2020 年 7 巻 p. 47-50
本コーナーでは、現代の中東・イスラーム諸国を知るための新しい資料を紹介していく。今回は新たな視点からこれらの地域を眺める資料を紹介する。
IT技術の発達に伴い、人文学と情報工学を接合した「デジタル・ヒューマニティーズ」(Digital Humanities、以下DH)、「デジタル人文学」「人文情報学」等と呼ばれる新たな研究分野が確立しつつある。未だその定義は曖昧なものの、この分野の研究としては、テキストや絵画のデジタル化、デジタル・アーカイブの作成、コンピューター解析を用いた史料の解析、地理情報システム(GIS:Geographic Information System)を用いた史資料や歴史地図に基づく過去の景観復元等が行われている。中東・イスラーム研究の分野では例えば、大英図書館とカタル財団の協力により大英図書館が所蔵する湾岸諸国の史料約200万点がデジタル化され、Qatar Digital Library(https://www.qdl.qa/en)として公開されている。またAccess to Mideast and Islamic Resources (AMIR)(http://amirmideast.blogspot.com/)は、2010年以来、中東・イスラーム研究におけるオープンアクセスの電子資源をフォローし、ブログとして情報を集積している。AMIRは、中東・イスラーム研究において唯一こうした電子資源に関する情報を包括的に集めたものとして本書でも評価されており、またAlphabetical List of Open Access Journals in Middle Eastern Studies (http://amirmideast.blogspot.com/2014/05/alphabetical-list-of-open-access.html) 等もあって便利である。このブログをフォローしていると、中東・イスラーム関係の電子資源が日々増大していることがよくわかる。
本書は、中東・イスラーム研究分野におけるこうしたDHの取り組みを紹介するものである。ここで取り上げられるDHの取り組みも多種多様だ。叙事詩のアラビア語テキストと英訳等を集めたデジタル・アーカイブの構築、前近代アラビア語テキストとその英訳の電子出版、膨大な史料のコンピューター解析による中世イスラーム社会の変容の考察、最新のイメージ技術を用いたコーランの電子化とそのデータセットを用いたイスラーム美術史の観点からの分析、オスマン帝国時代の新聞記事に登場する出来事と場所をGISを用いて分析し、都市と周縁地域との対立関係を浮かび上がらせる研究、伝記のデータを用いた初期イスラーム法の伝達者達の分析、パレスチナ難民の集団的な記憶をアーカイブ化するFacebookの分析、初期イスラームの歴史を再構築するためのアラビア語テキスト検索ツール作成の試みなど。
こうしたDHの研究は、テキスト解釈から距離をとり、膨大なデータをコンピューター解析等で分析する「遠読」(distant reading)により、従来の人文学の研究手法-“行間”を読むような精読-では見えてこなかった、新たな視野からの分析を可能にするという。またグローバル化の中で消滅しつつある口承や民話などの文化資源(これらは西欧の研究者が研究データとして保存している場合も多い)を保存・公開し、世界中からのアクセスを可能にすることで、西欧世界だけでなく現地での研究を推進するとともに、一面的に理解されがちなこの地域について、メディアが発信する情報とは異なる深みのある幅広い情報を提供することが期待されている。
しかし、未だ端緒についたばかりの分野ということもあり、解決すべき課題も多い。本書では、ばらばらに行われているデジタル化について、どのテキストを誰のためにデジタル化するべきかの包括的な議論の必要性や、IT技術の発展によるシステムの陳腐化への対応、研究者個人が作成したデジタル・アーカイブの維持といった問題が指摘され、それらをいかに解決し、プロジェクトを持続可能なものとするかが今後の課題とされている。また格納されるデータやメタデータの質も注視しないと、「質の悪いデータに高度に洗練されたサーチをかける」といった事態が起き、その結果が精査されることなく一人歩きする危険性もはらんでいる。そのため、解析結果を単にそのまま受け取るのではなく従来の研究手法等による考察や解釈を併せて行う必要性も喚起されている。
コンピューター解析により明らかになるものが、「既存の方法論で既に明らかにされてきたもの」(DHはよくこうした言葉で批判される)であったとしても、その試みに意味がないということではないだろう。モデルの精緻化やデータ抽出方法の透明性の確保等まだまだ課題も多いが、この分野の今後の研究動向からは目を離せない。
なお、次に紹介する資料でも登場するが、近代エジプト社会史研究の資料的宝庫として評価の高いアリー・ムバーラク『新編地誌』は、東京大学東洋文化研究所が当研究所図書館の所蔵する初版本を用いてカイロに関する部分をデジタル化し、“アリー・ムバーラク『エジプト新編地誌』データベース”(http://ricasdb.ioc.u-tokyo.ac.jp/ShinPenChiShi_Index.html)として公開している。地誌に出てくる場所や施設、人名について検索をかけることができ、日本における中東・イスラーム研究分野におけるDHの先駆けといえよう。
カイロに限らず、中東の地名は旅行者泣かせだ。似たような名前が多く紛らわしいうえに、もっぱら地図にはない“通称”で呼ばれる場所もある。例えばアル=ファラキー広場(公式名称)は、一般には旧称であるアッ=ルーク門広場と呼ばれる、といった具合だ。こうした状況を把握できるまでは、評者も地図を片手に中東の街中でずいぶん右往左往したものだ。スマホの道案内が便利な現在では、人に道を聞く必要もないかもしれないが、地図にない“別名”を把握しないと話が通じない状況はそれほど変わっていないだろう。なぜ地図とは全く違う名前で呼ばれているのか、なぜ地図上の名称を知る人が少ないのか、本書にはそんな秘密を解く鍵がある。
本書がカバーするのは現在のカイロの中心部、19世紀後半に「ナイルのパリ」を建設しようとしたイスマーイール・パシャとその大臣アリー・ムバーラク(上述の『新編地誌』の著者)によって主導された都市計画により発展した地域とされる。この地域の約600の通り、広場、橋等をとりあげ、その名前の由来、変遷について記している。著者たちは、まず実際に歩いて地名を書きとめ、それをGoogle Earthを含めて様々な地図やガイドブックと比較した。ところがその過程で現在の名称を把握するにあたりかなりの困難に直面したという。何より地名の変更があまりに頻繁で、かつ古い名前も並行して使われ続けたり、新しい名前が定着せずに消えたり、公式名称の他に通称があったりする。そのためか、標識にもいくつのも名称が刻まれていることもあるのだ。
歴史的な変遷や名称変更時期については、官報や「カイロ県街路命名委員会(The Streets Naming Committee of the Cairo Governorate)」の記録にあたったようだが、官報で地名変更が公示される以前から地図上では変更後の名称が使用されていたりするため、変更時期を特定することも難しい場合が多いという。そのため本書では「おそらく」「たぶん」といった推論が随所にみられる。例えば、「アラブの春」をはじめエジプトの重要な政治的舞台となってきた「タハリール広場」に関する項目の概略こうだ。
“タハリール広場”(pp.210-212) ※[ ]は評者
「解放広場」。①1954年以降(1981年以降少なくとも1983年までは除く):1952年革命[ナーセル率いる自由将校団が王政を倒した革命]のイデオロギーにちなんでいる。[中略]
②1981年以降少なくとも1983年まで:アンワル・アッ=サーダート広場。1981年に暗殺されたサーダート大統領を追悼して、彼の死から9日後に変更された。少なくとも1983年まではこの名称の標識があったが、名称変更の公示もないままこの名称は使用されなくなったようだ。
③1952~1954:アル=フッリーヤ広場(自由広場)。1952年革命を祝って。
④1933~1952:副王イスマーイール広場。イスマーイール・パシャに敬意を表して。[以下、1871~1933年に使われた5つの名称が簡単な由来とともに列挙されているが、ここでは省略する。]
タハリール広場、およびそれ以前の呼称が指し示す場所というのは、実は流動的で、広場でなく通りとして扱われたこともある。現在では通常、ムガンマア・ビルディングの前からエジプト博物館の南までの範囲を指す。[以下、より厳密な広場の範囲と、その一部の過去の名称の変遷等が述べられるが、ここでは省略]。
こうしている間にも、カイロの地名は目まぐるしく変わっていく。2019年のエジプト―トルコ関係の悪化では、“セリム1世通り”をはじめオスマン帝国にちなんだ学校、病院、通り等の名称変更が決定された。本書の情報もすでに書き換えが必要な状況である。
ちなみに本書のプロジェクトはまだ進行中のようで、正確な情報をもつ読者は、ぜひ本書記載のメールアドレスまで情報を寄せられたし、とのことである。本書のプロジェクトを継続して、さらに先に述べた、“アリー・ムバーラク『エジプト新編地誌』データベース”の情報なども取り込み、DHの手法を取り入れてGISとも組み合わせたりすると、かなりユニークで貴重な資料ができるのでは、と夢想するのは評者だけだろうか。
中東・イスラーム諸国に関する近年のメジャーなトピックと言えば、“女性の抑圧”、そしてその象徴としての“一夫多妻”や“夫からの一方的離婚”を思い浮かべる人も多いだろう。本書は、様々な論議の的となりある意味手垢にまみれたこのテーマについて、新たな視角からの理解を促そうとする。本書の各章やコラムでは、具体的な結婚あるいは離婚のプロセスが、臨場感溢れる筆致で描き出され、また婚活事情、ウルフィー婚(慣習に基づく結婚を意味し、行政手続きを踏んでいない宗教婚を指すことが多い)や「白い結婚」といった結婚の多様なあり様が浮き彫りにされていく。これに加えて19世紀からの結婚制度の歴史的変遷についても一章がさかれ、また東南アジアから北アフリカに至る多くの地域を取り上げることで、ややもすれば一枚岩的に捉えられがちなムスリム世界の時間的、空間的な多様性が開示される。
ここに集められているのは長年現地での経験を積み重ねてきた研究者だからこそ描き出し得る、ムスリムの生の現実だといえよう。本書が第1作目となるこのシリーズは、「イスラーム」と「ジェンダー」の二つの視角を組み合わせることで現在の諸問題を新たな枠組みで捉えなおそうとする「イスラーム・ジェンダー学」プロジェクトの成果である。その刊行の目的は、我々同様に生活や社会の問題に向き合うムスリムの実際の姿を伝えることであり、また漠然とした不安や嫌悪感に基づくイスラームに対する歪んだ見方や風評が生まれる背景を考察することだという。その意味で本書はムスリムの結婚と離婚の現実を、それらが抱える問題も含めつつ明らかにしたといえよう。惜しむらくは、サハラ以南アフリカが対象に含まれていないことである。これは日本において、サハラ以南アフリカのイスラーム研究とジェンダー研究の架橋が進んでいない現状を表すものかもしれない。
このシリーズでは、本書に続き「社会運動」「教育とエンパワーメント」「フィールド経験からの語り」「記憶と記録」といったテーマでの刊行が予定されている。続巻の刊行が待たれる。
研究推進部 高橋理枝