抄録
教育,雇用,レジャー,文化など大半の社会的分野において,民主主義社会は,障がい者を包摂するために大きな努力をしている。2006年に国連総会において採択された障がい者の社会的包摂を保障する国際人権条約「障害者の権利に関する条約」の締約国は,すでに170カ国を超えた。
スポーツや運動の分野をみてみると,障がい者の包摂を目的とする行動,関与,プロジェクトが数多く認められる。とはいえ,こうした包摂の努力は,大方のところ,レクリエーションスポーツ,体育あるいは草の根スポーツに限られている。トップレベルにおいては,健常者スポーツと障がい者スポーツの間に明確な区別と分類が根強く残っている。この区分の最も顕著な例は,オリンピックとパラリンピックの厳格な分離である。これらのイベントを2種類に分類することは,障がいを持つアスリートの周縁化あるいは排除とさえ考えられ得る。オリンピックはおそらく常に,最も権威のあるのカテゴリーであり,障がいのある選手にはほぼ手の届かないものであるからだ。
競技スポーツの構造的な目的は,最優秀者を選抜して栄誉を讃えるために運動能力に従い分類し,順位をつけることにある。一方,包摂のコンセプトは,これとは反対に,呼び集め,多様性を高く評価し,能力(障がい)を尊重するものである。競技スポーツの主たるイデオロギーはAbleism である。Ableism とは,「共感,思いやり,優しさなど他の能力よりも,例えば生産性や競争力などの特定の能力を評価し奨励する特定の社会集団や社会構造の心理に言及するときに,障がいを持つ活動家たちが用いる観念である」(Wolbring 2008, 253)。競技スポーツは,競技場における一種の社会ダーウィニズム-最速の者,最強の者,最も有能な者,最も熟練した者の生存を促進するものである。
トップレベルのスポーツと包摂との間のこうした矛盾を考えると,競技スポーツは包摂と相容れないものであり,包摂に対する最後の障壁のひとつとなっていることが明らかであろう。とはいえ,この障壁を取り去るさまざまな試みがなされており,成功したものはまれであり,他は意見の分かれるもので,今なお盛んに議論が行われている。
本稿では,オリンピックとパラリンピックのこうした分離と,競技スポーツにおける競争と包摂の明白な非両立性の問題について,哲学,倫理学,障がい学,スポーツ科学,歴史の観点および概念を用いて論じる。著者の考えを説明するため,人工装具を着けてオリンピックに出場した初の短距離選手であるオスカー・ピストリウス,8.40 mの走り幅跳び記録を持つ片足切断者のマルクス・レーム,あるいはオリンピック水泳に切断者として初めて出場したナタリー・デュトワなどの特殊なケースを検討する。健常者のトップレベル競技において競い合いたいと考える障がい者アスリートは,数多くの障壁や抵抗に直面する。障がいを技術的な装置で補う場合には,技術的ドーピングや不公平の非難に直面する。補助器具なしには,彼らは一般に競争もできない。
最優秀者選抜の論理を特徴とするトップレベルの競技スポーツは,平等な機会と生来のままの(人工物を用いない)パフォーマンスという(神話的な)スポーツの価値観を依然として守ろうと,代償的な技術装置や補助器具を禁じている。そうしたハイレベルの競技スポーツにおいてアスリートの包摂を望むのであれば,既存のスポーツを適合させ,新しいスポーツを生み出さなければならない。こうして改変されたスポーツや新しいスポーツは,健常者・障がい者を問わず誰もがアクセスでき,参加と勝利の機会均等が可能な限りすべての人に提供すべきものである(Schantz & Gilbert 2012)。アクセスが確保されているスポーツの具体的例をいくつか挙げて議論する。
21世紀においては,私たちの時代の倫理基準に合うよう人間の多様性にスポーツを適合させるべきであって,西洋の健常な男性アスリートのために19世紀に考案されたスポーツに人間を適合させるべきではない(Schantz 2016)。