名古屋大学
2003 年 52 巻 11 号 p. 30-39
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一九四五年八月一五日、天皇の玉音放送によってアジア太平洋戦争は敗戦を迎えたが、終戦の詔勅の意味を理解した聴き手は稀であり、雑音の中、天皇の声もうまく聞きとれなかった。このような空虚さのゆえにその声はアウラを身にまとい、国体護持を図る大きな歴史の中に敗戦の個別の経験を回収すべく機能した。本稿は高村光太郎の戦争詩における戦時と敗戦に対する姿勢を検討することで、このような〈経験の歴史化〉の機構を相対化しようと試みたものである。
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