イノベーション・マネジメント
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論文
アメリカの戦後企業体制における労使関係の形成
―第二次大戦期の戦時労使関係による制度・組織転換を中心として―
河村 哲二
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2023 年 20 巻 p. 21-46

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要旨

第二次大戦後1950年代・60年代のアメリカ経済の「持続的成長」は、企業レベルの構造、とりわけ、アメリカの基幹的量産産業における大企業・巨大企業の戦後企業システムを、国内を中心とする経済成長連関の中核とするものであった。それは、アメリカ型大量生産システムとそれに適合的に確立された戦後「伝統型」労使関係、「ビューロクラティック」な経営管理組織を伴う「成熟した寡占体制」を主要な支柱とするものであった。そうした戦後企業システムは、長期の歴史的展開の産物であるが、最も直接には、第二次大戦の戦時経済における戦時産業動員体制によって決定づけられた制度的・組織的変容を画期として、戦後初期の戦後再転換過程で、一定の修正を受けて確立されたものであったとみることができる。本稿は、そうしたアメリカの戦後企業システムの重要な支柱となった「伝統型」労使関係」の形成と確立にとって最も重要な、1930年代に始まるアメリカ労使関係の歴史的転換を受けながら展開した、第二次大戦期の戦時産業動員と戦時経済のもとで生じた、「長期戦略・政策形成」、「団体交渉・人事政策」、「職場・個人/組織関係」という三つの層全体にわたる制度・組織転換のプロセスと主要点を明らかにする。

Abstract

The postwar American economy in the 1950s and 1960s experienced a historic period of “sustainable growth”. The U.S. “postwar corporate system” of big business in mass-production and the related industries constituted the core of the economy. It was characterized by three main pillars: an American-style mass production system, a postwar “traditional-type” labor relations established to suit it, and a “matured oligopoly system” accompanied by a “bureaucratic” management organization. This “postwar corporate system” was a product of long-term historical developments, but most directly, the institutional and organizational transformation brought about by the wartime industrial mobilization of the World War II war economy established its basic structure with certain adaptations in the process of reconversion in the early postwar years. This paper focuses on the major aspects of the significant institutional and organizational transfiguration of the U.S. industrial relations to undergird the U.S. “postwar corporate system”, which brought about by the industrial mobilization system and war economy during World War II across all the three layers of “long-term strategy/policy formation”, “collective bargaining/personnel policy”, and “workplace/individual/organizational relations” on the basis of the historic transformation in labor relations in the 1930s.

1.  はじめに

1950年代・1960年代のアメリカ経済は、歴史的にみても最も高い水準の成長率を記録した。平均実質成長率は4.2%に達し、以前の最高水準の1920年代に匹敵するものであった。しかも、大きな不況に中断されずに継続した。しかもそうした「持続的成長」が実現されるとともに、同時に、根強いインフレ体質を大きな特徴とするものであった。すでに各所の拙稿で論じてきたように(河村(2003)、最近のものとして河村(2022)など)、そこには戦後アメリカ経済特有の経済成長の連関の制度構造があったが、その中心を占めたのは、戦後アメリカ経済の企業レベルの構造、とりわけ、アメリカの基幹産業における大企業・巨大企業の戦後企業システムがあった。それは、アメリカの戦後基幹産業―耐久消費財部門と軍需産業部門およびその関連産業(鉄鋼、非鉄金属、金属加工、機械など素材・資材部門および部品産業)における大企業・巨大企業―とくに上位100社で代表できる―の戦後特有の企業体制であり、生産システムとしてはアメリカ型大量生産システムとそれに適合的に確立された戦後労使関係、経営組織的には「ビューロクラティック」な経営管理組織、そして産業組織的には「成熟した寡占体制」を特徴とした。

アメリカの戦後企業システムの最大の特徴である寡占的大企業・巨大企業の体制は、A.チャンドラーらも強調しているように、大量生産・大量消費の経済構造の進展を基本動因としながら、規模の経済、範囲の経済の追求、大量生産と製品多角化、それにともなう大企業組織の発展、それ管理する組織能力の追求といった特徴をもって、19世紀末葉と1920年代後半に大きな二つのピークを持つ企業合同運動を経て登場した企業体制をベースとするものである(Chandler(1990)訳: 37–195)。しかし、「成熟した寡占体制」、アメリカ型大量生産システムの普及とそれに対応した「伝統型」労使関係というその第二次大戦後に特有の三つの基本支柱は、最も直接には、第二次大戦の戦時経済における戦時産業動員体制によって決定づけられた制度的・組織的構造変化を画期として確立されたものであった(この点は、河村(1994)(1995)(1998)(1999)(2003)(2007)など一連の拙稿で論じてきた点である。河村(2016a): 62の注16をみよ)1

第二次大戦後のアメリカにおいては、自動車、鉄鋼など、基幹的量産産業を中心として、大企業・巨大企業(「ビッグ・ビジネス」)の経営側と大産業別労働組合間に、戦後の「伝統型」労使関係として一種の労使妥協体制が成立し、労使団体交渉と労働協約、戦後労使関係の各種制度装置と労働慣行・ワークルール、より一般的には労使の「行動パタン」が「制度化」され安定化された。それは、長期歴史的なアメリカ労使関係の展開をベースとするが、1930年代のニュー・ディール期の労使関係の新たな制度的・組織的転換を直接の前提とするものであった(Gordon et al.(1982)Dunlop(1958)Cohen(1975)など)。1930年代には、ニュー・ディール政策とその諸立法(とりわけNIRAとワグナー法)のもとで、基幹的量産産業における産業別組合運動を軸として、時に労使の暴力的衝突や警察の暴力的介入を含む激しい労使対立のなかで、新たな「制度化」のプロセスが開始された。そうした「歴史的転換」が戦後の伝統型労使関係として定着・確立する上で、第二次大戦の戦時経済における制度形成と転換が決定的に重要な意義をもった。とりわけ、「成熟した寡占体制」とアメリカ型大量生産システムと一体のものとして戦後企業体制の支柱を構成した「伝統型」労使関係は、戦後アメリカ経済の根強いインフレ体質を伴う「持続的成長」をもたらす企業・産業レベルの構造とメカニズムの中心を占めたが、本稿は、その形成と確立にとって第二次大戦期の戦時経済のもとでの制度・組織転換が最も重要なものであり、とりわけ、戦後アメリカの「伝統型」労使関係とその制度装置は、直接には、ニュー・ディール期を受けた戦時労使関係の展開が戦後再転換過程を経て基本構造が定着したとみることを、基本視点とするものである2

戦後アメリカの「伝統型」労使関係は、自動車産業の「ビッグスリー」やその他電機・一般機械の主要産業企業、鉄鋼業のUSスティールや非鉄金属企業など、アメリカを代表する基幹的量産産業および関連産業の大企業・巨大企業と、UAW(全米自動車労組)、USW(全米鉄鋼労組)など、大産別労組を主力とする労働組合との間に成立した労使関係が最も基本的な制度構造を与えた。その最大の特徴は、モデル化して捉えれば、次の3点に要約できる3

第1に、労働側が経営側の「経営権」を承認することと引き替えに、経営側は、その基幹労働者に対し、高水準の賃金・その他フリンジ・ベネフィット(付加給付)を通じて経済的利益を保障すると同時に、セニョリティ・ルール(先任権制度)を通じて雇用保障を与えるという関係が、戦後アメリカの基幹的量産産業・関連産業の労使関係の安定化の最も基本的な関係となった。その意味で、それは、アメリカの歴史的な労使関係の展開の上に、とりわけニュー・ディール期のアメリカ労使関係の歴史的転換を受けた、第二次大戦の戦時労使関係の展開を前提とした、一種の「労使妥協体制」の制度化を大きな特徴とするものであった。そうした労使関係は、経営側の労務管理の方式と、「ジョブ・コントロール・ユニオニズム」などの労働側の行動、そして、団体交渉、労働協約などの諸装置を通じて、「伝統型」労使関係として制度化された。こうした戦後アメリカの労使関係の制度構造は、労使関係論としては、とりわけ「ダンロップ・モデル」として知られてきたものであるが、そうした制度構造が、戦後アメリカの基幹的量産産業の労使関係の安定化に寄与するとともに、経済の拡張循環の基軸部分を与えた。

第2に、現場レベルにおける生産システム、労務管理方式、労使関係の戦後特有の制度構造があった。その基本点は前稿河村(2022)でも論じたが、製造現場の生産システムの基本は、ライン生産方式による製造ラインと、それに生産工程の専用機械化・自動化(オートメーション)が結合したアメリカ型大量生産システム―少品種の製品を大量生産することによって生まれる「規模の経済」の追求を最も基本的なロジックとする―であった。それに対応した労務管理・作業管理は、いわゆる「フォード=テーラー型」4の管理を大きな特徴とするものであった。

アメリカ型大量生産システムにおける作業管理の特徴は、インダストリアル・エンジニアリング(IE)の専門部署によって、「テーラーリズム」(「科学的管理」)の原理に基づいて、「時間研究」・「動作研究」を基本とする作業分析・職務分析を前提に、「職務課業」(Job Tasks)が定義され、「職務」(Job)が詳細に設計される。職務は、複数の昇進系列と多段階の職務改定を伴う職務区分体系におかれるとともに、ライン作業における「職務」への個々の作業者の職務配置は非弾力的で、個々のワーカーは、単純化された要素作業・職務課業の組み合わせによって狭く定義された「職務」を、固定的に遂行することが求められる。現場の作業組織は、それに対応して、単能工的な作業者の分業・専門化体制を大きな特徴とした。現場監督者である職長(フォアマン)は、経営組織の末端に位置づけられ、主に、大量生産方式の進捗管理と単能工的不熟練労働者の規律維持を中心とする労務管理を担う。

第3に、労働側は、そうしたフォード=テーラー型工程管理・作業管理を基本的に承認しつつ、職務区分体系に編成された「職務」を基準とした「同一職務・同一賃金」を原則とする「職務対応賃金」、および職域毎の狭い昇進系列内部における特定「職務」の勤続年数を基準として昇進・レイオフの順序を決めるセニョリティ・ルールによる規制を追求し、「職務」ベースの労務管理を経営側に厳密に守らせようとする「ジョッブ・コントロール・ユニオニズム」を展開することによって、フォアマン層のフェイバリティズム(依怙贔屓)など、経営側の恣意的労務管理に枠をはめ、現場のワークルールの維持とならんで、雇用保障および経済的利益の確保を図ることを狙った。

こうした労使双方の論理が合成され、「職務」は多段階の賃金階梯(現実には十数段階に及んだ)と複数昇進系列の体系の中に位置づけられる職務区分体系が、主要産業で確立された。そうした職務区分体系を前提に、賃金は「職務対応賃金」という特徴をもち、また、一般ワーカーの昇進・レイオフは、セニョリティ・ルールによって規制された。そうした製造現場のワークルールや労働条件は、3年ないし5年ごとの団体交渉と労働協約によって、主要企業の経営側と大労組間で合意され、維持される関係が広く普及した。そこでは、協約期間内の生計費の上昇を賃金引き上げに反映させるCOLA(Cost of living Adjustment生計費調整条項)、同じく協約期間内の生産性の上昇を賃金に反映させるAIF(年次改善要素)、さらに社会保障プログラムによる公的給付に追加して失業給付を受け取るためのプランであるSUB(補完的失業給付)、医療プランなどの付加給付が制度化された。こうした戦後特有の制度装置が補完して、セニョリティ・ルールを通じて雇用が保障される基幹的労働者の高水準の賃金・フリンジベネフィットを補償する制度装置が組み込まれた。

以上の戦後アメリカの労使関係の基本構造と制度装置は、職場レベルを含め、第二次大戦期の戦時経済における産業動員体制における労使関係の安定化と、一般価格の価格統制と関連した賃金統制を中心とする戦時統制を通じた、戦時労使関係の展開と密接に関連して、制度化されたものであった。

コーハン、カッツ、マッカージーらは、1980年代以降のアメリカにおける戦後の「伝統型」労使関係の大きな転換を捉える有力な分析フレームワークとして、使用者(経営)、労働組合、政府が相互作用し合う労使関係の展開の場を「長期戦略・政策形成」、「団体交渉・人事政策」、「職場・個人/組織関係」という三つの層を区別して、その総合的ダイナミズムとして労使関係の制度構造の転換を捉える有力なアプローチを提起した(Kochan et al.(1986)5。第二次大戦期には、「総力戦」の遂行とそのための産業動員体制の確立と維持という国家安全保障上の最優先課題による圧力が、ここでいう「三層」すべてにおいて、しかも戦時期の数年間に集中的に強く作用し、戦時労使関係の「制度化」を非常に圧縮した形で促進するものとなったといってよい。

第二次大戦期アメリカの戦時産業動員体制は、戦前来の(とりわけニュー・ディール期)のアメリカの産業体制を「総力戦」の遂行に向けて、いわゆる戦時産業動員体制として確立しようとするものであり、アメリカの全産業におよび非常に包括的なプロセスであり、「総力戦」遂行と勝利という国家安全保障上の最優先課題の基本論理に従った、広範囲にわたる総合的なプロセスとして、アメリカ産業体制全体を経済全体を大きく戦時経済システムとして再編成するものであった。その最も中核を占めたのが、戦時生産の大部分を担った戦前来の大企業・巨大企業(250社が戦時供給契約のほぼすべてを担った)であり、その産業体制のもう一方の支柱となったのは、戦時労働動員体制であった。それは、主に、①急増した労働力需要の充足のための労働力配分のコントロールと、②戦時労使関係の確立と安定化という二面を含み、いずれも、1930年代に始まるアメリカ労使関係および諸制度装置の歴史的転換に直接接続しながら、戦時産業動員体制の重要な一環として展開された。

戦時労使関係の各側面は、戦時産業動員体制の一部として、相互に関連しあった独自のプロセスを構成しており、個々の側面に分解して、個別に論じることはできない。本稿は、河村(2007)でも採用したコーハン、カッツ、マッカージーらの「三層アプローチ」による分析フレームワークを大枠としながら、戦時期から戦後初期のさまざまな労使紛争や政治過程を通じて展開された戦時労使関係の発展のプロセス全体を、戦後アメリカの基幹的量産産業・関連産業の企業システムと産業体制の重要な支柱となった戦後「伝統型」労使関係・労務管理システムの制度形成という視点から、改めて整理し直すものである。

2.  産業動員体制の展開と戦時労使関係の基本枠組みの形成

2.1  初期労働政策の展開と戦時労使関係の枠組みの形成

1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻による、欧州戦線での第2次大戦の開始後、アメリカは国内の根強い中立主義により直ちに参戦しなかったが、1940年5月のオランダ、ベルギー、フランス侵攻とフランスの陥落(6月14日)によって、アメリカの再軍備とそのための産業動員体制の構築が本格化した。産業動員政策の展開は、軍備プログラムの急拡大に伴い、戦時に向け、それまで平時ベースにあったアメリカの産業編成を、軍需生産中心の戦時生産体制に組み替えることを基本とするものであり、そのために、戦争経済に特有の枠組みとメカニズムを作り出してゆくことが、その最も中心的な課題であった6。大規模に拡大する軍需生産・その他の国防関連活動を、アメリカの産業体制に組み込み、さらにその産業編成を戦時転換してゆくためには、生産能力の形成や優先制・配分制による資材フローの確保と統制といった、企業相互の供給関係の側面で、生産統制システムを構築することが必要とされた。これは、大企業・巨大企業と中小企業の関係の再編成を含む、企業間の関係を、戦時に向けて再編成する意義をもつものであった。それと並んで、戦時生産への労働動員と、アメリカの産業システムのもう一つの支柱である労使関係を、戦時体制に向けて再編成することが不可欠であった。そのための政策的な措置とメカニズムの創出が、産業動員体制を構築する不可欠な課題となった。

しかもそれは、1930年代のニュー・ディール諸立法のもと、1937年にピークを迎えるAFLとCIOの激しい競合と労働攻勢、それに対する経営側の反撃と反組合主義が激突し、ときに警察権力の介入による流血(「メモリアルデイマサカ」など)を含む激しい労使対立に直接接続していた。ルーズベルト政権の国防期初期の労働政策は、ニュー・ディール期に獲得された労働側の社会的地歩の維持を国防生産体制に組み入れることにおかれた。その手段として、争点となっていた労働関係法の遵守を国防契約の適格条件とする政策が追求されたが、国防生産を優先する軍、議会の動きに押され、1941年6月初めまでに放棄され、その後、強制されることはなかった(Koistinen(1965): 24–144)。戦時労使関係の「制度化」プロセスは、膨大な軍需生産の実現のため、CIO系産別組合の登場とともに出現しつつあった大産業企業―大産別労組を軸とした産業体制に対し、国家が産業動員の行政機構を通じて介入・調整し、「労使妥協体制」とその制度装置を形成し、「労働平和」を実現する関係を基本とすることになった(河村(2007): 179)7

こうした労働の戦時動員の課題に対し、ルーズベルト政権の労働政策を直接担う「戦時」行政機構として最初に登場したのは、国防諮問委員会(National Defense Advisory Commission-NDAC、第一次大戦期の立法に基づき1940年5月に再設置)において、労働諮問委員に指名されたシドニー・ヒルマン(合同衣料労組を基盤とするCIOの中心的指導者の一人で、それまでのニュー・ディール労働政策に深く関与、Josephson(1952)など)のもとに組織された労働部であった。ヒルマンに対する労働政策諮問委員会―AFL、CIO、経営、それぞれ同数の委員で構成―も設置された。労組側は、全体にヨーロッパ開戦当初は参戦に反対していた(Seidman(1953): 20–24;Lichtenstein(1982): 30;Lictenstein(2007): 84など)が、フランス陥落によるアメリカの国防危機に直面して、対英援助、国防推進の必要性を認める方向に転換した。むしろそれまでに獲得した労働者の地歩を確保し、さらに国防プログラムと国防生産の本格化を労働者の賃金や労働条件の改善に役立てようとする方向に転換した。CIOは、労働者の法的権利の擁護を強力に主張し、労働基準の改善を強く主張した。AFLのウィリアム・グリーンは、戦争一歩手前までの対英援助と国防計画への全面的協力を誓約する一方で、その見返りに労働者の地歩と労働基準が守られることを主張した。こうした側面は、国防期・戦時期の現実の労使の関係の展開のなかで追求されることになった(Koistinen(1965): 124–144;Seidman(1953): 24–25, 28;USCPA, Purcell(1946): 34–61など)。

産業レベルでは、初期から、国防発注の急増で急拡大した造船業、航空機産業など国防契約が急速に拡大した国防関連基幹工場で、組織化や賃金をめぐり労使紛争とストライキが発生し(Koistinen(1965): 100–102;Seidman(1953): 42–43;Seidman(1953): 27;USCPA, Purcell(1946): 169–170)、反労働運動キャンペーンの格好の材料となったが、国防プログラムの遂行に与えた影響は小さかった。同期のストライキによる労働損失は、1人当たり平均4分の1日にとどまった。AFL、CIOともに、議会における反ストライキ立法の動きには強く反発し、産業界の一部も同様であった。1940年11月のAFLの大会で、国防契約に対してはノー・ストライキで臨む政策が宣言された(Seidman(1953): 43–44)。そうした動きを背景に、1940年後半にストライキの潜在的脅威があった241件のケースの内、239件は、ヒルマンと労働部(労働関係分課)の介入により回避され、また、残り2件も早期に収拾された(USCPA(1947): 83–84;USDL, BLS(1941)もみよ)。

1941年に入ると、国防プログラムの大規模化と国防発注の急増により、生産活動が急拡大し、軍需に刺激された経済活況が強まって、物価上昇傾向が現れた。そうした新たな経済活況を労働条件の改善に役立てようとする労働側の要求を、戦争の継続期間に疑問を抱く経営側が拒否したことで労使対立が加速され、労働不安が高まった。とくに鉄鋼、自動車産業などで顕著であったが、国防生産と関連して大量の新規雇用が生じ、かつ1930年代に組織化が終了していなかった産業が、CIOの組織化の目標とされ、労働攻勢の焦点となった(US Congress, Senate(1946): 4, Table 1;Seidman(1953): 41)。年初のクローズドショップ問題を含むアリス・チャルマーズ工場(ミルウォーキー、海軍艦艇用機械製造)が最も深刻であったが、インターナショナル・ハーベスター、ベスレヘム、フォード、Alcoa、その他、重要な国防産業でストライキが発生し、国防生産のスケジュールに深刻な影響を与えた。自動車、石炭、その他でもストライキの脅威が高まった。国防生産全体に比べれば小規模とはいえ、ボトルネック的不足の加速が懸念されたため、議会その他で反組合感情が高まり、国防生産の遅延を懸念する陸軍からの介入圧力も強まった(Koistinen(1965): 104–105;Seidman(1953): 43–44;USCPA(1947): 164)。

こうした事態に対応して、労・使の関係に連邦政府が直接介入して調整する「三者」体制が一層明示的に現れた8。産業動員の中枢機関がより統合化され、年初にNDACに代わり、権限と組織がより強化された生産管理本部Office of Production Management-OPMが設置された(1941年1月7日、大統領行政令No.8629)9。ルーズベルト大統領は、産業動員計画案Industrial Mobilization Plan)が規定した「産業独裁者」タイプの集権的組織を主張した経営側の要求を拒否し、労働側を重視して、労働側代表としてシドニー・ヒルマンを副長官(Associate Director General)に指名し、ビッグ・ビジネス代表のクヌードセン長官(William S. Knudsen, Director General)と並ぶ「双頭体制」とした(河村(1998): 165;USBB, Mossner(1943): 37–42)。NDAC労働部はOPMに移管され、権限を強化されて重要問題として浮上した労働問題に対処することになった。OPMの下で、産業・企業レベルで、労働、経営それぞれと産業動員をめぐる諸問題の調整の場として、産業諮問委員会、労働諮問委員会の組織が公式に推進された(全体で第一次大戦期の倍近い700以上の産業諮問主委員会と小委員会が組織された(USWPB, Sitterson(1944b): 1–6;ILO(1948): 174;USCPA, Purcell(1946);河村(1998): 269–270)。この時期に、とりわけ、NDMB(全国国防仲裁委員会)の設置による仲裁と、重要国防産業における「個別安定化協定」という、のちの戦時労使関係の安定化システムの基本を与える重要な展開がみられた。

2.2  国防期における「戦時」労使関係の安定化メカニズムの登場

NDMBによる仲裁機構の形成 大統領行政令No.8716(1941年3月19日)によって設置されたNDMBは、明確に「労」・「使」・「公」の「三者」システムをとり、労働側代表4名(AFL、CIO各2名)、経営側代表4名、公益代表3名で構成された(委員長は公益代表)。同機構は、ヒルマンの労働部による非公式の仲裁機能を公式化し、ニュー・ディール以来の全国労働委員会(Natinal Labor Relations Board-NLRB)と和解局(The US Conciliation Service、1913年設置)という既存の労使紛争解決機構を補完して、労使紛争の「戦時」調停メカニズムの創出を企図したものであった。とりわけNDMBで案出された「組合員維持」方式が、後の戦時労働委員会(National War Labor Board、NWLB―1942年1月設置)に引き継がれ、賃金紛争と並び労使紛争の二大争点であった組合保障に関する標準的な戦時妥協方式となった(Seidman(1953): 61)。

賃金問題は、原則問題に触れるケースが少なく、軍需活況による利潤増大、熟練工不足の拡大を背景に経営側も柔軟性を示し、紛争収拾は比較的容易であった(1941年末までの10カ月弱のNDMBの存続期間中に合計118件、労働者119万人に関与した―USDL, BLS(1942): 29–33; 73–82)。しかし、「戦後」の産業内での競争的地位を見据え、労使関係に長期的な構造変化をもたらす組合認知や、さらにクローズドショップの要求などの組織化問題では経営側は大きく抵抗した。

CIOは、国防生産による新規の雇用増加を背景に、組織化問題では積極的に攻勢に出て大きな地歩を獲得した。1941年春には、UAWが反組合主義であったフォードで組織化と認知を勝ち得て(6月20日、ユニオンショップを含む)、自動車産業の「ビッグスリー」すべての組織化に成功した。鉄鋼業では、鉄鋼労働者組織委委員会SWOCが小鉄鋼企業(リパブリック、ベスレヘム、ヤングス・タウン、インランド)で組合認知を獲得するなど、組織化面で1937年以来の大きな進展が見られた。それが労働運動に一段とはずみをつけると同時に経営側の懸念を拡大した(Seidman(1953): 46–48)。こうした1937年以来の労組組織化の進展が、経営側の反組合主義を拡大した(Seidman(1953): 43–44)。そのため「組合保障」を含む紛争の解決にはかなりの困難を伴った。その解決基準としてアリス・チャルマーズの争議の解決を機に案出されたのが、「組合員維持」(maintenance of membership)方式であった。

アリス・チャルマーズ争議は、同方式を含むNDMBの介入によって数日間で収拾され、その他のいくつかの重要な紛争が解決されたが、ストライキの状況はさらに悪化した。1941年4月1日には40万人の瀝青炭の炭鉱労働者が、賃上げ、南部労賃差別の解消めざしてストライキに入った。翌2日には、UAWがフォードのリバーリュージュ工場を生産停止に追い込んだ。全国規模の鉄鋼ストライキも切迫しつつあった(Koistinen(1965): 111–112)。とくにユニオンショップやクローズドショップを求める争議の場合にはストライキは深刻化し、NDMBの介入によっても容易に解決せず、ノースアメリカンやフェデラル・シップビルディングなど、いくつかの重要国防工場産業のケースでは、陸軍による接収が実行された。

「組合委員維持」条項が最初に適用されたのは、ユニオンショップが要求された、スノカルミー・フォールス(the Snoqualmie Falls)(木材)の争議であった。ノースアメリカン・エヴィエイション、ウェスタン・カートリッジ、フェデラル・シップビルディングの3つのケースでは、経営側の反対を押し切って組合員維持条項が勧告された。ノースアメリカンのケースでは、CIOのUAW(全米自動車労組)が、カリフォルニア州のイングルヌック工場で、賃金の引き上げとクローズドショップを要求し1941年6月初めにストライキに突入した。紛争はNDMBに持ち込まれたが、組合側がその勧告を拒否し、全国指導部の勧告も無視してストライキが継続された。その結果、重爆プログラムを重視する陸軍の主張を受けて大統領が介入し、NDMBの権威が否定される前に軍が接収することになった。6月9日に、大統領は、陸軍に対し工場の再開と操業の命令を発令し、2500人の武装兵士がピッケトラインを破り、ストライキを停止させた。そして、収拾はふたたびNDMBに戻され、陸軍による接収が終了した。これは、労働側からNMDBの権威を否定する動きであったが、軍による接収によって、それは表面化せずに終わったが、同時に必須国防事業のストライキ労働者の徴兵延期を取り消す徴兵規則の改訂も招いた。

フェデラル・シップビルディング・アンド・ドライドック(USスティールの子会社)のケースでは、NDMBによって組合員維持条項が勧告されたが、経営側が明確な疑問を提起して従わなかったため、NMDBの法的な強制権限が問題となった。しかしこれは、大統領が介入し、ケアニー工場を接収して1941年8月25日―1942年1月7日まで政府が操業したため、ここでも、NDMBの権威そのものの否定は表面化せずに終わった。そうした強権発動は、とくにCIOの反発が激しかったため、基本的には、労使「和解」の枠組みに経営側、労働側を組み入れる措置として発動されたものであった(以上、Seidman(1953): 61–64;Koistinen(1965): 112–116、河村(1995)第4章注12もみよ)。

こうして「国防期」には、工場接収などの強権発動を含みつつ、「団体交渉・人事政策」レベルに介入・調整するNDMBという特別仲裁メカニズムの形成と、最大の争点となった組合保障問題の労使妥協の基準が登場した。しかしそれは「制度」的に確立されるには至らなかった。1941年秋の鉄鋼会社が所有する「支配炭鉱」(captive coal mines)のストライキ問題―John L. Lewis指導下のUMW(全米鉱山労組)による―では、NDMBの機能の限界が顕在化し、結局、NDMBは機能停止に追い込まれた(Koistinen(1965): 117–119;Seidman(1953): 64–69)10

重要国防産業における個別安定化協定の展開 NDMBによる特別仲裁機構の導入と並んで、とりわけ、国防期におけるもう一つの重要な展開は、造船業や建設業、航空機産業などの重要国防産業の個別安定化協定であった。そうした産業では、新規労働者の急増により労使関係が流動化し、深刻な熟練労働者不足から賃金の上昇圧力が高まっていた。そうした状況に対処すべく、ヒルマンと労働部が労使を調整し、個別産業レベルで、労、使、政府の三者協調をベースに、戦時期を通じて維持されるべき賃金およびその他の労働条件の基準やワークルールを明確にし、ストライキの回避など戦時労使関係安定化の具体的条件を確立することを追求した。その意味で、こうした個別的安定化協定は、職場レベルを含めて、戦時労使関係の確立の原型的パタンを提供する意義を持つものとなった。

個別安定化協定の代表例は、1941年4月初め太平洋岸で成立し、夏までに全国的に実施に移された造船業の安定化協定であった。同協定は、造船業におけるストライキを解消するものとはならなかったが、「戦時」産業としての有利なベース賃金率、超過勤務・休日手当、第2・第3シフト手当など賃金規定とともに、ロックアウト・スピードダウン・労働停止を否定し、労使紛争の和解局への提訴と苦情処理委員会による処理、労使双方の仲裁裁定の受け入れなど、労使紛争の解決のベースを規定し、適切な技能養成訓練制度(アプレンティスシップ)の導入などの労使協力措置を明確化した。それを通じ、戦時期を通じて維持されるべき造船業の労働条件と労使関係の枠組みをほぼ確定した(参戦直後に、週168時間操業と、週40時間を超える超過勤務手当(1.5倍)が織り込まれた)。これに続き、1941年7月後半に、建設業で同様の協定が成立した。造船業以上に急拡大し、熟練労働者不足が造船業以上に深刻化した航空機産業では、ヒルマンが提案し同内容の安定化協定(6月10日)は、AFL(機械工組合系)、CIO(UAW系)のクローズドショップ要求のため、成立が1943年初めまで持ち越された(USCPA(1947): 84–85;USCPA, Purcell(1946): 217–238)が、重要国防産業の個別安定化協定は、戦時の労使協調と職場のワークルールに関する具体的基準のモデルとしての意義を担うことになった11

こうした労使の安定化協定に対する政府側の枠組み設定として、とくにワークルール面では、国防生産におけるセニョリティ・ルールの維持を明確にする、労働部による「6ポイント政策」(9月17日)は、1930年代以来の産別組合運動を通じて確立されつつあった労使関係の枠組みを再確認すると同時に、その基本ルールとして、セニョリティ・ルールの確立と普及を大きく促進する意義を担うものであった12

3.  参戦後の戦時労使関係の安定化メカニズムの確立と戦時労使関係の基本構造の出現

3.1  「ストなし協定」とNWLBの形成

「ストなし誓約」(No-strike Pledge) アメリカの参戦のインパクトにより、アメリカの産業動員体制全体が戦時ベースに転換するとともに、労働動員と労使関係の安定化を図る戦時労使関係を確立する動きが大きく展開することになった。まず「長期戦略・政策形成」レベルにおける最も重要な展開は、「ストなし協定」であった。これにより戦時の労使関係の大枠が設定されることになった。そうした枠組みの中で、戦時の労使関係を管轄する戦時機関として、全国戦時労働委員会(National War Labor Board—NWLB)が設置され、参戦期初期に戦時労使関係の安定化の基本メカニズムが確立された。また、戦時労働力の量的な確保と配分の問題についても、「国防期」の展開を受けて参戦期初期に大規模な労働者訓練計画が推進され、さらに参戦期後半からの労働力不足の深刻化に伴い、労働力の配分統制が導入され、労働力動員の体制が確立されることになった。

重要国防産業の(個別安定化協定)とNDMBによる特別仲裁機構の形成を二大側面とする国防期の労使関係の展開は、戦時労使関係の形成にとって重要な準備過程となったが、「国防期」においては、準戦時体制に傾斜したとはいえ依然「平時」べースにあったため、戦時労使関係そのものの確立には至らなかった。しかし、「真珠湾」(1941年12月7日)によるアメリカ参戦を受けて、戦時労使関係の形成が本格化した。労働組合指導層も姿勢を大きく変え、AFLの最高執行委員会は、真珠湾攻撃後直ちに、戦時・国防産業で非ストライキ政策を声明し、同時に第一次大戦期と同様の戦時労働委員会の設置を主張した。CIOや共産党系組合も戦時生産への全面協力を表明した。参戦後、数週間は、ストライキが実質的に消滅した(1941年12月のBLSスト件数は新規・継続中含めわずか287件、参加人数も6万人にとどまった(USDL, BLS(1942b): 1–4)。連邦議会では、ストライキ国防工場の軍による接収やさらにNDMBを機能停止に追い込んだ大炭坑争議を受け、国防スト禁止の議会立法の動きが一段と強まっていた(12月3日には下院でストライキ規制法案が252対136で可決されていた(Seidman(1953): 72;USBB(1946): 191)。

こうした参戦時の状況を受けて、ルーズベルト大統領は、戦時の労使休戦をめざし、参戦後直ちに、1941年12月17日、経営側代表12名、労働側代表12名(CIO、AFL同数)による大統領労使会議を招集し、国防生産の停止を阻止する公式の労使協定の締結を追求した。同会議では、ユニオンショップなど組合保障問題は紛糾したが、戦争継続中、ストライキ、ロックアウトに訴えずにすべての紛争を平和的手段で解決する「ストなし(No-Strike Pledge)協定」が合意された(12月23日)。同協定は、戦時期を通じて、アメリカ戦時労使関係の全国レベルの最も基本的なベースを与えることになった。こうした枠組みが合意されたことは、戦時労使関係の調整と安定化の基準の最終決定が、自主的団体交渉から、国家機関に代替されることを意味した13。その機能を担う戦時仲裁・裁定機能を持つ中枢機関として設立されたのが、全国戦時労働委員会(National War Labor Board—NWLB)(1942年1月12日、大統領行政令 No.9017)であった。

全国戦時労働委員会(NWLB)による戦時の特別仲裁・裁定メカニズムの確立 NWLBは、ニュー・ディール以来の「三者」システムを明確に引継ぎ、経営、労働、公益同数の合計12名のメンバーで構成された(議長はWilliam H. Davis、副議長はペンシルベニア大学教授George W. Taylor)。NWLBは、既存労働立法(鉄道労働法、ワグナー法、公正労働基準法など)の枠内で「戦争遂行に貢献する活動を阻害する」、団体交渉・直接交渉で解決できない労働争議の最終解決を主要機能とする戦時特有の特別仲裁・裁定機構であった。NWLBは、大統領戦時権限による強制力に裏付けられ、NDMBよりもはるかに強い権限を保持したが、「規制されない」(unrestricted)自主的団体交渉を維持することを重視した(NWLB(1947–49): 64, footnote 1) )。それは、戦前来の産業体制を維持しながら、そこに戦時行政機構が介入し調整するという第二次大戦期アメリカの戦時産業動員体制の特質が現れている。NWLBは、曲折を経つつも、すべての未解決労使紛争の処理を担うものとなった(NWLBの機能と特徴の概要は、Douty(1946)、Aron(1947)などもみよ)。

参戦と全面的な戦時経済への移行によって、1930年代以来賃金問題と組合保証問題を二大争点としてきた労使紛争の焦点のシフトが、さらに大きく促進され、労使の団体交渉関係に重要な変化が生じた。第1に、労使交渉において、政府が「顧客」でありかつ賃金・価格の規制者として現れることになった。同時に、第2に、大規模な軍需契約と戦時統制、「超過利潤税」などにより、企業にとって「コスト」・「利潤」の意味が変わった。こうした要因が作用し、賃金問題では労使対立は先鋭化しなかった(Seidman(1953): 90)が、NDMBの崩壊、大統領労使会議のデッドロック化をもたらした最大の原因となった組合保障問題が、戦時労使関係の最大の争点となった。NWLBのもとで、組織化問題については「組合員維持」条項、賃金問題については、戦時価格統制と連関した「小鉄鋼定式」という戦時の労働争議の解決基準の二大支柱が確立された。

3.2  戦時労働争議の解決基準の確立―「組合員維持条項」および「小鉄鋼定式」とその意義

組合保障問題と「組合員維持条項」 労働組合の組織化問題、とりわけ組合組織の保障問題は、初期から、戦時労使関係の大きな課題となった。とくに1930年代を引き継ぎ、CIO、AFLの激しい競合が絡んでユニオンショップ、クローズドショップを要求する組合側に対し、終戦後の労働組合勢力の増大に大きな危惧を抱いた経営側は強く反対した。ストライキ権が棚上げされた上、労働力不足が進むなかで賃金その他労働条件に関する組合の存在意義が薄れ、戦時の協調的労使関係維持の支柱となった労働組合を、無関心な新規雇用者や、組合に不満な旧来の雇用主から保護することが必要となった。こうした関係から、結局、NDMBで一定の成功をみた「組合員維持」条項(Union Maintenance Clause)による妥協方式が、NWLBにおいても組合保障問題の解決方式として引き継がれ、組織問題の解決の方式となった。

同方式は、標準的には、「ストなし誓約」遵守を条件に、組合加入を強制されない15日間の猶予期間をおき、その後は組合脱退を認めないことを基本とするもので、ユニオンショップが要求された争議への標準的解決方式として用いられた。組合員維持条項を協約に含ませるNWLBの最初の決定は、1942年2月25日のマーシャル・フィールド社のサウス・カロライナ州スプレイ繊維工場のケースであったが、夏までにインランド・スティール、ウォーカー・ターナー、フェデラル・シップビルディングなどに適用され、1942年秋までに確立された。

「組合員維持条項」の方式は、労使の最大の争点となった組織化問題の労使妥協の枠組みを労働側に有利な形で与え、「ストなし協定」をベースとした戦時労使関係の安定化の最大の支柱の一つとなった。戦時期を通じて同方式への経営側の反対は根強かったが、大統領の介入による強制も含んで、1941年1月から1944年2月までの組合保障問題が関わるケース291件のうち、271件、労働者140万人に適用された。同方式を通じた戦時の組合員維持方式は、戦時期の組合勢力の飛躍的な拡大を促進した。参戦時点で1千万人強であった組合員数は、終戦時までにほぼ1.5倍となり(USDC, BC(1975): 178, Series D948)。戦後初期、アメリカの労働組織率は歴史的ピークとなり、戦後アメリカの基幹量産産業において、大企業・巨大企業と組織労働による産業体制を一般化させる最大の基盤を与えることになった14

賃金統制の展開と「小鉄鋼定式」(Little Steel Formula—LSF) 労働争議の二大争点のうちもう一つの賃金問題に関しては、戦時の一般価格の統制と関連して、戦時のストライキの実質的放棄の見返りに、労働者に対し実質賃金の維持とその他の労働条件の改善を保障する形で、労使休戦の枠組みが形成された。賃金・一般価格の直接統制による市場機構の抑制は、他の戦時経済安定化の主な支柱と装置―国家資金による戦時生産施設の創出や生産能力の戦時転換など供給体制の確保、「統制資材計画」CMPを軸とする戦時生産管理、さらに戦時財政金融機構―の前提をなし、戦時インフレを防止し、戦時経済全体の安定化を図る最も直接的な手段であった(河村(1995): 199)。しかし、一方で、戦時の恒常的需要超過構造の中で賃金上昇が戦時インフレーションを促進すると同時に、生計費上昇が実質賃金の低下を招き労働不安を高めるという関係があった。そうした賃金・物価のインフレスパイラルを防止するために、戦時経済全体の安定化政策の一環というより広い枠内で管理される必要があった。

国防期には、基本的には賃金問題は労使の自主交渉にまかされ、しかも、軍需による利潤の増大をベースに経営側も賃金引き上げを受け入れるケースが多かった。また、経済全体の安定化については、むしろ軍需産業における労使関係の安定化が優先され、NDMBの勧告においてもおおむね賃金引き上げが容認された。このため、組織化問題と比べて賃金問題は比較的容易に収拾された。造船業、建設業などでは、軍需関連で急速な生産・雇用拡大によって熟練労働者を中心に労働力不足が深刻化したため、ストライキの放棄の見返りに、賃上げや超過勤務手当、その他の労働条件が保障する形で個別安定化協定によって、選択的な安定化が図られるにとどまった。こうした自主協定に基づく「選択的統制」という性格は、国防期には一般価格の統制でも同様であった(河村(1998): 358–360)。

しかし、参戦期以降、戦時経済への本格的移行によって、大規模な軍需調達と財政支出の拡大、物資不足の深刻化という事態によって、戦時インフレーションの圧力が高まり、戦時経済全体の安定化政策が本格化し、1942年1月の緊急価格統制法に始まる一般商品の全般的価格統制措置が開始された。これに対応して、賃金・価格のインフレスパイラルの発展を抑制する必要が高まって、賃金抑制が必要となった。すでに別稿で論じたように(河村(1995)第5章: 199–216;河村(2022): 966–971など)、第2次大戦期のアメリカの価格統制は、法的基礎が不明確であった国防期の「選択的統制」によって開始され、参戦直後の緊急価格統制法の成立を受けて、価格管理本部OPAによる「最高価格一般規制」(1942年4月28日)によって本格的に導入された。しかし、同規制では、賃金は対象とされなかったため、戦時のインフレスパイラルを抑制できなかった(Seidman(1953): 110–115)。

賃金引き上げは戦時労使妥協の重要な支柱であり、戦時労働力委員会(War Manpower Commission—WMC)による戦時産業への労働力確保の重要手段であった。また、ニュー・ディール期以来の独自の問題を含む農産物価格も同規制から除外された。しかも、「最高価格一般規制(General Max Price Regulation—GMPR)やとりわけその対象外となった軍需品価格(全商品価格の3分の1)の決定基準は、戦時増産を図るため「コスト・プラス」の性格が強く、生計費の上昇による賃金上昇が価格転嫁される余地が大きく残っていた15。同時に、賃金引き上げが、労働者の産業動員のための労使妥協体制の重要な一方の支柱であり、また、WMCによる労働力供給の手段の一つとして賃金が利用された。このため、賃金は、価格統制法とそれに基づく価格上限設定を通じた直接的統制の対象にされなかった(河村(1995): 202–205)。

「労使休戦」を維持しつつ、労働市場を通じた労働配分の機構も維持し、しかも戦時のインフレスパイラルの抑止のために賃金抑制を実施する、という課題を同時に達成するものとして、賃金統制の基本方式として確立されたのが、「小鉄鋼フォーミュラ(定式)」(Little Steel Formula—LSF)を通じて、生計費上昇の枠内で賃金上げを認めるという原則であった。LSFは、1942年7月半ばのベスレヘム、リパブリック、ヤングス・タウン、インランド各鉄鋼会社のCIOによる賃上げ紛争に関するNWLBの決定によって定式化された。それは、1941年初頭―軍需ログラムによる全般的物価上昇の開始直前―をベースとし、そこから1942年5月1日までの生計費上昇を15%と算定し、この上昇分に達しない場合に限って賃金引き上げを認めるものであった。加えて、この枠内で「工場間および工場内での不公平」を是正するための賃金引き上げは認める、という基準も明らかにされた。

NWLBの賃金問題の管轄は、当初は紛争ケースにのみ限定されていたため、依然として、自主的団体交渉やその他を通じて賃金上昇を抑制するものではなく、他方で農産物価格も価格統制から除外されたことから食料品価格上昇が生計費を押し上げ、それが賃金上昇につながる余地を残していた(Seidman(1953): 110–115)。このため、GMPR後も軍需の急拡大による戦時インフレ圧力は強く、秋には大統領の要請で価格統制法(緊急価格統制法の修正法、1942年10月)が成立し、大統領行政令9250―「安定化命令」―によって、農産物と賃金・俸給を含む価格統制が強化されるにいたった。これにより、、NWLBに、すべての賃金と5千ドル未満の俸給の規制権限が与えられ、「不平等是正」原則を含むLSF―同時に、1942年9月15日までの生計費上昇分以内の賃金引き上げを認める方針が確立された―が、賃上げ基準として確立された(Seidman(1953): 117)。賃上げ調整が行われたケースでは、全体の8%を除いて、同基準が適用されたとされる(Worsley(1949): 314)。OPAが、賃金上昇が価格上限の変更を生じると判断した場合には、同時に設置された経済安定理事Director of Economic Stabilizationの承認を要するものとされたが、実際にはほとんどNWLBの決定によるものとなった。これによって、第二次大戦期の賃金率の決定の基本枠組みが、全国レベルで確立された。賃金引き上げの調整がなされた労使紛争のケースのうち、全体の8%を除いて、これらの基準で賃金引き上げが認められたという(Worsley(1949): 314)。

3.3  「現状保持命令」による賃金統制の厳格化とスミス=コナリー法

以上のように、1942年中には、「ストなし協定」と、NWLBによる戦時の特別仲裁機構と紛争解決の二大基準が登場し、ひとまず戦時の労使関係安定化の枠組みが確立されたことにより、大枠としてみれば、戦時期の労使関係は安定化した。実際に1942年にはストライキ件数は大幅に減少した。労働停止は2968件(労働停止1労働日ないし1シフト以上、参加6人以上)で、喪失労働日は41万800人・日となり総労働人・日の12分の1%で、1941年の5分の1となった。ストライキ参加総数も少なく、小規模で、「ストなし誓約」のもとで、大部分が非公式ストであった(USDL, BLS(1943): 1–3;Seidman(1953): 132–133もみよ)。しかし、戦時生産がピークに近づく1943年半ばから厳しい労働力不足が顕在化した。1943年2月初めには、労働力不足地域に週48時間労働制の強制適用が拡大された(大統領行政令No.9301)。戦時人員委員会WMCの「雇入統制」が1943年2月初めに全国的に導入され、政府の労働力配分統制が開始された(Seidman(1953): 157)。こうした労働動員措置の強化とあいまって、労使関係は不安定化した。1943年からストライキと労使紛争が拡大し始め、とりわけ「山猫スト」が頻発した。

労働側は、労働力不足の拡大と生計費上昇の趨勢のなかで、LSFが不当に賃金を抑制するものとして反発を強め(1943年2月の四大食肉加工業者のケースなど、Seidman(1953): 118–120)、より厳格な生計費抑制か、LSFの修正や廃棄を要求した。政権内では、NWLBによる「不平等是正」の賃金引き上げの必要以上の認可が賃金・物価のインフレスパイラルを悪化させているとの批判が高まった。結局、戦時生産のピークに到達する一方、労働力不足が深刻化している事態の下で、1943年4月8日に大統領によって「現状保持命令」(“Holding-the-line” Order: E.O.9328)が発令され、価格「凍結」措置と賃金統制の強化が図られた。

同命令により、NWLBの賃金不平等是正権限は廃止され、経済安定本部長官(James Byrnes)にNWLB決定の審査権限が付与された。NWLBは、直ちに、1万件の賃金不平等の申し立ての未処理分を破棄(未処理案件の5分の3)した。LSFの厳格化と「不平等」是正の廃止は、労働側の反発を拡大した。一方で、NWLBは、「標準賃金ブラケット」方式(5月12日)や付加給付の増大、炭坑の坑道移動への賃金支払いなど「隠れ賃上げ」を認可し(Seidman(1953): 120–121)、それが戦後労使関係の重要要素の制度化に大きな意義を担うことになった。

全体としてみると、こうしたLSFを基本とする第二次大戦期アメリカの戦時経済における賃金統制の展開は、戦後のアメリカの基幹的量産産業で一般化した「伝統型」労使関係が制度化される上で、そのベース的関係を与える重要な制度転換を含むものとなった。

第1に、「小鉄鋼定式」に代表される戦時の賃金決定基準が一般化したことを通じて、労使間の「自主的」団体交渉においても、また未組織企業の賃金決定においても、賃金引き上げを生計費上昇と結び付ける関係を一般化することになった。労働側も、賃上げ要求を、生計費上昇に結び付け、それを左右する他の経済安定化プログラム全体との関係を問題とするようになった。これは、戦後の労働協約で一般化した「生計費調整条項」(Cost of Living Adjustment—COLA)のベース的関係が形成されたことを意味していた(USBB(1946): 195–198)。また、基本賃金とは別に、フリンジ・ベネフィット(付加給付)が拡大した。とりわけ生計費基準の賃上げ余地が消滅した「現状保持」命令(1943年4月)以降、労働組合側の要求がフリンジ・ベネフィットに集中する傾向を生じた。企業側も戦時利潤の大きな大企業ほど労使妥協を追求してそれを積極的に認める傾向を生じた(USBB(1946): 198–199;Vatter(1985): 121)。

第2に、明確な職務定義にもとづく詳細な職務区分体系とそれに基づく「職務対応賃金」(“same job, same wage”)をアメリカの主要産業に大きく普及させるものであった。戦時産業への新規労働者の大量の流入で大幅な再訓練が実施され、しかも、労働力不足と労働力の移動制限が加わって、内部昇格の必要が生じ、不要な労働力の移動の防止のためにも、職務定義、職務区分の合理化・標準化が必要とされたことによるものであった。とりわけ、1942年10月の安定化命令以降でも、他工場の類似の職務または同一工場内の職務の賃金との不平等の是正の場合には、賃金引上げが認められ、生計費上昇原則が一般的に満たされた後は、こうした形での賃金引き上げが一般化したといわれる。NWLBも各主要産業における標準的な職務区分体系と賃金体系のガイドライン(いわゆる「ブラケット」)を示した(Parrish(1948): 134–151;Goldin and Margo(1992): 23)。こうした「ブラケット」システムによる標準職務区分・賃金体系のガイドライン化を含む、LSFの「工場間・工場内不公平」の是正という賃上げ基準の運用が、明確な職務定義にもとづく詳細な職務区分体系と職務対応賃金体系の普及を大きく促進したのである(詳しくは、USNWLB(1947–49): 227–259をみよ)。

この関連で特に重要なのは、鉄鋼業や自動車産業の事例にみられるように、企業内部において、戦時の労使協調の枠組みの中で、労使合同による詳細な職務評価に基づく職務区分体系の合意とそれに対応した賃金体系の標準化が進んだことであった―USスティールが典型例(Stieber(1959)黒川(1993))。これに加えて、戦時のセニョリティ制の普及と定着(先述)と相まって、戦時期後半の厳しい労働力不足によって、基幹的量産産業とその関連産業大企業・巨大企業が内部格上げや昇進を広く採用したことによって「内部労働市場」の制度化も大きく進展することになったとみることができる16。また、賃金統制の厳格化に対応して、売上・利潤の大幅な増加が生じた戦時量産産業の大企業は、労働力確保と労使関係の安定化の手段として、付加給付の制度化と増加を進めた。

こうして、戦時産業動員体制の重要な一環であった労働動員と労使休戦の制度装置は、戦時期の大量生産システムの普及と拡大と相まって、職場レベルで、戦後の基幹的大量生産産業の戦後企業システムにおけるこうした作業組織と労務管理の面でも、その制度的ベースを準備するものとなったのである17

しかし、とりわけ「山猫スト」の頻発として現れた戦時の「労使休戦」の制度装置の枠外で生じた労働側の攻勢は、戦時期後半の労働不安を加速した。ジョン・ルイスに率いられ、LSFに挑戦した全米鉱山労組(UMW)のストライキ(1943年3月開始)は大規模で、鉄鋼生産を始め、戦時生産への脅威となった。ゴム、鉄鋼、造船などで、終戦まで「山猫スト」が増大した。1943年春のUMWのストライキは、結局、大統領による炭鉱の接収と介入を通じて妥協が成立して決着したが、その過程で、戦時工場の接収を規定するスミス=コナリー法(The Smith-Connally Anti-Strike Act of 1943、または戦時労働争議法War Labor Disputes Act, 1943、1943年6月25日成立)が、大統領の拒否権を覆して成立した。同法は、1930年代のニュー・ディール立法であるワグナー法(全国労働関係法National Labor Relations Act, 1935)から戦後のタフト=ハートレイ法(1947年労使関係法―Labor Management Relations Act, 1947)への労使関係の法的枠組みの転換に直結する重要な内容を含んでいた。

同法は、国家安全保障に重大な脅威となるケースの大統領による接収を規定し、接収中の工場では、ストライキ、ロックアウト、怠業は違法とされ、罰金と禁固刑を課すものであった。多数派ストライキそのものは違法としなかったが、戦時工場では、ストライキ通告後30日の「冷却期間」をおき、その後NLRBがストライキ投票を実施することを義務づけた。また、国政選挙の候補者への労働組合の寄付を禁止し、CIOを中心とする組合の政治活動に枠をはめた(Seidman(1953): 188–191, 200–201;Vatter(1985): 124)。戦時期の同法による政府工場接収は66ケースが記録されている(Vatter(1985): 125)が、結局、同法は、第二次大戦期のアメリカの戦時労使関係が労使の「自主的」団体交渉と「三者システム」による調整を軸としつつも、「長期戦略・政策形成」レベルで、戦時労使関係を決定づける最終的な権力関係が、戦時強権にあるという戦時経済の論理を明示するものとなったのである18

4.  戦時期後期の職場レベルの労使関係の変容と戦後労使関係の制度的諸要素の形成

4.1  職場レベルの労使の力関係の変容と戦時期後半の労働不安の拡大

以上のように、戦時期後半にかけて、政府による紛争工場の接収という戦時強権の発動を背後におきながら、「長期戦略・政策形成」レベルで、戦時行政機構(WMCが中心)による労働力配分の補完メカニズムと強化と並んで、戦時労働平和の達成を図る政府の圧力と介入という戦時特有のダイナミズムが強力に作用した。そのもとで「団体交渉・人事政策」レベルでは、「ストなし誓約」をベースに、強制裁定権限をもつNWLBメカニズムを労使が受け入れ、「組合員維持」方式とLSF(「小鉄鋼定式」)が紛争解決基準として確立された。それは、CMP(統制資材計画)を軸とする戦時生産管理機構の確立、全面的価格統制の有効化と並んで、アメリカの戦時産業動員体制の中枢部分を確立するものとなった。同時に、そうした戦時労使関係の大枠の中で、工場現場の「職場・個人/組織関係」レベルでも、企業内労使の力関係に重要な変化が生じた。それは「団体交渉・人事政策」レベルにも多大な影響を及ぼし、戦後アメリカの伝統型労使関係・労使慣行の確立の重要な制度ベースを形成するものとなった。

戦時経済下で職場レベルの労使関係の制度的発展の重要な枠組みとなったのは、戦時の労使協力の推進があった。アメリカの参戦直後(1941年12月)の「大統領労使会議による大企業・巨大企業の経営側と組織労働の間で成立した「ストなし誓約」(No-strike Pledge)は、その最も大きな枠組みとして終戦まで維持された。また国防期から参戦期初期にかけて開始された大規模な戦時労働者訓練プログラムは、戦時の労使協力を大きく推進するものとなった19

しかし、職場レベルの労使の力関係の変容をもたらす上で重要な意義を持ったのは、戦時産業を中心に追求された、戦時増産に向けた生産現場レベルの労使協力の推進であった。それに対する経営側、労働側の対応が、労使関係の不安定化の要因となり、それがまた、「団体交渉・人事政策」レベルでも、また、「長期戦略・政策形成レベル」でも、戦後労使関係の制度的発展のベースを与える重要な展開を生じることになった。続いてこの点を確認しよう。

職場レベルにおける労使協力は、重要軍需産業の個別的安定化協定(先述)にも織り込まれたが、その全国レベルの展開に大きな意義を担ったのは、1942年春(3月1日に公式に宣言)からWPB議長D.ネルソン(Donald Nelson)の主導で開始された戦時生産増進運動(War Production Drive)であった。これは、戦時産業の各工場レベルで、労使協力を通じて、欠勤問題や職場条件の改善、必須資材の節約・浪費の排除などのほか、とりわけ生産現場の生産工程、作業方法、機械設備のメンテなどの改善を追求し生産性向上を図ることを目的にして、全国的に展開された。その手段として、労働者の自発的関与を促進する改善提案制度が広く導入された。また各工場に労使委員会(Labor-Management Committee)が設置され、工場現場・職場レベルの労使協力の幅広いベースを形成した。1943年半ばまでに2200以上の労使工場委員会が各工場に組織され、470万人以上の労働者をカバーした。1942–45年全体では、WPBの登録された対象労働者の約40%にあたる雇用数700万人に上る約5000件の工場委員会が設置された(Siegel & Weinberg(1982): 104)。実際の効果は限定されたものであったといわれるが、目立った成果のケースも数多く報告されている(Seidman(1953): 178)。

職場の管理は「経営権」(management prerogative)の問題であるが、戦時増産の圧力のもとで、生産現場の安全・生産管理・規律とワークルールなど労務管理をめぐる生産現場のコントロールの主導権の問題は、労働者、フォアマン、労組職場委員(shop stewards)の対立の焦点となった(Lichtenstein(2007): 100)。政府による労使関係への介入・調整体制のもとで、戦時増産運動と工場労使委員会の設置などを通じた職場レベルの戦時労使協力の進展(詳しくは、ILO(1948): 184–259, Chapter XI–XIVをみよ)は、職場の管理を巡る労使の力関係に変容をもたらす大きな要因となった。

最大の問題となったのは、現場におけるフォアマン権限の弱体化と職場規律の維持機能の低下を通じて、経営による生産現場のコントロールの後退を招いたことであった。フォアマンは、伝統的に工場現場で労働者の雇い入れ、賃金・労働規律、生産コントロールを担ったが、1930年代末までにかつての「フォアマン帝国」は解体され、その権限と地位の長期的な低下が進行し、企業の人事・技術部門がその機能と権限を吸収する傾向が現れていた。1930年代後半には、新たに労組が苦情処理手続きとセニョリティ・ルールを通じ、フォアマンの一方的規律と権力を制限するに至った(Jacoby(2005)訳: 131–140など)。そうした長期傾向の上で、戦時大増産による大量の新規監督者の雇用による「希釈化」(dilution)が加わって、フォアマンの力と地位がさらに大きく低下した。(GMでは1943年の1万9000人のフォアマンの42%が経験1年以下であったとされる)

一方では、こうしたフォアマン権限の弱体化は、フォアマン協会(The Foreman’s Association of America—FAA)の大きな拡大を生んだ。FAAは1941年5月に組織され、1944年半ばまでに3万3000人以上を擁するに至った。その約80%がデトロイト地域の自動車、航空機工場に集中し、ゴム、金属加工、電機産業にも浸透した。しかし、経営側の強い反対と、NLRBの行政ルールの曖昧さのため、その組織の維持は一般労働者の善意に依存するものであった。その結果、デトロイトのダッジメイン工場、ロングアイランドのブリュースター工場、GEエリー工場などのケースにもられるように、フォアマンの工場規律の維持力が弱体化し、生産コントロール力を失う事態が生じたといわれる(具体的事例を含め、以上については、Lichtenstein(1982): 117–121をみよ)。

こうした事態に直面し、経営側は、1943年後半から戦時増産圧力を利用して「経営権」の回復と規律強化に動き、労使関係の再編と集権化を図る動きを強めた。1943年初夏には、NWLBは、クライスラーとUAWが、約50の協約問題で団体交渉が崩れたと結論した。フォードでも同様であった。(Lichtenstein(1982): 121)。また、とりわけ組織化に抵抗してきた労働集約産業(小売り、繊維、サービス)で、経営側に反組合感情が強まった。そうした動きを背景に、NWLBの経営側委員が保守派に交代し、1944年4月にはハンブル・オイル社のケースで、組合員維持条項の付与を否定する事態となった(Lichtenstein(1982): 207–208)。

戦時期後半のそうした経営側の強硬姿勢と、生産現場での新たな生産標準や職場規律強化に対する労働者の抵抗が増大し、NWLBには賃金・職場問題に対する大量の苦情処理案件が集中して機能麻痺を招いた。1943年冬までに毎月1万~1万5千件の新案件が集中した。NWLBは1943年後半には地域委員会に権限分散化を図って対応しようとしたが、処理の1年遅れが常態化したという。他方、労組トップレベルでの「ストなし誓約」の維持のなか、労組も一般労働者の統制力が弛緩し、「職場」レベルで労働者の反撃は、非認定unauthorizedスト(「山猫スト」)の頻発を招く大きな要因となった20

戦時期後半にかけて、「長期戦略・政策形成」レベルで、政府戦時行政機構による労働力配分の補完メカニズムと並んで、戦時労働平和の達成を図る政府の圧力と介入という戦時特有のダイナミズムが強力に作用した。そのもとで「団体交渉・人事政策」レベルでは、「ストなし誓約」をベースに、強制裁定権限をもつNWLBメカニズムを労使が受け入れ、「組合員維持」条項およびLSFによる紛争解決基準の確立をみた。それは、CMPを軸とする戦時生産管理機構の確立、全面的価格統制の有効化と並んで、アメリカの戦時産業動員体制の中枢部分が確立されたことを意味していた。しかし、同時に、そうした戦時労使関係の大枠の中で、工場現場の「職場・個人/組織関係」レベルで生じた以上のような企業内部の労使の力関係の変容は、「団体交渉・人事政策」レベルにも多大な影響を及ぼし、戦後アメリカの伝統型労使関係・労使慣行の確立の重要な制度ベースの形成をもたらすものとなった。中でも、「経営権」を巡る問題が、重要な意義をもった。

4.2  職場レベルにおける労使関係の変容と「経営権問題」

1944年には、労働停止件数(報告件数)は、4956件で以前のピークである1937年を上回った。最大の戦時産業となった自動車産業では、労働者の半数が何らかの作業停止に参加した(1942年には12分の1、1943年には4分の1)。争点は、賃金問題(争議件数の5分の2強)に加え、主に生産コントロールと規律維持の問題で、職務配置の変更や時間変更が規律問題に発展するのが典型的であったとされる(Lichtenstein(1982): 122)。実際には、これらの作業停止は、多くが数人~数百人規模の1シフトないしそれ以下の“quickie”(突発・短期)ストで、喪失労働日・人の比重も小さく(総労働時間の0.07%、USDC, BC(1975): 178, D974)、戦時生産の阻害は最小限に留まったとされる(Seidman(1953): 134;Lichtenstein(1982): 135;USDL, BLS(1945): 17もみよ)。しかし同時に、「山猫スト」の増大を招いた経営側の生産コントロールと人事・労務管理の主導権の回復を図る動きは、機械化・自動化の追求などの経営側の動き(Hounshell(1995))や、また戦時労使協力と密接に結びついて、職務区分・賃金体系の標準化やセニョリティ・ルールの普及など、職場レベルにおける戦後労務管理システムの制度化のベースを与える展開を生じたことは強調されてよい。さらに、この関連では、戦時統制・戦時労使協調のもとで、「団体交渉・人事政策」というレベルでみると、戦後の労組による「経営権」承認へのベースが形づくられた点も重要であった。

戦時期の「経営権」問題の展開は、かなり複雑であるが、基本的には次のような内容で、戦後の「経営権」の組合側の承認につながるものであった。すなわち、戦時期には、①「ストなし協定」とNWLBによる裁定機構・賃金統制によって、1930年代以来の苦情処理手続きがさらに職場から切り離される傾向を強めた。また、②セニョリティ制が普及・拡大したことによって、職長権限がさらに弱体化し、その職場規律の維持機能が低下した。これに対処するため、企業側は人事部等の経営組織を通じて、工場現場の管理の強化と職場規律の維持を図った。他方、組合側は、組合員維持条項によって組合組織自体は大きく拡大したが、職場・地方支部レベルの交渉力をそがれ、また、戦時大量生産産業では新規労働者が大量に追加されたことが加わって、生産標準や職務配置、ワーク・ルールの変更などの職場レベルでの経営側の決定に対して、労働側の対抗力と職場レベルの統制力が低下した。これが、一方で、先述のように、戦時後半の「山猫スト」の増大の原因となった(Lichtenstein(1982): 110–135, Chapter 7)が、これに加えて、WPBのもとで推進された戦時増産運動による工場レベルの労使・委員会の設置や労働者提案制度の導入、訓練計画の推進など工場現場の生産システムの運営に関する労使協調の進展が加わり、その結果、全体に、戦時期の終わりまでに、生産過程に対する企業の支配力は強化されたと考えられる。FAA・その他のフォアマン層による組織化・労働組合化の動きは、それを取り込もうとする組織労働側と経営側の戦後労使関係の争点となったが、それは、生産現場の管理をめぐるこうした労働側の失地の回復の動きが背景となったと考えられる。後にみるように、この問題は、最終的にはタフト・ハートレイ法によってフォアマンが企業の経営組織の末端として吸収されて決着したため、戦時の「経営権」の実質上の強化の上に、戦後労使協約における組合側の「経営権」の承認に帰結していったものとみることができる21

5.  結びに代えて

以上、戦時期の労使関係の展開は、コーハン・カッツ・マッカージーのいう労使関係の「三層」レベルすべてにおいて、いずれも、ニュー・ディール期の長期的な労使関係構造の変化を、アメリカの産業体制に定着させる役割を果たすと同時に、戦後労使関係の長期的な制度的ベースを形づくる意義を持つものとなった。実際には、戦後アメリカの基幹的量産産業の大企業・巨大企業の戦後企業システムで主流を占めるに至った「伝統型」労使関係は、戦時経済から平時経済への移行の過程である戦後再転換のプロセスで、戦後の労働攻勢による「再転換危機」を経て、戦時労使関係の諸要素が、一定の修正を受けて戦後労使関係として定着することによって、確立されることになったのであった(続稿に続く)。

1  本稿は、これまで拙稿の各所で論じてきた点を、各稿をベースにしながら、アメリカの基幹的量産産業における戦後企業システムの一方の支柱となった戦後の「伝統型」労使関係の制度構造と組織特性の基本点の形成と確立という視点から、改めて整理し直したものである。

2  河村(1995)第6章、河村(2007)もみよ。

3  基幹的量産産業および関連産業の大企業・巨大企業は、戦争直後の1948年における、製造業各分野で上位5位以内を占めたアメリカ100大企業(資産額)に代表される。一覧については、河村(2003): 103のColumn⑤をみよ(Chandler(1990)付表A.3による)。アメリカ型大量生産システムと戦後の「伝統型」労使関係の制度構造の特徴については、基本は、河村(2003)第3章で論じた。「ダンロップ・モデル」(Dunlop(1958))を筆頭に、数多くの研究があるが、ここでは、本稿の目的に沿って、「モデル化」した議論となっている。1980年代末から20数年にわたる現地実態調査(1989年と2000年・2001年に実施した包括的な現地調査が中心)を通じて、自動車、電機、一般機械の組立および部品企業等において、日本型経営生産システムの現地移転が直面した、日本型とは対極的な特徴として浮き彫りとなったアメリカの生産システムの生産管理の基本ロジックとその作業管理・労務管理、および労使慣行・労使関係の特徴的な「制度構造」―日本型だけでなく、ヨーロッパやアジア等の他地域とも異なる―を、モデル的に解明した研究成果を裏付けとしている。詳しくは、河村(1991)河村編著(2005)のとくに第1章、Kawamura, ed.(2011)Chapter 1をみよ。また、最近の議論としては、河村(2022): 932–937をみよ。

4  ライン生産方式は、狭義には、ヘンリー・フォードによるベルトコンベア式のアセンブリーラインの生産方式を意味するものであるため「フォード=テーラー型」と表現しているが、トヨタ生産システムに代表される日本型生産方式のプル原理に基づき「一個流し」を原理とするライン生産方式と区別してとらえれば、プッシュ原理に基づいて編成される、大ロットによるバッチ生産を原理とするジョブ・ショップ型各工程を全体としてシークエンシャルに管理する生産方式―戦時期の航空機製造やリバティ船の大量生産方式で大きく発展した―も含む概念として用いる。日米生産システムの特徴の対比は、河村(1991)(2005)、およびKawamura(2011)で詳しく論じている。

5  戦後アメリカの伝統型「労使関係システム」をモデル化したダンロップ理論(Dunlop(1958)は、「経営」、「労働」(組織労働)、「政府」を三つの「キー・アクター」として、それぞれの特質と、その相互作用の結果として、雇用関係を支配するルールと公的措置の体系として具体的な労使関係の姿が現れるという基本フレームワークによって、戦後アメリカの「伝統型」労使関係構造を説明することに成功し、その後の労使関係論の主流を形成した。これに対し、コーハン、カッツ、マッカージー(Kochan et al.(1986))は、「ダンロップ・モデル」の理論枠組みそのものを見直し、経済環境の変化に対する「主体」の「戦略的選択」を重視し、使用者(経営)、組合、政府が相互作用し合う労使関係活動の場を、「長期戦略・政策形成」、「団体交渉・人事政策」、「職場・個人/組織関係」という上層、中層、下層の三つのレベルに分ける「三層」アプローチを通じて、「労使関係システム」そのものの変容まで立ち入って、1980年代アメリカの労使関係の「歴史的変容」説を体系的に提起した。この点については、河村(2003): 311–312をみよ。同アプローチは、本稿が示すように、労使関係の制度転換のダイナミズムそのものを捉えることができるきわめて有効なフレームワークである。

6  戦時産業動員体制の構築を必然化する関係については、河村(1995): 89–91、および河村(1998): 366–369をみよ。アメリカの第二次大戦期の戦時経済システム全体については河村(1995)、要約版は河村(1994)をみよ。

7  第二次大戦期アメリカ戦時経済における戦時労使関係の展開については、河村(1995)(1998)(2003)など各所で論じてきたが、とくに河村(2007)では、「企業社会の権力」の問題として、労使関係を暴力的関係も含む権力関係として捉え、企業社会におけるその権力関係の制度化による安定化という視点から、戦時労使関係の展開を論じた。本稿は、分析の対象が同一のため、同稿と内容や事例は重なる部分が多いが、「企業システム」を制度(広義・狭義)の集合体として捉える視点から、本来の問題である戦後の企業システムそのものの制度形成の問題として、論点をより明確にして、総合的に整理し直した。

8  こうしたアメリカ労使関係における「労」・「使」・「政」(「政府・公益」)の三者システムについては、全国レベルでは、第一次大戦期の産業動員体制で本格的に登場し、その解消後、ニュー・ディールのワグナー法(1935年労働関係法)でより明確に規定されたものである。第二次大戦期については、USNWLB(1947–49): XXX–XXXIVをみよ。またPiore and Sable(1984)訳: 134もみよ。

9  NDACおよびOPAの設置とその特徴について詳しくは、それぞれ河村(1998): 53–56、164–168もみよ。

10  以上については、河村(2007): 179–183を、本稿の主旨に従って各論点の意義を明確にした上で、一部手直しして再録した。また、河村(2007): 320–325もみよ。

11  個別安定化協定については、河村(2007): 183–184。主にUSCPA(1947): 166–167をみよ。造船業に関しては、USCPA, WPB, Coleman(1945): 127–137、航空機産業に関しては、USCPA, WPB, Sitterson(1946): 145–153、建設業に関しては、USCPA, McGrane(1945): 47。また、河村(1998): 325–327もみよ。

12  「6ポイント」政策は、以下の内容であった。

1.国防企業への移転に際してそれまでのセニョリティが保持されるべきこと。すなわち、非国防生産に従事していてレイオフされた労働者が、国防生産に従事している他の企業に移った場合、前の雇用者に国防生産への移動が証明される限りセニョリティが保護されること。

2.国防生産への配置転換は、熟練・半熟練労働者を優先してたうえで、セニョリティに従ってなされるべきであること。

3.国防生産への新規雇用は、地元の非国防産業のセニョリティのある有資格労働者を優先すること。

4.熟練労働者のうち、レイオフ中、非常勤、ないし自らの専門職以外の非国防産業に雇用されている者は、セニョリティを保持したまま、要請に応じて本来の専門職での国防生産に解放されるべきこと。

5.以上の1~4の政策は、遵守されるべきパタンを示すものであり、遡及的なものではなく、またその適用は、地域的コミュニティの問題であること。

6.一般条項として、以上の1~5点は、第6点に服すること。すなわち、①被雇用者の呼び戻し(recall)に関しては、現在失業中か、国防・非国防生産に雇用されているか否かに拘らず、貸与ないしはレイオフされている被雇用者が、少なくとも一週間の通知によってコールされたときには、国防生産のために原セニョリティを有している企業に復帰しなければならないこと。②この(上記の政策の)ために、特定の給与職務に向けて国防訓練を受けている場合には、国防雇用とみなされること(USCPA(1947): 187;USWPB, First(1944): 11–12)。

以上のように、この「6ポイント」の政策は、1930年代以来の産別組合運動を通じて確立されつつあった労使関係の枠組みを再確認すると同時に、その基本ルールとして、セニョリティ・ルールの確立と普及を大きく促進する意義を担うものであった。河村(1998): 327–328もみよ。

13  以上の「ストなし誓約」については、河村(1995): 180–181もみよ。

14  以上、「組合員維持条項」の展開については、主に、河村(1995): 182–185および同注12: 197–198をみよ。

15  第二次大戦大戦期のアメリカの価格統制とその特質については、河村(1995)第5章で総合的に論じている。国防期の価格統制については、河村(1998): 357–161をみよ。

16  戦後企業体制における「構造化された内部労働市場」については、Gordon et al.(1982)訳: 153–155をみよ。戦時にセニョリティ制・昇進規定が普及したことは、小池和男氏も指摘している。小池(1977): 147–148。NWLB自体は、昇進に関して、セニョリティ・ルールとメリット・システムを並列的に扱い、むしろメリット・システムを推奨したといわれる。Parrish(1948)142–143.。Orfleid(1944)もみよ。アメリカの第二次大戦期の産業動員体制における「組合保障」問題と「組員維持条項」方式の全体について、詳しくは、USNWLB(1947–49): Chapter 7をみよ。

17  以上の戦時労使関係の展開と意義については、とくにあげた以外でも、全体として、Seidman1953, Koistinen(1965)Lichtenstein(1982)などをみよ。また、USNWLB(1947–1949)のとくに、XII–XXXVIをみよ。戦時統制と関連した戦時期の労使関係の展開は、いずれも、ニュー・ディール期の長期的な労使関係構造の変化を、アメリカの産業体制に定着させる役割を果たすと同時に、戦後労使関係の長期的ベースを形づくる意義をもった。その他、女性・黒人等の雇用の大幅な拡大と関連して、公正雇用慣行委員会FEPCを中心として、雇用差別慣行の制限政策も展開されるなど、戦時期の女性と黒人問題についての重要な展開があった。さしあたり、Vatter(1985): 127–135、Wayne(1945)などをみよ。また、女性の労働力化や後の「ベビーブーマー」世代など、戦後の労働力構成に大きな長期的変化をもたらす大きな要因となった。Freeman(1980)、訳: 12–20。こうした側面については、別の機会に論じたい。さしあたり、河村(1995): 193をみよ。

18  スミス=コナリー法を含め、1930年代のワグナー法の枠組みから、タフト・ハートレイ法への転換と戦時労使関係の意義の問題については、Millis and Brown(1950)をみよ。

19  国防期から開始された大規模な戦時労働者の訓練プログラムについては、河村(1995): 171–175をみよ。戦時労働者のTWIなど、同訓練プログラムの推進は、職場の労使関係における労使協力を大きく推進するものであったが、戦後のアメリカの伝統型労使関係が定着する中で、こうした側面での労使協力は大きく後景に退くことになり、むしろ1980年代以降の「譲歩交渉」など、新たな労使関係の模索の中で、再度注目を集めることになる。そのため、紙幅の関係で本稿では省略した。

20  山猫ストの頻発のダイナミズムについては、Lichtenstein(1982): 121–135、および同(2007): 100–101もみよ。

21  タフト・ハートレイ法については、河村(1995): 257–258、河村(2007): 197–197をみよ。この点も含めて、終戦後の戦後再転換過程において、戦時期の労使関係の制度変容・組織転換を引き継ぎながら、その修正として、アメリカの基幹量産産業およびその関連産業における戦後(大企業・巨大企業の)企業システムの一方の支柱となった戦後の「伝統型」労使関係が定着するプロセスについては、続稿で論じる予定である。さしあたり、河村(1995): 293–297、河村(2007): 194–200をみよ。また、河村(1994): 70–73、河村(1999)もみよ。

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