2019 年 70 巻 2 号 p. 2_36-2_57
「エートスの陶冶」 は、90年代以降、闘技デモクラシー論を中心に盛んに主張されてきた。だが、この言葉が何を指すかについては、十分に検討されてきたとはいえない。実際、エートスの概念の曖昧さや主観性を批判し、より政治的かつ具体的な規範的処方箋の提出を求める意見もある。こうした状況に対し、本稿は (1) 「エートスの陶冶」 が一定の輪郭と政治的含意を有したものであることを示すとともに、 (2) 批判者とは逆に、「エートスの陶冶」 を具体的処方箋から切り離す方向で活用すべきであると論じる。すなわち、まずコノリー、ホワイト、タリーら闘技デモクラシー論が論じるエートス概念について、それがフーコーの影響下にあって、個人態度と同時代診断を結びつけたものであり、一定の輪郭と政治的な含意を有したものであると明らかにする。次に、これらのエートス概念について、道徳主義および循環の問題を指摘し、解消策を探る。具体的にはホーニッグの 「公共的なモノ」 論および 「人民の預言」 論を参照しつつ、観察者としての理論家の役割に、エートス論が示唆する成熟の可能性を見出す。かかる観察者は処方箋の提示にかえて、政治社会の揺らぎや不調和の特定を中心的課題とするのである。