近年における世界先住民権運動の高まりとソ連崩壊後, 市場経済にさらされたロシア経済の不安定さが絡み合う中で, シベリアのトナカイ飼育文化が「危機」に瀕しているという言説が運動家・研究者から出されている。こうした言説は政治=文化運動の文脈においては, ある種のリアリティを伴いながら一定の成果を上げるのに寄与してきたことは確かなことである。一方, この「危機」の言説は, ソビエト社会主義70年の経験および現在の脱社会主義下状況を極度に単純化して批判しており, その具体的実状理解への接近を阻んでいるとさえいえる側面をもっている。そのため本稿では, そうした言説の背後の状況を, 東シベリア北部ヤクーチアの一地域社会の事例を通して探ろうとするものである。そもそも本稿が焦点をあてる地域社会とはソ連時代に全く新しく創出された。この歴史的展開を記述することで, 畜産業としてのトナカイ飼育が地域社会の基幹産業として確立される経過を提示する。というのもこれをふまえなければ現在進展する脱社会主義下すなわち市場経済化過程についてのアプローチが不可能だからである。具体的にはトナカイ飼育(職業)牧夫の親族関係と家畜所有, 所有を示すトナカイの耳印のあり方を中心に彼らの経済戦略を提示しながら, 地域社会がいかなる変容過程にあるのかを検討していきたい。