中東・北アフリカ(MENA)地域は、世界で最も水資源に乏しい地域である。MENA地域の人口は世界の総人口の6%に当たるが、MENA地域には地球の再生可能な淡水資源の約1%しかなく、人口の6割以上が安全な飲料水へのアクセスが極めて困難な地域で暮らしている。また、世界銀行によれば、MENA地域は気候変動に起因する水不足による経済損失が最も大きいと予測されており、その損失額は2050年に国内総生産(GDP)の6~14%に相当すると推測されている1。水不足は、MENA地域の社会経済的発展を長期にわたって脅かす深刻な問題であるが、長引く紛争や政情不安により、水不足への十分な対策が取られているとは言い難い。
本レポートでは、はじめにMENA地域の水資源と水不足の原因の整理を行う。次に、MENA地域でも特に深刻な水不足に陥っているエジプトに焦点を当て、水不足問題がエジプトの社会と経済にどのように影響を及ぼしているのかを概説する。最後に、MENA地域の最も重要な水源であるナイル川の利水協定と取水権をめぐる流域国の対立の構造について考察する。
世界資源研究所(WRI)の2019年のレポートによると、世界人口の4分の1を占める17カ国が極めて高い水ストレスに直面している。この17カ国では、利用可能な水供給量に対する総取水量が約80%にまで達しており、そのうち12カ国はMENA地域に集中している2。
MENA地域は世界で最も水に乏しい地域であるだけでなく、急速な人口増加を続けている地域でもある。世界銀行の統計によれば、2018年の地域の総人口は約4億4,900万人にのぼり、特に1960年以降、人口は増加を続けている(図1)3。MENA地域の人口のうち60%以上が水資源へのアクセスが無い、またはアクセスが非常に限られている環境で生活しており、しかもその数は人口増加に比例して増加している。
出典:世界銀行のデータを元に筆者作成。
水不足を表す国際指標によると、国や地域で一人当たりの水資源量(年間使用可能水量)が1,700立方メートルを下回ると「水ストレス」状態、1,000立方メートルを下回ると「水欠乏」状態、500立方メートル未満では「絶対的水欠如」状態とされる4。世界の年間使用可能水量の平均は一人あたり6,100立方メートルであるのに対し、MENA地域では平均850立方メートルだ。さらに、同地域の10ヶ国以上では平均500立方メートル以下である。多くの人々が水欠乏状態または絶対的水欠如状態にあり、世界の平均と比べてもMENA地域は圧倒的に水資源が少ないことが明らかである5。
またMENA地域は砂漠化の進行と海面上昇の影響もあり、水ストレス状態が悪化している。海面上昇は、特にエジプトの地中海に面したアレクサンドリアやデルタ地帯と、リビアとチュニジアからつながる沿岸部において深刻な危機をもたらしている。国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の評価報告書によれば、海面が0.5メートル上昇するとアレキサンドリアのビーチは水没し、何も対策が取られなければ洪水によってアレキサンドリアとナイルデルタ地域から8百万人が避難を余儀なくされると報告されている6。また、MENA地域は深刻な食糧危機に直面しており、飢餓と貧困が拡大している。2015年の世界経済フォーラムで、MENA地域の水不足問題は「雇用問題や政治不安よりも深刻な地域への最大の脅威」と指摘されているほどだ。
水不足の原因の一つが、人口の急増である。MENA地域は世界で人口増加率が最も高い地域である。特に過去60年から70年にわたって人口が急増している。1960年に約1億500万人だった地域人口は、2018年までに4倍の約4億5,000万人に増加した。そして2050年までには7億人に達すると予測されており、2010年から2050年の40年間に57%人口が増加するという見通しである7。人口増加にともなって水利用も急増している。
また、人口が増えることでさらに多くの食糧を確保することが必要となり、灌漑農業が拡大していることも水不足を加速させている要因の一つである。MENA地域では効率的な灌漑ができておらず、特に地域で最大の人口を抱えるエジプトでは、農地に水をためる湛水灌漑が広く行われている。このため地域で使用可能な水資源の6割から9割近くを農業用水として利用しているにも関わらず、穀物の50%以上を輸入に頼っている状態である。湾岸諸国に至っては穀物の90%以上を輸入しており、世界的な食糧価格の高騰の影響がMENA諸国の社会不安の引き金になっている8。水の効率的で生産的な活用ができていないことが地下水の過剰利用と逼迫につながり、水不足を悪化させているのである。
さらに、MENA地域に流れる河川の多くは国境をまたぎ、その数が少ないことも水不足の原因の一つと考えられる。MENA地域に流れる主要な河川は、ナイル川、チグリス・ユーフラテス川とヨルダン川である。この三つの主要河川からの水資源を流域国で有効活用することが不可欠であるが、地域的な水資源管理の原則が欠如しているのだ。水資源の利用は持続可能ではなく、また多くは非衛生的な状態で使用されており、排水の処理も適切に行われているとは言い難い9。
MENA地域の政治不安や紛争により、水資源管理は後回しにされている。長年の政情不安により効率的なガバナンス・システムも無く、問題の緊急性や重要性についての理解が浸透していない。このため、政府による有効な水不足対策も取られていない現状である。MENA地域では、水道料金が政府の補助によって安価に設定されていることが多く、水資源の貴重さや重要性が一般に過小評価されているのである。加えて、近年加速する気候変動もMENA地域の水不足に拍車をかけている。気温の上昇、降水量の減少、繰り返す干ばつにより、地表面、川や湖からの水の蒸発も増えている10。
このようにMENA地域の水不足の原因には、地域の地理的特徴、気候変動、人口増加、農業のあり方、地域的な対策と問題の喫緊性への理解の欠如、政情不安など、様々なファクターが影響を及ぼしており、地域の水ストレス状態の悪化へとつながっているのである。
本節では、MENA地域でも最も深刻な水不足問題に直面しているエジプトに焦点を当てる。
エジプトは長年にわたり、水不足と食糧問題に悩まされてきた。一人あたりの年間水使用量は、現在約600立方メートルだが、2025年までに「絶対的水欠如」レベルの500立方メートルまで減る見込みだ11。また、外部から流れてくる淡水資源を除いた再生可能な地域内水資源量(Internal renewable freshwater resource: IRWR)は、一人あたり20立方メートルしかない。エジプトの人口は前述のように急増しているため、必要な水資源量もこれに比例して増加している。エジプトの総人口の9千万人に対し、年間900億立方メートルの水が必要な計算となるが、現在エジプトの年間水資源量は600億立方メートルのみであり、全人口に対して年間で必要な水資源量の3分の1に相当する300億立方メートルの水が不足している状況である。
エジプトの年間の水資源量の大部分を占める555億立方メートルは、ナイル川から来ている。換言すればエジプトで使用されている水の約98%は、エジプトの外に水源があるのだ。ナイル川以外の水資源は、降水、鉄砲水による洪水、地下水、農業廃水や処理した家庭排水の再利用などがあるが、これらが全体に占める量はごくわずかである。エジプトの年間降水量は非常に少なく、地中海に面するアレクサンドリアで約200ミリ、カイロで約25ミリ、南部のアスワンではわずか1ミリ程度にすぎない12。世界の平均年間降水量は約880ミリ、日本の平均は年間約1,700ミリであり、これをみてもエジプトの降水量の少なさがうかがえる。また地中海と紅海の沿岸で海水の淡水化(脱塩)も行っているが、海水淡水化の過程で排出される高濃度の塩水、化学薬品、大量の二酸化炭素などによる環境負荷が非常に大きいことが問題として指摘されている。
このようにエジプトは水資源に乏しく、ナイル川の水に大きく依存していることが分かる。ナイル川の水は飲料水だけでなく、農業用水、交通、観光、発電など広く利用されており、ナイル川の最も下流に位置するエジプトがナイル川の水を最も多く利用しているのである。エジプトでは近年の急激な人口増加よって水需要が拡大し、水不足はさらに深刻になっている。またエジプトの多くの村には水道がなく、統計によれば5家庭中2つの家庭で水道がない計算だ。多くの人々は処理されていない水をそのまま利用し、生活排水や工場排水の影響を受けた非衛生な水を飲むことを余儀なくされている。このため子供の死亡原因の13%は非衛生な水を飲んだことに起因している。国連の予測では、2025年までにエジプトの利用可能水量は20%減少する見込みで、水不足の状況改善の兆しは見えていない13。
水不足はエジプトの社会・経済問題にも大きく影響している。ナイル川の水資源の管理のため、1970年にアスワンダム(Aswan High Dam)が建設され、ナイル川の氾濫の防止、灌漑用の水の確保、安定した電力確保などが期待された。また、ナセル湖と呼ばれる貯水湖ができたおかげで通年灌漑が可能になり、エジプトでも二期作が可能となった。しかしアスワンダムからの水の供給では、すでに間に合わなくなっている状況である。
また、水不足は農業生産にも大きく影響している。水不足により効率的な農業生産は不可能となり、収穫量も大きく減少する。世界銀行の報告によれば、水不足は経済活動に大きく影響し、農業、健康、収入に対する影響で、2050年までにエジプトのGDPが6%低下する可能性もあると指摘されている14。さらに、海面上昇によって、特にアレキサンドリア付近のナイル・デルタ地帯が侵食され、農業用地が大きな影響を受けるという調査報告も出ている15。収穫できる農作物が減る一方で、人口は継続して増え続けており、食糧不足と雇用の問題が深刻化している。エジプトのGDPの15%近くを占める観光業への影響も深刻である16。多くの観光客が訪れるルクソールやアスワンといった歴史的な観光地がクルーズ船やボートでアクセス出来なくなっている17。紅海に面するエジプトには有名なサンゴ礁やビーチがあるが、気候変動、人口増加と魚の乱獲によってサンゴ礁の白化現象が起き、ビーチ自体も侵食によって減っている。これらの影響で多くの人々が職を失い、移住を余儀なくされる事態となっている18。
水質の悪化も深刻である。エジプトでは廃水の処理が適切に行われておらず、家庭排水、下水、工場廃水等が処理されずに流されている。また農業廃水を再利用することで、土地の塩分濃度が高まり、農地として使えなくなってしまうという問題もある。農業用水や地下水には塩分が溶け込んでおり、灌漑した農地の表面から水が蒸発すると、土地に塩が残ってしまう。エジプトのような乾燥地では雨がほとんど降らないため、農地からの廃水を農業用水に再利用するうちに、さらに塩分濃度が高くなってしまうのである。この対策のためには水質のモニタリングが重要であるが、機材の不足によって水質の管理も困難な状況にある。
このように、水不足はエジプトの社会・経済問題に直結しており、水不足の深刻化が経済成長の減速、社会・経済の不安へとつながっているのである。
本節では、エジプトがその水資源のほぼ全量を頼るナイル川をめぐる利水協定とその変遷を概観し、ナイルの水資源がどのように利用されてきたのかを考察する。
ナイル川は世界最長の河川の一つである。全長約6,800km、流域面積は約300万平方キロメートルに及ぶ。エジプト、ルワンダ、ブルンジ、コンゴ民主共和国、タンザニア、ケニア、ウガンダ、エチオピア、エリトリア、スーダン、南スーダンの11ヶ国を流れ、流域国の総人口は4億8,700万人にもなる19。
ナイル川の支流は、大きく分類すると白ナイルと青ナイルに分かれる。白ナイルはビクトリア湖を水源とし、エジプトに到達する水の15%は白ナイルから来ている。青ナイルはエチオピアの高地から流れており、エジプトに流れてくるナイルの水の85%は青ナイルから来ている。白ナイルと青ナイルは、エジプトの南位置するスーダンの首都、ハルツームで合流している(図2)。
ナイル川の水利用は、基本的に二つの利水協定で定められている。ナイル川の水利用をめぐり、1929年にエジプトと当時スーダンを含む東アフリカの国々を植民地支配していた英国が利水協定を結んだ。この協定で、エジプトの取水権は480億立方メートル、スーダンの取水権は40億立方メートルと定められ、エジプトは「自国の取水に影響が出るような上流国の水利用を拒否する権利」を持つことになった。つまり、エジプトはスーダンのナイル川関連事業に拒否権を保持することになったのである。さらに、この利水協定により、エジプトはスーダンのナイル川の水利用を監視する権限を持つと定められた。1929年の利水協定は、エジプトと英国が締結したものであり、上流の国々は当事国に含まれていない。
1956年にスーダンが植民地支配から独立すると、3年後の1959年にエジプトとスーダンの間で新たな利水協定が結ばれた。エジプトの目論見は、アスワンダムが建設される前に1929年の協定をさらに強化しようというものだった。この協定でナイル川の年間水量は840億立法メートルと定められ、そのうち約100億立方メートルが蒸発する計算で、エジプトは555億立法メートルの取水権を、スーダンは185億立方メートルの取水権を持つと定められた。ここでも上流の国々には何の権利も与えられなかった。
このように、全流域国が公平にナイル川の水資源を共有できるよう水使用を定めた国際協定は存在していない。タンザニア、ウガンダ、ケニアのような上流国からすれば、エジプトとスーダンはナイル川の流れに一滴の水も貢献していないのにも関わらず、協定で定められている内容ではその水資源のほぼ全てを独占できることになっており、公平な協定とは言い難い。上流国は協定から除外されているため、言い換えれば、上流国のナイル川の水使用を制限する協定も存在しないことになる。しかし上流の国々は、20世紀を通じて政治不安や内戦、開発の遅れなどで、ナイル川の利水権やダムの建設を主張することができずにいた。他方で下流国のエジプトは、軍事的にも外交的にも強い影響力を有し、長年にわたり上流国のナイル川の水資源の利用を管理することが可能だったのだ。エジプトはその影響力を行使して上流国が国際通貨基金(IMF)の融資でダムを建設することを阻止し、ナイル川の水資源の大部分を自国で利用できるようにしてきたのである。
出典:筆者作成。
ナイル川の利水権をめぐり、近年対立が深まっている。2010年5月に、上流国のエチオピア、ケニア、ウガンダ、タンザニア、ルワンダの5か国が新しい利水協定を締結し、2011年にはブルンジも協定に署名した。この新協定では、流域各国が他の国に「重大な」影響を与えない範囲で自由に水を使えるものと定め、上流国の権利を主張した。この新協定によって、1929年の協定に基づくエジプトの合意なしに灌漑施設や水力発電所の建設事業が可能になったことで、ナイル川の利水権をめぐる流域国の関係に変化が生じてきている。この新協定の背景には、上流国における人口増加と近年の経済発展がある。人口増加と急速な経済発展により、上流国でもナイル川の水資源の需要が拡大しているのだ。特にエチオピアの近年の経済成長は目覚ましく、最近15年の経済成長率は二桁に近い。
エジプトは、この新協定に断固反対する立場をとっている。1929年と1959年協定を締結した当時、エジプトは地域的にも国際的にも強い影響力を保持しており、自国の水の利益を守ることができたが、現在では上流国の発展に加え、エジプトの政治的混乱により影響力が低下している。さらに深刻な水不足と食糧危機に直面している湾岸諸国が、ナイル川流域国、特にスーダンでの農業投資を拡大して影響力を強めている。エジプトからすれば、長く独占してきた水資源の権益が今、他の流域国だけでなく資金が豊富な湾岸諸国からも脅かされている状況なのである。
エチオピアは、2011年からナイル川上流で水力発電用のグランド・ルネッサンス・ダム(Grand Ethiopian Renaissance Dam)と銘打ったアフリカ最大級のダム建設事業を開始した。ナイル川上流でのダムの建設は、エジプトの安定した水資源の確保に大きく影響するため、エジプトは危機感を募らせている。グランド・ルネッサンス・ダムの建設はエジプトの水不足をさらに悪化させ、農業にも影響を及ぼす。これは食糧問題や雇用問題に直結し、都市と地方での水へのアクセスの格差が生じ、さらなる政治・社会不安の材料になりかねない。スーダンはこのダム建設には表面上「合意」という立場をとっている。スーダンも自国に流れるナイル川の水資源への影響という懸念はあるものの、エチオピアはこのダム建設は自国だけでなく他の流域国にも恩恵があると主張しており、スーダンとしては氾濫防止、灌漑用水の確保や電力供給への期待があるのだ。グランド・ルネッサンス・ダムの建設をめぐり、エチオピア、エジプト、スーダン間の閣僚級会合が複数回行われ、米国も交渉の場を提供するなど関与を明らかにしているが、具体的な合意には至っておらず、交渉は停滞したままである(2020年3月現在)。このように、水不足の状況がナイル川の水資源利用を巡って流域国間の対立や摩擦を引き起こし、気候変動と人口増加によってこの対立がさらに深刻になっているのである。
急激な人口増加による水不足の深刻化、これに追い討ちをかける気候変動、水不足による社会への影響など、ナイル川は流域国の協力関係でなく軋轢の源となっている。エジプトは、地域的・国際的な影響力の強さを頼りに、これまでナイル川の水資源を優位に活用することができていたが、他の流域国の経済発展や国際情勢の変化、エジプト国内の政治的な混乱等によって、この立場を維持できない状況になっている。エジプトは2011年に始まった反ムバーラク体制の民衆蜂起を契機に長らく混乱が続き、その後の政権は政治と経済の安定を優先しているため、水不足問題への十分な対策ができていないのが現状である。
紛争の長期化や他国の介入によってMENA地域では政情不安が拡大し、紛争と安全保障問題が国際的な注目を集めているが、水不足の深刻化とその社会・経済・政治的影響の大きさを考えると、水不足問題はもはや後回しにできない最大の緊急課題なのである。
(2020年2月15日脱稿)
ダルウィッシュ ホサム