細胞内の様々な生命現象においてタンパク質はその機能を発揮し,多くの役割を果たしている.このような機能を担うタンパク質自身はリボソームと呼ばれるタンパク質・核酸の巨大分子複合体により合成されている.タンパク質の合成過程においては様々な分子が関与することが分かっているが,核酸分子であるtransfer RNA(tRNA)が果たす役割は大きい.本研究においてはtRNA分子がリボソーム内においてどのように安定化されているかを理解するために粗視化分子動力学シミュレーションを実行し,解離経路上の自由エネルギー計算を行った.その結果,tRNAはリボソーム環境に存在しているいくつかの分子により安定化されていることが分かったが,その中でもリボソームタンパク質と呼ばれる分子に着目した.リボソームタンパク質のC末端領域に存在する荷電性アミノ酸残基はtRNAの安定化に重要な役割を果たしていることが分かった.このような知見は,リボソームという生命に普遍的に存在する分子を通じて生物における分子進化の理解に寄与することも期待される.
本記事で紹介する研究は,生体内においてタンパク質の合成を行っている巨大分子系に対し粗視化分子動力学シミュレーションを用いて自由エネルギー解析を行い,構成分子の安定性に関する分子機構を理解することを目的としたものである.
リボソームは細胞においてタンパク質合成をつかさどるタンパク質・RNA分子の巨大な複合体である(図1(a)).遺伝情報が存在するDNAの配列情報がmessenger RNA(mRNA)に転写され,このmRNAを基に対応する配列を持ったタンパク質が合成される.このようなRNAからタンパク質の合成過程は翻訳と呼ばれている.リボソームにおけるタンパク質合成過程はいくつかの過程に分類され,主に開始・伸長・終結の3過程から構成される.この中で伸長過程はペプチド結合が形成されるタンパク質の合成が実際に行われている過程である.一方で,開始および終結過程はタンパク質合成の品質を高く保つことにおいて欠かせない過程である.
本研究では翻訳開始過程におけるリボソームを研究対象とした.翻訳開始過程においては,タンパク質合成の確実な開始を行うためにリボソームと開始過程特有のタンパク質から構成される翻訳開始前複合体(Preinitiation complex: PIC)が形成される[1].バクテリアにおいては,特殊なtransfer RNA(tRNA)(開始tRNAと呼ばれる)がリボソームに会合することが,タンパク質合成の開始過程において必要である[2].細胞内では多種類のtRNAが存在しているため,PICは開始tRNAを選択的に結合できることが要求される.つまりPICにおいては開始tRNAが安定して存在できなければならない.このようなことを実現する分子機構はどのようなものであるかを理解することが本研究の主軸となる.
タンパク質は細胞機能において主要な役割を果たしているため,翻訳過程は重要な過程である.このような過程を詳細に理解するため,リボソームの立体構造が明らかにされてきた[3,4].そのような研究は例えばペプチド結合の形成においてRNAが触媒として機能していることを明らかにした[3].さらに翻訳開始過程を理解するためにPICの構造も明らかにされた[5].またこのような構造学的研究からリボソーム内のtRNAはPICを構成する多数の分子と相互作用していることが示唆されている[6].一方で,分子環境における相互作用を詳細に理解するために,分子シミュレーションの方法が活用されてきた.本研究においては,どのような分子がどのような相互作用によりtRNAの安定化が実現されているかを分子シミュレーションにより明らかにしたい.しかしながらリボソームは分子シミュレーションにおいて一般的に扱われる生体分子と比較して巨大である.そのため,このような系を扱うために構造ベースの分子モデルや粗視化モデルなどが利用されてきている[7,8].
リボソームにおけるタンパク質合成過程は進化的にバクテリア・古細菌・真核生物において主要な部分が保存されている.本研究によりtRNAの安定化機構,ひいてはリボソームによるtRNAの選択機構を理解することにより,タンパク質合成過程の分子機構の進化を明らかにすることにもつながっていくと考えられる.
PICはタンパク質・RNA分子の数が20を超える複合体であり,全原子分子動力学シミュレーションを実行することは難しい.そのため本研究ではタンパク質・RNA複合体について,粗視化モデルを用いた分子動力学(Molecular dynamics: MD)シミュレーションを実行した.行ったシミュレーションの概要は以下の通りである.計算対象はバクテリアにおけるPICとした.この複合体はリボソーム小サブユニット,mRNA,開始tRNA,および開始因子IF1・IF2・IF3(開始過程における特徴的なタンパク質である)から構成されている.複合体構造はクライオ電子顕微鏡法により得られている構造を使用した[5].また実験によりモデル化されていないタンパク質構造の部分についてはMODELLER[9]によるホモロジーモデリングにより作成した.これらの分子についてMartini[10–12]により粗視化モデルを作成した(図1(b)).Martiniモデルにより粗視化されたPICは約16,000粗視化ビーズである.このように作成された粗視化PICに溶媒やイオンに対応する粗視化ビーズを加えた.溶媒等を含めた全ビーズ数は約170,000となった.
PICはtRNAの結合過程において様々な構造を形成することが示唆されている[5].PICの取りうる様々な状態について比較をするために,ここでは次の二つの状態を考える.一つ目はPICにおいて開始tRNAがリボソーム小サブユニットに結合した直後と考えられる状態(状態1とする)である(pdb id: 5lmq).二つ目は開始tRNAがリボソーム小サブユニットに結合し,ある程度適合した状態(状態2とする)である(pdb id: 5lmu).それぞれの状態において上述のような粗視化モデルを作成した.
2.2 粗視化MDシミュレーションの実行以上の粗視化モデルについてGROMACSにより構造最適化および分子動力学シミュレーションを実行した.これらの計算においては,RNA構造を適切に維持するためにElastic networkモデルを利用した[13].PICの粗視化モデルを最適化した後,温度310 K,圧力0.1 MPaの条件で平衡化MDシミュレーションを実行した.時間発展の時間刻みは20 fsに設定した.
PICの構成分子が開始tRNAの安定性に対してどのように寄与しているかを理解するために,開始tRNAの解離自由エネルギーを次の手順で計算した.まず開始tRNAの解離過程を特徴づける反応座標をtRNAとリボソーム小サブユニットとの間の距離により定義した(図2(a)).リボソーム小サブユニットからの開始tRNAの解離経路を推定するために,上述の反応座標を使用した500 nsのメタダイナミクスシミュレーションを10回ずつ実行した.メタダイナミクスは効率的な構造サンプリングを実行するために有効な方法であるが[14],自由エネルギーを正確に計算するためには綿密にプロトコルを設計・実行する必要がある[15].一方でアンブレラサンプリングは正確に自由エネルギーを計算するための有用な方法であるが[16],反応経路を表現する適切な反応座標を設定する必要がある.本研究ではこれらの二つの方法を利用することで正確な自由エネルギー計算を実現した[17].メタダイナミクスにより推定されたtRNAの解離経路上で0.5 nmから1.5 nmの反応座標の範囲内においてアンブレラサンプリングシミュレーションを実行した.状態1および状態2におけるアンブレラサンプリングの総シミュレーション時間はそれぞれ63.0 μsおよび57.0 μsである.アンブレラサンプリングシミュレーションの結果を集約して反応座標に沿った自由エネルギーを推定するためにmultistate Bennett acceptance ratio法[18]を使用した.
本研究においてはメタダイナミクスシミュレーションをtRNAの解離経路の推定のために実行した.図2(b)は状態1における反応座標のトラジェクトリーを,図2(c)は状態2におけるものをそれぞれ示している.結合領域に存在したtRNAが解離する過程について,10個の反応座標のトラジェクトリーが示されている.それぞれの状態においてメタダイナミクスシミュレーションごとに経路は異なるものの,シミュレーション時間内でtRNAが結合領域から3.0 nmの距離の場所まで解離することができていることが分かる.
3.2 tRNAの解離経路に沿った自由エネルギーメタダイナミクスシミュレーションにより得られたtRNAの解離経路を用いてアンブレラサンプリングシミュレーションを実行し,その結果から解離経路に沿った自由エネルギーを推定した.図2(d)は状態1におけるtRNA解離経路に沿った自由エネルギーを,図2(e)は状態2におけるものをそれぞれ示している.
PICにおいて開始tRNAがリボソーム小サブユニットに結合した直後と考えられる状態(状態1)においては安定なtRNAの結合状態が存在することが分かる(反応座標が0.6 nm付近にある場合).これに加えてtRNAが解離する方向に対して自由エネルギー障壁も存在することが分かる(反応座標が0.8 nm付近にある場合).これらはリボソーム小サブユニットに開始tRNAが適切に配置されるために必要な自由エネルギー地形であると考えられる.
開始tRNAがリボソーム小サブユニットに結合し,ある程度適合した状態(状態2)では,状態1と同様に安定的なtRNAの結合状態が存在している(反応座標が0.8 nm付近にある場合).加えて自由エネルギー障壁も存在しており(反応座標が1.2 nm付近にある場合),その高さは状態1のものよりも高い.そしてtRNAの結合状態と解離状態との自由エネルギー差も大きい.これらのことから,状態2において開始tRNAはリボソーム小サブユニットにおいて安定的に存在することができ,かつその結合領域からの解離が難しくなっていると考えられる.
3.3 tRNAと相互作用している分子の特定tRNAの安定化に寄与している分子を特定するために,解離経路においてどのような分子との相互作用が存在するかを解析した.図3(a)は開始tRNAの近傍に存在する主な分子を示している.tRNAはmRNAといわゆるコドン・アンチコドンのペアを形成している.IF3は開始因子と呼ばれるタンパク質の一種である.またuS9,uS13およびuS19はリボソームタンパク質と呼ばれるリボソームを構成するタンパク質である.
状態1における反応座標に沿ったときのtRNAと近傍の分子との分子間距離を図3(b)に示す.mRNA,IF3およびuS13は解離過程において相互作用を保持していることが分かる.一方でtRNAが解離することに伴い,uS9とtRNAとの相互作用は減少している.またuS19とは基本的に相互作用を形成していないと考えられる.
状態2における反応座標に沿ったときのtRNAと近傍の分子との分子間距離を図3(c)に示す.mRNA,IF3およびuS13は状態1の場合と同様である.uS9との相互作用の様子もほぼ同様であるが,自由エネルギー極小状態付近の領域ではuS9との結合距離はより短くなっている.状態1と大きく異なるのはuS19との相互作用である.状態2においては解離過程においてtRNAとuS19との間に相互作用が存在し,保持していることが分かる.このような相互作用における状態間の差異が自由エネルギー形状の相違と関連していると考えられる.
3.4 リボソームタンパク質のC末端領域の影響以上の解析によりPICの状態2においては開始tRNAが安定的に存在することが分かった.安定的に存在している状態では周りのリボソームタンパク質やRNAと十分な相互作用を形成しており,相互作用している残基間の距離は短い距離を保ったままであった.
リボソームタンパク質は,リボソーム内においてネットワーク構造を形成している[6].リボソームタンパク質の末端残基は非常に柔軟であり,その末端領域はtRNAとも相互作用していることが立体構造的にも理解されている.またリボソームタンパク質の多くの末端領域は天然変性領域になっており,特徴的なアミノ酸構成を持っていることが情報学的な解析により明らかとなっている[19].アミノ酸の構成としてはアルギニンやリジンなど正の電荷を持つアミノ酸が豊富である.したがって負の電荷が豊富なtRNAとリボソームタンパク質の相互作用が存在することが示唆される.このようなことを示す実験として,リボソームタンパク質uS19のC末端領域を削除するものがある[20].本実験においてはC末端領域を削除していくにしたがって,大腸菌が発現しなくなっていくことが分かった.これはリボソームタンパク質uS19の欠損によりリボソームの機能が失われていることを示しており,開始tRNAとuS19の相互作用が失われたことにより引き起こされた可能性がある.したがってリボソームタンパク質のC末端領域における荷電性アミノ酸はtRNAの結合安定性に重要な寄与をしていることが示唆される.
リボソームタンパク質のC末端領域における荷電性アミノ酸の電荷の存在が開始tRNAの結合安定性に対しどのように影響するかを理解するために,C末端領域の静電相互作用をなくしたMDシミュレーションを実行した.シミュレーションの概要は以下の通りである.対象としたリボソームタンパク質はuS19である(図3(a)参照).そのC末端領域の静電相互作用をなくすために,C末端領域の最後の10個のアミノ酸残基(GKEAKATKKK)の電荷をゼロに指定した(図4(a)).このような条件の下で,開始tRNAの解離自由エネルギー計算を行うためにメタダイナミクスとアンブレラサンプリングシミュレーションを実行した.これらのメタダイナミクスとアンブレラサンプリングについてのシミュレーション条件については2.2において記述したものと同様である.
状態1における自由エネルギー計算の結果を図4(b)に示す.リボソーム内での開始tRNAの安定結合領域は,C末端領域の電荷がある場合とない場合とで変化がないことが分かる.したがって状態1において,uS19のC末端領域の電荷は結合領域の安定化にはそれほど影響を与えないと考えられる.一方でtRNAが結合領域から解離する過程における自由エネルギー障壁の高さは両者において異なることが分かる.uS19のC末端領域の電荷が存在しない場合には,その障壁の高さがより低くなっている.また結合状態と解離状態の自由エネルギー差についても同様である.これらは結合したtRNAがリボソームから解離しやすいことを意味している.つまりuS19のC末端領域と開始tRNAとの静電相互作用は自由エネルギー障壁の増加に寄与しており,開始tRNAがリボソームから容易に解離しないような効果が得られることが分かった.
状態2における自由エネルギー計算の結果を図4(c)に示す.状態1の場合と異なり,開始tRNAがリボソームから解離するときの自由エネルギー差は,C末端領域の電荷がある場合とない場合とでそれほど変化がない.したがって状態2においては解離過程におけるuS19のC末端領域とtRNAの相互作用はそれほど大きくないと考えられる.一方でtRNAの結合領域における自由エネルギーの形状が状態1と状態2とで異なることが分かった.uS19のC末端領域の電荷が存在する場合にはtRNAはその位置の変位について安定的である.しかしながらそのC末端領域の電荷が存在しない場合には,リボソーム内のtRNAは明確な結合状態をとらないように見える.つまりリボソーム内においてtRNAが不安定であることを示唆している.状態2においてはuS19のC末端領域と開始tRNAとの静電相互作用はリボソーム内において開始tRNAが安定的に存在するために重要であることが理解される.
ここでは状態1および状態2の二つの状態においてuS19のC末端領域による静電相互作用の影響を解析・考察した.図4(b)および図4(c)から分かるように,一つのリボソームタンパク質のC末端領域の電荷のみでもtRNAの安定化に大きな影響を与えていることが分かる.PICにおいてはuS19に加えて少なくともuS9およびuS13もそれらのC末端領域がtRNAと相互作用していることを立体構造から知ることができる.これらのことは,リボソームタンパク質は開始tRNAのリボソーム内結合領域における安定化やtRNAの会合および解離過程において重要な役割を果たしていることを示唆している.
本研究においては,リボソーム小サブユニットが開始前複合体の状態にあるときの開始tRNAの安定化機構を理解することを目的として粗視化モデルを使用した分子動力学シミュレーションを実行した.タンパク質合成が行われるためにはリボソームが適切な構造を形成する必要がある.開始tRNAがリボソーム内の適切な位置に結合することはその一つの過程である.tRNAの解離経路に沿った自由エネルギー解析を行うことにより,リボソーム内でtRNAは安定的に存在することが分かった.またtRNAといくつかのリボソームタンパク質との間には相互作用が形成されており,それらの間の静電相互作用は重要である.一例としてuS19のC末端領域の電荷の影響を理解するために行ったシミュレーションの結果はその事実を裏付けている.これらのことを総合すると,PICにおいて開始tRNAはmRNA等のRNAと相互作用を形成することに加えてリボソームタンパク質と相互作用をすることにより,リボソームからの解離に対して安定的であることが分かった.
tRNAとリボソームの構成分子との多様な相互作用を理解することは,翻訳過程における高精度なタンパク質合成機構を理解するために必要であると考えられ,開始過程だけではなく伸長過程における種々のtRNAの選択機構を理解するうえでも役立つものである.さらにバクテリア,古細菌,真核生物における特徴的な相互作用の共通性を理解することで,リボソームの翻訳機能を通して生命の起源を理解することにもつながることが期待される[21].
本研究は神戸大学の田中成典教授との共同研究により行われたものです.また本研究はJSPS科研費JP21K06113の助成を受けたものです.本研究の計算は自然科学研究機構・計算科学研究センターのスーパーコンピュータにより行われました(課題:20-IMS-C261, 21-IMS-C013).感謝申し上げます.
〔経歴〕2011年名古屋大学大学院理学研究科物質理学専攻(物理系)博士課程(後期課程)修了.2023年から現所属.〔専門〕分子シミュレーション,生物物理.