中東レビュー
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政治経済レポート
中東和平「世紀の取り引き(Deal of the Century)」とその含意
池田 明史
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2020 年 7 巻 p. 14-19

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はじめに

「本日は歴史的な日であります。そしてかつてのもう一つの歴史的な日を想起させます。私たちは1948年5月14日を覚えています。それは、私たちの初代首相であったダビド・ベングリオンが独立を宣言し、トルーマン米大統領が世界的な指導者の中で最初にイスラエル国家を承認したその日だからです。大統領閣下、私はこれから何十年の後、おそらくは何世紀もの後にも、私たちはこの2020年1月28日という日を記憶にとどめていると信じています。この日に閣下は、私たちの安全保障にとって決定的に重要で、また私たちの伝統の中核に位置するユダヤ・サマリアの地に対するイスラエルの主権を最初に承認した世界的な指導者になられました。」

これは2020年1月28日、ドナルド・トランプ米大統領に招かれて、ホワイトハウスで行われたイスラエルのベニヤミン・ネタニヤフ首相の挨拶の一節である。トランプ政権発足以降、常に喧伝されてきたものの、一向にその内容が提示されなかったパレスチナ問題解決のためのいわゆる「世紀の取り引き(以下『取り引き』」の内容が、この場で漸く明らかとなった。もとより、パレスチナ側はもはやトランプ政権を和平の仲介者と認めておらず、「取り引き」案の開示に先立ってすでにこれを峻拒する姿勢に終始していた。トランプ政権は、2017年12月にエルサレムをイスラエルの首都として承認する旨を宣言し、翌年5月には在テルアビブ米大使館をエルサレムに移転した。その後も、2018年8月に米国務省は国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)に対する資金拠出を全面的に停止し、同年9月にはワシントンD.C.のパレスチナ解放機構(PLO)の駐米代表部の閉鎖を決定した。さらに、2019年3月、イスラエルが1967年の第三次中東戦争でシリアから奪ったゴラン高原へのイスラエル主権の適用、すなわちイスラエル領への併合を公式に認めるなど、一方的にイスラエルに傾いた政策を次々に打ち出してきたのである。トランプ政権の「取り引き」なるものが、国際社会からこれまでに提示された和平提案に比して、またクリントン、ブッシュ、オバマなど歴代アメリカ政権の和平構想に照らしても、イスラエル側に有利な内容となることは容易に想像できた。ホワイトハウスにおいて喜色満面で発せられたネタニヤフの冒頭の言辞は、そうした想像が正鵠を射ていたことを象徴している。

「世紀の取り引き」の概要

実際、英文で50頁以上にわたる大部のトランプ提案は、表面的には国際社会がこれまでパレスチナ和平プロセスの前提としてきたいわゆる「二国家解決構想」を掲げて、「将来的に」イスラエルに隣接するパレスチナ独立国家の樹立を目指すとしているものの、その具体的手順を見る限り、パレスチナ国家の実現はほぼ不可能と考えざるを得ない。なぜなら、そこには主権国家として独立するための要件が羅列されており、それらの要件が満たされたと判断された場合にのみ、国家樹立が容認されることになっているからである。言論の自由、自由選挙、思想・信条・信仰の自由、司法の独立、透明性や実効性が担保された財政金融制度等々、要するに欧米等の西側民主主義の基準に沿った統治のシステムが確立されたのちに初めて、パレスチナは国家として承認される。それもパレスチナ側がトランプ提案を受諾して試行期間が発効してから最短でも4年後で、要件が満たされたかどうかの判定はイスラエルとアメリカに委ねられることになっている。ありうべきパレスチナ国家は非武装で、ヨルダン川西岸の75%とガザ地区とを領土とする。4年間の試行期間中イスラエルは西岸に新たな入植地を建設しないが、ヨルダン川沿いの国境緩衝帯(Jordan Valley)を管轄し、西岸に既存の200余りのユダヤ人入植地は解体されることなくイスラエル領に編入(すなわち併合)され、その土地と交換される形でイスラエル南部のネゲブ砂漠の最西端に位置する辺境地区がパレスチナに引き渡される。イスラエルは「統一された」エルサレムを首都とし、パレスチナは東エルサレム郊外の寒村を首都と称することができる。パレスチナ難民のイスラエルへの帰還は認められず、象徴的にパレスチナ国家もしくは他のイスラーム圏の国にそれぞれ5万人を限度として収容される。

「アロン計画」との類似

概略以上がトランプ政権の「取り引き」の具体的内容である。ネタニヤフが強調しているように、そこで何よりも優先されているのはイスラエルの安全保障である。ヨルダン川沿いその他の戦略的要衝をはじめ、非武装国家パレスチナの領空およびサイバー空間はイスラエル側が握り、テロへの対抗を名分に西岸全域でのイスラエルの軍事行動が容認される。要するに、パレスチナ「国家」なるものの全周域を三次元的に統制し、その出入国を管理できるのである。この発想は、イスラエルが西岸を占領する契機となった第三次中東戦争直後、当時のイガル・アロン副首相が提唱したいわゆる「アロン計画」と似ているところがある。同戦争で南方のエジプトと北方のシリアを撃破し、それぞれシナイ半島とゴラン高原とを実効的な緩衝帯として獲得したイスラエルは、戦後当面の大きな脅威は東方ヨルダン正面にあるものと想定していた。ヨルダンの背後に控えるイラクを中核としたアラブ側の軍事力がヨルダン川沿いに西岸になだれ込み、在地のパレスチナ人武装勢力と合流して一気にイスラエルの最狭隘部から地中海まで進出して、イスラエル国家を南北に分断するというシナリオである。そこではヨルダンと西岸との間にイスラエルが軍事展開して双方の連絡を遮断し、アラブ側の奇襲に対する早期警戒にあたる態勢を整えることが不可欠と考えられていたのである。それでも、当時政治的には主流派であった世俗主義シオニズムを掲げる労働党連合は、獲得した西岸などの占領地返還を交渉材料としてアラブ側との和平交渉に入る途を模索していた。「アロン計画」はこうしたイスラエルの軍事的安全保障上の必要と、政治外交的な対アラブ和平工作上の要請との妥協の産物にほかならなかった。

安全保障かイデオロギーか

1994年にイスラエルがヨルダンとの間に平和条約を締結し、それが堅牢に維持されている現在、ヨルダン王国という広大な緩衝帯を政治的に手中にして、半世紀以上前の「アロン計画」が想定していたそれとはまったく異なる戦略環境に置かれたイスラエルには、なおヨルダン川沿いの領有に固執せねばならない安全保障上の合理的理由は乏しい。強いて挙げれば、ヨルダンの背後のさらに後背に位置するイランの脅威に備えるためということになろうが、イラクからシリアを抜けてレバノンまでの戦略回廊を開削しつつあるイランが、膨大な政治的軍事的コストに堪えてそうした第二戦線創出に踏み込むと考えるのは明らかに非現実的である。結局のところヨルダン川沿いであれどこであれ、イスラエル側が求める安全保障上の必要とは、「アロン計画」当時以来の国策にしたがって陸続と建設されたユダヤ人入植地の保全とイスラエル領への編入を実現するための口実であるというしかない。当初は確かに国家安全保障に資するとの論理に基づいていた屯田兵的な入植地の建設は、第三次中東戦争以降イスラエルで顕著になった宗教シオニズムの強まりとともに、戦略的な合理性よりも旧約聖書に由来する「神に与えられた『約束の地』を回復する」といったイデオロギー的使命感によって推進されるようになった。ネタニヤフが安全保障と並べてユダヤ人の「伝統の中核に位置するユダヤ・サマリアの地に対するイスラエルの主権」を呼号しているのは、そうした経緯による。

さらに、全周域を三次元的に封鎖された非武装国家パレスチナがそれでも国家として承認されるためには、欧米先進諸国並みの「よき統治(Good Governance)」を実現することが要件とされている。しかし歴史上、そうした条件付きで独立が認められるといった前例は稀有である。第二次世界大戦後の東西ドイツや日本の独立が念頭にあるのかもしれないが、それは冷戦構造の最中にそれぞれの占領支配を終わらせて主権国家として自陣営に編入するという米ソの思惑が優先された結果であって、ドイツにせよ日本にせよ「よき統治」に及第点を取ったから独立を認められたわけではない。そもそも、及第か落第かを一方的に判定するのが係争相手であるイスラエルとその支援者であることが明らかなアメリカであるというところに根本的な問題があろう。

パレスチナおよびアラブ陣営の反応

いずれにせよ、トランプ大統領の「世紀の取り引き」がパレスチナ和平プロセスの進展につながるものとならないことはほぼ確実と言える。これは、イスラエルとその後援者であるアメリカのトランプ政権との間で合意された、いわば一方の当事者からする交渉条件の提示にすぎない。パレスチナ側はこの条件が開示される以前からこれに関与することを一切拒んでおり、パレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長はトランプ大統領からの電話に出ることさえなかった。「事前に相談した」という口実を与えたくなかったからである。「世紀の取り引き」が公表された直後、アッバス議長はカイロで開催されたアラブ連盟の緊急外相級会合でこれを「完全に拒否する」旨宣言し、アラブ連盟としても「パレスチナ人の最低限の権利・要望を満たしていない」として批判し拒否する決議を採択した。対米関係の親疎やそれぞれの国内に抱えるパレスチナ系人口の規模等によって、アラブ諸国の反応には温度差があるものの、トランプ提案公表時にホワイトハウスに同席したのがバーレーン、オマーン、アラブ首長国連邦の駐米大使だけであった事実が、アラブ側のこの提案に対する評価を如実に物語っている。

「経済的平和」構想との対比

アラブ側のこうした評価は、今回全貌が明らかとなった「世紀の取り引き」に先立って、すでに2019年6月のバーレーンでの中東和平経済会合で部分的に開示されていた「取り引き」の「経済的平和」構想に対する評価と軌を一にする。トランプ提案受諾の対価としてそこで示されたパレスチナおよびその周辺地域に対する開発投資計画の内容は、総額で5百億ドル規模に上り、ガザと西岸をつなぐ連絡道路・鉄道の建設やパレスチナのWi-Fiインフラの5G化など、いずれも実現すればパレスチナ経済の底上げや産業基盤の充実に大きく貢献するであろうプロジェクトが並べられていた。しかし問題は、まさにその「実現可能性」というところにあった。それら個々のプロジェクトにはまるで新味がなく、これまで再々の「経済的平和」構想の内実を、そのままあるいは換骨奪胎して相互に脈絡の乏しい各種の開発計画を一括して新たな提案の体裁を装ったものだったからである。そしてそれらのプロジェクトがすべて絵に描いた餅に終わったのは、和平交渉の蹉跌によりパレスチナ国家樹立への政治的道筋が見えなかったためである。安定した投資環境が保証されない開発計画に資金が集まるはずもなく、加えて治安や安全保障上の脅威を理由としてイスラエル側の許認可を得られずに、過去の「経済的平和」構想はいずれも緒に就くことなく失速した。バーレーン会合には、暗礁に乗り上げたままの和平プロセスの当事者であるイスラエルおよびパレスチナの代表団の姿はなく、「仲介者」であるアメリカと、膨大な投資額の出資元として期待されたアラブ産油諸国やエジプト、ヨルダンなど和平周辺諸国の参加によって開催された。しかし政治的な和平プロセスの進展を欠いた経済的な開発計画には全く現実味がなく、アラブ諸国はアメリカの面子を立てるという理由で参集したに過ぎなかった。またパレスチナ側から見れば、「経済的平和」構想は彼らの主権国家樹立という政治的要求を経済的な見返りによって取り下げさせようとする謀略にほかならず、和平交渉と切り離して議論できる性質のものではなかったということになる。

イスラエル内政の混乱

漸く実現した「世紀の取り引き」の開示の場は、両当事者を欠きながらもそれなりにアラブ諸国の閣僚級が参集したバーレーン会合とは異なり、一方の当事者であるイスラエルの首相が列席し、アラブ諸国は3カ国の大使のみ参列となった。提案内容への期待値が低かったバーレーン会合よりも、アラブ諸国の期待値はさらに低く、これに対してイスラエルの期待値は極めて高かったということにほかならない。しかしそれは、イスラエルの期待値というよりも、ネタニヤフ政権の期待値というべきであろう。イスラエルは2020年3月2日に一年間で3度目となる総選挙を実施する。2019年4月、同年9月の両度の総選挙でいずれもクネセト(イスラエル国会)に過半数を獲得して政権を樹立するような政党間の連立工作が奏功せず、ネタニヤフ内閣を暫定政権としたまま再々選挙の実施を余儀なくされたからである。イスラエルの政治史上でこれまで単一の政党が過半数を制したことはなく、歴代の政権はいずれも連立内閣として構成されてきた。右派ブロック、左派ブロックのいずれかに中道や宗教政党が加担して、左か右かの色彩を帯びた政権という格好になることが多かったが、両勢力が拮抗し、またそれぞれのブロック内で政党間の合従連衡が不調に終わるなどした場合、右派と左派の中核政党同士が「野合」して大連立を組むという事例も、まま見られた。しかし、小連立、大連立のいずれも工作が成功せず、一年を経ずして再々選挙はもとより再選挙が実施されるような異常な展開はこれまで皆無である。

現在のイスラエルの政治勢力配置の特徴は、過去十年で左派ブロックが完全に凋落するとともに、右派ブロックの一部が中道化し、残った右派が極右派と宗教ブロックを取り込んで、この二つのブロックが拮抗する状況が創出されているところにある。そこに投影されているのは、イスラエル社会全体の右傾化にほかならない。その意味でイスラエルの政局は、かつての左右の対抗関係が全体に右に移行し、中道対右派のそれに置き換わったことになる。現在の中東和平プロセスの蹉跌も、国内でのアラブ系市民に対する風当たりの強さも、あからさまな「力への信仰」に基づいた外交姿勢も、イスラエル社会そのものの傾きの投影にほかならない。争点はしたがって内政上の権益分配にあるのであって、パレスチナ和平問題はもはや争点でさえない。さらに、こうした勢力配置を背景とするそれぞれのブロックの選挙基盤はほとんど膠着しており、選挙を繰り返しても劇的な変化は起こりようもないのである。前回9月選挙の結果が基本的に前々回4月選挙のそれと変化していない事実がそのことを如実に示している。

次期総選挙の争点

過去二回のイスラエル総選挙の最大の争点は、主要な政策論争というよりも収賄・詐欺・背任という三つの容疑で検察当局から起訴される可能性のあったネタニヤフ首相の続投の是非にあった。首相在任期間が10年を越え、ベングリオンを抜いてイスラエル政治史上最長となったネタニヤフに対して、現職首相が汚職疑惑で起訴されるという事態に立ち至ったとしても、なおその継続を支持するか否かという選択にほかならなかったのである。そしてネタニヤフは、両度の総選挙で望んだような勝利を手にすることはできず、組閣に失敗した。彼がなお暫定内閣の首班であり続けているのは、与党リクード以上の議席を獲得した最大野党「青と白」もまた、連立工作が暗礁に乗り上げ、安定多数の政権基盤を構築できなかったからにすぎない。しかも、2019年11月には検察当局が三件の容疑すべてについて正式に起訴を決定し、ネタニヤフは起訴された首相として2020年3月の総選挙を戦わなければならなくなった。イスラエルの法制度上は、公判で有罪判決を受けない限り起訴の段階で首相が辞任を強制されることはないものの、「道義的責任」に照らして公職を退くのが従来の慣行である。ところがネタニヤフは、起訴に至る一連の経緯を左派ブロック・メディア・検察を含む司法機関による「事実上のクーデター」であると決めつけ、辞職どころか徹底的に抗戦する構えを続けている。極右派・宗教政党を含めた右派ブロックには一部で離反の動きがあるものの、ネタニヤフの岩盤支持層がなお根強く、2020年1月に実施されたリクード党首選ではネタニヤフが圧勝した。しかし、3月のクネセト総選挙でネタニヤフがこれまで同様の集票力を維持できるかどうかは極めて不透明な情勢となっている。

結び:イスラエル右派との「取り引き」

総選挙がほぼ一か月後に迫ったタイミングでトランプ米大統領の「取り引き」が開示されたのは、明らかにネタニヤフの集票力の維持強化に向けて大きな側面支援を狙ったものと考えられる。これまでも前々回総選挙直前の2019年3月にゴラン高原併合を容認するなど、トランプ政権はイスラエルへの内政干渉とも受け止められかねないような形でネタニヤフの選挙基盤である右派・極右派に訴求する言動を繰り返してきている。今回も起訴で窮地に立ったネタニヤフは、「取り引き」でトランプ政権から西岸のユダヤ人入植地のイスラエルへの併合を認める言質を取った格好となり、これにより人口50万人強とみられるこれら入植地住民の票を固めることが期待できるのである。

パレスチナ側が不在で、アラブ諸国はもとよりいわゆるカルテット(和平仲介四者)の残りのメンバーであるヨーロッパ連合、ロシア、国連からも批判される「取り引き」の開示は、そもそも国際社会の支持調達を目指したものではなく、イスラエル内政の動向を見据えたトランプ政権によるネタニヤフ再選のための演出にほかならないと考えれば、その内容も公開のタイミングも平仄が合う。問題は、如何なる内容のものであれいったん公式に発表された「取り引き」は、今後の和平プロセスの在り方あるいはその欠落にさまざまな影響を及ぼさざるを得ないというところにある。トランプ=ネタニヤフ共演の「世紀の取り引き」が、「世紀の詐欺」あるいは「世紀の窃盗」と揶揄される所以である。

(2020年2月6日脱稿)

東洋英和女学院大学 池田明史

 
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