1996 年 45 巻 1 号 p. 27-37
『煤煙』(森田草平)と『峠』(平塚らいてう)の二作品をとりあげ、誤読という行為の遂行されるされ方について考察する。前者における「誤読」は同時代の文学の地位の再編および読者共同体の均質化にからむ「読む」ことの前景化と繋がっている。同時に読まれることが無視されており、解釈ゲームから最も遠い「誤読」となっている。一方、その共同体に同一化しない態度をみせる後者における「誤読」は解釈ゲームとして現れている。誤読行為が遂行される際の二つの形態について述べ、その歴史的意味を問うた。