日本考古学
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守護の城,置塩城跡の発調査成果について
山上 雅弘
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2005 年 12 巻 19 号 p. 143-153

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抄録

置塩城跡は平成10年度に赤松氏城跡として国指定史跡に指定された。これを受けて夢前町教育委員会では現状調査および発掘調査を実施してきた。
この城跡は通称城山(標高371m)に築城され,播磨守護赤松氏が拠ったことで知られている。通説では赤松政則以後の5代にわたる後期の赤松氏の居城とされ,文明元年(1469)の築城といわれる。
城跡の規模は70前後の曲輪を有し,東西600m,南北400mにわたって遺構群が構成されるなど播磨最大を誇っている。城山の地形は詰の丸機能を持った第I-1郭と,根小屋機能を持った第II-1郭を中心とする西側曲輪群の2つの頂部で構成されるが,機能上もこの2つの地区は互いを補完する関係にあった。
発掘調査によって第I-I郭からは曲輪中央と虎口部に櫓が検出されたが,この2つの櫓の存在は発達した防御施設を示し,この曲輪が詰の丸であったことを証明することとなった。
一方,西側曲輪群(第II~V曲輪群)では山頂の第II-1郭を中心として,門構えや礎石建物を有した本格的な屋敷曲輪が多数構築されたことが明らかになった。そして,これらの屋敷曲輪群が戦国時代末期の永禄~天正年間前半頃(1557~1581)に集中して構築されたことが判明した。つまり山城が大型化し,本格的な居住施設を伴うのが通説より100年下ることが明らかにされたのである。戦国末期には赤松氏(義祐・則房期)は政治的な力が衰退したといわれるが,城郭構造からはこれと正反対の実態が明らかにされた。この意味で置塩城跡の総合調査・発掘調査は赤松氏研究に新たな視点を投じた。
各曲輪の中で第II-1郭などの中心的な曲輪はすべて通路2から入る構造であるが,これらの曲輪は庭園の構築や石築地の敷設など格式の高さが確認された。また,通路2は東西両端に虎口状の地形が伴っており,他の曲輪群に対して閉じた構造を持ち,主郭曲輪群ともいうべき空間を作り出していた。このことから西側曲輪群は第II-1曲輪を中心として主郭曲輪群・さらに下位の曲輪群へと階層別に序列が確認され,この場所が守護の格式や儀礼を示す場所であったことを明らかにした。

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