日本考古学
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国分寺瓦屋と瓦陶兼業窯
梶原 義実
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2005 年 12 巻 19 号 p. 29-50

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抄録

天平13年の国分寺造営勅以降,全国に国分寺が建立されていく。その所用瓦を供給するにあたっては,国司が管理する国分寺瓦屋で瓦生産をおこなっていた。しかし,造営が一段落し,瓦の需要が減少した際に,その瓦屋や製作工人の系譜を維持し続けるか,それともいちど解体し,修造など必要時ごとに他所から工人を招聘する方式をとるかについては,国ごとに様相が異なることが,筆者の研究でわかってきている。本稿では,国分寺瓦屋や,その他国府など官営施設に瓦を供給した瓦屋について,その存廃においては陶器生産との協業が大きな意味をもつと考え,そこから古代の地方における瓦生産の様相全般について論じる。
各国の国分寺瓦屋などのうち,瓦と陶器を一緒の窯場で焼成する「瓦陶兼業体制」をとる国としては,遠江・武蔵・上野・下野・佐渡・陸奥・出羽などが知られている。これら各国の瓦について,文様および製作技法の両面から分析検討をおこなった結果,一部の国を除いて,創建期から9世紀以降の修造期まで,連綿と変わらない文様系譜や製作技法的特徴を保持し続けていることが判明した。このことから,瓦陶兼業体制をとる国分寺瓦屋において,同一系統の工人集団が継続的に瓦生産に携わっていたということがあきらかになった。
またその継続状況についても,基本的に一ヶ所の窯で継続的に操業を続ける形態のほか,伝統的窯業生産地を指向し瓦工を移住させる形態や,須恵器生産好適地に遷地する形態など,さまざまであった。さらに,国分寺瓦屋が瓦専業であったと考えられる尾張について,国分寺修造期に工人系譜が断絶することおよび,平安後期には山茶碗の窯に京都からあらたに瓦工を招聘し,国外輸出用の瓦を作らせていることを述べた。それらの諸事象は,9世紀以降の地方の瓦陶兼業窯は,基本的に陶器生産の都合を重視し運営されていることを示す。地方においては,国分寺造営が一段落し瓦の需要が減少した後は,陶器生産に依拠する形でしか,瓦工の維持が不可能だったのであろう。

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