関係が緊密であることを示している。インドはモーリシャスの警察・沿岸防備・軍関係の分野で伝統的に深く関わってきた。そのモーリシャスが2017年12月に中国とFTA(自由貿易協定)締結のための交渉を開始し、2019年10月17日にFTA協定が正式に署名された。これは中国がアフリカ諸国と締結したFTAの最初の事例となった。中国はモーリシャスの第2の貿易相手国で、最大の輸入相手国である。モーリシャスは中印両国が経済を通じて競合的に影響力を行使している国になっている。なおモディが訪問したセイシェルではインドが警察関連で指導的役割を果たしている。
モディ政権の内外政策を検討する上で、それを突き動かしているイデオロギーを理解することが極めて重要となっている。それは同政権がイデオロギー面でのインド政治の基本的構造に挑戦しているためである。その重要性にも関わらず、従来この問題に関する議論は十分展開されておらず、特に日本においてはその欠落が顕著である。主として注目され議論されているのは経済政策と安全保障政策である。しかし与党BJP(インド人民党)とモディ政権の政策を総体的に理解するためには、そのイデオロギーと支持基盤を十分考慮に入れなければならない。
モディ政権は独立以降インドを支えてきた「世俗主義」の内実を転換する、いわゆるパラダイム転換をはかろうとするヒンドゥー主義的な宗派主義イデオロギーを基礎としている。その政治的アジェンダは単純な経済開発優先主義だけではない。その政治イデオロギーは経済発展のために望ましい条件とは別の原理に基づいている。その実現プロセスによっては、インドにおける国民統合の基盤を脅かし、特にムスリムを中心とする他の多様なエスニック集団との社会的政治的摩擦を増大させ、経済発展にとって重要な社会的安定の基礎を揺るがすおそれさえある。ちなみにインドにおけるムスリム人口について正確な数字はないが、総人口の15%程度といわれ、Pew Research Centerは2019年で約1億9500万人としており、パキスタンのムスリム人口とほぼ同程度かそれ以上と見られる。インドは世界で2番目、あるいは3番目のムスリムを抱える国である。また、シーア派人口でみると、イランに次いで世界で第2位となっている。
宗派の相違、あるいは対立に起因する社会的不安定は、ムスリムが焦点であるだけに、対外的にはパキスタンなど近隣諸国やムスリム諸国との矛盾対立を激化させる可能性を孕み、従来のインド外交を支えてきた前提条件が通用しなくなるおそれもある。その意味ではモディ政権は中東・ムスリム諸国を含むインドの対外関係にも影響する要素を孕んでいる。
第1次モディ政権においては、まだいくつかの州で牛の屠殺・牛肉食用の禁止などの法制定が行われるなどの動きがあったが、「ヒンドゥトヴァ」のイデオロギー的側面は、2019年5月の総選挙(連邦下院)で与党BJPが予想に反して圧勝したことを背景に、急速に展開され始めた。特にBJP総裁であったアミット・シャーが第2次モディ政権において内相に任命されたことは、BJPの本格的なヒンドゥー化の体制づくりと見られた。そのパラダイム転換の具体的内容は何であろうか。
まず第1に、BJP政権は従来のインド国民統合の理念を支えてきた「世俗主義」の内実を転換し、自分たちで理解するヒンドゥー的価値観をできるだけ全インド的に「普遍化」しようとすることである。それに同調できない存在として特にムスリムに対する反発が強まる可能性がある。第2に、マハートマ・ガンディーが最も重視したヒンドゥー・ムスリムの共存の理念が後景に退くことである。その代わりガンディー主義を国産品愛用・衛生重視・節約などの問題に重点ずらし、あるいは選択的に利用する方向に向けている。一方でガンディーに対する国内的国際的な高い評価は利用している。第3に、反エリート主義であり、ネルーのイメージのように英国あるいは欧州的教養を従来のエリートの問題点として評価せず否定する方向がみられる。同時に近代的合理主義への反発も伴っている。ネルー時代を否定的に評価する動きが強まり、ヒンドゥー神話が歴史評価の基準にする動きさえでてきた。
(2) 誤解されやすいインドの「世俗主義」上記のなかで最も重要なのは、インドの「世俗主義」の内実の変化である。つまりヒンドゥー化である。それを理解するには、インドの「世俗主義」がどのように形成されてきたかを知る必要がある。インドの「世俗主義」は外部からなかなか理解しにくく、多くの誤解を生んでいる。その誤解の主たる原因はインドの「世俗主義(Secularism)」を英語のSecularismの概念に直接当てはめて理解しようとするためである。
例えば広瀬公巳氏の最近の著書でインドの「世俗主義」に触れた部分がある。一般書のなかでこの問題を触れたものが少ないなかで、この問題に関心を払った点は評価できるが、残念ながら同書は致命的ともいえる間違いを犯している。「あのガンディーでさえ解決策を見出せなかった宗教対立の問題に、何とか応えようと編み出されたのが、セキュラリズム(世俗主義)という考えだ。6」としているが、これはガンディー思想およびインドの現代史についての間違った理解に基づいている。何故かと言えば、ガンディーの思想と運動を追ってみればわかるように、インド憲法で述べている「世俗主義(セキュラリズム)」はまさにガンディー思想(諸宗教の共存)そのものを別の形で表現したものにほかならないからである。インド・パキスタン分離独立を止めようとしたガンディーの努力は報われなかったが、その理念は「世俗主義」という形でインド憲法に継承されたのである。次に広瀬氏は「さまざまな宗教や文化を持つ地域が集まって成立するインドは、政経分離を国是としている。そのことを称して『インドはセキュラリズムの国』ともいう。セキュラー(英:secular)というのは、つまり非宗教であるという意味だ。特定の宗教に対し国家が支持、または介入することを禁じるもので、ヨーロッパでいうところの『政教分離』、つまり「ライシテ(仏:laïcité)」に通じる7」という。ここで「セキュラリズム」を「政教分離」、セキュラーは非宗教、さらに「特定の宗教に対し国家が支持、または介入を禁ずる」としている。しかし、インドの「世俗主義」はフランス語の「ライシテ」の枠から外れた、あるいは時に対立する概念として発展してきた。端的にいえば、インドの独特の「世俗主義」の概念は多宗教のインド社会を前に、国家が主要な宗教に平等に「関与」することによって宗教間の共存を保持するという内容を含んでいるのである。
インドにおいては特定の宗教信者は概して社会的コミュニティーとして扱われており、多くの場合「独立した個人」とその宗教との関係とはなっていない。また政治的分野においても、ムスリム連盟やBJPのように宗派的傾向が明らかな政党が存在しており、諸政党が課題に応じての連合、あるいは統一政権樹立の可能性が存在している場合、純粋な「政教分離」は困難である。状況に応じては最も「世俗的な」共産党がムスリム連盟など宗派政党と連合を組むこともある。
インドの「世俗主義」の分かりやすい事例は公休日である。ムンバイが州都であるマハーラーシュトラ州の場合を見ると、ヒンドゥー教の祭りであるホーリー、ダサラ、ディワーリーのほか、イスラームのラマダーン・イード、ムハンマドの誕生日、さらにイスラーム・シーア派のムハッラム、キリスト教の復活祭やクリスマス、ジャイナ教の教祖マハーヴィール誕生日、スィク教の教祖グル・ナーナクの誕生日、ゾロアスター教の新年、ブッダの誕生日などが公休日となっている。まさに異なる宗教を「平等に扱う」という「世俗主義」が示されている。またヒンドゥー教の聖者の銅像などの建立に政府の財政支出が行われることも、それ自体で、憲法違反とは見なされない。他の宗教の施設への補助金などでバランスをとれば「平等に」扱ったことになるのである。
しかし異なる宗教を平等に扱うといっても必ずしも容易ではない。例えば国名インドのヒンディー語表記はバーラト(Bharat)であるが、これはインドの叙事詩「マハーバーラト」からとったものである。これについてヒンドゥー教に偏ったものとして批判がないわけではない。この叙事詩はヒンドゥー教徒にとって重要な聖典でもあるためである。
(3) 独立インドでの「世俗主義」を巡る議論それではインドの「世俗主義」の概念はどのようにして形成されてきたのであろうか。独立前後のインドにおける「世俗主義」の議論の波は3つの時期に分けられる。
第1の時期は、インド・パキスタン分離独立による混乱・宗派間虐殺・難民の影響が生々しく残り、「世俗主義(Secularism)」に対する風当たりは一面強かった時期であった。その時期にもマハートマ・ガンディーはヒンドゥー・ムスリムの共存を「世俗主義」の論理で訴え続けた。1947年11月、ガンディーは全インド会議派委員会(AICC)で、「インドは過去も現在も基本的に統一された国であり、会議派の目的はこの偉大な国を全体として民主的で世俗的(secular)な国家として発展させることであった。そこでは所属する宗教に関わらず、全ての市民が完全な権利を享受し、平等に国家の保護を受けることができる。憲法制定議会はこれを憲法の基本原則として受け入れた」と述べるとともに、「会議派の基本的な信条によればインド国家はヒンドゥーと同様ムスリムにとっても自分たちの郷土だということである」と強調した8。これこそガンディーが生命をかけて主張したかったことである。ガンディーは翌1948年1月30日にヒンドゥー至上主義者のテロで暗殺されたが、ガンディーの主張した理念はインド憲法に引き継がれた。それを可能にした政治的力学の背景は重要であるが、ここでは触れられない。なお、ガンディーが「政教分離」の意味での「世俗主義」を知っていたことは明らかであるが、宗教的価値の持つ役割が比重に大きいインド社会では直接適用できないという判断に到達していたと考えることができる。ガンディーは多様な宗教とならんで欧州の多様な思想潮流についての関心も強かった。
第2の時期は、インドで「世俗主義」が新たな焦点となった1970年代半ばである。1976年に当時の首相インディラ・ガンディーは59項目にわたる第42次憲法改正案を上下院で提案した。そのなかには憲法前文の改正が含まれ、従来のインドの国是を「主権を有する民主的共和国」から「主権を有する民主的、世俗的、社会主義共和国」に代えることを提起した。その際、「世俗的(Secular)」の意味内容が国会でも議論の焦点となった。国会では多くの議員が、「世俗主義」は、「無神論や反宗教ではない」、「宗教的法(ダルマ)に無関心ではない」、「非宗教的ではない」ように理解すべきことを要求した。インディラ・ガンディー首相は、その後、インドの「世俗主義」について、西欧的理解とは異なる点に言及して、全ての宗教に対等に向き合うものであると説明している。ヒンディー語で「世俗主義」をどう表現するかも争点であったが、結局panth-nirapekshak(パント・ニラペクシャク)に落ち着いた。これは「諸宗教に対しての中立」を意味し、特定の宗教に偏るものではないという意味が付されたと考えられる。
第3の時期は2010年代半ばのBJP政権の成立以降であり、インド的「世俗主義」の内実をヒンドゥー側に引き付けて理解するか、「世俗主義」そのものを事実上変質させる動きが強まった時期である。これが現在の政治的焦点となっていることはいうまでもない。
(4) RSSとインド人民党(BJP)の相互関係政党としてのBJPを理解するには、それを支持してきた、あるいはBJP創設の母体の役割を果たしてきたRSS (Rashtriye Swayamsevak Sangh:国家奉仕隊)9を理解しなければならない。RSSはインドのヒンドゥー化を推進しようとしてきた英国植民地支配下の1920年代に結成された団体である。現段階のメンバー数は不明であるが数百万人は下らないと見られ、独立以降は政党として1951年に人民同盟(Jana Sangh:ジャナ・サング)を結成した。1977年に解党してジャナタ党(Janata Party:人民党)に合流したが、その後1980年に新党BJPを結成した。RSSの政党結成の理由は、RSSの理念を達成するには政治の世界に入る必要があるという判断からである。実際問題としてRSSのメンバーとBJPのメンバーが重なることも多い。モディ首相もアミット・シャー内相もRSSの活動を通じて頭角を現してきて、その後BJPでも有力な政治家として成長した経験を共有している。同時にRSSとBJPは実際の活動においては便宜的に役割分担も行ってきた。ジャナ・サング及びBJPは長い間、インド政治のなかでマージナルな少数派政党であった。政治勢力として存在感が認められるようになった一つの契機は1970年代半ば以降の、反政府大衆運動の一翼として参加してからである。ガンディー主義者として当時「全面的革命運動(Total Revolution)」と称する反政府運動を展開したJ.P.ナーラーヤンが運動に参加したRSSの役割を評価したことも、RSSがマージナルな存在から脱する一因となった。
RSSが公然たるヒンドゥー主義を唱えているのに対して、BJPはインド憲法に沿って「世俗主義」の枠内での活動を標榜しているが、それでも共通しているのはヒンドゥー主義的世界観あるいは価値観である。RSSとBJPの行動綱領を比較検討すると両者の区別と共通性が明らかになる。BJP政治綱領にはヒンドゥー主義という用語は現れていないが、その第2項に「その活動は古代インドの価値観から啓示を受ける」とし、第3項では「党のイデオロギーはエカートマー(完全な魂・人間)である」としている。これは文字通りヒンドゥー至上主義的な独特な人生観の一つであり、そこにイスラーム的価値観が入り込むことは難しい。同党政治綱領はイスラームを事実上排除し(つまり古代インドにはイスラームはなかったという理解)、ヒンドゥー的価値観をインド的なものと同化させて示そうとしていると見ざるを得ない。行動綱領に人生哲学が登場するのは政党という概念からすればかなり異質である。10
アミット・シャー内相が就任以来、ヒンドゥー化につながると思われる以下のような動きが見られた。第1に、ムスリムにのみ適用されていた身分法を改定して、ムスリムの離婚に関するイスラーム法を禁止して一般身分法で統一した。これはムスリム女性の解放という側面もあるが、同時にムスリム家族法の独自性を失わせる方向である。これはムスリムのアイデンティティーに深く関わる側面を持ち、インド的「世俗主義」の揺るがすことになる。第2に、2019年8月初旬にカシュミール州の独自の憲法上の地位の廃止を強行したことである。これについては後述する。第3に、11月に出されたヒンドゥー・ムスリム間の争点であったアヨーディアの破壊されたモスクの後にヒンドゥー寺院の建立計画の推進である。この問題はヒンドゥーとムスリムの対立の宗教的なシンボルのような存在であった。重要なことは、カシュミール州の地位やアヨーディアのヒンドゥー寺院の再建問題が、BJPが長い間掲げてきた懸案事項であって、同党にとって極めて優先度の高い政治課題だという点である。2019年末の最高裁の判決では小差で建立計画を認めた。インドの司法は伝統的に独立性の強さを誇ってきたが、今日司法の独立性についての議論が再度出始めている。第4に、2008年のムンバイでのテロ、インド・パキスタン分離独立時における宗派間の殺戮の記憶などが一層強調されるようになってきたことである。
BJPモディ政権が成立した2014年はインド・イスラエル関係において大きな転換点を準備する年となった。BJPの支持母体であるRSSにおいては、すでに結成当時からユダヤ人のシオニズムに対する関心が強かった。宗教と民族主義の一体化して理解したシオニズムに対する強い共感である。他方、RSSの運動のなかにはナチズムへの憧憬も混入していたが、必ずしも矛盾したものとは理解されていなかった。これはルサンチマン的心情を基礎とする民族主義とみることも可能である。BJPモディ政権とイスラエルとの関係強化は経済技術交流・兵器取引などの実利面とならんで、インド・イスラエル関係でイデオロギー的共感が存在したのはこのような背景があるためである。その点でインド・イスラエル関係はインドの他の中東諸国との関係とは異なる特殊な側面を持っている。
RSSの第2代最高指導者(サルサンチャラックと称する)でその基本的イデオロギーを「ヒンドゥトヴァ」として体系化したのはM.S.ゴルワルカル(1906~1973年)である。彼は、ヒンドゥー教徒とユダヤ人をイスラーム教徒の圧迫による被害者として描くことにより、民族的意識の共通面を描き出そうとした。ゴルワルカルは、「パレスチナはイスラームの浸透によってその文化と伝統を失った点でインドと同様である」とし、「パレスチナはアラブとなり、多くのヘブライ人が信仰、文化、言語を失い、ユダヤ民族は自然死を遂げたのである」と描いている。しかし彼によれは、「希望は失われなかった」とし、「古代からのユダヤ人がパレスチナを再建しようとしているのは、壊れた建物を再建し、死んだヘブライ民族文化を再活性化する努力である」と評価している11。
モディ首相など現在のBJP指導者に大きな思想的影響力を与えたと見られるのはBJPの前身であるジャナ・サングの指導者であったU.ディーンダヤル(1916-1968)である。彼はイスラエルに関して「実際問題として、民族性はもっと機微のある情緒的で抽象的なものである。この点に関してイスラエルの事例は世界史において最も顕著なものである。(中略)誰もイスラエルを地図上では示せなかった。しかしそれはユダヤ人の情緒的な世界のなかで見えない形で存在していた。遂に第2次大戦後、ユダヤ人は領域的基盤を獲得することに成功した」と絶賛している12。モディ首相のイスラエルへの親近感もディーンダヤルのヒンドゥー・ユダヤ双方の民族主義の共振性の影響と無関係ではあり得ない。
(2) ネタニヤフのイスラエルはインドのモデルとなるかもしインドの「世俗主義」が変質し、ヒンドゥー主義化が進むとすれば、その国家社会におけるムスリムの存在はどのように変わるであろうか。この問題に関連してイスラエルなどの社会をモデルとして構築された理論モデルである、「エスニック民主主義(Ethnic Democracy)」のコンセプトが注目されている。
「エスニック民主主義」とは、構造化された特定のエスニック集団の支配(多数派)と少数派のすべての市民に対する民主的、政治的、市民的権利を供与することを組み合わせた政治システムを指すとされる。イスラエルのハイファ大学の社会学者サミー・スムーハ(Sammy Smooha)がこれを分析ツールとしてイスラエルを念頭に研究したことで知られる。「ユダヤ人国家としてのイスラエル」が「エスニック民主主義」の有力なモデルである13。これが現実的意味をもってきたのは、2018年7月にイスラエルのクネセト(国会)で、このモデルの具体化と思われる「民族国家法」が通過し、イスラエル内外に大きな波紋を呼んだからである。この法律の特徴は、第1にユダヤ人のみが民族自決権を行使できる特有の権利を持つと規定したこと、第2にヘブライ語を「国家語」としてアラビア語より上位においたこと、第3に「民族的価値としてのユダヤ人入植地」を規定し、「国家はその建設と開発を促進すべき」とし、入植地をユダヤ民族主義のなかに積極的に位置づけたことである。これは当然アラブ側議員およびアラブ系住民(パレスチナ人)から猛反発されたが、ネタニヤフ首相は「イスラエルはユダヤ人の民族国家であると同時に、全ての市民の権利を尊重する民主主義である」と主張した。
繰り返しになるが「エスニック民主主義」は特定のエスニック・グループに優越的地位を与えるとともに、全ての市民が同一の権利を享受するという、相矛盾する統治原理を組み合わせたものである。これは、いわゆる自由民主主義とは異なるものである。それは多数決主義という「民主主義」的手続きを経た形で規定され、表面的には独裁的あるいは権威主義的な政治システムとは異なっているように見える。しかし何よりも一級市民と二級市民という異なった権利を持つ二つの社会集団を生むことになり、それが常に社会的緊張を内包する国家を生み出す危険性がある。イスラエルの「エスニック民主主義」がここで注目されるのは、インドも議会制民主主義と特定のエスニック集団の優越性を両立させようとするモデルと見えるからである。
シオニズムとヒンドゥトヴァの二つのイデオロギーの親近性に注目する双方からのイデオローグの間の意見交換と交流を試みる動きが見られる。一例を挙げると、2019年8月26日にムンバイ大学でインド・イスラエル友好協会主催による「シオニズムとヒンドゥトヴァ」と題する講演会が行われた。インド側は上院議員でBJPのイデオローグとして著名なスブラマニアム・スワミ(Subramaniam Swamy)、イスラエル側はヘブライ大学のガディタウブ(GadiTaub)教授が参加した。スワミ議員は現在文明が衝突の時代であり、シオニズムとヒンドゥトバはともに一緒になって戦わなければならないという考え方を表明している。双方の唯一の相違はヒンドゥー教が多神教であり、ユダヤ教は一神教である点であるが、一つの神が多様な現れ方をすると考えるヒンドゥー教の考え方もあり、そうすれば両者の相違は問題にならないと述べている14。いずれにしてもイデオロギー分野でのインドのBJP系とイスラエルのシオニズムの間の交流は多面的に展開されており、それがインドの将来の国家像に影響を及ぼす可能性は考慮に入れておくべきであろう。ネタニヤフのイスラエルがインドのモデルとなるかということであろう。
BJP政権はヒンドゥーイズムに優位性のある地位を与えようとするイデオロギーに立っているが、これが国内政策として遂行されるにしても、近隣諸国への外交問題と連動する構造を持っている。その点でBJP政権の国内政策は近隣外交と関連する側面がある。特に性急なヒンドゥー化政策は隣国であるパキスタン、バングラデシュなど、かつて英領インドに属していた国々との関係での摩擦を増大させるが、モディ政権はそれを折り込済みで敢えて実行に移しているといってよい。2019年5月での選挙での大勝がモディ―政権に大胆な政策をとらせる契機となった。
近隣諸国の間でインド外交の大きな懸案として残っているのは、中国との国境紛争とならんでカシュミールを巡るパキスタンとの紛争である。モディ政権はカシュミール州(正式にはジャンム・カシュミール州)に関して歴代のインド政権が触れなかった大胆な現状変更政策に着手した。それはカシュミール州の法的地位の引き下げに関する憲法改定措置である。強引さが目立ったのは、大統領令を出す直前に同州のインターネット・携帯電話・固定電話を切断し、数千といわれる政治家・活動家を予防拘禁の形で拘束あるいは自宅軟禁に処したことである。その後、本稿執筆時に至るまで、同州の一部地域ではインターネットと携帯電話の切断が継続されていると伝えられる。
8月5日、大統領令でもってインド憲法第370条と第35条Aを廃棄し、翌6日の上院での追認により最終決定となった。これらの憲法条項はジャンム・カシュミール州に対して歴史的事情を考慮して、独自の憲法制定権を含む一定の自治権を供与するとともに、州の市民権を有さない者に対して同州の土地取得に制限を課していたものである。同州はインドにおいてムスリムが圧倒的多数を占めるという点で独自の地位を占めており、「世俗国家」としてのインドを象徴する存在でもあった。憲法改定は同時に、同州からチベット系住民の多いラダク地区を分離して2つの州に分割、その上でこの二つの州を自治権の制約が容易な「連邦直轄州」のカテゴリーに引き下げるものであった。同州の法的地位の変化は、特別の自治権を有するレベルから通常の州に引き下げただけではなく、さらにもう一段階引き下げるという2段階の地位低下となったのである。これは1300万人のカシュミール人、とりわけその多数派であるムスリムにとって大きな打撃であった。モディ首相はこれにより同州が「特殊条件を利用したテロの温床」でなくなり、また外部資本の流入が進められるという意味で同州の「経済発展」にとって画期的な決断だと自賛した。しかし州外資本による土地投資も自由になることで、ヒンドゥー教徒を含む「よそ者」の流入が加速化され、ムスリム(イスラーム教徒)が多いカシュミール渓谷の宗派別人口構成に大きな変動が起きる可能性がある。
カシュミール地域はインド・パキスタン(一部は中国)との間で帰属係争中の地域であり、インド実効支配下での一方的な法的地域の変更は、隣国パキスタンの激しい反発を引き起こした。イムラン・カーン首相はインドを非難するとともに、インドとの貿易関係を切断した。また、カシュミール問題を国際化して、外国の政治的支援を求める政策を追求した。特に中国の支援を求め、10月8~9日に訪中したイムラン・カーンは習近平主席との会談で、カシュミール問題に関する中国の支持に感謝するとともに経済援助について協議した。中国は「核心的利益に関わる問題ではパキスタンを揺るぎなく支持する」という従来の立場を表明しつつも、カシュミール問題では印パ両国に「対話」の強化を求めるなど、かつてのようにパキスタン側の立場を具体的にインドに対して圧力を行使して支援する方向にはなっていない。インドとの関係を過度に悪化させたくない中国側の姿勢が反映されている。
中東イスラーム世界においてはインドのカシュミール問題および対ムスリム政策に対する対応が分かれている。サウジアラビアやUAEなどがカシュミール問題では事実上沈黙を守っている。サウジアラビアなどがインドとの経済的関係を重視し、イスラーム世界の擁護者としてパキスタンを支援するという伝統的外交路線を後退させていることを示唆している。それは、モディ政権にとって望ましい外部条件となっているとともに、パキスタンにとっては難しい外部環境となっている。
イスラーム世界でインド批判を行ったのはマレーシアとトルコである。2019年12月18日から21日までの3日間、マレーシアのイニシャチブによりクアラルンプールでムスリム多数国・サミットが開催された。そこにはトルコのエルドアン大統領、カタールのタミーム首長、イランのロウハーニー大統領らが参加した。パキスタンのイムラン・カーン首相も参加の予定であったが最後の段階で出席を取りやめた。インドネシアのジョモ大統領は個人的に招待されていたが、出席しなかった。他方、イスラーム諸国会議(IOC)の枠外での首脳会議に対してサウジアラビアにおいてマハティール・マレーシア首相はインドの市民権改定がムスリムを差別していると批判した。これに対してインドはマレーシアパームオイルからの輸入を制限する可能性を示唆して対応した。
(2) 難民問題と市民権供与問題2019年12月11日にインド連邦議会で市民権(国籍)法改正案(The Citizenship Amendment Act: 以下CAA)が通過成立した。CAAの趣旨は1955年の市民権(国籍)法を改正して、近隣三か国(アフガニスタン、バングラデシュ、パキスタン)からの不法移民に市民権を与える途を開くこととされている。具体的には2014年12月31日以前にインド領内に不法入国したヒンドゥー教、スィク教、仏教、ジャイナ教、パールスィー(ゾロアスター教)、キリスト教の各信者にインド市民権を与える途を開くもので、帰化に必要な期間を11年から5年に短縮するとしている。
しかし難民に恩恵を与えるように見えるこの改正案の最大の問題点は、その対象からムスリムが排除されていることにある。受け入れる宗派はインド起源の宗教に限定するという論理を基礎とするならば、ムスリムとならんでキリスト教徒も「異質」な存在として浮上するが、キリスト教徒は市民権供与の対象として受け入れられている。これは、「米国など西側の批判を避けるため15」という見方も伝えられているが、いずれにしても、ムスリムは拒否されキリスト教徒は受け入れ可能という論理は説明を要する。CAAは宗派主義的でインド国家の根本理念である「世俗主義」を否定するものとして多面的な批判を浴びることになった。
この改正案が連邦上下院で通過すると、東部インドのアッサーム州で学生達の抗議デモが勃発した。インド東北部では宗派に関わらなくバングラデシュ、ミャンマーなどからの人口流入に対する反発が強い。同時にアッサーム州は人口3200万人の約3分の1がムスリムでムスリムの比重は相対的に高い。よそ者排斥とムスリム差別への反発が抗議デモの背景にある。これに対して、アッサーム州とトリプラ州には治安部隊が展開され、アッサーム州の州都ガウハティでは外出禁止令を無視して数千人の学生がデモを行い、治安部隊との衝突で2人と死者が出たと伝えられる。インターネットとモバイル通信が切断された。
市民権改正に対する反発は全国の主要都市に拡大し、北部にあるインド最大のUP州やデリーでも反対運動が展開されている。デリーのシャヒーン・バーグでは2019年12月15日以降、ムスリム女性によるCAA反対の座り込みが伝えられている。ムスリムが反発するのは当然であるが、非ムスリムも「世俗主義」の原則が崩れることは、インドの民主主義の根幹を突き崩すものとして反発している。3月初旬までにケーララ、パンジャーブ、ラージャースターン、西ベンガル、テランガナの州政府がCAA撤廃を要求する決議を採択した。特定の宗派に対して異なる対応をすること自体は憲法違反ではないとする議論も当然展開されているが、CAAが不安を引き起こしたのは、インド市民権の再画定の動きと連動しているからである。それは独立直後の数十年間インドに住んだものの子孫であることを証明することを全インド人に要求して市民権を再確認する国籍登録を実施する計画(The National Register of Citizens: NRC)である。反対派は今回のCAA反対をNRC反対の前哨戦であると位置づけている。市民権の再認定の動きがインド国内のムスリムにとって、具体的にどのような結果をもたらすか明らかではないが、国籍の再認定を得られなかったムスリムは無国籍者とされる可能性を懸念しているのである。
この動きを周辺諸国との関連でみれば、バングラデシュ・パキスタンとの関係を緊張させるものとなっている。インドからの新たな難民の流入という可能性に強い警戒心を持っているためである。国政改正法が出されると、バングラデシュ外相は予定されていたインド訪問を取りやめて抗議の意思を示した。
BJPモディ政権は2014年に発足して以降、インドの国際的位置から期待される戦略的重要性という点から、従来以上に重視されることになった。FOIPはその典型的な事例である。しかし、売り物である「戦略的重要性」も、その基礎にある経済力と経済発展を支える社会的安定性という点で、赤信号が点滅しつつあるといっても過言ではない。それは、果たしてモディ政権が期待されているような力強い経済発展を牽引できる政治力と適切な経済政策を用意しているのだろうかという疑問とつながっている。
インド経済は一般に想定されていたより厳しい状況にあることがあきらかになっている。2019年第3四半期(7~9月)のGDP年率換算成長率が4.5%と発表されたが、6四半期連続して8%から低下してきている。構造的問題を指摘する声も小さくない。また広域自由貿易圏構想として交渉されてきたRCEP(東アジア地域包括的経済連合)から2019年11月初旬事実上撤退した巨大な対中貿易赤字約535億ドル(2018年)など競争力に問題が出ている。
このように経済指標が危機的であるときに、ヒンドゥー化政策進められている。これは政治システムのパラダイム変革につながる可能性がある。現段階では中東諸国との経済政治関係が影響を受けているように見えないが、マレーシア、トルコ、イランの政治指導者からインドの動きに警戒心を持つ発言も見られるようになっている。いずれにしてもインドが経済的にも政治的にも、また外交的にも岐路にたっていることは明らかで、そのなかでインド・中東関係を見る必要があると思われる。