イノベーション・マネジメント
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論文
通信社と広告会社の一体経営
―電通創業者光永星郎が構想したパーパス経営―
片山 郁夫
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2024 年 21 巻 p. 15-34

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要旨

現代はVUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)の時代と呼ばれ、社会全体の先行きが不透明で予測困難であるとされる。そのため、社会全体として持続可能性(サステナビリティ)が課題とされ、企業にはパーパスを起点とした企業価値創造が期待されている。

本稿では、電通の創業からの発展と創業者光永星郎の企業家活動にフォーカスすることで、現代企業におけるキーワードであるパーパス経営について考察する。光永は1901(明治34)年に電通(日本広告・日本電報通信社)を設立し、通信社と広告会社の兼業ビジネスを開始した。当時は、通信社も広告会社も事業経営が不安定で、特に広告会社は営業手法の未熟さゆえに社会的地位が低かった。そのような時代に創業した電通の発展プロセスと光永の経営哲学である「臥薪嘗胆」、「広告会社の近代化を目指した社是」、「信条『健・根・信』」を踏まえると、光永が志向したパーパスは「通信・広告の力で世界に正確な情報を迅速に届ける」ことだったと考えられる。

現代企業にとって、パーパス経営は企業経営上の重要な概念であり、企業は自社の存在意義を問い直し、パーパスを社会的な関わりの中でしっかりと位置づける必要がある。今後多くの企業が本質的な意味でのパーパス経営を実践するためには、電通で見られたように経営理念や経営哲学など創業以来の歴史的背景を踏まえて、従業員をはじめとするステークホルダーの共感を得ることが重要であろう。

Abstract

The contemporary era has been called the “age of VUCA (volatility, uncertainty, complexity and ambiguity)”. Sustainability is a collective concern, and companies are expected to create value through clear purpose.

This paper surveys Dentsu’s history and its founder Hoshio Mitsunaga’s entrepreneurship, focusing on purpose management. Founded in 1901, Dentsu served as both a news agency and advertising firm, facing instability and social disregard. With insights from Mitsunaga’s philosophy, company creed, and credo, Dentsu’s core mission is delivering accurate information globally via communication and advertising.

Purpose management is pivotal in modern corporate governance, requiring companies to reevaluate their significance and embed purpose within the societal context. To genuinely practice purpose management, companies must earn stakeholders’ support by aligning historical background, management principles and the sentiments of employees and other stakeholders.

1.  はじめに

現代は世界規模での経済・社会の変動が顕著となり、企業経営をめぐる環境は不確実性が高く先が見通せないVUCA1の時代といわれている。しかしながら、わが国の明治時代以降の歴史を外観してみても、二度の世界大戦、世界恐慌、関東大震災、戦後復興と経済成長、バブル景気と崩壊、ITバブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災、新型コロナなど、社会経済は常に変動の中にあったといえよう。

わが国の近代的通信社の成長は新聞(社)の普及・発展とともにあったが、その経営基盤は脆弱で零細規模が大半だった。また、新聞メディアにとって重要な収益事業である新聞広告をもたらす広告会社2は事業として未成熟で営業手法の稚拙さから社会的地位は低く見られていた。

光永星郎(雅号「八火」3)が電通の前身である日本広告・日本電報通信社を創業したのは、業界がそのような地位にある時期、1901(明治34)年のことだった。光永は自身の経験をもとにマスメディア(当時は新聞)の健全な発展を企図し、通信社と広告会社を兼業する事業を強い思いを持って起業したのである。

写真1 光永星郎  1866(慶応2)年~1945(昭和20)年

(出所)電通ウェブサイト(2022)https://www.dentsu.co.jp/aboutus/history.html

現代の電通は、日本最大の広告会社を中核とする企業グループであり、事業領域は広告会社の枠に収まらず、マーケティング、プロモーション、メディアプランニング、PRなどの企画・戦略など多様なビジネスを展開している。企業としての業績・規模は、2021(令和3)年12月期業績:売上高5.2兆円、総利益9,765億円、営業利益2,418億円、従業員数65,000名(国内外)で、広告会社の国内ランキングは圧倒的なトップで、2位以下には博報堂、アサツーDK、サイバーエージェント、大広と続き、グローバルベースでは電通グループは世界5位である(広告会社単体の売上では1973~96年には世界でトップ4)。

本稿では、電通に関する先行研究の多くが戦後の発展に注目してきたのに対して、電通の創業からの祖業である通信社と広告会社の発展および創業者である企業家光永星郎に焦点を当てる。そして、光永の生い立ちからその企業経営、経営哲学がいかなるものであったのか、光永が志向した経営の中に昨今企業経営において注目されるパーパスをどのように見出し得るのかを検討するとともに、現代企業のパーパス経営について考察していきたい。

2.  先行研究

電通を対象とする研究は、ほとんどの場合、日本経済の戦後復興と高度経済成長とともに発展を遂げた広告会社としての電通に注目している。電通は戦時体制に向かう中で政治的圧力によって苦渋の選択となった通信社事業から撤退し広告会社専業となった。そのため電通の経営者としては戦後の発展を牽引した四代社長吉田秀雄に関する研究がほとんどである(濱田, 2008佐々木, 2001)。

無論、産業としての通信、広告に関しては多数の研究が存在する。

通信事業に関する研究としては、伊藤(2000)が国際ニュースの流通に関する理論と実証研究を概括し、江口(2009)は戦間期から第二次大戦までの10数年のわが国通信社、特に合併前の聯合と電通の活発な配信など通信社としての電通の活動にもフォーカスした。また、片山(2006)は通信社の定義や世界と日本の通信社の略史からその役割や課題に言及している。それぞれ通信社の機能の重要性、電通が創業期から活動した当時の社会・経済の背景を知るうえでは貴重な研究・資料である。

広告に関する研究では、いわゆる広告効果やマーケティングに関する研究やクリエイティブなど広告制作に関する研究実績が多い中、広告産業の実態と発展を分析した中瀬(1968)、産業組織の観点から広告代理業の構造に言及した八田(1980)、また、大手広告会社の寡占構造に注目した小林(1998)河島(2009)がある。ただし、広告産業や個別の広告企業に関する研究の蓄積は多いとは言えない(伊吹, 2006)。

本稿であらためて注目したいのは、電通は1901(明治34)年の創業時には通信と広告の兼業からスタートしたという事実である。当時のメディアといえば圧倒的に新聞であり、電通は通信と広告の兼業によって、新聞社や広告主を含むステークホルダーの健全な成長・発展に貢献した。

現代の広告会社には、華やかなイメージを抱く人が多いといわれるが、戦前は広告取次や広告ブローカーと呼ばれ、イメージの悪い業種の代表であった。その理由は業界のビジネス手法、営業活動の未成熟さにあり、結局社会的地位も低かったとされる。

本稿で取り上げる電通創業者の光永星郎が通信社と広告会社を創業した時にはいずれの分野もすでに多くの先行企業が活動していた。光永が企業家として社業とメディア業界の発展に力を尽くした時期は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などをはじめ国内外で政変が起こり、自然災害でも関東大震災が発生するなど、社会や経済の激しい変動の時期であった。

石川(1985)はかつて企業家に関する研究を3つに類型化した。すなわち①出自・学歴など社会的属性から経営活動の背景・意識に接近するもの、②企業経営の成功・失敗と企業家との関連からその役割を解明するもの、③企業家列伝・各伝により企業家行動・思考を明らかにし日本の企業家の歴史的特性に迫るものである。

本稿では石川(1985)が第3の類型と位置付けた企業家活動研究の手法に則って、光永星郎の企業家活動と電通の歩みを通じて通信社と広告会社、そして、新聞を中心としたメディア業界との関わりを考察する。加えて、光永の創業の志から現代でいうところの「パーパス」がいかなるものであったのかを読み解くこととする。

3.  光永星郎の生い立ち

3.1  生い立ち

1866(慶応2)年、熊本県八代郡野津村に光永家の長男として生まれ、幼名は喜一(きいち)で、小学校に進学するとともに漢学塾でも学びを得た。その後、1880(明治13)年には、熊本出身の徳富一敬・徳富蘇峰親子からの影響を受け、自由民権、反政府的な気風を持つとともに、藩閥打倒の思いに傾倒していった。しかし、九州各地の藩閥打倒思想を持つ有力者との議論を経て、この活動は声は大きいが実現性に乏しいと判断した。周知のとおり明治時代は政府や軍の要職を「薩長土肥」(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)出身者が独占しており、藩閥政治と言われていた。光永もこうした状況を問題視したが、当時の政治的な状況を踏まえると、声をあげても何も変わらないと理解し、失望したのである5

光永は軍人を目指し、熊本陸軍士官学校の予備校である育雄校に成績トップで合格する。ところが肝心の士官学校には不合格となり再受験を目指したが、ケガが原因で瘭疽(ひょうそ)で右脚に障害を負い、やむなく軍人の道も断念した6

3.2  政治家から新聞記者へ

光永は1887(明治20)年には政治家を志し、自由党の政治家と行動をともにし政府批判活動を行っていた。しかし、いわゆる保安条例、つまり、自由民権運動を弾圧するための条例(言論、集会、出版、治安等の抑圧)の違反により、尾崎行雄、星享、中江兆民等とともに皇居から12キロ以内への立ち入りを禁じられ実質的に活動ができなくなった7

1889(明治22)年、光永は友人上野岩太郎に紹介され新聞記者に転身し、大阪公論、大阪朝日新聞の記者を務め、さらに日清戦争の際にはめざまし新聞、福岡日日新聞の従軍記者として活動した8。この時、従軍記者として苦労して情報を収集し、執筆した記事が日本国内に速やかに伝わらなかったことに強い問題意識を持った。このことが後の電通の創業につながっていく。

新聞記者活動の後、台湾総督府官吏に転身、さらに、官吏を辞して北海道の拓殖を経て東京に戻り、再起を目指した。また、この時期心機一転を期し名を「喜一」から「星郎(ほしお)」に変えている9

3.3  新聞記者経験からのビジネス構想

光永は従軍記者として活動したが、ニュース報道は正確性と迅速性こそが肝といえる。ところが、戦地で危険を冒して情報収集して書き上げた従軍記事も日本の通信網は脆弱で機能せず、新聞への掲載は大きく遅れてしまった。加えて、海外への報道手段も乏しく、外国記者の誤報に対して日本の立場を速やかに正しく主張することもできないため、国益を損なうことすらあった。そこで、光永は新聞社に正確・迅速にニュースを提供することができる通信社の設立を決意するのである10。しかし、通信社事業は多大なコストがかかる事業であり、単体では採算が困難であるため充実した通信事業の運営は困難を極めた。そこで構想したのが通信社と広告会社の兼業ビジネス11だったのである。

この新事業では、新聞社と広告主の共同機関12的存在となり、通信料と広告料とで相殺を目指すビジネスモデルを志向した。光永が標榜した新聞社と広告主の共同機関という言葉は、新聞社と広告主である企業をWin-Winの関係でつなぐ機能を果たすという意味合いで使用された。

新聞社は自社独自で取材活動を行い記事にするとともに、通信社から提供されたニュースを転載して新聞記事にする。そもそもなぜ新聞社が通信社の記事を活用するのだろうか。国内外の広範なニュース情報を新聞各社が自前の記者や特派員を多数抱えて取材活動をするには膨大なコストがかかる。したがって、新聞社の多くは限られた経営リソースの範囲で取材活動を行うことになる。広く有益なニュースを掲載するためには新聞社は通信社の配信するニュースを活用することになる。通信社に依存する傾向は中小新聞社、特に、地方新聞社に顕著である。この通信社に依存するという構図は、現代も変わらない。また、企業広告を受注することは新聞社の経営の安定に欠かせない。広告主は自社の商品・サービスの販売の拡大、あるいは企業の認知度やイメージの向上を期待して広告を出稿する。企業が新聞に広告出稿する際は広告会社が仲介して行う仕組みになっている。光永は、ここに共同機関として関わっていくことの優位性を見出したのである。

3.4  難産の末の電通創業

光永は1901(明治34)年7月に「日本広告株式会社」を設立する。出資者や協力者などへの配慮から光永はトップではなく常務として経営に当たった。会長には日向輝武、専務に山崎嘉太郎など役員、株主、賛助会員は政治家、経営者、メディア関係者など、豊富な人脈・知脈をうかがわせる布陣だったが、資金面では資本金10万円を募ることすらも大変な苦労をともなった。さらに、通信社と広告会社を兼業するという事業構想を打ち出していたが、通信社事業は既述の通り多大なコストがかかるため出資する株主から敬遠・反発され、不本意ながら広告会社単独での事業開始を余儀なくされた13

そこで光永は同年11月、個人事業として通信社事業を開始する。光永が社主、盟友権藤震二が社長として、現在の電通の社名に通ずる「電報通信社」が誕生した14。電報通信社は社名の通り、記事配信のスピードを重視し、高コストの一般普通電報で迅速に記事を配信した。

図1は、電通が創業された当時のメディア・広告業界のステークホルダーの相関図である。当時はメディアといえば、新聞社のことであり、彼らの収入源は発行する新聞購読料と新聞に掲載する広告からの収入だった。

図1 メディア・広告相関図(電通創業時)

(出所)筆者作成。

メディアにニュース情報を提供するのが通信社の役割であり、新聞社は自前の記事もありはするが、財政基盤が弱いメディアほど通信社からのニュース配信に依存することになる。これは現代でも全く変わっていない。

また、広告会社は大取次5社(弘報堂、金蘭社、正路喜社、広告社、帝国通信)がトラストを形成していた。それ以外にも小取次と呼ばれる小さな広告会社が多数存在していた15

こうした通信社と広告会社を兼業することで電通は後発参入企業としての挑戦を開始したのである。メディアである新聞社は通信社へ支出する一方で、広告収入が広告会社からもたらされる。特に、当時は、広告会社が新聞社に対して高額な手数料を取り、不透明な取引を行った結果、社会的にも低い地位に甘んじていた16。広告会社は広告をもたらすという意味ではメデイアにメリットがあるものの、そのビジネス手法には誰もが疑問を抱いていたのだ。

3.5  通信社事業と電通

わが国最初の通信社は1887(明治20)年の東京急報社と言われているが、その後も相次いで多くの通信社が生まれている。当時の通信社は政治・経済情報を扱うことから政治・政党と密接な関係があった。これは諸外国においても同様である。電通が創業した時期にもっとも勢いがあったのは、時事通信社と新聞用達会社が合併した帝国通信社で、広告事業を兼業してはいたが、電通とは大きく異なり、広告のウェイトはごく小さなものに過ぎなかった。

電通は特定政党と深く関わることを嫌い、自主独立と不偏不党の立場を重要視した。

3.6  広告会社事業と電通のビジネスモデル

広告会社は、当時は広告取次という位置づけであったが、1873(明治6)年の内外用達会社が草分けとされている17

電通が創業した際の広告業界は大手5社が大取次として牛耳っており、トラストを形成していた。その他の広告会社は小取次と呼ばれ、大取次を通さないと広告の取扱いができない状態にあった。そこに割って入る形で創業したのが電通であり、既得権益をもつ大取次は徹底的に電通、つまり、日本広告の営業活動を妨害すべく新聞社と広告主に圧力をかけたという。日本広告は、このような大取次による不透明で談合紛いの取引が広告業界の地位を貶めていると考え、公正明大で安価な広告料金を提示した。日本広告は、地道な営業努力を重ねた結果、日本広告の企業姿勢を新聞社も広告主も支持するようになっていったのである。

このことは1905(明治38)年の「商業界」に記述されている。「五ツの広告業社の手を経ざれば、新聞社に広告を掲載するわけには行かなくなった」「広告料の割(比率)の如き、最初は一割乃至一割半であつたが、二割となり、二割半となり、遂に三割以上となつたので、新聞社自身も亦此大取次の処置に苦しんだ」「明治三十四年一種の壊乱者が広告界に現はれた。(中略)日本広告株式会社である」18

表1は当時の電通のビジネスモデルの概要を通信社、広告会社、それぞれの事業について、「ターゲット=ステークホルダーは誰か」、「バリュー=価値提案」、「ケイパビリティ=オペレーション・経営リソース」、「収益構造=プロフィット」の4要素でまとめたものである。

表1 電通のビジネスモデル概要

広告事業 通信社事業
WHO:ターゲット
(ステークホルダー)
広告主・新聞社・読者 新聞社・読者
WHAT:バリュー
(価値提案)
公正取引・低マージン
高品質
政治経済+社会ニュース
外電ニュース(スクープ)
HOW:ケイパビリティ
(オペレーション
経営リソース)
営業力・企画力
支援体制充実(設備)
正確・迅速配信
(緊急時は平文電報)
WHY:収益構造
(プロフィット)
広告では従来よりも安価(適正利益)で営業拡大。通信では迅速配信で割高。
⇒広告と通信の一体運営で収益確保。
※通信契約では広告出稿保証。

(出所)筆者作成。

まず、ビジネスのターゲットは通信社事業では新聞社および新聞の読者、広告事業では広告主(企業)・新聞社・読者になる。次に、バリューは多くの通信社が注力していた政治経済ニュースだけでなく、他社が重視していなかった社会ニュースでも価値を提供した。さらに、外電では度々他社を出し抜くスクープ記事を配信した。広告事業では透明性の高い取引を目指し、品質を高めつつ安価な手数料を打ち出している。また、ケイパビリティについては、通信事業では正確・迅速を重視し、広告事業では何よりも圧倒的な営業力を磨き、顧客である広告主の支援を行った。そして、収益構造では、広告を安価な適正価格で提供することによって営業を拡大する一方で、通信ではコストは割高であっても正確で迅速な配信を行った。この2大事業のアンバランスを一体運営によって収益の確保を図ったのである。なお、電通は新聞社との通信契約では自社の強力な営業力を背景に広告出稿保証を行なっており、他社との差別化による競争優位を実現している。

3.7  現代の電通に継承されるDNA

現代の電通につながるDNAとも呼べるものが当時の日本広告に見ることができる。

まず、社是として、取引の公正、手数料の低率、設備充実を掲げており、これはいずれも業界の健全化・近代化、透明な取引を目指す姿勢を明確にしたものである。また、社員の信条としての「健・根・信」、これは光永八火として書を認めるなど光永自身の信条としても大事にされてきた言葉である19

次に、光永の猛烈な働き方を彷彿とさせるエピソードを紹介しよう。

「朝駆け・昼駆け・夜駆け」、これは新聞記者としての経験から生まれたものと推測される。光永は通信社、広告会社のいずれの事業に関しても全力で打ち込んだが、特に、広告会社では大取次と呼ばれる大手社の強固な地盤を突き崩すために猛烈に働いた。有能な人力車夫の清太郎を自分より高給で雇用し、移動時間を惜しんで働いたことはよく知られている。社員には、「競争相手の同業者が相手先の事務所で仕事の交渉に入る前に先手を打って、相手先の自宅を訪ねて事にあたる。そうすることにより同業者の油断、手抜きに乗ずることもできる」20と、顧客訪問の重要性を説いた。また、当時の2大タバコ会社の1社、村井兄弟商会の村井吉兵衛から広告契約を獲得するまでに合計114回も通い詰めたというエピソードは光永の広告会社の営業にかける執念を感じさせ、現代の電通の営業力にも通じるものがあると考えられよう21

さらに、光永は「仕事始め式」「寒行」「駆け足会」「富士登山」「矢開き会」など同業者や取引先からは奇異に映るような名物行事を数多く開催した。その中で、富士登山は現在も続く恒例行事である。もともとは登山経験のある職員から奨められたのがきっかけとされるが、光永は登山競争を通じて敢闘精神を鍛錬すると同時に、山頂郵便局から暑中見舞いを郵送することで取引先と自社の発展祈願の機会とした22。こうした行事の多くは電通の役職員を鼓舞するとともに取引先に対するパフォーマンスの意味合いも多分にあったのではないだろうか。

3.8  念願の通信・広告の統合

創業以来の努力の積み重ねで、日本広告の業績は5大大取次を上回るほどに成長し、電報通信社も東京・大阪をはじめ多数の地方新聞社に記事配信を行うようになった。1906(明治39)年、時機到来を確信した光永はあらためて通信と広告の一体化を期し株式会社日本電報通信社を設立した。光永は、新会社には社長職を置かず自らは実質的な経営トップである専務取締役に就き、常務取締役に権藤震二を据え、翌年、日本広告株式会社を合併し創業の志である統合会社の経営に全力を尽くした23

当時の電通および通信・広告業界の業績を知る資料は乏しいが、電通の成長を推測できる記録はいくつか残っている。

1908(明治41)年、創業7周年式典の来賓の祝辞を確認する。東京逓信局長が「電報・電話を最も多く使用しているのは日本電報通信社」とし、「その使用量は全体の3分の1」を占めると述べた。また、東京朝日新聞社は「わが社に対する広告取扱いの成績は(中略)常に各広告業者の最高位」とし、報知新聞社は「最近五年の間、貴社が続いてわが社に対し、最高額の広告と通信材料とを供給した」と述べている24。また、斎藤(1997)には1908(明治41)年に広告取扱量で日本一になったことが記されており、創業から7~8年で通信、広告の2事業で業界トップレベルに躍り出たことがうかがえる。さらに、1909(明治42)年発刊の『新聞名鑑』では、広告取扱高について、電通を100とすると弘報堂25、帝国通信社17と大取次を圧倒する急成長が記録されている25。これは、電通が社是を徹底的に遵守することによって広告主の信頼と支持を得たことにほかならない。

3.9  経営危機

こうして順調に成長を続ける電通に危機をもたらす事件が発生する。

まずは、シーメンス事件26絡みで起きた。これは1914(大正3)年に起きた独シーメンス社と海軍との不正取引、贈賄(ぞうわい)事件である。その際、電通常務権藤震二はシーメンス東京支配人から同社の社員が持ち出した機密文書の奪還についての相談を受け、調査した上で取り戻すことは不可能であると回答した。しかし、その際に謝礼を受け取っていたため、取り調べを受ける事態になり、最終的には無罪になったものの、電通の信頼を大きく失墜させた責任を取って辞任している。次に、電通乗っ取り事件である。知人を介して近づいてきた台湾の製糖会社を経営する人物の電通株の買い占め工作は関係者の支援もあり阻止し、さらに光永の会計管理が不適切ではないかと責任追求され窮地に追い込まれるも排除した。その後、件の株式は八千代生命社長小原達明に渡り、再び同様の動きとなったが関係者の努力により抑え込みに成功した27

3.10  関東大震災からの復興

1923(大正12)年、電通は社長制を導入し光永が社長に就任する。同時期には、通信社としての電通ならではの投資として、東京-福岡の専用電話線架設のための増資を行った。これは、一般企業の成長とともに通話量が増大し、通話制限がかかるようになってきたことへの早期の対策の意味があった28

順調に成長軌道を歩んでいた電通を襲ったのが同年9月1日の関東大震災である。この震災は日本経済社会に甚大な被害を及ぼし、電通も社屋を焼失するなど例外ではなかったが、被災直後からの動きはまさに、新聞と広告主の共同機関を標榜する光永の真骨頂と言えるものだった。電通は本社社屋が焼失し、わずかな重要書類を社員らと運びだし一旦は日比谷公園に避難した。ところが、その日のうちに、帝国ホテルの一室を仮事務所にし、地方への通信手段の確認・確保に動き、翌9月2日には運転を再開したばかりの東北線・高崎線で高崎・長野に移動し、関西方面にニュース配信を行った。現代でいうところのBCP(業務継続計画)を発動したのである29

その後も、社長就任時に決断した専用電話線を予定どおり架設するとともに、報道記録のための映画班や配信機能を強化するための航空部を設置する。さらにはわが国初の写真伝送サービスまで開始したのである30

また、国際ニュースの情報配信では、米国UPとの通信協定、電通独自の特派員を配置することによる取材力強化、国際電話の開通などによって、数多くのスクープをものにしていった。1917(大正6)年のロシア革命、1929(昭和4)年の米国のモラトリアム提唱、1931(昭和6)年の満洲事変はその一例であり31、通信社としての電通は国際的な評価を高めていった。電通は、国内外の拠点を拡充し、1936(昭和11)年時点で、国内31拠点、海外(欧米・中国等)18拠点を設けるなど、国際的通信社としての地盤を固めていった32

3.11  震災後の環境変化と広告代理業の苦戦

震災後の広告会社は厳しい状況が続いた。

まず、最も大きな環境変化は1926(大正15)年に日本新聞聯合社が有力新聞社8社33によって設立されたことである。同社は電通同様に通信社と広告会社を兼業し、まさにライバル企業となった。次に、電通は創業以来、広告会社としては新聞広告で成長してきたが、昭和に入ると、出版広告のウェイトが大きくなり、かなりの苦戦を強いられた。

1928(昭和3)年当時を回顧した電通の社内報(1953(昭和28)年6月20日付電通社報第59号)34では、大きな成功を収めていた電通が震災後は劣勢に立たされたことが記されている。

苦戦する電通が新機軸として打ち出したのが連合広告である。1929(昭和4)年の「美人写真連合広告」、1929(昭和4)~1930(昭和5)年の「優秀国産品広告」、1930(昭和5)年の「お国自慢連合広告」では多数の新聞社や読者、企業を巻き込む新聞広告を使った一大イベントとして大いに盛り上がった35

また、劣勢だった出版広告分野でも反転攻勢に打って出る。きっかけは、改造社の「現代日本文学全集」で、震災後に同社が経営難に陥り、全集の発刊を断念しようとしていたことにある。光永は改造社社長山本実彦を激励し、広告費を立て替えるなど支援を行い、無事発刊にこぎつけた。その結果、全集は大ヒットし、光永の英断は広告業界・出版業界で評判となり、その後、中央公論社、文芸春秋社、新潮社、講談社など大手出版社との取引につながっていった36

3.12  メディア業界発展への貢献

光永星郎の功績は通信社、広告会社の本業に留まらず、メディア業界全体の発展にも及んだ。

1913(大正2)年には、板垣退助を会長とし、新聞社、通信社、広告会社を会員とする日本新聞協会の設立に尽力した。1925(大正14)年には、板垣没後、空席だった会長職に清浦奎吾が就いた際、光永は理事長として業界の課題対応に貢献した37

また、1930(昭和5)年には新聞奨励会を設立し、新聞広告の優秀作品を表彰するとともに、応募作を掲載した「新聞広告総覧」を刊行した。さらに、1932(昭和7)~1933(昭和8)年には、台湾、満州でラジオ放送における広告の在り方に取組むなど幅広く活動した38

他にも、1934(昭和9)年には、有力企業の幹部・中堅社員を対象として、夏期広告講習会を開催し、広告に関わる諸問題を学術的、専門的に分析・考察し、「広告研究」を刊行した39。この会は戦後、夏期電通大学に発展している。

1935(昭和10)年には、日本広告連盟大会で光永真三が兄星郎の持論である新聞発行部数の公開の必要性を訴えたが否決されている。これは新聞社の発行部数はメディアとしての影響力に直結し、当然、購読料や掲載する広告の効果・価格にも関係することから公開すべきであるとの主張だった。奇しくも戦時には新聞用紙の政府統制が行われたことから実現することになったが、この流れは戦後1952(昭和27)年以降、ABC懇談会、ABC協会での新聞、雑誌等の販売部数の公開へとつながっている40

その他、電通が関わり設立された会合は多数あり、「新聞総覧」(1909(明治42)年刊行)、「新聞名鑑」(1910(明治43)年刊行)など貴重な文献の発刊でも貢献した。

3.13  電通最大の危機―通信統制・統合―

電通および光永星郎にとって最大の危機となったのが、1932(昭和7)年の国策通信社設立の閣議決定だった。通信社事業が政治・国家と深い関わりを持っていたことは既述の通りだが、政府は情報を一元化統制・管理できる通信社を設立するために、電通と聯合の統合・合併という方針を決定した。新通信社構想は、聯合主体で通信・広告ともに新会社に統合するということで電聯(でんれん)合併とも呼ばれたが、光永は猛烈に反対した。光永が創業以来大事にしてきたのは経営自主・不偏不党であり、全く同意できなかったのである。聯合側も資金的な厳しさから消極姿勢をとっていた。それに対して政府では、NHKの資金を活用すること、光永を勅選議員に推挙することなどを示し、国策の大きな方向性を考えると譲歩せざる得ない状況になってきた。この時反対したのが地方の有力新聞社だった。反対理由は2点あった。1つ目が通信社の配信記事を頼りにしている地方新聞社にとって通信社が1社に統合されると記事内容が他紙と似通ってしまうこと、2つ目が地方新聞社が大きな収益源とする電通からの広告収入が喪失してしまうことだった。そして、多数の地方新聞社が「通信統制反対決議文」を政府に提出したのである41

その後も政府は何度も合意への働きかけを行ったが、電聯合併は膠着状態となった。政府は打開策として、1935(昭和10)年に同盟通信社の設立を許可し、翌年には聯合を母体とする社団法人同盟通信社が発足した。さらに、逓信省(現総務省)は国際放送電報規則の改正を行った。改正は無線利用を非営利社団法人に限定するものであり、営利企業である電通にとっては致命的な痛手になった42

こうして外堀を埋めた後、逓信相は電通に対して広告専門会社となることを提案した。万策尽きた電通は、同年6月に通信部門を分離し(通信部300余人が同盟通信社に移籍)、広告会社専業として再出発した(同盟40余人が電通に移籍)43

前日、光永は本社講堂に社員を集め、電通に残る社員と同盟に移籍する社員にも電通人として誇りをもって活躍してもらいたい、電通に残る社員と同盟から転籍してくる社員が一心同体となって頑張ってほしいと激励するとともに、苦渋の選択を強いられた口惜しさを滲ませ、今後の再起への意欲を示したのである44

3.14  次代へバトン・巨星墜つ

電聯合併後、日本が戦時体制に向かっていく1940(昭和15)年暮れ、光永星郎は社長を実弟の真三に譲り顧問となった。広告業界は統制と抑圧によって経営は困難を極め厳しい状況のなかで太平洋戦争が勃発する。そして、光永は1945(昭和20)年2月、心血を注いで育てた電通の戦後の目覚ましい再建・発展を見ることなく、享年78歳で生涯を閉じたのである。

後日談となるが、光永ら関係者の大変な苦労の末に設立された同盟通信社は1945(昭和20)年9月、GHQ指令による新聞社の政府からの分離方針に先行する形で解散し、共同通信社と時事通信社に組織分割することになった。戦後の非常に困難な時代に設立した両社の源流が、歴史的に見れば電通にあるという事実には数奇なものを感じずにはいられない。また、1947(昭和22)年には電通三代社長の上田硯三の公職追放による辞職にともない、戦後の電通の発展を牽引することになる吉田秀雄が弱冠43歳にして四代社長に就任している。

4.  光永星郎の経営哲学

ここでは、光永星郎の経営哲学とはどのようなものだったのかを読み解き、次章の「企業経営とPurpose(パーパス)」へと議論を進めていく。

まずは光永が日本広告株式会社を創業した際に、強く意識していた言葉が「臥薪嘗胆」である。これを合言葉に通信社と広告会社の兼業ビジネスという厳しい業界競争に挑んでいった。1911(明治44)年8月の創業10周年では、来賓45名に「臥薪嘗胆」の書を依頼し、会場に掲示したとされる。祝賀会の様子を報道した朝日新聞には「電通の今日に至る辛苦を意味する」との記事が掲載された45

また、社是:取引の公正、手数料の低率(安価)、設備充実は、広告代理業界の不条理を排し、透明性、近代化を目指すものだった。加えて、信条である「健・根・信」は、心身健康、不屈努力、業務誠実を表し、雅号である光永八火としても書にするほど光永星郎自身の経営信条であり、人生の信条だったと考えられる46

関東大震災直後の光永に関するエピソードを3つ紹介したい。

「何倍にもしてかえしてみせるぞ」47「必ず万倍の発展を遂げ、この天災に逆襲を加えて報復する」48これは、光永が震災後の火災の中で重要書類を運び出し、炎に包まれる本社社屋に向かって怒りをぶつけるように叫んだ時の言葉である。苦労しながらも順調に成長した事業の手応えを感じる間もなく、天災で甚大な被害を被るという不条理さに対して、不屈の精神でリベンジを誓ったのである。

「電通は社会奉仕のためにやっているのだ、あんなこじきのようなまねはするな」49震災数日後、報知新聞、東京日日新聞の玄関に広告希望企業が殺到した。それに対して、広告会社の中には臨時出店で客を誘導して利益をあげるものもあったが、光永は社員に同じことをしてはならない、自社は社会に貢献するために事業をしているのだと戒めている。光永は新聞社と広告主の共同機関を標榜し、同業者の多くとは創業の志が違うのだという自負心の表れともとれる。

「これしきのことで腰を抜かしては駄目ですよ、こうした非常時こそ、新聞、通信社が率先奮起して、その使命を果すべきです」50勝田重太朗が自著で語ったエピソードである。勝田は当時新愛知新聞に勤務しており、光永が震災後の火災で炎に包まれる電通社屋を睨んで仁王立ちする姿に遭遇し、重量のある手提げ金庫を預かった。光永が脚に障害をもつことを知る勝田が気遣ったのである。後日、預かっていた金庫を届けた際に星郎が勝田にかけた言葉がこれであり、勝田の人生訓となり、新聞人(報道関係者)として恥じることのない行動を取ることができたと述懐している。

また、光永が始めた名物行事に「駆け足会」がある。この会には、[趣旨]として3項目、[掟]として8項目が定められている51。これは、社員、特に広告の営業に関わる社員の基本行動を表したものだと推測される。営業姿勢として当たり前の中にも、電通創業者である光永星郎の仕事に対する非常に厳しい姿勢がよく表れている。

最後に、四代社長の吉田秀雄が光永について語った言葉を紹介しよう。

「創業の功労者である光永八火先生はまことに電通の鬼であった。八火先生の眼中には電通以外なにもなかった。いくどか倒産の危機にひんしながら、電通の鬼となることによって、その困難を乗り越え、今日の基盤をお作りになった」52吉田が社員に光永星郎のことを「電通の鬼」と称したのはこれが最初であり、この後、「鬼十則」53を策定し、電通社員の行動基本原則となった。これは、吉田が光永から受けた薫陶、「駆け足会」をはじめとする名物行事に積極的に参加することで学んだ光永イズムがベースになっていると考えられる。光永が社長時代に新卒採用一期生として入社した吉田が光永イズム・電通DNAを継承していったと考えるとその後の電通の発展を読み解く上でも興味深い。

5.  企業経営とPurpose(パーパス)

5.1  パーパスをめぐる流れ

企業をめぐる経営環境の大きな流れを俯瞰的に捉え(表2)、経営理念およびパーパス経営へと議論を進めていきたい。

表2 企業をめぐる経営環境の大きな潮流推移(1980年~2020年)

1980–90年代 資本主義における株主とステークホルダーのいずれを重視すべきかが議論
1990年代 企業の社会的責任としてCSRが活発に議論
1992年 環境と開発に関する国連会議(地球サミット) 持続可能な開発に関して地球規模での取組構想
1997年 M・フリードマン 企業の唯一の社会的責任は利潤追求のための事業活動だと主張
1997年 地球温暖化防止京都会議(COP3) 京都議定書採択
2000年代 欧米企業の成功事例とともに株主重視の経営が主流化
2000年代 大企業の粉飾決算など企業不祥事発生によりコーポレートガバナンスのチェック機能のあり方を議論
2001年 国連ミレニアムサミット ミレニアム開発目標(MDGs)
2006年 国連責任投資原則(PRI) 投資判断の要素としてのESG(環境・社会・ガバナンス)を提唱
2008年 リーマンショックによる金融危機以降、株主第一主義、短期成果主義の弊害を指摘する機運の高まり
2010年 国際標準化機構(ISO) 組織の社会的責任に関するガイドライン「ISO26000」を発行
2011年 M・E・ポーター、M・R・クラマー CSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)を提唱
2011年 欧州委員会(EU) 新CSR戦略2011–2014年を発表、CSRを「企業の社会への影響に対する責任」と再定義
2013年 F・コトラー マーケティングの4P、Product(製品)、Price(価格)、Place(流通)、Promotion(プロモーション)にPurpose(存在意義)を追加するべきと発言
2015年 国連サミット 持続可能な開発目標(SDGs)
2015年 気候変動枠組条約締約国会議(COP21) パリ協定採択
2015年 コーポレートガバナンスコード原則2–3 上場会社は、社会・環境問題をはじめとするサステナビリティを巡る課題について、適切な対応を行うべき
2018年 英国コーポレートガバナンス・コード改訂 従来の株主第一主義からの脱却を企図
2018–19年 米国大手資産運用会社
ブラックロックCEO
投資先企業宛の書簡で長期的な成長のためにはパーパスに重点をおくべきと主張(財務に加えて社会的価値向上を要請)
2019年 C・メイヤー コロンビア大学のコンファレンスで企業パーパスと株主価値について報告
2019年 米国経営者団体
ビジネスラウンドテーブル
「株主第一主義」から「ステークホルダー資本主義」への転換を表明(企業パーパスとしてステークホルダー重視の姿勢へ)
2020年 ダボス会議
(世界経済フォーラム)
「ステークホルダーがつくる持続可能で結束した世界」がテーマ。「企業は顧客、従業員、地域社会、そして株主などあらゆる利害関係者の役に立つ存在であるべき」との理念を強調。
2020年 事業再編実務指針~事業ポートフォリオと組織の変革に向けて~(経済産業省) 企業理念(Purpose)・価値基準
自社の企業理念や価値基準として、どのような事業を通じて価値創造や社会貢献を目指すのか、という考え方を明確化し、事業部門の現場も含め、共有・浸透を図る
2020年 サステナブルな企業価値創造に向けた対話の実質化検討会中間報告(経済産業省) 企業とステークホルダーの実質的な対話のための要素として、企業価値協創にむけた「パーパス」(創業の理念に適合した、将来に向けた企業のあるべき存在意義)の共有を提示
2020年 持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会報告書~人材版伊藤レポート~(経済産業省) 企業理念、企業の存在意義(パーパス)の明確化
・経営陣は企業理念や企業の存在意義を明確にすべき
・自社が何のために存在しているのか、社会における存在意義を問い直し再定義・明確化必要

(出所)青嶋稔(2021)林順一(2021)勝部(2016)、みずほ銀行(2021)、経済産業省ホームページ他企業経営に関わる各種資料をもとに筆者作成。

かつて企業経営において、企業は株主を重視するべきか、その他のステークホルダーを重視すべきかという議論があった。M.フリードマン54は企業は株主のために利潤追求するべきとし、2000年代には欧米企業では株主重視の経営スタイルを実践し、多数の成功(とされる)事例が生まれた。ただ、大企業の粉飾決算なども発生し、ガバナンスのチェック機能を強化すべきであるという議論も湧き起こった。そして、徐々に株主重視とは一線を画する動きが出てくる。国連の責任投資原則によるESG(Environment Social Governance:環境・社会・ガバナンス)投資の提唱もその一つである。さらに、リーマンショックの際には、企業の株主第一主義や短期的な成果主義に対する疑問が投げかけられた。

また、M.E.ポーター55とM.R.クラマー56はCSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)という社会的価値と経済的価値の両立が重要であるとの概念を提唱し、P.コトラー57は、マーケティングの4Pにパーパス(Purpose)を加えると発言した。その後は国連サミットでのSDGsの採択、コーポレートガバナンスコード原則が策定されていく。その間、地球温暖化・生物多様性、気候変動、脱炭素など環境問題の深刻化とともに企業・社会・政治などあらゆるセクターでサステナビリティが重視されるようになった。

さらにここ数年の企業経営に関する議論では、国内外で企業の存在意義としてのパーパスにフォーカスされるようになっている。わが国においても、2020(令和2)年度に、経済産業省主催の各種会議の提言で、ステークホルダーとの対話ではパーパス(存在意義)の明確化が必要であるとの見解が示されたことは記憶に新しい。すでに国内企業においてもパーパスを積極的に自社の経営に取り入れようとする企業が増加しており、パーパスが企業経営に関するバズワードになった印象がある。現代はVUCAの時代と言われているが、サステナブルな企業経営を目指して多くの企業が企業の根源的存在意義であるパーパスの力を経営に生かそうとしている。

5.2  日本企業とパーパス経営

現在、日本企業においてパーパス経営を表明する企業が増加している。先駆として知られるSONYなど多くの企業で、自社の経営理念と歴史に基づいて、自社の存在意義や企業価値の再定義を行い、従業員をはじめステークホルダーへの浸透に取組始めている。「自社は何のためにあるのか」「自社のパーパスとはなにか」「社会においてどのような存在なのか」など、実際に、パーパスを導入している企業の中には、パーパスをテーマとして経営トップ・経営幹部が従業員と直接対話をする場を設け、具体的な取組み内容を積極的に自社のホームページやメデイアを通じて開示し、ブランディングやビジネスモデルへの転換など多様な試みが行われている58

5.3  経営理念とPMVV

ここでは、パーパスについて、経営理念、あるいは一般的にビジネスでよく用いられているMission(ミッション)・Vision(ビジョン)・Value(バリュー)との関係を整理しておきたい。これらはアルファベットの頭文字を取って、MVVとも呼ばれるので、Purpose(パーパス)を加えてPMVVとしよう。経営理念はここではPMVV全体を括る概念と位置付けておく。

ここで筆者が提唱したいのは、PMVVを経営理念アプローチと時間軸アプローチで捉える考え方である(図2)。経営理念アプローチでは抽象度を明確化・具体化するプロセスとして捉えていく。ミッションという概念はもともと企業の存在意義を表すとされているが、より社会的な視野に立った概念がパーパスと言える。企業経営における実際の運用では、パーパス=ミッションとなるケースもあり得る。そして、ビジョンでは将来の姿や未来像を明確化し、バリューでは共有すべき価値観をしっかりと具体化する。それゆえ、社員の行動規範・行動指針に相当するとされる。時間軸アプローチでは、創業時=過去に思いを置き、その際の最も根源的な概念に相当するのがパーパスになる。経営理念アプローチで触れたように企業経営の運用によりパーパス=ミッションとなる場合には、ここにミッションを置く企業もあるだろう。そして、現在、未来、理想の姿という具合に時計の針を進めていく、時間軸アプローチにおいてはパーパスは過去の創業時と未来の両方で意味をなすものになる。

図2 PMVV関係図(経営理念・時間軸)

(出所)筆者作成。

経営理念、MVV、PMVVの捉え方は、アカデミック、コンサルタント、個別企業によって様々な解釈や運用が存在する。ここでは、PMVVを経営理念との関係で整理し、理解・浸透するためのアプローチ手段を提示した。

一つ補足しておきたいのは、パーパスをはじめとする経営理念で重要なのはそれが社会との関係性、ステークホルダーの価値観・ハートに訴求するものになっているかである。最近、多くの企業でパーパスやミッションを再定義、再設定する動きがみられるが、これは自社の事業の原点を見つめ現代に合った形(表現)にしようという問題意識の表れではないだろうか。

5.4  光永星郎が構想したPurpose(パーパス)

それでは、光永星郎のパーパスはどのように表現できるのだろうか。WHY/パーパスはすなわち、「通信・広告の力で世界に正確な情報を迅速に届ける」ということではないか。光永は従軍記者時代の経験から、必死で取材して執筆した記事をどんなに速く送っても、技術的な問題で大幅に遅延してしまうこと、時には内容の正確性にすら問題があること、そして、国内だけでなく、世界に対して日本の立場や主張をタイミングよく伝えることができず日本が国際的に孤立することを懸念していた。そのような志を踏まえたものがパーパスになるのではないか。そして、WHERE/ビジョンは「日本一の、そして世界と伍して戦える通信・広告会社を目指す」、あるいは「そのような通信・広告会社になる」、ということだと考えられる。

このビジョンは1930年代前半には国内外の拠点やネットワークが整い、ある程度達成が近づいていたようである。しかし、国策によって不本意ながら専業後の広告会社としての事業は極めて厳しい状況に陥り、光永が描いたパーパス、ビジョンとはかけ離れたものになってしまった。それでも、広告専業後も、常に光永はメディアの存在意義・役割使命に熱い思いを持ち続けた。そして、広告の力でメデイアを支え、広告業界全体の健全化と地位向上を図ろうとした。こうした強い思いと行動力が次世代に継承されていったのではないだろうか。

6.  おわりに

本稿では電通の創業者である光永星郎の企業家活動を通じて通信社と広告会社の一体経営を目指した電通のパーパス経営を考察した。

企業経営の歴史を紐解いていくと、必ずしもパーパス経営は新しい概念ではなく、創業から発展のプロセスにおいて経営理念として言語化している企業が多いことに気づく。ただし、企業がVUCAの時代をサステナブルに生き抜くためには、自社の存在意義を社会的な関わりの中で問い直し、しっかりと位置づける必要がある。その意味では、パーパス経営、パーパスマネジメントと呼ばれる企業活動には意義があるといえよう。現時点ですでに素晴らしいパーパス経営を実践している企業も存在しているが、導入を表明している企業の中には、自社のブランド戦略の観点のみでパーパスという言葉を使っているのではないかと感じられるケースもあり、そのような企業では従業員を含むステークホルダー、経営組織・ガバナンス体制にまでパーパスが浸透しているのかが見えてこない。無論、パーパスという新しいキーワードを使うことでステークホルダーへの浸透が促進されるという効果もあるだろうがそれは必ずしも本質ではない。

パーパス経営を掲げてパーパスを浸透させていく試みは引き続き大切なことである。しかし、より重要なことは、企業としての経営理念・経営哲学など歴史的背景を踏まえて、目指すべき企業価値・存在価値を確認したうえで、従業員をはじめステークホルダーの共感を得ることを通じて浸透をはかるサイクルを回していくことではないだろうか。本稿ではパーパスに着目しているが、企業によってはパーパスという言葉自体は使われていないものの、経営理念をしっかりと根づかせた活動を行っている企業があり、実質的にはパーパス経営の実践が行われているといえるだろう59

現在、SDGsにおいてはSDGsウォッシュ、あるいはウォッシング60という言葉がある。これは企業がSDGsにしっかりと取り組んでいるかのように形式を整えPRしているがその実態が乏しいケースを表すものだ。企業が掲げるパーパス経営が、パーパスウォッシュ(パーパスウォッシング)61などと揶揄されないためには、企業経営者・従業員がともに自社・自身のパーパスとは何かということに真摯に向き合う本質的な取組みが不可欠となるだろう。

1  VUCAとはもともとは冷戦後使用された軍事用語で、Volatility(変動性)・Uncertainty(不確実性)・Complexity(複雑性)・Ambiguity(曖昧性)の頭文字をとってつくられた言葉である。現在では経済・社会にとどまらず、多発する自然災害、IT/CITの進化にともなう産業構造などを含め、ビジネス環境の困難さを表す意味で用いられることが多い。

2  本稿における広告会社はいわゆる広告代理店と同義である。広告代理業という言葉からイメージする事業内容、事業規模は狭く理解されやすいことから広告会社に統一している。

3  電通社史(1968)75–77頁:由来は、世界有数のカルデラと外輪山を持つ阿蘇山に因んで「火の国」と言われる熊本県の八代出身であることによる。

4  斎藤(1997)200頁。

5  電通社史(1968)77頁。

6  同前、77–78頁。

7  同前、76頁。

8  同前、76–77頁。

9  同前、77頁。

10  同前、77–78頁。

11  1835年創業の世界最古の通信社アヴァス通信社(フランス)は電通と同じく通信と広告の兼業ビジネスを早くから実践していた。同社は近代的通信社の先駆企業として知られるが現在は解散している。

12  電通社史(1968)78頁。

13  同前、78–79頁。

14  同前、81–83頁。

15  同前、83頁。

16  舟越(2004)34頁:「広告依頼に行く営業担当者が「広告屋」と言われたり、「ゴロツキ」と呼ばれていることを知った。そうした彼らは、強請(ゆすり)、たかりの政治新聞や業界新聞などの寄付広告取り、あるいは押し売りと同様に扱われていた」、71頁:「広告界は、わずかに会社という企業形態をとっているだけで、社会的には御用聞き同様の押し売りであり、ごまかし、強請(ゆすり)などと後ろ指をさされていた」

17  同前、83頁。

18  同前、84頁。

19  同前、86頁。

20  舟越(2004)33頁。

21  電通社史(1968)87頁。

22  同前、143–144頁。

23  同前、89–92頁。

24  同前、92頁。

25  同前、93頁。

26  1914(大正3)年、軍艦・兵器輸入に関わる旧日本帝国海軍の大疑獄事件。独シーメンス社の贈賄の証拠書類を同社社員が持ち出し会社を脅迫した。結局社員は裁判で有罪となり、その事実をロイター通信が大々的に報道したことで山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれた。

27  電通社史(1968)100–102頁。

28  同前、104–105頁。

29  同前、111頁。

30  同前、116–119頁。

31  同前、97–98頁。

32  同前、130–131頁。

33  同前、125頁:報知、東京朝日、東京日日、時事新報、国民、中外商業、大阪朝日、大阪毎日の8社。

34  同前、132頁:「博報堂が昇天の勢い。正路喜社が特異な取引方法で確固たる地盤を持っておった。大阪の万年社が最も新しい代理店経営のシステムでやって、これまた日本における模範的な広告代理業として、関西に固い地盤を持っておった。(中略)今日の電通からみたら夢のような話だけど、群雄割拠のなかの一豪傑程度のものだった」。

35  同前、135–136頁。

36  同前、133–134頁。

37  同前、106–107頁。

38  同前、139、141頁。

39  同前、138–139頁。

40  同前、139頁。

41  同前、148–150頁。

42  同前、149–150頁。

43  同前、151、153頁。

44  同前、153–156頁。

45  同前、86頁。

46  同前、94–95頁。

47  同前、109頁。

48  船越(2004)15頁。

49  電通社史(1968)111頁。

50  勝田(1956)83頁。

51  電通社史(1968)144頁。

52  舟越(2004)236–237頁。

53  加来(2005)1–2頁:1951年8月、創業51周年を機に執筆された鬼十則。「一、仕事は自ら「創る」可きで、与えらる可きでない、二、仕事とは先手先手と「働き掛け」て行くことで、受け身でやるものではない、三、「大きな仕事」と取り組め、小さな仕事は己れを小さくする、四、「難しい仕事」を狙え、そして之を成し遂げる所に進歩がある、五、取り組んだら「放すな」、殺されても放すな、目的完遂までは、六、周囲を「引き摺り廻せ」、引き摺るのと引き摺られるのとでは、永い間に天地のひらきが出来る、七、「計画」を持て、長期の計画を持って居れば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生れる、八、「自信」を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない、九、頭は常に「全廻転」、八方に気を配って一分の隙もあってはならぬ サービスとはそのようなものだ、十、「摩擦を恐れるな」摩擦は進歩の母 積極の肥料だ、出ないと君は卑屈未練になる」。

54  米国の経済学者。市場原理主義、金融資本主義を唱えた。1976年、ノーベル経済学賞受賞。

55  米国の経営学者。競争戦略論の第一人者でファイブ・フォース、バリューチェーンなどによる産業分析・企業分析を行なった。近年はM.R.クラマーとともにCSVによるアプローチをを提唱している。

56  米国の経営コンサルタント。M.E.ポーターとCSVによるアプローチを共同で発表。

57  米国の経営学者。マーケティング論の第一人者として広く知られる。

58  青嶋(2021)22–26頁。みずほ銀行(2021)2~5頁。

59  片山(2022)17–18頁。

60  実態をともなわない環境保護活動を揶揄するグリーンウォッシュ、グリーンウォッシングという言葉から派生した。

61  片山(2022)19頁。2021年11月13日法政大学イノベーション・マネジメント研究センター公開講座「パーパス経営の原点を探る」『小型モーター革命と標準化戦略:馬渕健一・隆一(マブチモーター)』の中で表面的な環境への取組に対するグリーンウォッシュ(グリーンウォッシング)、同じく形だけのSDGsへの配慮であるSDGsウォッシュ(SDGsウォッシング)に準えて使用した。

参考文献
 
© 2024 法政大学イノベーション・マネジメント研究センター
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