本稿では、近代日本の立憲君主制を制度上確定させた大日本帝国憲法(明治憲法)の制定に際し、イギリス立憲君主制の諸相が法律顧問ピゴットの答議などをもとに検討された過程を考察した。
明治20年から21年にかけて、在野では大隈重信の去就と相まって議院内閣制導入への期待が昂進する中、憲法制定を主導した伊藤博文にもイギリス憲法の導入可能性を精査する意図が存在し、かかる目的のためピゴットが招聘され、その答議が憲法起草の最終局面で参照された。結果、明治憲法の定める大臣輔弼の原則についてはイギリスの学説が摂取されたものの、大臣の対議会責任、議院内閣制・連帯責任制、緊急勅令の免責法による承諾といったイギリス立憲君主制の議会主義的側面や「君臨すれども統治せず」の理念は概して否定されることとなった。それは、等しく立憲君主制でありながら、一方は天皇主権、他方は議会主権とその主権原理を異にする日英の相剋に正対した憲法起草者による一つの結論でもあったといえる。
しかしながら、以上はいずれも、明治14年政変時の政体構想にみられるような非イギリス主義としての総括を許さない、憲法のモデル論からは解放された選択的な受容のあり方だった。ピゴットの招聘さえもたらした明治国家形成の歩みは、決してイギリスモデルの単線的な排撃の過程として把握しうるものではなかったと考えられる。
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