日本考古学
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畿内における律令墓制の展開と終焉過程
副葬品から見た8・9世紀の墳墓
渡邊 邦雄
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2004 年 11 巻 17 号 p. 43-65

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抄録

8世紀初頭に厳格な造墓規制を伴って完成した律令墓制は「火葬」をスタンダードとして採用し,古墳時代と同様,大和の優位の下で展開する。その後,8世紀末葉の長岡・平安遷都によって政治の舞台が山城地域に移ると,旧来の仏教色を脱却した新しい葬送思想に基づく墓制が木棺墓を中心に花開くことになる。
本稿では,土葬と火葬という葬法の違いが社会構造の上で一定の意味を持ち,特定の葬法が特権的葬法として社会的立場と結びつくことを律令墓制と位置付けたが,9世紀後半になると,各地域の共同体レベルで葬送儀礼の地域色が顕在化し,社会的次元における儀礼の共有化は志向されなくなったのである。ここに,律令墓制はその歴史上の役割を終えたと判断したが,本稿では以上の検討を行うために,各墳墓から出土した副葬品の様相を手がかりとした。
木棺墓の導入以降,須恵器瓶子や黒色土器,漆製品,玉類などの副葬品は木棺墓と火葬墓では厳密な使い分けが行われており,両者の間には他界観を含め明確な区別が存在したことがわかった。そして,9世紀を通じて,律令貴族を中心とする特権階層はきわめて政治的な墓制として木棺墓を造営したのである。特に,9世紀中葉以降は氏族集団の系譜意識や親族原理の大きな転換期であり,墳墓の立地から見れば,大和各所の古墳の存在を意識した木棺墓の造営が続くことになる。
しかし,9世紀中葉を契機に仏教的葬送儀礼が社会に浸透していく中で,仏教的他界観も広く受け入れられるようになり,9世紀後半には副葬品から判断する限り,両者の区別が曖昧になることもわかった。ただ,律令貴族の死穢意識は根強いものがあり,仏教的他界観を伴った新しい葬送儀礼観が木棺墓において完成するのは10世紀に入る頃までずれ込んだ。そして,これ以降,葬法の選択は造墓者側の主体性に委ねられることとなり,経済力を有する裕福な階層なら自由に造墓をなし得るという新しい墓制が誕生したのである。

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